81:浄化石の稼働
ドブ川は相変わらず茶色く濁っています。所々緑のヘドロのようなものが浮かび、悪臭を放つその様は、悪い魔女が黒イモリの丸焼きや蛙の胆汁などを大鍋で煮込んで作る禍々しい薬が目の前に現れたら、きっとこのような感じだろうと思わせる川です。
すでに『浄化石』は、騎士達の手でドブ川の真ん中に置かれていました。あとはベリーが作動させるだけです。
セザール大神官やアンジー様、マシュリナさんがドブ川の側に立っていました。設置後に『浄化石』を管理するトルヴェヌ神殿の方々も待機中です。
完全にわたくし待ちだったようで、申し訳ありません。皆さんに何度も頭を下げました。
ベリーは革靴を脱いで裸足になると、さっそくドブ川の中にザブザブと入っていきます。
革靴を履いたままだと川底の石などで滑る恐れがあるとはいえ、彼女のこういう所は本当に勇ましいと思います。なんの躊躇もなさ過ぎます。
わたくしには、このドブ川へ素足で入る勇気はありません。前世の釣りとか水場での作業用の……ウェーダーという名前でしたっけ? あの防水ツナギが欲しいと切実に思うでしょう。
ベリーがどのような表情をしているのかはヴェールに隠れて見えませんが、たぶん平気な顔をしているんでしょうね。試運転のときの黒い海でも平気そうでしたもの。
「ペトラお姉ちゃん、あのお姉さんがお水をきれいにしてくれる聖具を動かしてくれるの?」
「浄化の聖女様かねぇ。ありがたや、ありがたや」
貧民街の皆さんもドブ川に近付いてきて、見学し始めました。
ナナリーちゃんやご年配の方々の質問に答えられる範囲で答えながら、ベリーの作業を見守ります。
ドブ川の水深は、背の高いベリーの腰の高さほどもあり、歩くのも大変そうです。乳母のマシュリナさんもハラハラしたご様子で、ベリーのことを見つめていました。
「頑張ってください、ベリー!」
思わず声をかければ、ベリーがちらりとこちらに顔を向けます。ヴェールの中の表情は見えませんが、なんとなく嬉しそうな雰囲気でヒラヒラと手を振ってくれました。
ベリーは無事、ドブ川の中程に置かれた『浄化石』に到着しました。
『浄化石』の状態を確認するようにぺたぺたと表面に触れ、満足したのか手を離します。
そして改めて『浄化石』に両手をかざしました。
「《All》」
紅蓮の炎のような光が、ベリーの手のひらから放たれました。
わたくしは彼女が祈祷する姿をすでに何回か見させていただいていますけれど、何回見ても、その神々しさに目を奪われます。
赤い光がベリーを中心に発生し、ヴェールからこぼれる彼女の木苺色の髪が風に揺れる様は、生命の火を司る女神のようです。今ベリーの素顔が晒されていたら、この場に居る全員が彼女の美しさに心を奪われていたかもしれません。
実際今でも、アンジー様が「これがベリーちゃんの……。ほんときれー……」と、感嘆のため息を吐いていらっしゃいます。
セザール大神官も銀縁眼鏡のフレームを指で押さえて、しっかりと彼女を見守っていました。
マシュリナさんは感極まって泣き出し、「ああっ、ウェルザ様……!!」と地面に崩れ落ちました。
わたくしは慌ててマシュリナさんの元に駆け寄り、まるまった背中に手を当てて撫で下ろしましたが、彼女の涙は止まりません。ボロボロと涙を溢しながら、ベリーを見つめ続けています。
……やはりマシュリナさんも、ベリーのお母様についてご存知なのでしょう。ベリーがウェルザ大聖女様と同じ力を使う姿を見て、感情が高ぶったのかもしれません。
神託の力を注がれた『浄化石』の内側から、ブゥーン、と微かな稼働音が聞こえ始めました。前世の家電みたいです。
動き出した『浄化石』は、一気にドブ川の浄化を始めました。
魔女の毒薬みたいだった水がどんどん透明になり、まるで高山から涌き出る清水のように輝き流れていきます。
貧民街中に充満していた悪臭も、あっという間に消臭されました。
静かに両手を下げたベリーが、美しい小川の真ん中で佇み、こちらに体ごと振り返ります。
「終わったよ、ペトラっ!」
川底が見えるようになった小川の中を、ベリーがはしゃぐように戻ってきました。
ドブ川だった頃はきっと、川底に沈殿物やゴミが溜まっていて歩きにくかったのでしょう。帰りはとてもスムーズです。
わたくしはマシュリナさんと一緒に、岸に上がるベリーの元へ駆けつけました。
マシュリナさんからタオルを受け取ったベリーはそれで濡れた部分を拭きながらも、わたくしに声をかけてきます。
「ペトラが望んだ通りに出来たかな、私? どう?」
「望んだ以上ですわ、ベリー!! 本当に本当にありがとうございます!!」
興奮冷めやらぬまま彼女の上半身に抱きつけば、「わぁっ」とベリーが驚きの声をあげました。
「ペトラも濡れちゃうよ?」
「きれいなお水に濡れることなど、なんでもありませんわっ。ベリーこそ、汚水の中にまで入って作業してくださって、本当にありがとうございます!」
「ああ、最初の? 好きな匂いじゃないけど、どうせ浄化出来るから」
「さすがはわたくしの親友です! 大好きですわ!」
「うん、私も。ペトラが好き」
ぎゅーっとベリーに抱きついていれば、ベリーはわたくしの頭をぽんぽんと撫でてくださいました。
「ご立派でしたよ、ベリー様。ばあやは感動で胸が一杯です」
マシュリナさんが泣き腫らした顔で言えば、ベリーも嬉しそうに「いつもありがとう、マシュリナ」と答えます。
セザール大神官とアンジー様もやって来て、
「頑張ったね、ベリー。今頃きっと上層部の皆さんも、イライジャ大神官の千里眼を通して君の大活躍の報告を受けていると思う。今は僕しかいないけれど、上層部全員からの言葉だと思って聞いて欲しい。『よくやったね。とても立派だったよ、ベリー』」
「ほんっっっと、すごかったよ、ベリーちゃん! これで貧民街のみんなも生活しやすくなるし、ペトラちゃんも喜ぶし、最高だね!!」
と、ベリーを褒めまくります。
貧民街の皆さんもベリーの傍までやって来ると、ベリーを拝みました。
「ありがとうございます、聖女様! うちの横の川がこんなにきれいになるなんて、本当にびっくりしました!」
「死ぬ前にええもんを見られましたよぉ、聖女様」
「『奇跡の水』として売りさばいてもいいですかねぇ、この水?」
「むしろ『奇跡の水』として観光スポットにすれば、観光客が金を投げ込んでくれるんじゃないかい?」
「ペトラの姉御の時もめちゃくちゃ光ってたけど、浄化の聖女様もめっちゃ光っててマジ太陽でした! すごかったっす!」
などと、わいわい話しています。
ふと気になって、わたくしはベリーに尋ねました。
「この『浄化石』はどのくらいの範囲の水を浄化しているのですか?」
ラズーにある『浄化石』は、川の本流だけではなくラズー中のすべての支流いたるまで、その効果を発揮していました。
もしこの『浄化石』が貧民街一帯のみの効果でしたら、確かに人が殺到します。
けれどそれは観光地などという穏やかな話ではなく、水の綺麗な土地を奪い合う水戦争の可能性を秘めています。
この小川はこれから神殿が管理する予定ですが、それがどこまで抑止力になるでしょうか……。
不安になるわたくしに、ベリーはあっさりと答えました。
「皇都全体だよ」
「皇都全体!?」
「だって、皇都にはペトラの実家もあるし、ペトラのお母さんのお墓もあるから。水は綺麗な方がいいでしょう?」
「ええ、もちろんですわ……!!」
皇都中の水が浄化されるのなら、貧民街をめぐっての争いも起きないはずです。
同時にミネラルウォーター事業も無理だと思いますが、『浄化石』の存在があるので、ラズーのようにちょっとした観光スポットになるでしょう。
そのときに貧民街の皆さんが観光案内をしたり、名物を作って売ったりしたら、商売になるかもしれません。
この貧民街にようやく未来の光が差し込んできたようで、とても嬉しいです。
「ありがとう、ベリー。貴女はわたくしの自慢の親友ですわ」
ベリーからようやく腕を放し、満面の笑みを浮かべてお礼を繰り返します。
「どういたしまして」
低く優しい彼女の声が小川から流れる涼しい風に乗って、消えていきました。




