80:貧民街の懐かしい人々
いよいよ『浄化石』設置作業の日です。
わたくしとベリー、アンジー様とセザール大神官、マシュリナさんが一つの馬車に乗り込み、レオたち神殿騎士に守られて貧民街へと向かいます。設置後の『浄化石』の管理を携わるトルヴェヌ神殿の神官職員たちも、別の馬車に乗って随行していました。
貴族街の広い石畳の道が終わり、平民街の舗装されていない道に入っていきます。貧民街へ向かう狭い道をどんどん進んでいくと、漂ってくる空気が変わってきました。
人間から発生される饐えた臭い、放置されたゴミの腐敗臭、そしてドブ川から流れてくる異臭。
貧民街へ治癒活動に出掛けていた頃は慣れていましたけれど、今こうして馬車の隙間から流れてくる臭いを嗅ぐだけで、自然と眉間にシワが寄ってしまいます。
馬車のなかの皆さんの様子を見れば、アンジー様が「くさー」と鼻を摘まんでいました。
セザール大神官とマシュリナさんは表情を押し殺しています。ベリーはヴェールをしているので表情はよく分かりませんが、「ペトラ、私の布、使う?」とストールをマスク代わりに差し出そうとしてくださいました。その途端、マシュリナさんがベリーを咎めるように見つめました。
わたくしだけ使うのは申し訳ないので気持ちだけ受け取り、ストールはベリーが使うように伝えます。マシュリナさんがホッとしたような表情をしたので、わたくしも安堵しました。
そうしているうちに、貧民街のドブ川へと到着しました。五年前よりも幾分か改良されたマリリンさんたちの『家』も見えます。
馬車から降りると、貧民街の懐かしい人々がずらりと並んでいました。
「マリリンさん、ケント君、ナナリーちゃん! ご年配の皆さん! レオの子分さんたち!」
思わず大きな声を出してしまうわたくしに、貧民街の方々も笑顔で答えてくださいます。
「久しぶりだねぇ、お嬢さん。大きくなったねぇ。あんな豆粒みたいに小さかったのに」
「おばあちゃんったら、目が潤んでいるのにわざわざ憎まれ口を叩いて……。まったく。お久しぶりです、ペトラお姉ちゃん」
「お久しぶりです、ペトラおねえちゃん! 聖女様のお洋服、かわいいねー!」
マリリンさんはお変わりないご様子です。豊かな白髪を一括りに纏められ、ボロボロの衣類を纏ってもしゃんと背筋を伸ばし、この街の実力者という風格を漂わせているところも以前と同じです。
お孫さんのケント君とナナリーちゃんはとても大きくなっていました。そうですよね、六年ぶりですものねぇ。
礼儀正しく挨拶するお二人は、貧民街の空気に染まらず良い子に成長してくれたようです。マリリンさんの子育てはすごいですわね。
「こうして大神殿の見習い聖女になれたのも、マリリンさんのおかげですわ。本当にありがとうございました」
「よしておくれ。あたしゃぁ、なにもしてないよ。お嬢さん自身の努力の結果だろう。……だがまぁ、元気そうで何よりだよ。その格好も似合ってるよ。公爵令嬢の格好よりいいんじゃないかい?」
「ありがとうございます。わたくしもドレスより、こちらの格好が気に入っておりますわ」
「相変わらず変わった子だねぇ、お嬢さんは」
マリリンさんの憎まれ口が懐かしく、とても嬉しい気持ちになりました。
他にも、いつも治癒活動に来てくださったご年配の方々が、
「ペトラちゃん、大神殿で苦労はしておらんか? 上司にいじめられたらワシが襲撃してあげるからのぅ」
「嫌なことがあったらこのじぃじに言うんだよ。爆破なら得意だからね」
「ばぁばは裏帳簿を見つけるのが趣味だから、ペトラちゃんに嫌な患者が居たら、そいつの家を一族ごと破滅させてあげようねぇ」
と声を掛けてくださいました。
ふふふ、皆さん相変わらずご冗談がお好きなようですわ。荒くれ者の多い貧民街らしい、ブラックジョークです。
それから、レオの子分達が挨拶してくださいました。
「ペトラの姉御、ご無沙汰してます! レオの兄貴とはどんな感じっすか!? 大神殿の裏に呼び出されて何か言われた、とか、進展ありましたか!?」
「おいお前、レオ兄はもう騎士様なんだぞっ。そんなガキみてーなことするわけねぇーよ」
「じゃあ大人っぽいことってどんなんだよ?」
「やっぱあれだろ、いい感じのレストランで飯食って、それから伝える感じじゃねーの? 俺はレストランとか行ったことねぇから分かんねーけど」
「ペトラの姉御、兄貴とレストランで飯食ったりしましたか!?」
子分達が集まって、よく分からない会話が続きましたが、ようやくわたくしが答えられる質問が回ってきました。
「ラズーにある、鶏肉の古代料理をいっしょに食べに行きましたわ。美味しかったですよ」
レオとベリーへのお礼に、わたくしがご馳走させていただいたお店ですからね。よく覚えています。
「スゲー! 古代料理とかよく分からないけど、大人な響きがしますね!!」
「レオの兄貴、一人も彼女作ったことない奥手のくせに、めちゃくちゃ頑張ってんですね!!」
「さすがはレオ兄、決めるところは決める男っすよ!」
「ペトラの姉御、これからも兄貴のことをよろしくお願いしますっ」
「よろしくお願いしまーす!!!」
レオがラズーで上手くやっていけているのか、とても心配していたみたいですわね。
わたくしは子分達に「ええ、もちろんですわ」と快諾しました。
そうやって懐かしい皆さんと話に花を咲かせていると、ベリーがドブ川の方からやって来ました。
「ペトラ、設置の準備が終わったよ。セザールはそろそろ始めたいみたいだけど、まだお話ししてる? 私、出来ればペトラに見守っていてほしいから待ってるよ」
「まぁ、すみません、ベリー! わたくしったらお喋りばかりで何の手伝いもせず……!」
「ペトラにしてほしいのは私の応援だけだから、手伝いはいらないけど」
とことことやって来たベリーはわたくしの隣に立ち、貧民街の皆さんの方へ顔を向けますーーーといってもヴェールを被っているので、どこを見ているのかは分かりませんけれど。
「だってこの人たちみんな、ペトラの知り合いで、久しぶりに会ったんでしょう? お話したいなら、私、待ってる」
「いえ、設置作業が優先ですわ! 貧民街の皆さんのためにも必要なことですからっ」
『浄化石』の設置に関しては、貧民街の方々にすでに説明済みで、皆さんも心待にしてくださっています。
だから今日こうして集まってくださったのは、わたくしの顔を見に来てくださったことも理由の一つでしょうが、珍しい作業が見られるという期待もあるのです。
ちなみにベリーの存在については箝口令が敷かれています。
ベリーが神託の能力者であることはまだアスラダ皇国に公表されませんので、貧民街の皆さんは「大神殿が水を浄化する聖具を設置しに来た」という事までしか知らせれていません。
ベリーもヴェールを被って素顔を隠しているので万全でした。
「なら、設置作業を始めちゃおうか」
「はい」
いよいよ作業開始です。
おいでおいで、と手招くベリーのあとを追って、わたくしもドブ川に向かいました。




