3:マリリンお婆さん
貧民街での修行の最初の頃は、貧民街で暮らす皆さんからひどく警戒されました。
まぁ、仕方がありませんよね。
見慣れぬ幼い少女が『治癒能力の修行のために、皆さんを無料で治癒いたしますわ!』だなんて言って現れたのですから。
我ながら、あやしさ満点です。
もう少しうまく貧民街に溶け込んでから徐々に、ということをわたくしも考えなかったわけではありませんけれど。
貧民街に溶け込めないほどに、わたくしは異質だったのです。
「仕方がないですよ。ペトラお嬢様は立ち姿も歩き方さえも、貴族令嬢の見本そのものですからなぁ」
「私もそう思います! 肌は艶々だし、手荒れ一つないし、髪もサラッサラで、平民街で買ってきた洋服すら高見えしちゃってますもん」
護衛のハンスとメイドのリコリスは、わたくしを最初からそう評していました。
これでも前世の記憶を思い出したわたくしは、庶民的な考え方も出来るようになった、と思うようになっていたのですけれど。
八年間の公爵令嬢としての教育は、どうやら体の隅々まで染み込んでいたようです。
最初の頃は大人たちに相手にされなかったので、年の近い子供たちに声をかけていきました。
これぞガキ大将という感じの少年と、その取り巻きに「ここはアンタのようなオジョーサマのいるべき場所じゃねぇ! ここから出ていけ!」などと、少々過激な一見様お断りを受けましたけれど。
ハンスがガキ大将たちを何度も追い払ってくれましたわ。
子供たちに何度も声をかけていくうちに、ようやく、小さな兄妹がわたくしの治癒能力を必要としてくれました。
「ほんとうにお金はいらない? おばあちゃんを助けてくれる?」
「はい。わたくしの力の及ぶ限り、治癒いたしますわ」
「……そっか。じゃあ、ぼくたちの家について来て」
わたくしよりもずっと小さくて細い体の男の子は、さらに小さな妹の手を繋いで、わたくしを手招きしました。
兄妹に案内されたのはドブ川のすぐそばにある、ボロ切れで出来たテント……と呼ぶにもお粗末な様子の『家』でした。
出入り口となっているボロ布を捲ると、中の様子が見えます。
薄暗い室内には藁や端切れが床に敷き詰められ、縮こまって眠るおばあさんの姿が見えました。
「おばあちゃん、一昨日から腰が痛くて起き上がれないんだ」
「おねえちゃん、おばあちゃんをたすけて。おねがいっ」
兄妹がわたくしにそう言いました。
おばあさんは乱れた白髪の間から、ギョロリと目を動かしてこちらを睨み付けます。
わたくしの顔を険しい顔で見つめ、それから兄妹を順々に叱りつけました。
「なんだい、お前たち。どこの小娘を拐ってきたんだい。もと居た場所に戻してきな。あたしゃぁ、お前たちの世話で手ぇ一杯だよ。……それも今はロクにできないがねぇ」
「おばあちゃん、このおねえちゃんがおばあちゃんを助けてくれるって! だから、あたしとお兄ちゃん、このおねえちゃんを連れてきたの! おかねもいらないんだって」
「なに馬鹿なことを言ってるんだい! そういうのは詐欺だと昔から口を酸っぱくして教えてきただろうに。他人なんかを信用しちゃならん。根刮ぎ持っていかれるよ。金がない奴はね、人としての当たり前の尊厳まで奪われちまうんだよっ!!!!」
おばあさんは腰痛で動けないとのことですが、会話はできるようです。
それだけはホッとしました。
「初めまして、おばあさん。わたくしはペトラと申しますわ」
「帰っとくれ! この子達になにを言われたか知らないけれどね、うちには見ての通り、掻っ払えるもんなんぞなんにもないんだからね!!」
「……わたくしは治癒能力持ちです。能力向上のためにおばあさんの治癒をさせてくださいませ」
「こんな貧民街の人間にそんな優しさを見せてどうするんだい? うちの孫達を人身売買のやつらに売り払おうっていうのかい? それとも、このあたしかい? はっは~ん? 美し過ぎるあたしを熟女専門の娼館に売るつもりだね。この悪魔めっ!!!!」
「……では、治癒を始めさせていただきますわ」
この世界のあまり知りたくない知識が聞こえたような気がしましたので、わたくしはおばあさんの言葉を聞き流すことに決めて治癒を始めました。
おばあさんの患部に手をかざし、体内をめぐるエネルギーを放出します。
「《Heal》」
わたくしの両手から金色の光がふわりと溢れだし、おばあさんの体を包み込みました。
「わぁ、すごい!」
「きれいな光だね、お兄ちゃんっ」
「これがペトラお嬢様の治癒能力か……。たいしたもんだなぁ」
「すごいですね、ペトラお嬢様! 私、治癒能力を初めて見ました! 感動です!」
わたくしの背後で小さな兄妹たちがはしゃぎ、ハンスとリコリスが感心したように眺めていました。
治癒が終わったおばあさんは、驚いた表情のまま腰を擦り、「……治癒能力に関しては本当だったってわけかい」と呟きました。
おばあさんは床から起き上がると、わたくしを胡散臭そうに見つめました。
「アンタが治癒してくれたのは確かだからね。お礼は言うよ。ありがとう。……だけどうちは本当に貧乏なんだ。アンタにくれてやるもんはない。孫達も売る気はない。この子達はあたしの老後の保険だからね」
「いいえ、本当になにもいりませんわ。わたくし、今現在は衣食住に困っておりませんから。……腰の状態はどうですか? まだどこか痛い場所や、治癒が必要な箇所はありますか?」
「痛くはないが……。ああ、もう、わかったよ! 隠しといた虎の子をくれてやるよ! 孫達の将来のためにこっそり貯めといた小銭だがね、まぁ、仕方がない。生きていればまた稼げるからねぇ……」
おばあさんは家の隅にあった小さな瓶を取り出そうとしましたけれど、金銭を貰うつもりはありません。お孫さんたちの将来の資金なら尚更です。
わたくしはお金を押し付けられる前にと、立ち上がりました。
「おばあさん、どうかお大事にしてくださいませ。あなたたちも、おばあさんを大切にしてあげてくださいね。では、わたくしたちはこれで失礼致しますわ」
「ちょ……っ、アンタ、お待ち……っ!!」
おばあさんや兄妹たちが追いかけてこれないうちに、わたくしはハンスとリコリスと一緒にその場を後にしました。
初めて他人に治癒をしましたけれど、成功して本当に良かったです。
▽
「ここから出ていきな、オジョーサマ!」
「ここはおキレーなアンタが生き延びられるような世界じゃないんだぜ!」
「「そうだそうだ!」」
今日も今日とて、ガキ大将とその取り巻きに絡まれていると。
ハンスが彼らを追い払う前に、孫連れの老婆が颯爽とわたくしの前に現れました。
「クソガキ共! このお嬢さんの邪魔をするんじゃぁないよ! そんなことをすれば、この美熟女マリリン様がアンタたちの尻をサンバのリズムで叩いてやるからね!」
「うわっ、やべぇ、妖怪マリリンだ!」
「マリリン婆が現れやがった!」
「全員撤退だぁ! 女帝マリリンが現れたぞー!!」
ガキ大将一行はおばあさんを前に、蜘蛛の子を散らすように去っていきました。
……おばあさんはどうやら貧民街でなかなか序列の高い方らしいですね。
おばあさん改めマリリンさんが、ゆっくりとこちらを振り返りました。
前回会ったときはボサボサだった白髪も、一括りに纏められていてスッキリした様子です。
「こんにちは、マリリンさん。お元気そうでなによりですわ」
「ふんっ。おかげさまでねぇ。ピンピンしてるよ」
「あの子供たちを追い払ってくださり、ありがとうございます」
「……別に。感謝されるほどのことでもないさ」
ツンと首を背けるマリリンさんに、お孫さんたちが「頑張って、おばあちゃん」「もっとわらったほうがいいよ、おばあちゃん」と下から声をかけているのが見えます。
「ああ、もう、お前達はうるさいねぇっ」とマリリンさんがお孫さんたちを睨み付けました。
マリリンさんはギョロリとこちらを見ると、「お嬢さん」とわたくしを呼びます。
「アンタ、治癒能力の練習台が必要なんだろう? ジジババで良ければ紹介してやるよ。膝が痛いだの、肩が痛いだの、ブツクサ言ってる連中なら腐るほど居るからねぇ」
「本当ですか!? ありがとうございます、マリリンさん!」
こうしてマリリンさんに、治癒相手を紹介していただけることになったのです。