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36:初めて名前を呼ばれた日



 崖崩れで封鎖された道が再び通れるようになったのは、それから二週間後のことでした。

 前世のような重機ではなく手作業ですから、ずいぶん早く復旧した方だと思います。作業員の方には頭の下がる思いですわ。


 すっかりお世話になった領主館の皆さんにお礼を言い、仲良くなったパーシバル兄弟に手を振って、わたくしたちはようやく大神殿への帰路に着きました。






「ちょっとした夏休みという感じで楽しかったですけれど、やはり自分のお部屋が一番くつろげますわね」


 アンジー様と一緒に治癒棟へ顔を出し、無事な姿を見せたあと。

 わたくしは一足先に大神殿の自室へと戻ることになりました。


 部屋に戻ったらまずなにをしよう、とウキウキしながら廊下を歩いておりますと、わたくしの部屋の前になにかが置いてあるのが見えてきます。


 近付いてみると、それは布巾が被せられたお盆でした。


「これはいったい……?」


 布巾をめくってみますと、中には白パンやリンゴ、水の瓶が置かれています。

 わけがわかりません。


「どなたか、ほかの部屋の方宛てかしら……?」


 まるで部屋で寝込んでいる病人に差し出す救援物資のようにも見えましたが、ここは大神殿。治癒棟所属の者にちょっと治癒をかけてもらえば大抵回復するので、病気で寝込む方は居ません。


 まぁ、失恋のショックだとか仕事のストレスで寝込む場合はあるでしょうけど。


 よくわかりませんが、取り合えず扉の開閉の邪魔なのでお盆を横にずらします。


 鍵を開けて室内に一歩入ればーーー……。


「ぺとら!」


 わたくしの部屋の奥から駆けてくるベリーの姿がありました。


 ベリーはわたくしにタックルするかのように飛び込んできました。

 彼女の折れそうに細い体に驚きながらも、どうにか受け止めます。


 わたくしの首にぎゅうぅぅぅっと回されたベリーの両腕に触れながら、わたくしは問いかけました。


「ベリー? どうしたのです? 合鍵を使って入ったのですね?」

「ぺとら、ぺとらっ、ペトラ!」


 ベリーは質問にまったく答えてくれません。しかもなんだかとても興奮状態で、ずっとわたくしの名前を呼んでいます。


 ……え? わたくしの名前?


「ベリー、あなた、ついにわたくしの名前を覚えてくださったのですね!?」


 たまに近所の公園で見かける野良猫が、ついに触ることを許してくれたかのような幸福感が、わたくしの胸に沸き上がりました。


 わたくしにしがみつくベリーの顔を覗き込めば、目の下に濃いクマが出来ておりました。

 わたくしが大神殿に戻るのを、いったいどれほど待っていたのでしょう。切実さが伝わってきました。


「ペトラ、迷子にならないで」

「ベリー……」

「私といっしょにいて。迷子になるなら、私もいっしょ」


 ベリーが拙いながらも喋っています。わたくしに一生懸命訴えかけています。


 こんなに辛そうな彼女を見るのは初めてで、ベリーが話しかけてくれて嬉しい気持ちと、こんなにベリーを不安がらせてしまった罪悪感に心が二分割されてしまいそうです。


「いっしょがいいの」

「……はい。わかりましたわ、ベリー。一緒に居ましょうね。長く留守にしてごめんなさい」

「うん。ずっとずっと、いっしょに居て」


 よしよし、と彼女の頭を撫でているうちに、ベリーの青紫色の瞳が段々うつらうつらと瞬きを繰り返し始めました。

 わたくしが領主館に寝泊まりしている間、ずっとまともに眠っていなかったのかもしれません。

 ベリーならありえる、とわたくしは思いました。


「ベリー、ベッドで寝ましょうか」

「ん」


 眠くて体が満足に動かせないベリーのことを、わたくしは一生懸命ベッドに引きずりました。

 そしてどうにか、一緒にベッドに横たわります。


「……でも、どうして急にわたくしの名前を覚えたのですか?」


 覚えられなくて『枕』と呼んでいたのか、初めから覚える気がなくて『枕』呼びだったのかはわかりませんけれど。急な彼女の変化が気になります。


 ベリーはわたくしのシルク地の枕に顔を埋め、どうにか薄く目を開けて答えました。


「名前を呼ぶのが肝心って、……に聞いたよ。……だからマシュリナに、教えてもらった……」

「まぁ、ベリー、つまり、わたくしを喜ばせようとしてくださったの?」


 ベリーが小さく頷きます。


「ペトラ、名前を呼ぶとうれしい? なら、ずっと呼ぶ。だからずっと、いっしょにいて……」

「とてもとても嬉しいですわ。ありがとうございます、ベリー」

「うん……」


 彼女の顔にかかる髪を払ってやると、ベリーはそのままスゥスゥと寝息を立てて眠り始めました。


 なんて愛らしい寝顔でしょう。


 昼寝をするつもりはありませんでしたけれど、わたくしが離れてしまえばベリーは熟睡することが出来ません。

 今日は部屋でのんびりするのもいいかな、とわたくしも眠る体勢に入ります。


「おやすみなさい、ベリー。よい夢を」


 昼寝から起きたらベリーのクマが少しは薄くなっているといいな、とわたくしは思いました。





 その後マシュリナさんから聞いたのですが、わたくしが大神殿を留守にしている間ずっと、ベリーは合鍵を使ってわたくしの部屋に立て込もっていたのだそう。

 わたくしの部屋の前に食事の入ったお盆が置かれていたのは、ベリーがおなかが空いたときに少しでも食べてくれるようにと、マシュリナさんが置いておいたものらしいです。


「これからはわたくしが居ない時でも、ちゃんとお食事を取ってくださいね、ベリー」


 そう、わたくしが嗜めても、ベリーはどこ吹く風という様子でしたが。


 でも以前と変わったところは確かにありまして。


「ずっとペトラといっしょに居れば、『ペトラが居ない時』はないよ」


 話しかければ返事が返ってくる。意思の疎通が出来る。

 これはベリーにとってとてつもない進歩でした。

 マシュリナさんなど、初めてわたくしとベリーが会話しているところを見た時、感動に咽び泣いておられましたもの。


 この日を境にベリーはとても甘えん坊になってしまうのですが、このときのわたくしは彼女がこのまますこやかに成長してくれればいいなと、暢気に願っておりました。


評価ブクマいいね、ありがとうございます。いつも励まされております。


2章までが物語導入部分という感じでした。無言のベリーに根気強く付き合ってくださり、本当にありがとうございます。

3章からベリーが人になり始めます。

性自認が無く、人と神の世界の境界線すら曖昧だったベリーが、人間の男の子になり、最終的にペトラのためのヒーローになれるよう、がんばります。

具体的に言うと、明日から始まる3章は9話ほどで、ベリーの精神的幼児期です。ペトラを通して他者と関わり、外の世界を知っていきます。


全7章で完結予定ですが、気長にお付き合いいただけると幸いです。


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