29:鍵っ子誕生
大神殿の最奥部で迷子になってベリーに助けられたあと、わたくしは無事に外の洗い場でワンピースの汚れを落とすことが出来ました。
その後は洗濯係りの方のところに行って、馬糞の臭いを取りたいことを伝えると、漂白消臭効果のある不思議な薬草でさらに綺麗に洗濯して貰えました。
やはりその道のプロのお力は凄いものですわ。
そして、マシュリナさんに大変心配されました。
「ベリー様のお部屋へ気絶したペトラ様を運んだと、馬場の飼育員からお聞きしたのですが……!?」
「まぁ、やはり飼育員さんがわたくしを運んでくださったのですね。あとでお礼を言いにいかなければなりませんわ」
「ベリー様にお風呂場へ連れて行かれたとも、お聞きしたのですけれど……!? まさか……っ」
「ええ。わたくしが気を失っている間に、ベリーがわたくしを洗ってくださったみたいなんですの。気が付いたらベリーと一緒に温泉に浸かっておりましたわ」
「そんな……そんな……」
マシュリナさんは真っ青なお顔で、頭を抱えました。
「……もしかして大聖女のお風呂は、見習いが入ってはいけない場所でしたか……?」
おそるおそる尋ねてみると、マシュリナさんは「そうではないのですが!!」と苦悶の表情を浮かべます。
「ではやはり、迷子になって大神殿の最奥部をいろいろ見てしまったことが問題なのですね……」
「ベリー様がペトラ様をお部屋にお招きされた時点で最奥部に立ち入ることは許可されておりますから大丈夫ですわ特に問題ありません!!」
マシュリナさんは息継ぎなしの早口でそう言い切ると、わたくしにズイッと顔を近付けました。
どんな表情の変化も見逃さないという真剣な眼差しで、わたくしを見つめてきます。
「ど、どうされましたの、マシュリナさん……?」
「……見ましたか……」
「『始まりのハーデンベルギア』でしょうか……?」
「……ベリー様のお体を見ましたか?」
「……ええ、まぁ」
わたくしが頷くと、マシュリナさんの顔色は青を通り越して紙のように白くなってしまいました。
わたくしは慌てて弁解します。
「浴室は湯気が充満していましたし、温泉も白い濁り湯ですからベリーの胸の辺りまでしか見えませんでしたけれど、確かに肋が浮いていて発育不足ですがまだ改善の余地は残っていると思いますわ! あれくらいなら今後の食事次第で、もっと九歳の女の子らしい体に成長できるはずです! ですから、そんなに気を落とさないでくださいませ、マシュリナさん!」
今はガリガリですけど、頑張ればちゃんと大きくなれるはず。
そう思って、わたくしはマシュリナさんを励ましました。
「……あ、ああ、なるほど……!! そっ、そうですね、ペトラ様のおっしゃる通りです!! ベリー様はまだ女の子として成長できますわね!?」
わたくしの励ましが効いたのでしょうか、マシュリナさんはお顔に生気を取り戻し、晴れやかな表情でそう言いました。
「そう思いますわっ」とわたくしは何度も相槌を打ちます。
マシュリナさんはいつものほがらかな表情に戻ると、
「ベリー様が許可された時点で、ペトラ様が『始まりのハーデンベルギア』を見てもなんの問題もありませんよ」
と、もう一度おっしゃいました。
「今後はベリー様と一緒にご入浴するのはやめてくださいね」
「わかりましたわ」
ベリーは最高位の大聖女になれる『神託の能力者』ですから、いくら同性とはいえ、他人と一緒にお風呂に入るのは問題があるのかもしれません。威厳を損なう、とか。
わたくしもいくら同性で同じ公爵令嬢とはいえ、異母妹のシャルロッテとは入浴しませんし。
マシュリナさんはそのまま職員室へと去っていかれました。
▽
大神殿の最奥部で迷子になってから、わたくしは気付けばベリーのことを考えてしまいます。
午前の授業を受けているとき、治癒棟でアンジー様のお手伝いをしているとき、乗馬のレッスンを受けるために馬場へ向かって歩いているとき、大好きな大浴場に入っているとき。
ふとした瞬間に大神殿の奥の世界を思い出し、ベリーは、あの子は、とても難しい環境で生きてきたのだなと考えてしまうのです。
わたくしは『神託の能力』がどのようなものなのか、よく知りません。
神様の声が聞こえる、ということはアスラダ皇国民なら誰しもが知っていますが、詳しいことは神殿側が秘しているのです。
ベリーの目の前に、神様が現れるのかしら。
それともベリーの体に神々が乗り移って、彼女の口を通してお話になられるのかしら。
神様の世界に連れて行かれて、神様とお話しするのかもしれません。ーーーそこは、わたくしが迷子になった、あの不可解な世界のどこかかもしれません。
どんなふうに神託するのかはわかりませんが、その能力を持って生まれたベリーが、ふつうの人と同じような人生を歩めないことを、わたくしはあの最奥部で理解してしまいました。
神様に愛されるというのは、人を人成らざるものにしてしまうのでしょうか?
だからベリーは、あのように言葉をあまり発さず、表情もなく、人として当たり前の食欲や睡眠欲が減退しているのでしょうか?
「……わたくしが考えても、神様のこともベリーのことも、わからないですけれど」
自嘲ぎみに呟く言葉が、小さなランプを灯しただけの自室に虚しく響きます。
時刻はすでに深夜を回っていました。
答えなど出るはずもないのにうだうだとベリーのことを考えていたら、こんなに遅い時間になってしまったようです。
九歳の体なのですから、もう眠らなければいけません。
「あっ、明日の朝の水を汲むのを忘れていましたわ」
神殿内にある洗面場は、朝は混雑します。
わたくしは見習い聖女のなかでも一番の下っぱであり、一番爵位が高いという面倒な存在なので、見習いの先輩方を混乱させないように朝は洗面場に行きません。
夜のうちに水差しに水を汲んで、盥と一緒にベッド脇に置いておくのがいつものナイトルーティーンなのです。
「今から水を汲みに行きましょう」
わたくしは片手にランプ、片手に水差しを持って、洗面場に向かうことにしました。
陶器で出来た水差しにたっぷりと水を汲み、溢さないように慎重な足取りで、わたくしは洗面場から自室へのルートを歩いていました。
両手が塞がっていて、片方は水、片方は火の点いたランプというのは、なかなか危険をはらんだ行為です。
水を溢して床を濡らさないように、ランプを落として火事になったりガラスを割らないように気を付けなければなりません。
ゆっくりと廊下を進んでいくと、窓からまんまるい月が見えることに気が付きました。
満月の明るさに負けてはいますが、星もたくさん天に昇っています。皇都の空とはまた違った夜空が広がっているようでした。
「……きれい」
思わず足を止めて、廊下の窓から夜空を見上げておりますと。
庭園の木々の間を歩いていく小さな子供の姿が見えました。
ベリーです。
満月の明るさで、普段は夜には暗闇に満たされてしまう庭園が、今夜ばかりは影絵のようになっていて、いつもと変わらぬ白いワンピースを着るベリーの姿をはっきりと浮き上がらせていたのでした。
「ベリーは本当に夜を眠らずに過ごしているのですね……」
昼間わたくしと会うときだけ、ベリーは眠りにつきます。
ですがこんなふうに夜通し起きていたら、多少の昼寝などあってないようなものです。
こんなふうに夜通し歩き回らないで、せめてベッドのなかで大人しく過ごしてくれれば、少しは体力も回復するでしょうに。
ただでさえ発育不足ですのに、ますます不健康になります。
ーーーなによりこんな夜をひとりで過ごしていたら、彼女の孤独が深まる一方でしょう。
仕方のない子。
わたくしは水差しとランプを握り直し、自室へ向かって慎重に歩き出しました。
▽
「こんばんは、ベリー」
自室に水差しを置いてきたわたくしは、庭園の外れの切り株に腰掛けていたベリーを見つけると、声をかけました。
彼女が振り向いた途端に、近くにいたらしい白いふくろうが飛び立ちます。……ふくろうは珍しくないですけれど、白いふくろうはこの世界で初めて見ますわね?
そんなことを考えつつ、わたくしはベリーに近寄りました。
「こんなところで何をしているのですか、ベリー?」
「…………」
「ベッドに戻った方がいいわ。眠くならなくても、目を瞑って横になっているだけで、一日の回復が違いますから」
「…………」
一応正論を言ってみましたけれど、ベリーはまったく興味がなさそうです。
こんな台詞はマシュリナさんあたりから耳にタコなのかもしれません。
「……もし、眠れなくて、どうしようもなく寂しくなったら、わたくしの部屋に来てもいいですわよ」
わたくしはそう言って、ベリーに部屋の合鍵を差し出しました。
安易に鍵を他人に渡すことの危険性は、もちろんわかっています。前世では大学入学と同時に、アパートで一人暮らしをしていましたから。
けれどベリーはわたくしの部屋にある貴重品など興味がないでしょうし、暴れて物を壊すこともなさそうです。
それに、わたくしのもしもの損失について考えるよりも、小さな女の子が眠れずに庭園で夜を過ごすことの方が、ずっと悲しいことですから。
ベリーは不思議そうに合鍵を見つめていましたが、なにかを合点したのか、鍵を握りしめました。
「なくさないでくださいね、ベリー。大事な鍵なんですから」
「…………」
ベリーは『わかった』というように頷き、鍵を仕舞おうとポケットを探しますが、見習いのワンピースにはポケットがついていません。
彼女は困ったように視線をさ迷わせます。
「あっ、そうですわ、ベリー。髪紐を貸してくださる?」
「…………」
わたくしはベリーの左手首に巻かれている青紫色の髪紐を指差しました。
ベリーはおとなしく髪紐を差し出します。
「はい。こうすれば合鍵を無くしませんわ」
「…………」
鍵を髪紐に通して、ペンダント状に結びます。
それをベリーの首から下げれば、立派な鍵っ子の出来上がりです。
ベリーは自身の胸元に揺れる鍵と髪紐を手に取り、じっくりと眺め、満足そうに頷きました。
その顔はちょっと微笑んでいるようにも見えました。




