28:神秘と孤独の扉
ワンピースを入れた桶を抱えて浴室を出れば、これまた贅を凝らした脱衣場が現れました。
白亜の床が広がり、一面鏡張りの壁が特徴的です。
今は火は灯されていないランプにも贅沢な装飾が施されており、タオルや替えの衣類がたくさん積まれた棚も、貴族が使っている物と同じくらい上質な造りをしていました。
桶を一度床に置き、体を拭くためにタオルをお借りします。
このタオルも見習い用の大浴場に用意されているものより、数倍肌触りがいいです。
……もしかしてここって、大聖女用のお風呂場ではないでしょうか?
聖女のアンジー様でさえ、聖女用の大浴場を使われているので、大神殿の中で『それほど大きくはないけれど豪華なお風呂』があるとしたら、大聖女用の個人風呂しか思い浮かびません。
そしてこの大聖女用の個人風呂を日常的に使っているのは、……きっとベリーなのでしょう。
棚にたくさん置かれている着替えすべてが、子供用サイズですもの。
わたくしのサイズよりも小さめの見習い聖女のワンピースや寝間着などが、綺麗に畳まれて並んでいます。
もう完全に、ベリーのお風呂です。
「さすが神託の能力者ですわ……。大切にされているのですねぇ」
わたくしも貴族社会では公爵令嬢という肩書きに優遇されて暮らしてきました。
だから待遇の違いというものに驚きはありません。
この大神殿でもっとも優遇されるべき存在は神託の能力者で、ベリーが下にも置かない扱いを受けているのは、当然の理だということです。
「ということは、ここは大聖女たちの居住区域ということですわね。今まで来たことはありませんでしたけれど……」
大聖女の居住区域は、大神殿の最奥部にあります。
一介の見習いがここまで足を運ぶことは、まずありません。用事を言いつけられれば来るでしょうけれど、大聖女のお世話をする人はほかにたくさん居るからです。
それに『始まりのハーデンベルギア』などの重要なものが最奥部には秘蔵されているので、セキュリティーが厳しいのです。
見習いがふらりと立ち寄れる区域ではありませんでした。
「ここからどうやって、外の洗い場に出ればよいのかしら?」
わたくしは悩みつつ、ベリーの着替えをお借りします。
さすがに下着を借りるわけにはいかないので、「スカートが決して捲れませんように」と祈りながら素肌にワンピースを着ました。
やはりベリーの方が体が小さいので、肩や胸周りが窮屈です。スカート丈もいつもより短いですが、文句は言えません。
シャルロッテから貰ったリボンも棚の上に無造作に置かれていたので、それでまだ濡れたままの髪を縛り、わたくしは脱衣場を出ました。
▽
行けども行けども、外に出られません。
いえ、何度か屋外には出ることが出来たのですが、あれはどう考えても大神殿の外ではなくて……ええと……。
自分の思考がこんがらがってきたので、わたくしは一度深呼吸し、脱衣場を出てからのことを順を追って思い出すことにしました。
ベリーの服に着替えたわたくしは、木桶を抱えて脱衣場の扉から出ました。
その時はきっと廊下かリビングか寝室か、とにかくベリーのお部屋のどこかに出るとわたくしは予想しておりました。
けれどまったく想定外なことに、“砂漠”に出ました。
「ええぇ……!? どういうことですのっ!?」
本当になぜ砂漠に出たのかわかりません。
大神殿の敷地内にはもちろん砂漠はありませんし、アスラダ皇国にも存在しない場所です。
それなのにわたくしの目の前には、照りつける灼熱の太陽によって焼けた茶色い砂の大地が広がり、吹きつける風の向きによって砂山の形をゆっくりと変えていきます。それに伴って砂山の下に伸びる濃い影の形も刻々と変化していきます。
日差しの眩しさに、わたくしは満足に目を開けていることもできませんでした。
砂漠に来る予定などなかったものですから、ローブも着ていませんし。なんというか、ジリジリと焼かれるお魚の気分です。
熱風が吹き付ける度に砂粒が素肌に当たってくるのも、地味に痛いですわ。
ここは危険だと思い、わたくしは先程出たばかりの脱衣場の扉に駆け戻りました。
「とにかく脱衣場に戻って、ベリーに合流しましょう……!!」
そう考えたわたくしを嘲笑うように、扉はまた別の空間にわたくしを誘いました。
次に訪れた場所は、天井も壁も床もすべてが真っ黒い水晶で出来た小部屋です。
水晶をよく見てみると中に水を含んでおり、その水が黒い水晶の中で宇宙のように発光していました。
驚いて水晶の壁に触れれば、刻み込まれた文字のようなものが緑色に輝いて浮かび上がってきます。
それが以前、ラズーの川の中洲で見た『浄化石』に彫られていた紋様に似ている、ということは咄嗟にわかりましたけれど、わたくしの混乱は増すばかり。
なんのファンタジーゲームに紛れ込んでしまったのかしら、と途方に暮れました。
「いったいどうすればこのファンタジー展開から抜け出せるのかしら……?」
とにかく浴室に戻って、ベリーに会いたい。
そう思って扉に戻る度に、違う場所へ出てしまいます。
何回目かには、吸血鬼が住んでいそうな古城に辿り着きました。
天には稲妻が走り、蔦の生い茂った古城からは、なにか聞きなれない音が聞こえてきます。
前世で聞いたサイレンの音のようにも、囚われた女神が甲高い声で絶望の歌を歌っているようにも、幻の神獣が永久の夢を見て鼻息を立てている音のようにも聞こえます。
……いえ、わたくしは本当に音が聞こえているのでしょうか?
もしかしたらただの風鳴りかもしれませんし、わたくしの頭の中だけで音が響いているのかもしれません……。
……わたくしは本当に正常でしょうか?
次々現れる別世界を目の当たりにして、だんだん正気を失いつつあるような気がしてきます。
これがすべて夢ならいいのに、と思いながら、わたくしは再び扉を潜りました。
▽
もう何度、脱衣場の扉を潜ったのでしょうか。思い出せません。
絵本だけが並ぶ巨大な図書館。
黄金の眠り椅子が置かれた小さな屋根裏部屋。
雪の降る大草原。
汚染され真っ黒に染まった海。
今まさに大火に飲まれて燃え盛る村。
蝋人形だけがステージに立っている歌劇場。
しとしとと雨が降り続く熱帯雨林。
『始まりのハーデンベルギア』と思われる、大きな低木が咲く湖のほとりーーー……。
もうこの湖でワンピースを洗ってしまおうかしら。
そんなやさぐれた気持ちで、わたくしは湖のほとりに座り込みました。
「いま、何時くらいなのでしょう……。このわけのわからない世界から、二度と抜け出せなかったら、……」
どうしよう、と言葉にするのも恐ろしくて、わたくしは口をつぐみました。
扉を潜る度に次々と現れる場所は、どこもわたくしの知らない場所ばかりです。
知らない場所というだけでも怖いのに、『なにかがいる』という気配はするのに人や動物などの姿がまったく見当たらないことが、わたくしの恐怖をさらに掻き立ててきます。
ここは一応大神殿の最奥部ですから、『いる』のはもしかしたら人ではない可能性もあるのかもしれません。
神秘を体感している恐ろしさに、わたくしはぶるりと震えました。
「もう、お部屋に戻りたいです……。ベリー、わたくしを助けてくださいませ。アンジー様ぁ……ゼラ神官、マシュリナさん……」
堪えきれず涙が込み上げてきた時。
わたくしの後ろにある扉が、外側から開きました。
「え!?」
「…………」
びっくりして振り向くと、扉から顔を覗かせるベリーの姿がありました。
とっくにお風呂から上がって着替えを済ませたベリーは、濡れた髪を背中に垂らしたまま、『呼んだ?』と言うように首を傾げます。
彼女のそんなとぼけた表情を見た途端、わたくしはぶわっと感情が込み上げてきて、泣きながら彼女に抱きつきました。
「こ、怖かったですわ、べりぃぃぃ……!!」
「…………」
ベリーはわたくしの様子に戸惑ったように身じろぎましたが、わたくしがあまりにも泣くものだから、ぽんぽんと頭を撫でてくださいました。……この子にもこのように他者を慰める行為を知っているのだと思うと、なんだかまた胸に込み上げてくるものがあります。
「わたくし、早くここから出たいですわ、ベリー。あなたは外に出る出口を知っていまして?」
「…………」
ベリーはこくりと頷くと、扉をもう一度開けました。
扉の向こうには、いつもの庭園の風景が広がっています。
ちゃんと大神殿で働く人々の声が聞こえてきて、わたくしはようやく安堵の溜め息を吐きました。
やっとわたくしの居場所に戻って来られたのです。
「ありがとうございます、ベリー。さぁ、あなたも一緒に外へ出ましょう?」
わたくしは木の桶を右側に抱え、左手をベリーに差し出しました。
ベリーは目を細めてわたくしを見つめ、
「……うん」
と、小さな声を出して頷きました。
そういえばこの子、『私のまくら』以外の言葉を初めてわたくしに聞かせてくれたんじゃないかしら。
そう思いながら、わたくしは左手に滑り込んできたベリーの小さな手を握り返します。
初夏を迎えた大神殿の庭園は、いつもと変わらず、生命の彩りに溢れておりました。




