25:さよなら、ファーストキス
朝です。
寝る前は確かに枕の上に自分の頭を乗せておりましたのに、目が覚めると頭の下にはまっ平らのシーツの感触です。
ゴロンと横を向けば、ベリーがわたくしの枕を奪って俯せで眠っていました。
「……起きてくださいまし。朝ですわよ、ベリー」
特別扱いを受けているベリーのスケジュールがどうなっているのかは知りませんけれど、普通の見習いには午前の授業があります。
わたくしは「えいっ」と上体を起こし、ベッドから下りるためにベリーのこんがらがった体を押し退けました。
……こんなにすごい寝相ですのに、昨夜結った彼女の髪はほどけていなかったので、逆にびっくりです。
夜のうちに水差しに汲んでおいた水を盥に移し、顔を洗います。
わたくしが離れたことで目を覚ましたベリーが、ぼんやりとした表情でこちらを見ていたので、ついでに彼女の顔も濡れタオルで拭って差し上げました。
ベリーはわたくしの枕を抱き締めたままベッドの上でぼんやりとしていますが、わたくしは朝の仕度を続行です。
八時には神学の講義に出席しなくてはいけません。今はまだ七時前ですけれど、のんびりしているわけにはいきませんでした。
ネグリジェから手早く見習い聖女のワンピースに着替え、髪をひとつに纏めます。
シャルロッテからもらったリボンの形をきれいな蝶々結びに出来ているか、鏡で確認していると、鏡越しにベリーと目が合いました。
「そうですわ、ベリー。その髪紐、あなたに差し上げますわ。昨日、街で見つけましたの。あなたの美しい瞳と同じ青紫で、きれいでしょう?」
「…………」
言われて気が付いた、というように、ベリーは自分の髪の束を持ち上げました。
髪紐が見たいのか、それとも髪を結んでいるのが嫌だったのか、一生懸命に結び目に指をかけていますが、上手くほどくことが出来ないようです。
わたくしはベリーに近付き、彼女の髪をほどきました。
「ほら、これですわ。飾りは何もついていませんけれど、編み目が繊細で美しいでしょう?」
「…………」
ベリーの両手に髪紐をのせれば、彼女はそのままじっと髪紐を眺めました。
そのあいだに、ベリーの髪もブラッシングしておきます。
豚毛のヘアブラシでそっと彼女の髪を痛めないように梳かせば、あっという間にサラサラの指通りになりました。
「ほら、梳かしただけでこんなに綺麗。ベリーは本当に苺のお姫様みたいですわね」
「…………」
「……髪紐で髪を結いますか?」
わたくしの問いかけに、ベリーはフルフルと首を横に振ります。
「じゃあ髪紐を無くさないように、手首にでも巻いておきましょうね」
そう言ってわたくしはベリーの左手首に、髪紐をぐるぐると巻き、蝶々結びにしました。こうするとブレスレットのようで可愛い気がします。
ベリーも気に入ったのか、何度も左手首を見ては髪紐に触ったり、手首を掲げて食い入るように見つめたりしました。
そんな彼女を見ると、あのとき迷わずに髪紐を購入して良かったなと思います。
「では朝食を食べに、食堂へ行きましょうか」
髪紐に気を取られたままのベリーの手を引き、わたくしは自室の戸締まりをしてから食堂に向かいました。
▽
食堂はまだ一番込み合う時間ではありませんでしたが、すでに多くの人が食事をしていました。
そして普段見かけることのないベリーの姿に、皆様ざわつきます。
「ねぇ、あの子って『神託の』……」
「初めて見た……」
「すごく綺麗な娘だなぁ……」
「見ると幸運になれるんだっけ……?」
悪いことは言われていないようですけれど、これだけ注目されるのも嫌だろうとベリーに視線を向ければ。
ベリーは変わらず手首に巻いた髪紐に気を取られています。陽光に当たると髪紐の一部がキラキラ光ることに気付き、一生懸命手首を動かしていました。
……まぁ、ベリー本人が気にしていないことは大変有り難いことですけれど。このままでは彼女が見世物のようになってしまうので、食堂では食べずに他へ移動することに決めます。
食堂のカウンターに向かい、わたくしは二人分の朝食を紙袋に詰めてもらって、そのまま食堂の外へ出ました。
「今朝も晴れていますから、外で食べましょうか、ベリー?」
「…………」
変わらず返事のないベリーの手を引き、わたくしはここから一番近い東屋に向かうことにしました。
東屋には誰も居ませんでした。
朝のみずみずしい空気と、真新しい太陽の光、それから傍の木々から小鳥たちが囀ずる歌が聞こえてきます。
わたくしは東屋のなかにあるベンチに腰掛け、設置されていた木製のテーブルに紙袋の中身を広げました。
サーモンの薫製と玉ねぎの薄切りが挟まったパンが子供二人分、茹で玉子が二つ、くし切りにされたオレンジと、水の瓶が二本。
なんだか全体的に黄色っぽい朝ごはんだわ、とわたくしは思いました。
「ベリー、マシュリナさんからあなたは少食だと聞いているけれど、どのくらい食べられそうですか? 茹で玉子くらいなら平気でしょうか?」
「…………」
とりあえず栓を抜いた水の瓶を彼女の前に置きましたが、本当に食事に興味がなさそうです。ベリーは並んだ朝食よりもわたくしの顔を見たり、髪紐を見ています。
「食べれそうだったら、食べてくださいね」
そう言って、わたくしはベリーの前に殻を剥いた茹で玉子も置くと、自分の朝食に取りかかることにしました。
大神殿の食事はハクスリー公爵家と比べるまでもなく質素ですけれど、パンは柔らかい白パンですし、卵や魚などのタンパク質も毎食ちゃんとついていました。海沿いの地域なのでお肉より魚介が多いですけれど、これは公爵家で食べていたものよりも新鮮で美味しいです。
薫製サーモンと玉ねぎを挟んだだけのシンプルなパンには、子供用に粒マスタードが抜かれていて、マヨネーズが入っていました。わたくしは味覚がまだ子供なので大変嬉しいです。
茹で玉子には、小さな紙に包まれていた塩を振って食べます。子供向けに小さいサイズの卵を用意してくれたのか、ちょうどいいです。
前世のスーパーには卵のサイズがSとかLとか分けてパック詰めされていましたけれど、皇国ではサイズごとに分けて出荷するシステムはあるのかしら、などとぼんやり考えます。
そして、わたくしがデザートのくし切りオレンジを食べ始めた時、唐突に、横に座っていたベリーが動きました。
「……は、ぃ……?」
ベリーの美少女顔が視界一杯に広がり、わたくしの唇に何かが触れました。
柔らかくて小さくて、濡れた感触がするーーー、ベリーの舌でした。
わたくしの唇についたオレンジの果汁をペロペロと舐める彼女の舌の動きに、思考が停止します。
咄嗟になにが起こったのかよく分からず、呆然と、目の前にあるベリーの顔を凝視してしまいます。
ベリーは無心にわたくしの唇を舐め、吸い付き、しまいには齧り出しました。
「いっ……! 痛いですわっ、ベリー!」
わたくしは両手で彼女の肩を押し、距離を空けます。
「オレンジが食べたいなら食べたいとおっしゃってくださいましっ!! もうっ!!」
「…………」
ベリーの口にオレンジを押し込めば、彼女は奇行をやめて大人しくオレンジをしゃぶり出しました。
齧りつかれた下唇に自分で治癒をかけながら、これって現世のファーストキスだったのでは……? ということに思い当たりました。
チラリとベリーに視線を向ければ、変わらずチュウチュウとオレンジに吸い付いている無表情なベリーが見えます。
……本っっっ当に美少女!
ベリーの美しさを見ていると、むしろわたくしのファーストキスよりも、彼女のキスの方が貴重で、大切にしなければいけないことのように思えます。
将来はきっと薔薇の女神のような絶世の美女になるでしょう。彼女を愛する男性がきっとたくさん現れるはずです。
それなのにベリーの大事なキスが、同性の食べているオレンジが欲しくなったために一回分消費されたと知ったら、未来のベリーの恋人は残念に思うかもしれませんわ。
「……ベリー、あなた、もっとキスは大事になさい。これからは大好きな異性以外にキスをしてはいけないわ」
「…………」
わたくしの言葉に、ベリーはオレンジから視線をあげてこちらを見ましたが、すぐにまたオレンジに集中し始めます。
あなたにとってわたくしはまだ『枕』の認識でしょうけれど、大人になってから今日のことを思い出して困るのは、あなたの方なんですからね!
そう、九歳のわたくしは心の中で怒っていました。
……実際に年齢を重ねて、このファーストキスを思い出したときに困ったのは、わたくしの方だったのですが。
九歳のわたくしはまだ、知る由もありませんでした。




