1巻発売記念SS『オレンジキス』
本日5/15、サーガフォレスト様より『悪役令嬢ペトラ1巻』発売です!
何卒よろしくお願いいたします!
本日の治癒棟の勤務時間が終わったので、わたくしは両腕に紙袋を抱えて大神殿の最奥部へと向かいます。
ベリーと結婚して以来、わたくしが寝起きをする場所は、大神官大聖女の住居スペースにある彼の部屋です。
部屋と言っても、以前わたくしが生活をしていた聖女用の個室とは異なります。寝室の他に大きなリビングや、造り付けの本棚がぎっしりと壁を覆う書斎や、衣装部屋やお風呂などがあります。使用目的が定まっていない部屋もいくつもあります。前世で例えると、高級マンションの一フロアすべてを所有しているくらいに広いのです。
大神殿での職場結婚は、敷地内にある家族用住居へ引っ越したり、ラズーの街中に家を購入して休日だけ帰宅することが多いのですが、ベリー『大神官』と結婚したわたくしは、護衛の観点から問答無用で大神殿の最奥部暮らしなのでした。
「おかえり、ペトラ」
「ただいま戻りました」
扉を開けてまっすぐにリビングへ向かうと、ソファに置かれた無数のクッションに埋もれたベリーがいました。
彼がもう帰宅しているとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。
「今日は珍しく早く帰宅されたのですね、ベリー?」
神託の能力者として大神殿の頂点に立つ彼の仕事量は、治癒棟所属のわたくしより遥かに多いです。
この広大なアスラダ皇国中にあるすべての神殿から、ベリーに様々な書状が届きますし、王都トルヴェヌの皇城からも割としょっちゅう手紙が届きます。皇城からの手紙はだいたいパーシバル二世国王陛下からで、たまにモニカ王妃殿下からも連絡があるみたいです。……まぁ、わたくしは相変わらずモニカ様から恋敵扱いされているので、彼女のことはあまり知らないのですけれど。
モニカ様は二世様とご結婚されましたし、わたくしもベリーと結婚したので、もう恋敵扱いしなくてもいいじゃないですか? とは思うのですけれど。
王妃に嫌われている一国民とか、なかなか生きた心地がしませんわ……。
「うん。今日は会議でイライジャが大人しかったから、スムーズに済んだんだ」
「まぁ、イライジャ大神官に何かあったのですか? 体調が悪いのでしたら、わたくしが診察に行きますけれど」
「体じゃなくて心の調子が悪いらしいよ。年に数回、ホームシックの発作が起きるんだって」
「……イライジャ大神官は、よほどご実家がお好きなのですわね……」
イライジャ大神官が実家であるアベケット伯爵家を出てからもう三十年は優に経っていることを考えると、一生治りそうにありませんわね。わたくしの出る幕はなさそうですわ。
とにかくイライジャ大神官がホームシック中だったため、上層部の会議が大きな波乱もなく終わり、ベリーが定時で帰宅できたのでしょう。
一人納得していると、ベリーがわたくしの腕の中にある紙袋を指差しました。
「ペトラ、その紙袋は何?」
「ああ、これはオレンジですわ。今日、患者様から頂いたのです」
わたくしは紙袋からオレンジを幾つか取り出し、テーブルに並べました。
凸凹とした表皮から、柑橘類特有の爽やかな甘い香りが漂っています。
「お夕食前ですけれど、オレンジをいただきませんか、ベリー?」
「うん、いいよ。ナイフを取ってくるね」
ナイフとお皿を持ってきたベリーは、ニコニコした様子でオレンジをカットし始めました。
わたくしは横から、ベリーのナイフ捌きを眺めます。彼が小さな頃は、生きることにさえ頓着していない雰囲気でしたのに、今では果物を切ることが出来るようになるなんて素晴らしいですわ……!
……わたくしはベリーのことになるとどうしても、保護者視点になることが多いですわね。今の彼はもう夫だというのに。
ベリーは食べやすいように切れ目を入れたオレンジをお皿に並べて、わたくしに「はい、ペトラ。オレンジをどうぞ」と、青紫色の瞳を細めて笑いました。
「切ってくださりありがとうございます、ベリー」
「大したことないよ。それに、ペトラが貰ってきてくれたものを、私もお相伴にあずかるのだから」
「では、さっそくいただきますわね」
オレンジを一切れ手に取り、齧り付くと、甘酸っぱい果汁が口の中に溢れました。とっても美味しいですわ!
お裾分けしてくださった患者に感謝していると、ベリーもオレンジに手を伸ばして齧り付き始めました。
すると運悪く果汁が噴き出して、彼の手から手首までオレンジの果汁が滴り落ちました。わたくしがハンカチを用意する間もなく、ベリーは自分の手首を舌で舐めとります。
彼の官能的な横顔に、わたくしは思わず動揺してしまいました。先ほどまで彼の保護者気分でおりましたのに……。
「うん。美味しいね」
ベリーはこちらに視線を向けると、楽しげに言いました。
彼の色気に当てられていたわたくしは、慌てて返事をします。
「……そっ、そうですわね! あっ、甘くて、とっても美味しいオレンジですわ……!」
「でも、私が一等甘く感じたオレンジは、九歳の頃のペトラが食べていたオレンジだったけれどね。あれは、ペトラの唇が甘かったのかな?」
こっ、この人っ、わたくしが動揺していることをとっくに見抜いていて、更なる追い打ちをかけようとしているのだわ……!!
「もうっ、ベリーったらっっっ!!」
わたくしがベリーの肩を叩くと、彼はますます笑みを深めました。
「ごめん、ペトラ。でも、あなたが私のことを男として意識してくれるのが、本当に嬉しいんだよ。私はペトラの男だからね」
ベリーはそう言って、わたくしの唇に口付けました。
わたくしが涙目で「揶揄っているのか、謝りたいのか、それとも結局揶揄っているのか分かりませんわ……!」と言うと、彼はこう言いました。
「可愛がりたいんだよ」