10:ゆく少女と、くる少年(ハンス視点)
俺の名はハンス。
若い頃はヤンチャに傭兵なんぞをして大陸のあちこちを渡り歩いていたが、今ではハクスリー公爵家で護衛として雇われている、しがないおっさんだ。
今日の午前、俺の恩人でありハクスリー公爵家の長女であるペトラお嬢様が、ラズーの大神殿へと旅立ってしまわれた。
神殿が用意した馬車に乗り込んだお嬢様の姿を見たときは、なんだか胸に込み上げてくるものがあった。
嫁もいなければ娘もいない俺だが、ペトラお嬢様に対して父性のようなもんがいつの間にか芽生えちまっていたらしい。
▽
今よりずっと幼い頃のペトラお嬢様は、前公爵夫人の後をいつも追いかけていた記憶がある。
「おかあしゃま、おかあしゃま」と夫人のもとに駆け寄り、抱き締められては満面の笑みを浮かべていた。
前夫人は信心深い方で、体調が良い時にはペトラお嬢様を連れて神殿に参拝されることが多かった。
俺はその護衛に配置されることが度々あり、ペトラお嬢様はいつの間にか俺のことを覚えてくださっていたのだ。
「はんちゅ」と舌足らずな声で俺を呼んで、笑いかけてくださったことを昨日のことのように覚えている。
前夫人が亡くなられたあとのペトラお嬢様は、本当にお可哀想だった。
ペトラお嬢様は屋敷から一歩も出ず、毎日泣いていらっしゃった。
公爵閣下はなかなか屋敷に帰ってこねーし、分家のアーヴィン様は前夫人の葬儀の後処理でバタバタしていたから、余計に公爵家の雰囲気は陰鬱だった。
こんなに寒々しい場所で、八歳の子どもが母親を失った悲しみを癒せるはずがねぇって、俺は思っていた。
そんでもってさらに最悪なことに、公爵閣下は前夫人が亡くなってから一月しか経っていないっつーのに、新しい夫人を連れて来やがった。
しかも公爵と血の繋がりがある娘まで一緒だ。
ペトラお嬢様があまりのショックに何日も寝込んだのは無理もないと、屋敷の人間みんなが思ったね。
しかし、ペトラお嬢様は俺が思うよりもずっと強い精神力をお持ちだった。
新しい家族を受け入れた上に、屋敷の外へと出たのだ。
貧民街に出掛けたいと最初言われたときは驚いたが、自分には治癒能力があるからそれを伸ばしたいのだ、と話されたときに、お亡くなりになられた前夫人のことを思い出した。
信心深い母親に大切に育てられたご令嬢だもんな。
自分に治癒能力があるとわかれば、それを弱者に使いたいと考えるだけの優しい心を持っていたのだ。
まぁ、「わたくしは修行がしたいのです!!」て台詞はグッと来たけどよ。
傭兵時代の熱い自分を思い出してさ……、へへ。
それにペトラお嬢様が公爵邸で泣き暮らすより、外に出て気晴らしができれば良いなと、俺は思ったのさ。
ペトラお嬢様の貧民街での活躍は、想像していたよりずっとすごかった。
子どものお遊びなんかじゃなく、自分の出来る範囲で確実に弱者を救っていった。
最初はツンケンしていたマリリン婆さんもお嬢様にほだされて、いつの間にか態度が軟化していたからな。
メイドのリコリスちゃんの弟の病気を治したときなんて、本当に公爵令嬢のままにしておくのはもったいねぇって感じの漢気だった。
半日も治癒能力をかけ続けるなんざ、根性があるぜ。
……そしてペトラお嬢様は、俺の左目まで治しちまった。
傭兵時代に仲間を庇って負った傷が原因で、俺は左目の視力を失った。
戦争中だったから医療道具なんて最低限しかなかったし、軍お抱えの数少ない治癒能力者は、俺なんかよりももっと重傷の兵たちに掛かりっきりだった。
俺が診てもらえた時には、もう視力の回復の見込みもなくなっていた。ペトラお嬢様くらいレベルの高い治癒能力者だったら話は違ったんだろうが、当時俺を診てくれた治癒能力者は下っぱだったから、もうどうにもならなかった。
大神殿に行って聖女に治療してもらうほどの金もなかったしな。
左目が見えなくなったことを、俺は納得するしかなかった。
庇った相手も、俺への罪悪感で辛そうだったから、悲しんでいるところなんて誰にも見せられなかった。
「友よ、俺の左目なんかより、お前が生きてることの方がずっと大事だぜ」って、当時の俺は笑った。
仲間の生存が嬉しいのは嘘じゃない。
目玉一個より、命の方がずっと重いんだって、今でもそう信じている。
そいつには嫁さんも生まれたばかりの赤ん坊も居たから、幸せな家庭が壊れなくて良かったって、本気で思った。
でもさ、でも、片目だけで世界を見続けるのが、俺は本当は辛かった。
名誉の勲章だと納得して、笑って、仲間の生存を喜べる気持ちをちゃんと抱えてんのに、心の奥が冷えるんだ。
良い奴ぶって、俺、なにしてるんだろうって。
年月が経てば経つほど、そう考えちまうんだ。
そいつが傭兵をやめて、もっと安全な職について、子どもが増えて、嫁さんも相変わらず美人で、幸せそうに暮らしていることを手紙で知らされて。
『これも全部あのときハンスが俺を守ってくれたお陰だ。本当にありがとう。きみは俺の恩人だ』って毎回締め括られてるのを見ても、素直に喜んでやれないんだよ。
仲間の幸せをちゃんと喜んでやりたいのに。
……そんな俺の心のぐちゃぐちゃを、ペトラお嬢様は救ってくれた。
何十年ぶりかに両眼で見えた世界で、本当に綺麗な天使様が見えた。
俺にとっても大恩人になったペトラお嬢様は、馬車事故にあったクソガキの破裂した内臓や、欠損した足まで再生しちまった。
ここまで才能のある治癒能力者がまだほんの八歳とは、いっそ空恐ろしい。
神殿から使者が来たと聞いたときには「そりゃそうだよな」という感想しか湧かなかった。
それで今日、ペトラお嬢様は聖地ラズーの大神殿へ旅立っちまったというわけだ。
正直寂しいが……、自分の才能を伸ばそうと邁進し続けるお嬢様を止める気はなかったからな。
これからもいろいろ困難はあるだろうが、ご自分の輝かしい未来を掴み取ってほしい。
……娘を嫁に出す父親の気分って、こんなもんなのかもしれねぇなぁ……。
▽
「おいハンス、大丈夫か?」
「ペトラお嬢様が旅立たれて寂しいだろう。今夜みんなで飲みに行くか?」
「泣くんなら俺も付き合うぜ!」
ペトラお嬢様の見送りが終わり、護衛の詰め所に戻ると周囲の連中からそんなふうに声を掛けられまくった。
どうやら俺は端から見ても落ち込んでいるらしい。
……まいったな。
「……ちょっくら裏で休憩してくるわ。なんかあったら呼びに来てくれ」
「わかったぜ、ハンス。裏で泣いてくるんだな!」
「俺、ハンスが泣いてるから詰め所の裏には近づくなって、みんなに通達してくるわ!」
「ハンス、これ新しいタオルだぞ。思う存分泣いてこい!」
護衛仲間たちからの扱いが、本気で娘を嫁に出した父親へのそれである。
手厚い配慮を受けて送り出されたので、もういっそ屋敷内に聞こえるくらい大泣きしてやろうか。
そんな気持ちで俺は詰め所の裏に出た。
泣いて良いと言われると泣けないもので、俺は詰め所の裏にあるベンチに腰掛けた。
すぐ目の前にはハクスリー公爵家の敷地をぐるりと囲う鉄製の柵がある。二メートルほどの高さがあるそれは侵入者から公爵家を守るためのものではあるが、蔓薔薇を模したデザインなのでなかなか優雅だ。
柵の向こう側は大通りがあり、貴族街らしい風景が広がっている。行き交う馬車は金ぴかの飾りがついていたり、歩行者はたいてい貴族の屋敷に勤める使用人なので服装が上等だ。
そんな風景のなかに、俺はひとつの異質を見つけてしまった。
通りの向こうからハクスリー公爵家を覗き見している、襤褸をまとったクソガキが一人。
クソガキは俺の視線に気が付くと、パッと目を輝かせた。
「オジョーサマの護衛のおっさん!」
ペトラお嬢様に破裂した内臓やら欠損した足をまるごと再生してもらったあのクソガキーーーお嬢様はひそかに『ガキ大将』と呼んでいたーーーが、こちらに向かって走ってきた。
柵にしがみついたクソガキは、俺に話しかけてくる。
「……なんだよ、クソガキ。ペトラお嬢様ならすでに、ラズーの大神殿へと旅立ったぞ。お前、マリリン婆さんが用意してくれたお嬢様のお別れ会に顔も出さねーで、結局今頃後悔して、お嬢様に会いに来たのか?」
「ちげーよ! オジョーサマがすでに大神殿に向かったことくらい、知ってるし! 俺はまだオジョーサマに会う気なんかない!」
「はぁ!? 命の恩人に対して、なんちゅー言い草を……」
「俺は! オジョーサマに恥じない人間になるまでは、オジョーサマに会う気はないって言ってんの!」
クソガキは真っ赤な顔をして、俺にそう叫んだ。
はっは~ん?
「こんなおっさんに、そんな甘酸っぱい青春を聞かせてもいいのか? そうだよなぁ、お前、ペトラお嬢様に初めて会った時から絡んできたよな~。なになに、一目惚れだったの? そんで治癒していただいて、がっつり惚れちゃったの? 相手は公爵令嬢だぞ? うわ~、酒が飲みて~」
俺のからかいに、クソガキはますます顔を赤くしたが、耐えた。
耐えた上に、深く頭を下げてきた。
「お願いします、護衛のおっさん! 俺、オジョーサマが好きだけど、一緒になりたいとか分不相応なことは考えてない! ただオジョーサマを守る神殿騎士になりたいんだっ! 稽古をつけてください!」
「うわぁぁ、初恋を思い出すむず痒さだわ、これ」
「金はねーけど、おっさんの使いっ走りでもなんでもするから! お願いします!!!!」
「……あーあ、俺、弱いんだよね、こういうの」
本当にこのクソガキが尻尾を巻かずに稽古を続けられるのかは知らない。
だけど、一人くらいこういう奴をペトラお嬢様の味方として大神殿に送り込むのもいいんじゃねーかな、と、その時の俺は思った。
「今後、俺をおっさんって呼ぶのはやめろよ。『ハンス師匠』だ。いいな?」
「俺はレオ。よろしくお願いします、ハンス師匠!」
青みがかった黒髪と、つり目がちな目を持つレオは、なかなかキリッとした感じの男前だ。
それに何より、髪と同じ青みがかった黒い瞳が熱い決意に燃えていて、キラキラと輝いているのが良かった。
俺はこういう目をする奴が好きなんだ。
ペトラお嬢様もそういう目をしていたな。
俺とレオは鉄柵の隙間に腕を通し、握手を交わした。
明日から第2章に入ります。第3章に入るまではヒーローがペトラに対してほぼ無言なんですけど、読んでいただけると嬉しいです( ;∀;)




