99:それでも自分の中に残るもの(シャルロッテ視点)
ペトラお姉様がわざわざラズーの大神殿から私の治癒にやって来てくださった。
こんな私のために申し訳ないという気持ちと、ペトラお姉様が心配してくださったことに心が暖かくなる。
ペトラお姉様とアーヴィンお兄様が公爵家にお戻りになられたとき、居間の雰囲気は最悪だった。
お母様は私の病気が分かってからずっと泣いているし、お父様はずっと怒っていた。
お父様は何度も私に大声をあげた。
「一体なぜそんなことになったんだ、シャルロッテ!? 心理的要因だと!? 人間、誰しも生きることに苦痛を感じているっ! 甘ったれるな! お前ばかりが辛いのではない!! そんなことで皇室との縁談が立ち消えるなど、お前はハクスリー家の恥だっっ!!!」
そんなふうに繰り返し怒鳴られたけれど、私はもう変に開き直ってしまっていて、言い訳もせずに黙っていた。
お父様の言うことはきっと正しい。
生活していれば誰だって、嫌なことが起こるものだ。合わない人とも上手く距離を取らなくちゃいけなくて、誰かの悪意さえない小さな言葉にも傷付いて、自分の中でどうにか折り合いをつけながら暮らしていく。
私はそれが上手く出来なくて、グレイソン様を好きだった気持ちすら見失って、令嬢として失敗して、小さな頃はあんなに私を慈しんでくれたお父様をこんな風に失望させてしまった。
言い訳すら思い浮かばない。詰られて当然の恥なのだ、私は。
そんな私のためにアーヴィンお兄様は往復二月もかけてペトラお姉様を公爵家に連れて来てくださり、ペトラお姉様も不満も言わずにただ私の心配をしてくださった。
それがどれだけ嬉しかったか、きっと言葉ではお二人に伝わらないだろう。
ペトラお姉様は私の病気は治癒では治らないだろうと言いながら、治癒をかけてくださった。
治らないと分かっていながらも会いに来てくださったのだな、と思えば余計に嬉しかった。
そしてペトラお姉様の治癒を受けてすぐに、お父様に連れられて皇城へ向かった。
皇城に向かった私とお父様は、セシリア皇后陛下の庭園がよく見えるサロンへと案内された。
サロンにあるテーブルには、湯気の立った二客のティーカップがすでに置かれている。お茶菓子も用意されていた。
けれど、そのティーカップが置かれた席に座る二人の姿はまったく見えない。
「セシリア皇后陛下、グレイソン皇太子殿下、たった今、大神殿の治癒能力者にシャルロッテを診させました。無事に治癒をかけさせました。これできっとシャルロッテの目も耳も正常に戻ったはずです!」
隣に立つお父様がそうおっしゃったので、やはりグレイソン様とセシリア皇后陛下のお二人が今このサロンにいらっしゃるのだな、と理解する。
けれど、やっぱり私にはどうしても、お二人の姿が見えなかった。
「シャルロッテ! グレイソン皇太子殿下がお前にお声をかけてくださったのに、なにをぼうっとしている! 早く殿下に返事をせんか!!」
「……申し訳ありません、お父様」
私はゆっくりと言った。
「グレイソン様がどこにいらっしゃるのか、何をおっしゃったのか、私には分かりません。見えませんし、聞こえもしないのです」
どこからかグレイソン様がご愛用する香水の香りが漂ってきたような気がしたけれど、やはり場所は特定出来なかった。
私とグレイソン様の婚約は、こうして完全に消えてしまったのだ。
▽
「ペトラお姉様、まだ起きていらっしゃいますか……?」
私は皇城から帰ると、ペトラお姉様が今夜お泊まりになる客室の扉を小さくノックした。
もう時間は深夜に近く、一月もかけて皇都へやって来たペトラお姉様が疲れて眠っている可能性は高かった。
けれどペトラお姉様は、すぐに客室の扉を開けてくださった。
「……お入りなさい、シャルロッテ」
ネグリジェにガウンを羽織っただけのペトラお姉様のお姿は、部屋に灯された小さなランプの灯りに照らされてとても妖艶だった。
同性の私でもこんなときなのに思わずドキリとしちゃって、慌てて客室の扉を閉める。こんなに色っぽいペトラお姉様を見たら、例えしっかりと教育された公爵家の使用人でも血迷ってしまうだろう。
ペトラお姉様は私にソファーを勧めると、ご自分も向かいのソファーに腰を下ろした。その際にペトラお姉様の豊満なお胸がたゆんと大きく揺れるのを見てしまい、すごいなぁと感心してしまう。
ペトラお姉様はとてもすごい治癒能力者だから大神殿に行かれてしまったけれど、もし公爵令嬢として社交界に出ていたら、その美貌と優しい性格で、多くの人から羨望の眼差しを集めただろう。
グレイソン様の婚約者も私じゃなくて、ペトラお姉様が選ばれたに違いない。
正妻からお生まれのペトラお姉様ならば、セシリア皇后陛下も満足されたのだろうな……。
「グレイソン皇太子殿下との婚約白紙、本当に残念でしたね」
言いづらそうな表情で、ペトラお姉様がそうおっしゃった。
「シャルロッテ、皇太子殿下が見えなくなった原因は、あなたの心の中にあると思います。ご自分では原因を特定出来ていますか? それさえ取り除ければ、また、あなたの目や耳も治るかもしれません。皇太子殿下の婚約者に戻れるかもしれませんよ」
「……たぶん、分かっていると思います。でも、だからこそ、グレイソン様の婚約者には戻れないと思っています」
こんなことを言ったら、優しいペトラお姉様が気に病んでしまうかもしれないと思いつつ、自分でも思い当たる原因を口にする。
「私がグレイソン様を認識できなくなったのは……私がずるい生まれだからです」
「は……?」
ペトラお姉様はびっくりしたように唇を半開きにした。
そんな表情さえペトラお姉様は艶っぽく見えるのだな、と頭の片隅で思う。
「私の生まれが正しくないから。妾の娘だから。私の血が穢れているから。皇太子妃にふさわしくない生まれの私は、心が弱いので、その重責から心が逃げ出し……」
「馬鹿なことをおっしゃらないでっ、シャルロッテ!!」
ペトラお姉様が声を荒げるのを初めて聞いた。
苦痛を味わっているかのように顔を歪め、ペトラお姉様は言う。
「誰があなたにそのような思想を植え付けたのですか!? 馬鹿馬鹿しい! 子供は親を選べませんし、育ちは生まれを凌駕するものですわ。あなたは今日まで学んできた勉強や努力で作り上げられた、美しい女の子ですよ、シャルロッテ。その結果の前では出自など、些末なことです」
「ペトラ、お姉様……」
私は思わず泣いてしまった。
貴族社会の誰もが羨むその出自をあっさりと皇都に置き去りにして大神殿に旅立った、ペトラお姉様らしいお言葉だ。
この人の目に、私は穢れた血でも妾の娘でもなくて、ただの妹として映っているのならこれほど嬉しいことはない。
ペトラお姉様は私にハンカチを差し出しながら、「もしかして」と口を開く。
「シャルロッテが見ることの出来なくなった、皇太子殿下と皇后陛下が諸悪の原因ですの? あの二人にそんな酷い言葉をかけられたのですか?」
「……だって、お二人は当然のことをおっしゃっていると思っていたんです」
「なんというモラハラ親子ですの!?」
「もらはら?」
「中身が腐っているという意味ですわ」
嘆息するペトラお姉様の言葉に納得した。
確かにグレイソン様は、熟れすぎた果実のようだった。
一見すごく美味しそうに見えて、いい匂いがしたから大喜びで市場で買って家に持ち帰る。そしていざナイフで果実を割ってみると、中身がすでに腐敗していて、とてもではないが口にすることが出来ない。
どんなに大好きな果実でも、そんなものを食べたらお腹を壊してしまう。
私にとってグレイソン様は、そんな恋だったのだ。
「……ペトラお姉様、私、明日、ハクスリー公爵領に旅立つことになりました」
「明日ですか? 急ですのね」
「社交界で笑い者になる前に、一度皇都から去りなさいと、お父様が。時期が来るまでは領地で暮らしなさいと言われました」
「あの人は……っ!!」
ペトラお姉様は両手の拳を握って、怒りをなんとか抑えている。
「……私、恋も終わっちゃったし、もう条件の良い縁談は来ないだろうし、貴族学園も退学決定だし、お父様からも失望されちゃったし、お母様もいっぱい泣かせちゃったけれど」
「シャルロッテ……」
「今日までズルせずに頑張ってきたことが、私の中にちゃんとあるから。アーヴィンお兄様の補佐としてお仕事を貰えないか、相談してみようと思います」
「……それもいい考えですね」
遠い未来のことまではまだ考えられない。
けれどいつかペトラお姉様のように自分で自分の道を切り開いて、自信を持って歩いていけるような女性になれたらいいな、と私は思った。




