9:大神殿の夜をさ迷う子供
敷地内のあちらこちらに植えられたハーデンベルギアの低木が、今宵も月明かりのなかで紫色の花びらを開かせていた。
アスラー大神の加護を受けているといわれているこの花は、国花としてアスラダ皇国中に植えられている。
挿し木で増やされたハーデンベルギアは、もう二百年は枯れることを知らず、昼も夜も夏も冬も変わらぬ姿で咲いているのだ。
すでに時刻は深夜二時を回っている。
明日の仕事のためにも、ランプの油を節約するためにも、人々はすでに寝静まっている時刻だ。
そんな夜の底に閉じ込められた大神殿の庭園を、一人の子どもが歩いていく。
月明かりに照らし出された子どもの体は、頼りなげにか細くて、もう九歳になるのだというのにもっと幼く見える。
腰まで伸びた木苺色の髪は櫛を通していないのか無造作に跳ね、その青紫色の瞳には暗闇に対する恐怖も好奇心もない。将来の美貌が約束されたその端正な顔には、表情らしい表情は浮かんでおらず、まるで動く人形のようだった。
子どもは棒っ切れのような両足で歩き、時折止まり、たまにハーデンベルギアの低木を眺めては、また歩き出す。
『ベリスフォード、今夜もお散歩かい?』
どこからか男性の陽気な声が聞こえてきたが、子どもは足を止めない。
子どもは質素な革靴でポテポテと歩き、ーーー小石につまづいて転けた。
『おいおい大丈夫かよ、ベリスフォード。怪我したんじゃねぇの?』
地べたにベシャリと倒れた子どもだが、特に泣きもせず上体を起こす。
そして座り込んだまま自分が身に着けている聖女見習い用の白いワンピースの裾をめくり、膝小僧を確認した。ーーー擦り傷が出来ている。
『お前、トロいんだから気を付けろよ。お前の母親のウェルザもそうだったんだよなぁ。だから俺様がよくウェルザのお守りをしてやったもんだ』
「……《Heal》」
ようやく子どもが発した一言は治癒の祈祷だった。
白く小さな手からぽわりと金色の光が現れ、すぐに擦り傷は癒えた。
男の声がつまらなさそうに言う。
『なんだよー、もう。相変わらずつまんねー奴だなぁ。そんなふうに生きていて楽しいのか? 夜は寝ねーし、メシも全然食わねーし、泣きも笑いもしなくて、おまけにちっとも喋らねぇ! なぁベリスフォード、そんなんじゃ天国のウェルザが泣くぞ? そうするとウェルザの大親友の俺様が泣くぞ?』
「…………」
『なーなー、返事しろよ~。俺様を無視すんなよ~、俺様偉いのに~』
子どもは地べたに座り込んだまま面倒くさそうに、男性の声がする方向に首を向けた。
そこに居たのは一羽の白いカラスだ。
「……このあいだは蛇だった気がする……?」
『ようやく気付いたかっ! 今日の俺様の気分は鳥だ。空を飛ぶのは最高に気持ちいいんだぞ』
「ふーん」
心底どうでもいい、と言うように子どもは視線を前に戻した。
そしてそのまま背後の地面に倒れ込み、大の字になって夜空を見上げる。
白いカラスは趾でチョンチョンと地面を歩いて、寝転ぶ子どもの頭のすぐ側まで近づいた。
子どもの木苺色の髪が地面に広がっていたため、白いカラスの趾に髪を踏まれたが、痛みを感じたはずの子どもはやはり無表情のままだ。
白いカラスが嘴で子どもの額をつつく。
『ベリスフォード、お前に足りないのはやっぱ友達だよ、友達。ウェルザには俺様が居たけど、ベリスフォードは独りぼっちだから、そんなふうに自分の殻に閉じ込もっちまうんだよ。どうだ、お前も俺様の友達にしてやろうか?』
「…………」
『おいっ、無視すんなっ!』
「…………」
『……フンッ、俺様だってお前のようなガキは相手にしねーよ。もっと大人で知的な話題が出来るようになるまでは、俺様に釣り合わねーからな』
「…………」
『でもマジでさ、そんな生きてんだか死んでんだかよくわかんねーままなのは、楽しくねーと思うんだよな。ウェルザはお前をそんなふうにするために生んだんじゃないんだぜ、ベリスフォード』
子どもの頭の回りを、白いカラスがぴょんぴょん飛んでは、額をつつく。端から見ると、まるで奇妙な儀式だった。
そうしてしばらく白いカラスと過ごしていた子どものもとに、一人の中年女性が現れた。
ランプ片手に寝巻き姿で現れた女性は、よほど慌てていたのだろう。室内用のルームシューズのままだった。
「ベリー様! お部屋にいらっしゃらないと思ったら、また抜け出してこんなところにいたのですかっ」
女性は白いカラスを追い払い、子どもを地べたから抱き起こす。そして自分が羽織っていたショールを子どもにぐるぐると巻き付けた。
「眠れないのは仕方がありませんが……、どうかご自分のお部屋にいてください。ばあやはベリー様がとてもとても心配で……」
「…………」
子どもは何も答えないが、女性はそのまま子どもの手を引いた。庭園から大神殿のなかへ移動するように、子どもを促す。
「さぁさぁ、ベリー様。もう春先だとはいえ、冷えますから。お部屋で暖炉の火に当たりましょう。眠れなくとも毛布にくるまっていれば、きっと夜明けはすぐに来ますからね」
「…………」
子どもは中年女性に連れられて、大神殿の奥へと消えていく。
ハーデンベルギアの低木の側でその光景を見送っていた白いカラスは、『あーあ、ウェルザァ』と呟いた。
『お前の息子は、どうしたらいいんだろうなぁ……』




