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シーと生命の樹

作者: ユッキー



《序章》



 スタンドライトの卵型のLED電球は、まるでこの8畳の和室の小さな太陽のように、隅々にまで淡くあたたかなひかりを放っていた。枕もとで愛犬シーズーのシーは、うつ伏せのままピンク色の舌をちょっとのぞかせ心地よいリズムで寝息をたてている。


 いまオレは、琥珀色(こはくいろ)の淡い(あか)りを頼りに、十数年ぶりに大江健三郎の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』を読みはじめていた。18〜19世紀のイギリスの神秘主義詩人ウィリアム・ブレイクの予言詩(プロフエシー)に導かれ、主人公の作家と障害をもって生まれた長男イーヨーとの共生の物語。十数年前、1年歳上の英文学科の先輩レイコさんから勧められはじめて読んだこの小説を、彼女の面影を求めながら、思い出を辿(たど)るように読みすすめていた。


 今どこにいますか? 


 そうこころのうちで彼女に問いかけ、何度も繰りかえしindestructibility(和訳:不滅)と口誦(こうしょう)しながら……






《第1章》



 相席お願いしてもいいかしら


 おもに学生向けとされているパンション(食事付き賃貸ルーム)1階の、明るさを抑えた暖色系の照明が穏和な雰囲気の喫茶店で、オレは小瓶のビールを飲みながら少し遅い晩ご飯をとっていた。声をかけてきたのは、いつも陽気なこの店のオーナー兼ママだった。

 オレが躊躇(ちゅうちょ)なくすぐにハイと返事をすると、ママは目尻に小じわをよせながらも衰えない美貌に笑顔を浮かべた。


 ありがとう

 ちょっと混んでてね

 今度ビールサービスするから


 胸まであるストレートの黒髪を前に垂らしながら会釈をし、向かい席に腰かけたのは、冷たくも玲瓏(れいろう)な印象の女の子だった。しかし彼女は、すぐにオレが読んでいた太宰治の文庫本に目を向けると、クスッと冬の日差しのような微笑みを浮かべた。そして持参した1冊の単行本をテーブルに置くと、しおりを挟んでいたページを開いて、まるでオレのことを道端の雑草のように気にもとめず、微風(びふう)のような小さく可憐な声で口誦しはじめた。

 

 《粉碾(こなひ)(うす)を廻している奴隷をして、野原に走りいでしめよ。/空を見上げしめ、輝やかしい大気のなか笑い声をあげしめよ。/暗闇と嘆きのうちに閉じこめられ、三十年の疲れにみちた日々、/その顔には一瞬の微笑をも見ることのなかった、鎖につながれたる魂をして、立ちあがらしめよ、まなざしをあげしめよ。》



 オレは、彼女が口誦している詩のようなものの内容に並々ならぬものを感じ、前髪を垂らして(うつむ)きながら口ずさむ彼女から目が離せなくなった。ふと視線を上げた彼女と目があうと、彼女はオレの言いたいことを察したのか、やはり冬の日差しのような微笑みを浮かべてこういった。


 この小説は、英文科の教授に勧められて読みはじめたの

 大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』

 いま読んだ詩はね、この小説のなかで引用されているイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの詩よ

 フフフフフッ!

 はじめまして、ワタシはレイコ!

 きみは新入生? お名前は?

 

 レイコさんは、オレが左耳にしているシルバーのサークルピアスをとてもオシャレだとほめてくれた。今度は春の日差しのような微笑みを浮かべて……






《第2章》



 レイコさんは、『新しい人よ眼ざめよ』を読了したら、単行本を貸してくれると約束してくれた。すぐにオレたちは、喫茶店が混んでいなくても、毎晩同じテーブルで食事をするようになっていた。ママは自分がキューピットだったのかしらと目尻に小じわをよせて笑っていたが……


 その晩レイコさんは、大学の図書館から借りてきたウィリアム・ブレイクの大きなサイズの詩集をテーブルにひろげた。とくに見たかったという装画があったらしい。明るさを抑えた暖色系の照明が穏和な雰囲気の店内で、オレたちは息を詰めてその装画を注視した。

 「生命の樹」に磔刑(たっけい)なったイエスと、大樹の根方に両手をひろげて立ったアルビオン。すべての人類が救われて、(あが)める視線をイエスにおくっている図柄。そしてこの装画は、次のブレイクの予言詩(プロフエシー)を描きあらわしているものらしい。


 イエスは答えられた、(おそ)れるな、アルビオンよ、私が死ななければお前は生きることができない。/しかし私が死ねば、私が再生する時はお前とともにある。


 装画を見つめたままストレートの黒髪を垂らして、レイコさんはしばらく沈黙していた。表情はわからなかったが、わずかにフローラルブーケの香水の香りがした。ようやくひらいた微風のような可憐な声は、心なしか震えていた。


 イエスは「生命の樹」にやさしく包まれて最後を迎えた

 それをアルビオンも強く感じていた

 これは、すべての人類が救われたあと、ワタシたち若者へ新しい人よ眼ざめよという、心優しい魂の呼びかけなのかもしれないわね



 この晩オレは、レイコさんが読了した『新しい人よ眼ざめよ』を借りるため、はじめてパンション上階のレイコさんの部屋に入れてもらった。玲瓏なレイコさんらしくきちんと整頓された、女性らしいセンスと知的さが感じられる部屋だった。本棚にもシェークスピア、ディケンズ、フォークナーなど海外作家の本が並び、とくにギデオン版の赤い背表紙の聖書が印象的だった。

 もちろんオレは、まともにレイコさんの顔を見ることができないほど緊張し、薄いピンクの花柄のカーテンを開けて、夜空を見つめ何とか落ち着こうと試みていた。星たちは黙ったまま(きら)めいていたが……


 仙台市中心部の高層ビル群の灯りを背景に、ガラス窓にレイコさんのフレアミニスカートをはいた細身の姿が映った。レイコさんはストレートの黒髪をかき上げると、後ろから優しくオレの汗ばんだ手を握り、今度は窓に映るオレの緊張した顔を凝視しながら、可憐な声をやや震わせて、はじめての女性(ひと)になってあげるといった。

 レイコさんは、部屋の灯りを消した。






《第3章》



 それからおもに晩ご飯を終えると、オレたちはレイコさんの部屋で時を過ごすことが多くなった。オレは大学の講義中も『新しい人よ眼ざめよ』を読みつづけ、およそ3日で読了した。しかしいま思うと、まだこれといった人生の経験も深遠な苦悩もなかったオレが、ほんとうにこの小説を理解していたとは到底思えない。ただひとつだけ、とても大切なメタファーが芽生えはじめていたことを、あとから気がついたのではあったが……

 それは次のブレイクの予言詩(プロフエシー)から、春先の野花のように芽生えたものだった。


 《眼ざめよ! おお、新時代(ニュー・エイジ)の若者らよ! 無知なる傭兵(ようへい)どもらに対して、きみらの額をつきあわせよ! なぜならわれわれは兵営に、法廷に、また大学に、傭兵どもをかかえているから。かれらこそは、もしできるものならば、永久に知の戦いを抑圧して、肉の戦いを永びしめる者らなのだ。》


 もし人類が世界戦争のような絶滅の危機に(ひん)した際、この『新しい人よ眼ざめよ』の主人公の長男イーヨーのような障害者や弱者が世界中から集結し立ち上がるときこそ、ようやく人類は清浄な空気に包まれ救われるだろうという非現実的な祈りのメタファーだったが……


 

 薄いピンク色の、花柄のカーテンの隙間から紺碧色(こんぺきいろ)の夜空がのぞいていた。暖色系の灯りに調節されたライトの下で、並んでベットに横たわりながら、レイコさんはオレの非現実なメタファーを初夏の日差しのような微笑みで聴いてくれた。

 

 ワタシは以前、大学の図書館から借りてきた「生命の樹」の装画が忘れられない

 大江健三郎も小説のなかで述べていたけれど、あの装画からは恩寵(おんちょう)のようなものを感じたわ

 大江いわく恩寵は、イエスの思想の核心をなす「罪のゆるし」につながるようだけれど



 そのときだった。レイコさんの携帯電話のコールが鳴った。両手を添えるようにして電話に出たレイコさんは、いつになく慌てた様子で小声で話し、すぐに下着を身につけると、土砂降りの空のような自虐的な微笑みを浮かべて懇願した。


 ゴメンなさい、今日は帰ってほしい


 薄いピンク色の、花柄のカーテンの隙間から紺碧色の夜空が見えた。オレは何となく察するところがあって黙って部屋を後にした。それが男からの電話であろうと確信していたし、相手が彼氏だろうということも……


 そしてオレは、はじめての女性(ひと)であり何度もセックスをしていながら、一度もレイコさんに好きだといってなかったことを後悔しはじめていた。紺碧色の夜空には、たくさんの星たちが見守るように(きら)めいていたというのに……






《終章》



 翌朝、ドアを春風のように軽快にノックする音で眼ざめた。レイコさんは、土砂降りの雨から虹があらわれたような笑顔で立っていた。


 昨晩はごめんなさい

 くわしいことを話しさせて


 彩光によって明るくなった部屋で若いオレたちは、とりあえず昨晩の分もふくめてセックスをした。

 レイコさんの少し(もつ)れた長い黒髪を撫でながら、オレは彼女のやや切れ長の美しいひとみを見つめて、ようやく好きだといえた。

 それから、真夏の日差しのような微笑みを浮かべたレイコさんは、真っ白な天井を見上げながら覚悟を決めたらしく、ゆっくりと詳細を話しはじめた。

 昨晩、彼と正式に別れた。しかしワタシのお腹には彼の赤ちゃんがいる。彼は強く(おろ)せと言った。実のところワタシは洗礼を受けた身、堕すことは絶対に許されないし、もちろんそんなことはしたくない。今朝、実家の両親にも電話で相談したら、すぐに帰って来いと……


 ユウくんが、せっかく好きだといってくれたのにほんとうにごめんなさい

 ワタシもユウくんのことは好きよ


 オレはただ微笑みながら頷くだけだった。彩光によって明るくなったライトブルーのカーテンが、小さなひとつの希望に思えた。


 人間存在の破壊されえぬことへの顕現(けんげん)ということば知っている?

 ひとりの人間が生きているということ、生きたということは取り消せない、そこから光を導いてみれば、現代のいかに悲惨な生にしても、当の個人の存在には、indestructibility(和訳:不滅)と呼ぶほかにないものがあるらしい

 大江が影響を受けたという宗教哲学者エリアーデのことばだけどね


 いい言葉ね

 indestructibility!

 実はとっても落ちこんでいたけど、少し勇気が湧いてきた

 その言葉を忘れずに死にものぐるいで子どもを育てていくわ

 ユウくん本当にいままでありがとう

 あなたはまことのひかりをさがしつづけて生きていってね



 あれからもう十数年が過ぎてしまった。オレはレイコさんの実家が秋田県にあるらしいことしか覚えていない。おそらくシングルマザーとして初夏の日差しのような微笑みをたたえて頑張っているだろう。女の子が生まれたとは聞いたけれど、それっきり音信不通にもなってしまった。いまでも彼女が「生命の樹」をさがしていると信じたい。



 スタンドライトの卵型のLED電球は、まるでこの8畳の和室の小さな太陽のように、隅々にまで淡くあたたかなひかりを放っていた。深夜午前3時、枕もとでご機嫌に熟睡していたシーが急に眼ざめてオレの頭を前足で叩きだした。いつもの朝の散歩の催促だ。

 

 indestructibility

 シーこの意味わかるかい?

 シーはオレのまことのひかり

 不滅ってことだよ




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