六月の綿雪、赤花ユウゲショウ揺れる
吐く息を濃くし、肺の中を出来るだけ空けると。大きくゆっくり吸い込む。鼻孔の奥に届くとツン。氷を感じる雪降る世界の空気が好きだったお前は、白がよく似合う。
冬が良いわ。産まれた季節だもの。でも、あの子達に迷惑かけるから。足元が開いてる時が良いかしら。家に戻りたいの。だから雪の季節は諦めるわ。
遠慮深く話していた。寂しそうに白く四角い天井を眺めていた。ここ最近は、大雪に道が閉ざされる事も、少なくなっているというのに。
ここと、息子達の家、そしてお前が心配している山の中の自宅。三角形を描くように周って数年。
家から二時間。息子達が住む街。白い建物、白い部屋。帰ることなく終えた、お前が神から与えられた時間。
覚えていない、しばらくの時。うらうらと過ぎゆく時。積み重なる独りの時間。
家の敷地に入る坂道には、コンクリートの隙間に、アカハナユウゲショウが儚げに、ちろちろ揺れている。可愛いから刈らないでと言われて、なんとなく名前を覚えたそれ。
田んぼでは蛙の声が響き、夏の虫はまだ鳴かぬ季節。蛍が、ちいか、ちいかと網戸に留まり光る夜。
この辺りに住まう蛍は、小さい。絹糸の様な光を引いて飛んでいる。上下水道が完備されたお陰で、蛍の数も増えている。後は梅雨の大雨さえ降らなければ。
流される事なく用水路で過ごす蛍達。
部屋の灯りを消し、窓を開け網戸にしておく。こうしておけば、リビングの窓辺近くで寝転び携帯で小説を読んでると、網戸の光に気がつける。
見つけると。ふと。子供に戻る。あの時に戻れる。
嬉しくなる。笑みが出る。思い出し、愛おしくなる。
小さな蛍。ちいかちいかと、丸い光。
山深い我が家はこの時期は麓から比べると、空気は冷たく、肌寒い日も多い。梅雨寒。雨が降ればひんやり。そんな日は蛍も草むらにでも隠れているのか、来てはくれない。
リビングの前は庭。馬酔木の下に、小さな泡が弾ける様なアスチルベの白が、闇夜に浮かんでいる。
アスチルベって言うのよ。馬酔木の下で咲いてるから、フォトが見たいの。
頼まれて撮ったから名前を覚えた。夏に咲くカサブランカも。植物音痴が知っている草花は、ひまわりと朝顔と、菊……、あと、たんぽぽくらいか。
それとお前に言われて、幾か覚えたものだけ。
夏の盛りにようやく花開く百合のカサブランカは、黒が密度を増す夜半にかけ、その香りを高めていくのだが、アスチルベは、側に近づき鼻を近づけようやく、薄らと香りを感じる。
赤も桃色も、白も。それぞれに植えていた筈なのに、お前が庭に出なくなってから、馬酔木の下の白ばかりになった、アスチルベ。
お前がいた頃は。
細かく泡立つ様な花を見ると。
シュワシュワとした、菓子の様に見えていた。
「可愛い」
綿菓子の様な花を、ひとつふたつ摘み取り、食卓に飾っていた。
今は何をするのも気儘になった。自分の時間で日々を過ごしている。食べるのも何を食べるのも、酒を飲むのも、寝るのも起きるのも。
自由。
赤も桃色も消えてしまってから。
細かく泡立つ様な白い花を見ると。
草葉に積もる綿雪の様に見えるのは、あれから心が冷えているからだろう。
細やかに庭の手入れをする者が居なくなり、残ったのは草刈り機が入らない、庭木の下の花達。
刈られる事なく生き残った、アスチルベの花が群れて咲いている。白く群れて咲いている。
昼日中、庭に立ち眺めると。
逝ったお前の姿が蘇る。娘に戻り笑んでる。蛍を共に眺めた夜。白地の浴衣がよく似合う、しとやかで貞淑なお前の姿。初めて恋した気持ちを思い出し噛みしめる。
蛍が、ちいかちいか。網戸に訪れると、閻魔様や御釈迦様の目を盗み、お前がこっそりここに戻ってきた気がする。
六月の夜。自宅に登る坂道には。
可愛いから刈らないでと言われた、
赤花ユウゲショウが、桃色の花を閉じ夜露に濡れた葉の上に、砕いた水晶の様な珠を宿しているだろう。