展示番号5:「オリンピア」
数年前、世間を騒がせた例の嬰児誘拐事件に関して、私は偶然にも、その奇妙な犯行の全容を知る機会を得た。ある人物が、犯人が書き綴ったと言う手記を、私に届けてくれたのだ。
兼ねてから件の事件に興味を抱いていた私は、その手記を材料に、一つ怪奇風味の小説でも書いてみるつもりでいた。しかし、中身を読んで行くにつれ、これはとても自分の手に負えるシロモノではない──可能な限りこのまま、原文の状態で世に出すべきだと判断するに至った。
よって、読み辛い箇所や誤字、脱字、誤謬と思われる箇所のみをいささか手を加えた物を、ここに載せる。
以下、「私」とは犯人の男のことであるのに留意されたし。
※
私は私の大切な娘の為に、様々な苦労をしなければならなかった。毎日彼女の体を洗い清め、美しい髪を梳いてやり、新しい洋服を着せてやった。他にも彼女の教養を育む為、本を読み聞かせたり、音楽をかけてやったりもした。
その甲斐あってか、娘の美しさは日に日に増して行くようだった。とても瑞々しく、理知的で、煌めいて見えた。
私は概ねにおいて満ち足りていた。しかしながら、たった一つだけ、どうしても解決しなければならない問題があったのだ。
それは、娘の瞳である。
娘の瞳だけは、いつまでたってもその機能を果たさないのだ。
やはり、ただガラス玉を嵌め込んだだけでは、無意味だったのだ。よく「目は口ほどに物を言う」などと言われるように、人の目と言うのは非常に重要な器官に違いない。
だから、娘は未だに、触れることや聴くことはできても、見ることはできないのだ。
この問題は、私を非常に悩ませた。一度など、試しに私の左目を彼女に移植してみたことがあったほどだ。しかし、思ったとおり、結果は芳しくなかった。こんな老いぼれの汚れた瞳では、麗しき乙女の体の一部として、相応しくないのだろう。
このままでは、私の完璧な娘は完成しない。まさしく画竜点睛を欠くと言う物だ。
私は、早急に美しい瞳を手に入れなくてはならなかった。
聞くところによると、人間の色覚と言うのは、産まれた時から少しずつ、本人も気付かぬうちに衰えて行く物だそうだ。加齢による色覚異常である。現に、幼い子供と老人とでは、同じ物を見ていても、実際に見えている色は違うらしい。
また、年寄りがコンロの火なぞを服の袖に引火させてしまう事故も、この色覚の衰えが原因なのだと言う。つまり、コンロの火の先端部分──色の薄くなっている部分の色をうまく視認できず、実際よりも火が小さいように見えてしまい、必要以上に火を大きくしたり、袖が触れていることに気付けなかったりする為なのだとか。
少々筋から逸れたが、要するに人の目にも「鮮度」があると言うことだろう。
であれば、美しい私の娘には、可能な限り新鮮な瞳を与えてやりたい。この世界の本当の色を受容することのできる、まだ使われ始めたばかりの目玉でなくては……。
私が娘の為に、赤ん坊の瞳を求めたのは、至って自然な成り行きだった。
幸運なことに、私にはその当てがあった。私の管理するアパートの住人に、若い夫婦がおり、ちょうど数ヶ月前に子供を儲けたばかりだったのだ。
おそらく、この偶然は神の思し召しに違いない。ギリシア神話において、アプロディーテーがピュグマリオーンの望みを叶えるべく、彼の彫刻に命を吹き込んだように、神が私と私の娘の為に、この家族を用意してくださったのだ。
それからもう一つ好都合だったのは、店子や近隣の住民の間で、私の評判が悪い物ではなかったことだろう。自分で言うのは面映ゆいが、まあ日頃から気を遣って来たお陰か。私は世間では、人当たりがよく気さくで穏やかな大家として、認知されていた。
また、娘の存在は誰にも教えていなかったのもよかったのかも知れない。
とにかく、例の若い夫婦も私の信頼を得るのも、非常に容易いことだった。彼らはスッカリ私のことを、完全なる善意の人とでも思い込んでいたようだ。こちらから申し出るまでもなく、自分たちの方から赤ん坊のお守りを頼んで来たほどである。
しかし私は焦らなかった。私の犯行が露呈せぬよう、綿密に、そして慎重に計画を練り上げた。
現代の夫婦の多くがそうであるように、彼らもまた共働きであった。無論妻の方は育児休暇を利用していたようだが、それでも週に一度か二度、職場に顔を出さなければならない日があり、そんな時はよく私の元に赤ん坊を預けて出かけて行った。
「いつもいつも、すみません。なにぶん夫も私も実家が遠方にあるので、預けられる人が他にいなくて……」
そんな風に恐縮する彼女に、私は「気になさらないでください。困った時はお互い様ですから」と、快く返した。その言葉は事実だった。私も彼らの赤ん坊に頼ろうとしているのだから。
とにかく、そんなことを三度ほど続けた後、とうとう私は計画を実行に移した。
その日も夫婦は私に子供を預け、それぞれの職場へと出かけて行った。私はいつまどおり赤ん坊をあやし、おしめやミルクの世話などをしてやりつつ、決行の時を待った。
そして、午後の三時を過ぎたところで、私は一度ある場所へ行き、そこで赤ん坊を寝かし付けた。
それからまた自分の家──私の管理するアパートの、道路を挟んだ向かいにある──へ戻り、準備に取りかかる。私はまず、庭の方から縁側の窓ガラスを割った。無論、外部から何者かが侵入したように見せかける為の工作である。
続いてリビングへと向かい、「争った形跡」を拵える。具体的には、椅子を倒したりテーブルをずらしたり、戸棚の中身をぶち撒けたり、飾ってあった写真を落としたり──少々やりすぎのような気がするほど、私は室内を荒らして行った。
その工作が終わると、いよいよ私の犯行も大詰めである。私は意を決し、先ほど窓ガラスを割るのに用いたバールで、自分の右側頭部を思いきり殴り付けた。
予想を超えた衝撃により意識がグラリと揺れ、視界が赤く明滅する。
膝をついた私は、反射的に額を抑え、しばしジッと動けずにいた。生暖かい血が流れ落ち、私の右目だけの視界を赤く染める。
しかし、これだけではまだ不十分かも知れない。念を入れた私は、鈍痛を堪えつつ傷口から手を離し、床に落ちていたバールを拾い上げると、もう一発、自らの額に食らわせた。
思わず、ウゥムと低い呻き声が漏れた。
痛みは次から次へと無限に押し寄せるかのようで、その度に意識を手放してしまいそうになる。
それでもどうにか立ち上がった私は──しかしすぐに倒れ込み、ほとんど四つん這いのような形で廊下に出、玄関の傍にある電話機を目指した。奇怪な動物のようにのたうちながら、苦労してそこに辿り着いた私は、靴箱にしがみ付くようにして、その上にある電話の受話器を掴む。
ここまで来れば、もう後一息だ。私は一一〇番にかけ、こう通報した。
「た、助けてくれ! 知らない男が押し入って来て、赤ん坊を拐って行ったんだ!」
その後、喘ぎ喘ぎ氏名と住所を警察に伝えると、私は受話器を戻すこともできず、その場にへたり込んでしまった。そして、靴箱にもたれたまま、未だ揺れ続ける意識の中で、私は娘のことを考えていた。娘に鮮明な世界を見せてやれるのが嬉しく、ウキウキとして、自然と破顔していたように思う。
警察がやって来たのは、その後五分か十分ほど経ってからだった。半分ほど本当に気絶していた為定かではないが、いつの間にか制服を着た警官が二人、心配そうに私に声をかけていたのだ。
予め考えておいたセリフで事情を伝えた後、また幾らか経って、付近の警察署の捜査員たちが到着し、一挙に慌ただしさが増した。
私は再び全く同じ説明をした後、ようやく病院へ搬送されることとなった。
手当を受け警察の車で家に送ってもらった後、私は例の夫婦に会いに行くことにする。
二人とも酷く血の気の引いた顔をしていた。悄然とした若い夫婦が、互いに寄り添い、支え合っている様子は、いじらしくさえあった。
私が謝罪の言葉を述べると、彼らは慌ててそれを否定する。包帯を巻いた私の頭の痛々しさもあったのだろう。むしろ、怪我を負った私のことを気遣ってくれていた。
私はこの時、完全に被害者の一人だった。少しも疑うべきところのない、善良なる市民に成りきっていた。
夫婦の部屋から出た私は、勝利を確信した。後は、娘に赤ん坊の目玉を移植してやるだけだ。
しかし、今すぐに行動に移すわけにはいかない。まだ付近には警察がいるのだから。
私は逸る気持ちを抑えつつ、道向こうの我が家へと帰って行った。
ここまで書いて来たとおり、私の計画はおおよそ完璧に進んでいた。しかしながら、非常に遺憾なことに、私の犯行はあっけなく露呈し、白日の下に晒されてしまう。
破滅のキッカケとなったのは、ある想定外の出来事だった。
その日の深夜、私は満を持して、赤ん坊を隠していた場所へ向かった。まだ少し頭は痛むものの、耐えられぬほとではない。
ひたすら車を走らせ、町を抜けた後、街灯もない暗い農道を上って行く。対向車があろう物なら端に寄り、進路を譲り合わねばならないほど狭い道であったが、幸いそんな機会は一度もなく、目的地に辿り着くことができた。
車を停めた私は、懐中電灯を持って外へ出る。まだ冷え込むような季節ではなかったものの、山の中だからか、肌に触れる空気がヒンヤリとしているように感じた。
私はガードレールの切れ目から、傾斜となっている雑木林の中に入り、足元を照らしつつ、慎重に傾斜を下って行った。懐中電灯の作り出す丸い光の外には、稠密な闇が広がっている。
虫の声や付近を流れるらしい小川のせせらぎ、そして私の足が落ち葉や小枝を踏み締める音や、荒くなった息遣い……。私が晦冥の中を進む間、そうした音だけが世界の存在を知る寄る辺となった。
──やがて私はタップリ十五分ほどかけて、少し開けた場所に出た。久しぶりに平らな地面を踏んだ気分だ。
光を前方へ向けると、木とトタンで組まれた掘っ建て小屋のミスボラシイ姿が、闇に浮かび上がる。ここが本当の目的地──私が赤ん坊を隠した場所だった。
額に浮かんだ汗を服の袖で拭い──包帯の上から傷に触れてしまい、舌打ちが出る──、小屋へ向かった。
立て付けの悪くなった戸を開け、中に入る。そこには農機具の他、ござ袋の被せられた農業用のコンテナが幾つかしまわれていた。筍か山菜か薪かわかぬが、とにかくこの林の中で取れた物をしまうのに使うのだろう。
もっとも、奥側にあるその一つには、今は別の物が収められているのだが。
ござ袋を剥がす。毛布に包まれた赤ん坊は、よく眠っていた。
私は起こしてしまわぬよう慎重にそれを抱き上げた。何度か子守をして来たお陰か、多少は赤ん坊の扱いに慣れていた。起こさぬよう注意しながら山の斜面を登ることくらいは、わけない。
その後再び農道へ戻って来た──まではよかったのだが、そこで予想だにしなかった出来事に見舞われる。
道に這い出ると、月明かりに照らされたその真ん中に、一頭の獣が佇立していたのだ。
それは、巨大な羚羊だった。
灰色と白と黒を混ぜたような色の毛を夜気にそよがせ、這い蹲ったままの私をジッと見下ろしている。月夜の湖畔のような澄んだ瞳に、驚愕した自分の顔が映るのがわかるようだった。
獣の瞳と言うのは、特有の清らかさがある。しかし、同時に、我々人間とは意思の疎通など絶対に適わぬことを確信させる何かがあるものだ。人に飼い馴らされている犬や猫でさえそうなのだから、野生の動物であれば尚更である。
私は金縛りにでも遭ったように動けなかった。ある意味幻想的な光景──神獣の如き居住まいに圧倒されたと言うのもあるのだろう。道路に伏せたまま、羚羊がどこかへ去ってしまうのを待っていることしかできない。
時の静止ったかのような静寂は、いつまでも続くかのようだった。羚羊も、私も、微動だにしない。
私はこのまま、宇宙が終わるまで獣に見下ろされていなければならないのだろうか? そんなあり得ない予感が、やけにリアルに感ぜられた──
その時だった。
私の腕の中で、赤ん坊がグズり始めたのである。
意表を突かれた私は、そこで縛から解かれたように、咄嗟に自分の体の下を見た。災害の発生を報せる警報音かの如く、赤ん坊は泣き声を上げる。
──こんな時に目を覚ますだなんて。私は盗んで来た命を、酷く忌々しく感じた。
そして、一瞬そちらに気を取られたが為に、実際に迫り来る危機に気付くのが遅れてしまう。
私の一つきりの目玉が最後に映し出したのは、灰色の突風となった獣の姿だった。
顔中にスサマジイ衝撃を感じた直後、私の世界は真の暗闇に閉ざされる。頭蓋の中で揺れ続ける脳はあっけなく意識を手放したが、気を失う間際、際限を知らぬような赤ん坊の泣き声と、走り去って行く蹄の音を聞いたように覚えている。
幸か不幸か、次に意識を取り戻した私は、病院のベッドの上に寝かされていた。あの後、車で通りがかった人が赤ん坊の声に気付き、私たちを見付け、病院へ運んでくれたそうだ。
そのことを教えてくれたのは、昼間我が家にも来ていた刑事だった。
私は即座に逮捕された。赤ん坊はとうに夫婦の元に返されたのだろう。
意外にも、想像していたほどの失意は感じていなかった。ただ、娘に美しい瞳を与えてやれなかったこと、世界を見せてあげられなかったことだけが、悔しくてならなかった。
こうしてこの手記を認めている今も、私の望みは変わらない。ここを出たら、今度こそ我が娘の体を十全な物に仕上げるのだ。
その為にも、日々娘の無事を祈り続けている。
光を失った、果どない闇の中で。
※
手記はそこで終わっていた。刑期を終えた後、男やその娘がどうなったのか、杳として知れないと言う。
蛇足を承知で一つ付け加えておくと、彼の逮捕後すぐに男の家に踏み入った捜査員たちは、押入れの奥に隠し扉があるのを発見したそうだ。その扉の向こうには小さな部屋があり、そこには人間大の大きさの、不気味な木偶人形が、安楽椅子に座らされていたらしい。
荒く木を削り出して造られた、不出来な人形。一目見て狂気の産物だとわかるそれを、男は「娘」と呼んでいたのだ。
私がこの手記を読み終えた翌日、先生が私の元を訪れた。そもそも、手記を私に届けてくれたのも彼だった。
「どうだったかね? 無事に読み終えることはできたかい?」
彼が尋ねて寄越す。
「ええ、どうにか……。いやはや、驚くべきシロモノですな。まさしく狂気の沙汰としか言いようがありません。この男は稀代の発狂人でしょう。人形を娘と呼び、あまつさえそれを完成させんが為に、無垢な命を危険に晒したんですから」
「そうか、読むことができたのか」
先生の声は、心なしか嬉しそうに弾んでいた。
何かしら不穏な物を感じ、私は眉をひそめる。
「先生? 私は何か、間違ったことを言いましたか?」
「イヤイヤ、そうではないんだがね。──そもそも、本当は何もかもが間違いなのだよ」
それから彼は、堪えきれないと言った風に、とうとう大きな笑い声を上げた。まるで道化者を嘲笑うかのように。
嫌な予感がした。恐ろしいことが、私の身に起こりつつあるのだと。
「せ、先生……何が、そんなにおかしいのです……? 先生──先生!」
私は思わず叫んだ。
しかし、返事はなく、私の声と先生の哄笑の残響だけが、細く尾を引いた後には、そこには何も残らなかった。
部屋の中は、シンカンと静まり返る。私は恐ろしくなり、持っていた手記を強く握り締めていた。
もう、何も聞こえない。
世界は消えてしまった。
私の意識が映し出すのは、やはり果どない晦冥だった。