展示番号4:「牧神の夢」
夢と言うのは、必ず醒める物である。
しかし、時として、目覚めた先の現実の方が、よほど酷い悪夢である場合もあるだろう。
あの事故以来、範田はごく限られた世界を受容する装置のような暮らしを余儀なくされていた。
延髄損傷による、全身麻痺。それが、まだ若い彼が寝たきりの生活を強いられている理由である。一年ほど前までは毎晩のように仲間とバイクを駆り、夜風を浴びていたのが遠い過去のようだった。もう今では指先一つ動かすこどできず、一人では寝返りすら打てない。満足に動くのは、両の瞼くらいだ。
彼を襲った絶望は、筆舌に尽くし難いものがあった。まだ二十歳になったばかりと言う若さで、将来の夢や生きる喜び、ありとあらゆる希望を絶たれたのだから、当然である。残された長い人生を、死ぬでベッドの上で、誰かの手を借りながら生きねばならないのだ。
範田は一度ならず何度も何度も、死を願った。いっそのこと、事故をしたあの版に、完全に死んでしまえばよかったと、本気で考えた。
しかし、彼には自殺することさえできない。
自ら首を括ったり、手首を掻き切ったり、舌を噛みちぎったり──そうした平易な手段すら取れない。当然である。瞼しか動かないのだから。
そうしたわけで、事故から約一年、範田は今も生きることを続けていた。無味乾燥な、ただひたすら変わり映えのしない部屋の中や、窓から見える景色を受容するだけの日々。
しかし、それでも一つだけ、よかったこと──と言うか、こんな体になってようやく実感できたことがあった。
それは、人間は一人では生きられないと言う、至極当たり前のことだった。
「ゆうくん、ジュース飲む?」
母の穏やかな問いかけに、範田は二度瞬きをしてみせた。「イエス」と言う意味だ。
彼の母は微笑み、ペットボトルのりんごジュースを吸い飲みに注ぎ、彼の口元へ運んだ。介護用ベッドの上半分が少しだけ起こされていて、範田はそこに背を預けていた。
口の中を潤わせた彼は、再び瞬きを二回する。奇妙なことに、事故を起こす以前より、彼は母とコミュニケーションを取れるようになっていた。以前の彼は思春期にありがちな大人への反抗心を引きずったまま、高校を卒業したような手合いであり、要するにツッパっていたのである。
それも中途半端に。
だからこそ、親の心配など一顧だにせず、職を転々としながら、彼は不良仲間と連んでバイクを乗り回していたのだろう。
その結果、農道のガードレールを飛び越え、崖下へと転落することになるとも知らずに。
「美味しい? ──そう。じゃあまた同じの買って来てあげるね」
老いた母は、彼に対して優しくなった。いや、これまで気付けなかっただけで、初めからずっと優しかったのだ。そうでなくとも、女手一つで彼をここまで育て上げてくれたのである。
範田は素直に、母への感謝の気持ちを抱いていた。
しかしながら、それでも時折、言い知れぬ恐怖の影みたいな物が、見上げた顔に映り込んで見えるのは何故か? おそらくは、全身麻痺と言う自身の状態から来る不安感が影となって視界に映るのだろう。
今の自分は誰かの介助がなければ生きることができず、何らかの危険に晒された時には、抵抗すら不可能だと言う現状が、彼を心細くさせているのだ。
範田がこうした不安を始めて──あるいは改めて──実感したのは、以前の不良仲間の一人が見舞いに来た時のことだ。
「どうも、範田さん。お見舞いに来たっす」
いかにも軽薄そうな口調と共に現れたのは、中学時代からの後輩の金城だった。事故を起こす以前、最も可愛がっていた後輩だ。
高校を中退し鳶職人として働いている金城は、汚れた仕事着のまま平気で部屋に入って来た。手に見舞いの品が入っているらしい、コンビニの袋を提げて。
彼は元々上背がありガタイのいい方だが、ベッドの脇に立ち範田のことを覗き込んで来る姿は、恐ろしいほど巨大に見えた。
そのうち、金城からコンビニ袋を母が席を外した。二人に飲み物を用意して来ると言って。
金城はしばし笑みを浮かべて彼を見下ろしていたがその表情は天井の照明が逆光となり、ほとんど黒い陰と化していた。無言の数分間が、範田の恐怖を増幅させたのだが、突然大きな口が開き、
「すんません、汚い格好で。仕事終わって直で来たもんで」
わざわざわかりきったことを言い出した。その不可解さが、余計に不気味だった。
「俺、こう見えてかなりマジメに仕事してるんすよ? 何つうか、やり甲斐感じちゃって。まあ、親方とか先輩とかにメチャクチャ怒られるんすけどね。この間なんかも、足場の上から道具落としちゃって、大目玉食らっちゃいましたよ」
言いながら、彼は範田の上から何かを放った。
──それは、手頃な大きさの六角レンチだった。
レンチは範田の耳を掠めるように、彼が頭を預ける枕の上に落ちる。彼は指一つ動かせぬ体で、戦慄した。
「あ、すんません。手ぇ滑っちゃいました」
会心の笑みだとわかった。金城は悠然と大きな手を伸ばして、レンチを拾い上げる──かと思うと、再び取り零した。
範田は、明確な悪意が自分に向けられていることを、実感せずにはいられなかった。
「俺って結構不器用なんすよね。こんなことばっかやらかしていつも怒られてんすよ。まあ、範田さんならよくわかってると思うけど」
それが、報復であることは疑いようがなかった。何せ、金城は最もよく可愛がっていた後輩なのだ。使いパシリにするのは当然として、何度殴り、理不尽な動機で蹴飛ばして来たか覚えていない。
この時ばかりは、唯一残された、瞬きと言う意思疎通の手段も無駄であった。範田は自分を見下ろし嘲笑う黒い影を、ただひたすら見上げていることしかできなかった。
範田の命は半ば彼の手を離れ、他人のさじ加減一つでどうとでもなる物となったわけである。
そんな彼が自らの命を取り戻すことができたのは、眠っている間だけだった。夢の中では、彼は二本の足で立ち、自由に駆け回ることができた。木漏れ日の注ぐ森の中で土や新緑の爽やかな香りを嗅ぎながら、軽やかに跳ねることも踊ることもできた。そうしているうちに、範田の両脚はいつしか人の物ではなくなり、野山を駆けずるのに適した形態──獣のそれとなる。
現実とは真逆で、自由の象徴の如き半獣人。
彼は、牧神の夢を見ていたのだ。
そして、牧神には、やはり共に戯れるニュムペーが付き物だった。
森を抜けた先にある泉の畔。そこには美しいニュムペーたちが水浴びをしており、いつも彼を歓迎してくれた。白く艶かしい裸身を惜しげもなく露わにした彼女らは、代わる代わる範田の手を取り、体にまとわり付き、キスをする。微笑みと共に柔らかな青草のベッドの上に誘い、くすぐったく囁きながら、首や耳たぶに唇を這わせる。ニュムペーたちの滑らかな肌の感触を楽しみながら、彼の体は、途方もない快感に溶かされて行った。
肌と乳房に埋もれ、牧神は──それこそ──夢見心地であった。
機能を失った体と違い、範田の心はまだ生きている。
そして、性欲も。
普段発散する術がないからこそ、彼は夢の中で牧神に変身し、思う存分快感を貪るのだろう。初めてその夢を見た時、彼は当然自らを恥じた。夢精なぞ、これまでしたことはなかったからだ。
とは言え、彼がその夢の虜となっていることもまた事実である。自由に動き回り、若い女の肌に触れることのできる楽園。彼にとって、そこは真に望む自分でいられる場所だった。
ただ一つ、範田が気懸りだったのは、母にこのことがバレていまいかと言う点である。
いや、おそらくもう、とうに気付かれているに違いない。彼を着替えさせるのも、当然母の仕事だ。下着が汚れていたら、気付かぬはずがない。
にもかかわらず、母が何か言って来るようなことはなかった。それどころか、嫌なそぶり一つ見せずに、いつも彼の介護をしてくれていた。範田は、それは真の愛情の為せる業だと、信じて疑わなかった。
言い条、夢と言うのは、必ず醒める物である。
しかし、時として、目覚めた先の現実の方が、よほど酷い悪夢である場合もあるだろう。
ある日の深夜、範田はいつになく目を覚ました。それからすぐに、石のように麻痺した体の上に、醜い獣の姿を見付けた。
ニュムペーたちの唇の正体が、何によって夢に現れたのか、彼はたちどころに理解した。
「ごめんね……目、覚めちゃったね……」
思えば、彼の命は、初めからずっと彼女の物だった。