始業と物理の時間
桜は散ったが朝はまだ肌寒い。
「花の咲き乱れる季節は嵐の季節でもある」
と昔読んだ本にあったなと恭介は思い出した。
出会いが多ければいろいろな事が起こるのだ。
良いことも悪いことも。
この女との出会いは良いことなのか悪いことなのか。
始業のチャイムがなったあとに教室に入ってきた彼女は
気にすることもなくてクラスメートと挨拶をしながら机に向かう。
すれ違いながら彼女と笑顔でハイタッチする女生徒。
そして彼女に熱い、ねっとりとした視線を向ける男子生徒たち。
彼らの横を通り過ぎると、腰まである茶の髪から甘いバニラが香る。
短く改造されたスカートがふわりと揺れインされた白シャツは
小振りながらも形の良い胸のラインをなぞっている。
元気過ぎる男子連中には猛毒だ。
着席した彼女はあくびをし、大きく伸びをする。
ホームルームは始まっているというのに、このような振る舞いが許されるのは
クラス担任の国語教師がコイツに”喰われた”からだ。
きっとそうだ、と恭介は思う。
担任が彼女のほうをチラチラを見ている。
気がついた彼女はニコと笑って手のひらを降る。
やっぱり。
コイツみたいな、ひ弱な女の子慣れしていない男なら一発だろう。
また一人、骨抜きにされてしまった。
彼女の席は教室の窓際の一番うしろの席、つまり恭介の隣である。
机にカラダを預けて気だるそうにスマホをいじっている。
ローファーは足先でプラプラと揺れてだらしのないことこの上ない。
白く引き締まった下の脚を包む黒い膝下のソックス。
そして、スカートから覗くふわふわと揺れる黒い艶のある尻尾。
ハートマークの先っぽが可愛い。
理乃はサキュバスという種族になる。
淫魔といういかがわしい字面にそぐわない見た目をしている。
気にすまいと思う恭介だが彼女が気になる。
高校に入学して1ヶ月。
真横に居ながら恭介は彼女がどんな顔なのかほとんど思い浮かばない。
彼女は組んだ脚を解いて机に突っ伏して昼寝の体勢になる。
月曜日はいつもそうだ。きっと土日に遊び倒して疲れているのだろう。
どんな遊びなのかは知らないがきっと…アレだほら…なんか。
顔を伏せた彼女の背がゆっくり上下する。
彼女の方をようやく見ることができた
後ろで結われた髪から見えるのは小さなピアスが二つある小さな耳。
もぞ と いつものように彼女は体勢を変えて顔をこちらに向ける。
腕に埋もれた口元は見えない。
丹念にメイクされた目元と鼻筋。
恭介の頭に浮かぶ彼女の顔は、こんなふうに無防備に眠っている顔だけだ。
寝顔だけならきっと可愛い女の子なのに。なのにこいつは…。
チラリと彼女の尻尾を見やる。
主と同じように寝入っている尻尾はだらりと垂れたまま。
たまにピクリと反応する。
胸が苦しくなった。
苦しいと言うより切ない、何かを欲する感情が湧いてくる。
これは彼女の能力【テンプテーション】だ。
起きているときは任意に抑えたり発動したりできるが、意識のないときは
制御できない。
異性にだけ有効で、この能力を使って彼女は
数多くの男を骨抜きにしてきたのだと想像する。
恭介が求めているのは彼女だ。
彼女に触れたいという気持ちを抑える。
せめて、もっと彼女の近く行きたいという気持ちに抗えない。
「うらー静かにしろ。授業はじまってんぞー」
教師の声に正気に戻った恭介は自分が
前のめりに彼女に近づいていたことに気がついた。
あわてて元の姿勢に戻る。
気がつけばホームルームは終わって物理の時間になっていた。
「理乃ちゃん 起きなよ」
振り返って彼女を揺り起こす女生徒
「・・・ん?」
「理乃ちゃん 授業はじまってるよ」
彼女・・・理乃がようやく目を覚ました。
鞄から教科書を出すのを見て
恭介もまだ授業を受ける準備をしていないことに気づいてあわてる。
女性教師に睨まれて気まずそうに窓の外を見る理乃。
彼女の能力は同性には使えない。優位に立てるのは男だけなのだ。
教室が落ち着いた雰囲気になり授業が始まる。
内容もスピードも恭介にとってはキツイ。
ノートを取りながら視界の端で理乃を見る。
表情はわからないが真面目に授業を受けているようだ。
相応しいのはクラスの男子全員がコイツにヤられたというのは恭介の想像だ。
しかし理乃を前にしたときの男連中の不自然な態度が真実を語っていると結論する。
クラスの全員。
しかしその中に恭介は入っていない。
恭介はまだ理乃を経験していないのだ。
性的なことは抜きにして気取らない性格の理乃は男女問わず人気があって友人も多い。
しかし、なぜか恭介にだけ態度が違う。
ロクに口も聞いたこともないのに避けられている。
恭介に害意はないので何が気に入らないのか分からない。
窓の外から聞こえてきた消防車のサイレンが気になってそちらに意識をやった瞬間、
理乃と目が合った。
お互い一瞬固まって、1秒後、理乃は首をぶん回す勢いで斜め上にひねった。
苦痛を我慢する声が聞こえる。変な具合に筋を痛めてしまったようだ。
ここまであからさまに反応されたのははじめてで恭介も面食らう。
そのまま動かない理乃。
耳が真っ赤になっているのが見える。
なぜか申し訳なくなって視線を外す。
しばらくして理乃は弛緩して痛めた首をさする。
そのとき腕が消しゴムに当たって転がり落ちた。
条件反射で恭介は消しゴムに手を伸ばす。
落ちたものは拾うものだ という無意識の行動だった。
理乃も同じだったのだろう。
そして二人の手の甲と中指が軽く触れた。
今度はコンマ1秒の反応だった。
理乃の腕がぶん回す勢いで跳ねた。
そのまま後ずさって、窓に勢いよくぶつかる。
顔が真っ赤だ
その轟音で理乃に注目が集まる。
教室から笑いが起こり、教師から怒られて
理乃は机で丸くなってヘソ凝視し防御態勢に入る。
恭介もこの騒動に加担しているので同罪だ。
この一連の出来事が理乃の恭介への全てである。
恭介は考えるが分からない。入学して理乃の隣に座ってから考えているが分からない。
クラスのサキュバスが自分だけヤらせてくれないのは何故なのか。
それが分からない。