《3話》彼は桜にすべてを捧げた
少年の隣に立つ沙枝は、やがて自分の胸が
かすかに高鳴っている
ことに気がつく。
彼女にはそのあたたかな
高鳴りの意味が
わからなかった。
「どうしてあなたは…
私を待ってたの…?」
沙枝が訊くと、少年は少し表情を曇らせる。
「君は…前にたった
一度だけここに来てくれたよね…?それで…君はひとりで泣いてた…。」
「あ……。」
母親から迷信を吹き込まれる前のことだ。
母と父が大喧嘩をして
沙枝は家にいるのが
辛くなり、この丘に来て夜遅くまで泣いたのだ。
七歳の春、やはり桜は咲いていなかった。
苦い思い出を、彼女は
鮮明に思い出す。
「君がすごく悲しそうで…。あの時、君に桜を
見せることができたら
どんなによかっただろう…って、ずっとそう
思ってたんだ。」
「私に…?」
「そう、君に。」
北風が少年の雪色の髪をさらりと揺らす。
その一瞬さえ、
彼は美しい。
そう思うとき、
沙枝は少年を遠く感じ、
だからこそ触れたくて
仕方がなかった。
「春になったら
見せてあげるよ。」
「え…でも…、」
「信じて?…絶対に
見せてあげるから。
約束するよ…。」
「指切りしよう?」少年はピンと小指を立てて
沙枝を見つめる。
誘われるように、沙枝は自分の小指を少年の
それに優しく絡めた。
指先から分け合う
互いのぬくもり、
沙枝は自分の頬が
やんわりとあたたまるような不思議な感覚を
味わった。
少年と目を合わせるのが
少しだけ恥ずかしくなるような、だけどすごく
心地よい感覚。
沙枝は初めてのこの感じが嫌いではなかった。
「君に見てもらえるなら桜もきっと喜んでるね」
沙枝を見つめて
ふわりと笑った少年、
トクン…と、また少し
高鳴った沙枝の胸、
その音が、桜の木にも
伝わっているような
気がしてならなかった。
----続