少年と少女
頭の中で雑音がする。
不意に、声が聞こえた。
『──自分が生きている理由を言えるかい?』
しかし、目覚めと共に記憶は消えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ん……?」
目を開けたと同時に見たその光景に、少女は疑問符を浮かべた。
横たわっていた身体を起こし、辺りを見回す。
森の中なのか、周囲は木々で覆われている。
「……何でこんな所で寝てんの、私……?」
首を傾げるが、一向に思い出せない。
普通だったらこんな所で寝るはずがない。
だって……。
そう思った瞬間。
更に重要な事を、少女は忘れていることに気付いた。
「嘘……」
少女は頭を抱えた。
自分の居場所より、大事なこと。
──少女は、自分の住んでいた場所、そして自分の名前を忘れていた。
「何で、思い出せないの……!?」
普通に考えて、自分の名前を忘れるなんてことはありえない。
と、いうことは。
「記憶喪失……?」
それこそ信じられない。しかし、自分に関することを忘れている以上、そうでないとは言い切れない。
ふと思い付いて、少女は自分の服を見た。
白いブラウスに膝上丈の紺のスカート。
ポケットを探ってみたが、何も入ってはいない。
一瞬制服かと思ったが、校章や名札は付いていないので違うのだろう……多分。
ブラウスとかスカートとか、他のことは分かるのに。
「どうして、自分のことは思い出せないのよ……」
何で、どうしてと自問自答していたためか、それに気付くのが遅れた。
急に吹いた冷たい風に身震いをして、少女は我に返った。
自分の周囲だけ薄暗くなった気がして、不思議に思って上を見た。
木々の間からは青空が広がっているだけで、太陽の光を遮るものは何もない。
「……?」
首を傾げ、少女は下を見た。
どう見ても自分より一回りも二回りも大きい影ができている。
「……」
嫌な予感がして、少女は恐る恐る振り返った。
途端、全身が総毛立ち、金縛りにあったかのように動けなくなった。
ゆっくりと、だが確実に少女へと向かって身体をくねらせ、先の割れた舌を出すそれ。
それは、巨大な蛇だった。
悲鳴は出なかった。……というよりも、出せなかった。
少女は青ざめながらも、大蛇から離れようと手探りをしながら後ずさった。
毒々しい色をした蛇は、『獲物』を焦らすように、焦点を少女から外さぬまま、少女が一歩下がるごとに一歩、近付く。
(どうしようどうしようどうしよう……!!)
焦るあまりに、手を滑らし、身体が傾いた。
少女と蛇の距離があとわずかになり、蛇が口を開く。
──食われる!!
思わず目を閉じた瞬間。
少女の鼓膜を破るかのような轟音が響いた。
同時に、何か生温かいモノが頭上から降り注いだ。
少女が目を開けると、全身が紅く染まっていた。独特の臭いがするそれは血だ。
少女自身が怪我をしたわけではない。……しかし、服はびしょ濡れである。
耳が正常に戻るとビチビチという音が聞こえ、顔を前方に向けると、頭を失った蛇の胴体が飛び跳ねている。その身体から飛び散る血で周囲はすごい有様だ。
あまりにも気持ちの悪い光景に少女は気を失いそうになったが、
「大丈夫?」
と言う声でなんとか正気を取り戻した。
微笑みながら少女を見下ろしている少年が、声の主らしい。
「危なかったねえ」
と危機感のなさそうな声で少年は言った。
多分歳は十代後半。
手には大きな筒状の物体を手にしている。
「折角ここに来たのにあんなのに食べられて終わりじゃあ最悪だもんね。いやあ、間に合ってよかったよかった」
「……えーっと……」
思考が追いつかない。
「あなたが、助けてくれたんですか?」
「うん、まあそういうことになるかな」
少年は頷いた。
「この銃であの蛇の頭をズドーンとね」
手にしている筒状の物体は銃らしい。
フード付きのパーカーを着たその姿にその物体は、かなり違和感がある。
銃口らしき部分からうっすら出ている煙を見つつ、少女は少年から身体を少し遠ざけた。
「あの、『折角ここに来たのに』って言うのは、一体……」
少年は、少女がこの場所にいることを知っていたかのような口振りだった。
「教えてあげてもいいけど、その前に僕に言うことがあるんじゃないかな?」
「……?」
「助けてもらったときは?」
「……どうも、ありがとう、ございました……」
ややぎこちない返事ながらも少女が言うと、少年は満足そうに笑みを浮かべた。
「いいねいいねぇ。僕は素直にお礼を言えるコは大好きだよ」
……知らない人間に好かれても別に嬉しくない。
少女はそう思ったが、口には出さなかった。
「それで、さっきのことなんですけど」
「ああ。……えっと、なんだっけ」
……おい。
少女が口を開く前に、少年は「思い出した思い出した」と呑気に手を叩いた。
「そうそうそうだ。そうだったねえ」
そうそうと連発しながら、少年はくるりと方向転換をした。
そしてすたすたと歩き始めた少年に、慌てて少女は呼び止めようと声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「ん? 何かな?」
「いや、だから説明を……」
「まあまあ焦らない焦らない」
少年は少女の方を向かずに片手をひらひらさせながら答えた。
「どうせ向こうに着いたら全員に説明しなくちゃなんないからね。僕としては同じ説明を二度もする手間を省きたいのさ」
向こう。全員。
「……つまり、私の他にも同じように『来た』人がいるんですか」
「そうゆうこと」
今度はちゃんと少女の方へ向いて少年は答えた。
「うんうん。アリスちゃんは結構目ざといよね。あ、この場合は耳ざとい、か」
初対面の人間に対して、少年は何気に酷いことを言っている気がする。
……彼は一体何者だ。
少女は眉をひそめ、そう思ったが──。
「……あれ?」
何かが引っかかる。
「今、『アリス』とか言いませんでした?」
「言ったねえ。ちなみに僕のことはここではタクって呼んでいいよ。なんだったらタッちゃんとかタッくんとかでも」
「呼びません」
今回ばかりは即答した。
彼はどこまで本気なのか分からない。
「で、その『アリス』って言うのが私の名前なんでしょうか?」
その言葉に、少年──タクは軽く眉を上げた。
「ええ? アリスちゃん、もしかして自分の名前忘れてんの?」
なんとなく腹の立つ言い方だ。
「……悪いですが?」
不機嫌に少女は答えた。
「自分のことを全て忘れているみたいなんです。……大体、分かってたらあなたなんかに聞き直したりしません」
「『なんかに』ってところが気になったりするけど、まあ、それは確かに正論だね」
頷くタク。
「キミの名前は『アリス』。これは間違ってはいない。……となると面倒だなあ」
「何が面倒なんですか?」
「ん-? ん-、他の人達もキミみたいに記憶をなくしているみたいなんだよね」
さらりと告げるタクの言葉に、アリスという名前らしい少女は「は?」と間抜けな声を出してしまった。
「どういうことですか、それ」
「僕に聞かれても困るなあ」
どこからどう見ても困っているようには見えない。
「じゃあ誰に聞けばいいんですか」
「うーん、大いに疑問だねえ」
考える素振りすらない。
「とりあえず、ここで僕達が即刻取るべき行動は一つだけだね」
「なんですか」
「ここから立ち去ること」
両手を広げるようにしてタクは言った。
「アリスちゃんも、ずっとそんな格好していたくはないでしょう?」
そう言われて、アリスは蛇の血で染まっている自分の全身に目をやった。
忘れていたわけではないが、改めて言われると更に気持ち悪さが増した気がする。
「……そうですね」
アリスは素直に頷いた。
「向こうに着いたらちゃんとお風呂に入れてあげるからね-」
「それはどうも……」
タクの後を項垂れながら歩きつつ、アリスは言いようのない不安を覚えた。