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冬(樹)の裏切り



 冬樹は悟りを開いた、と言っても過言ではなかった。


 冬樹が気を失っている間に、プリシス──ゴルディオと呼んではいけない。ちなみに本名は『グライナー=フィフス=ゴルディオ=プリシス』。グライナー家の五番目の子のゴルディオ、あだ名はプリシス、という意味らしい──は『瞬が捜していた人物』として両親に紹介されていた。大樹・雪子の両者は息子が情けなくなるほどのお人好しであった。要約すれば──怪我をして気絶している息子をシュンさんと一緒に連れて帰ってきてくれたあなたは正に恩人。もしよかったら恩返しがしたいので今日は泊まっていってください──というようなことをプリシスに言ったのである。


 その夜の食卓には母・雪子が全力を尽くした実に豪勢な料理が並んだ。


 実際に瞬とプリシスの二人に『助けられた』冬樹は、もはや何も言わなかった。全身を強打したのに特に大きな怪我もなかったことが不幸中の幸いだった──そう思っている。生きているならそれでいい。そう考えるようになった。


 冬樹が気を失った後のことは瞬から聞いた。その頃には既にプリシスは一階で開かれている雪子主催の『冬樹を助けてくれてありがとう会』に参加して大樹と一緒にわははははと笑っていた。


 あの後も二人の戦闘──瞬によると、いつものこと、らしい──はしばらく続いていたそうだ。が、途中で瞬が半壊した部室の中に倒れている冬樹を発見し、彼女はプリシスに休戦を申し出た。彼女たちの世界の不文律として、こちらの世界の人間を殺してはいけないことになっているらしい。瞬の休戦の言葉にプリシスも動揺しつつ頷いた。冬樹を助けに降りようとしたら校舎から人が出てきたので、別の所に降りてから駆けつけた。幸いにも冬樹は大きな怪我もなく気絶しているだけのようだったので、『親戚の者です』と嘘をついてばれない内に沢村家まで運び込んだらしい。後で『誘拐されたのかも』と心配した教師が確認の電話をかけてきたとか。


 家に運び込んだはいいが、人間は怪我らしい怪我をしていなくても死ぬ場合がある、と思い出した二人は共同和室の方でかなり心配しながら冬樹の目覚めを待っていたらしい。だから部屋の電気を点けた瞬間に飛び込んできたのだ。今思い出してもあの慌て様はなかったと思う。あんな風に人を心配する輩を冬樹は初めて見た。


 話を最後まで聞き終わる頃には、冬樹は何処か諦めの混じった、何かが抜け落ちたような表情を浮かべていた。


 悟りの境地に近付きつつあった。


 この世の中は何でもアリなのだ。科学は万能じゃないし魔法は存在するし人型ロボットの制作は可能だし宇宙人はMIBに保護されている。


 何だか全てがどうでもよくなってしまった。


 『常識』とは『当たり前のこと』であり、現実に起こっていることは全て『当たり前のこと』なのだから、異世界の存在がやってくることも、それが火を吹いたりツララを飛ばしたりすることも、自分の中に『現世でたった一つの聖なる魂』があることも、全ては『常識』なのである。


 常識ならば認めるしかないではないか。常識とは自分の中にあるものではなく、外からの情報によって自分の中に創られるものなのだ。


 だから、もう、どうでもいい。自分から何か行動を起こすのにはもう疲れた。瞬とプリシスのことは両親に任せた。泊めたいなら泊めるだろうし、追い出したいなら追い出すだろう。好きにすればいい。


 嗚呼、馬鹿馬鹿しい。


 自分のこれまでの人生は何だったのだろうか。誰にも心を開かなかった自分はとても矮小だったのではないか。変な矜持を持たずにへらへらと生きた方が幸せなのかもしれない。


 冬樹のアイデンティティは崩壊しつつあった。笑い事ではなく、彼は本気で追いつめられている。


 可哀想なことに、彼の頭を悩ませる種はまだまだあるのだ。完璧にガラクタと化してしまった愛機IXY。廃墟と化した写真部。異世界からやってきた少女二人と戦争。


 どこか遠くを見る目をする冬樹を、瞬は心配そうな顔で見つめている。


 階下から、酒の入った両親とプリシスの笑い声が聞こえてくる。


 彼女たちと仲良くしても別に損はないよな。今の冬樹はぼんやりとそんな事を考えている。




 翌日。


 案の定、顧問の大野から電話がかかってきて、写真部は廃部処分になる、という知らせを受けた。


 当然の結果だった。なにせ部室はあの状態だ。その場にいた生徒が何かを爆発させたに違いない、そう思われたのだ。まさか『女の子の姿をした異世界の化け物が暴れ回ったんです』なんて言えるわけがない。部長であり、その場にいた冬樹は三日間の停学処分を受けた。


 冬樹はまた一歩、悟りの境地に近付いた。


 汚名を晴らすどころか最悪の結末を迎えてしまった。しかも自分の代で。その上、停学処分のおまけつきだ。


 これもまた人生か──そう思う自分はもうかなりヤバイところまでキてるな、というのは自覚できた。


 瞬は励まそうとしてくれたが、プリシスはビールを片手に笑っていた。思わずその後頭部に本気の掌底を叩き込んでしまった。鼻からビールをこぼしてプリシスは怒ったが、追い出すぞ、の一言で大人しくさせてやった。彼女もいつの間にか沢村家の居候となっていた。瞬と同じ部屋で寝ている。そのことに対して、図々しい奴、と言う冬樹はもういなくなっていた。


 前向きに考える。部室とはいえ、学校の一部を壊してしまったのだ。退学にならなかっただけましである。写真部だって今まではまともに活動していなかったのだから、ある意味厄介払いが出来たと思えばいい。元々、あの一年生二人を見た瞬間から不安はあったのだ。心配の種がなくなったのだから、よしとする。カメラも無くなってしまった事だし。


 そこで、ずん、と冬樹は落ち込んだ。


 また新しいカメラを買わなければいけない。別に金がないわけではない。貯金はちゃんとしてある。だが、カメラを買うと大きい出費になる。この際だ、少し無理をしてEOSを買ってしまおうか。


 そこまで考えてやっぱりEOSはやめた。EOSを買って、またあの二人のせいで壊れたら今度は洒落にならない。史上初の異世界の生物を殺した人間になってしまう可能性は極めて高い。


 インターネットの写真のカタログを前にして、冬樹は悩んだ。




 停学処分が解けて学校へ行くと、


「いよっ、冬樹。久しぶりじゃーん。あ、写真部ぎゃははははははっ!」


 村上が話しかけてきて皆まで言わず笑い出した。なにやら『冬樹が俗称のぞき部として名高い写真部の部室でガス爆発を起こした』という噂が学校中に蔓延しているらしい。ついでに言えば冬樹が写真部の部長であることを知っている奴もたくさんいた。


 犯人は村上しかいなかった。


「ぎゃあああああああっ!? 痛い痛い痛い! ギブ! ギブギブギブギブ! ギブ──────────っっ!」


 さりげなく右腕の関節を極めて涙を流すまで痛めつけてやった。当然の報いである。


「おーいて。少しは手加減ってもんをさぁ」


「僕の手加減が気に入らないなら全力でやってやるぞ」


「嘘ですごめんなさいありがとうございました」


 村上と会話していると少し前の自分に戻れるような気がする。教室に入るとやっぱり村上以外のクラスメイトは話しかけてこず、そのことに冬樹は安堵した。直後、何か間違っているような気もしたが、それは無視する。


 気になったので昼休みに写真部跡に足を向けた。テーブルや棚やファンヒーターなどが撤去されたそこは廃墟としか言いようがなかった。壊れたIXYは見当たらなかった。他の物と一緒にゴミに出されたのだろう。別に役に立たなくとも側に置いておきたかったので残念だった。


 家に帰ると、外にも聞こえるぐらいの大声で瞬とプリシスが口喧嘩をしていた。この二人、仲がいいときはこれ以上無いぐらい息が合うのだが、つまらないことで口喧嘩することが実に多い。プリシスが突っかかって瞬がそれに反論して──というケースが主だ。ちなみに殴り合いなどの戦闘は冬樹が禁じた。破ったら二人とも追い出すぞ、と。この間のような調子でやられたら沢村家などひとたまりもないからだ。まあ、そうなったら二人を追い出すどころか冬樹も路上の人となっているだろうが。そうやって禁止しているせいか口喧嘩の回数は日に日に増していく。その殆どを冬樹は「うるさい」の一言で叩き伏せてきたが、最近ではそうやって止めるのも面倒になっていた。今だってほら、喧嘩を止めようとはせずにマグカップにお湯を注いでインスタントコーヒーを作っている。



 こんな風にして、再び冬樹の日常──ただし今までとは違う──が動き始めたのだった。



 木曜日。


 早いもので瞬が来てからもう十日になるのである。


 カメラはしばらく購入を断念し、写真部は消え失せた。冬樹の悩みの種は一つだけになっていた。


 即ち、瞬とプリシス、異世界から来た少女二人である。


 正直、既に冬樹は彼女たちのいる生活に馴染んでしまっていた。そんな自分を否定したい心があるが、その力は弱く、否定は出来ない。実際に冬樹は彼女たちの名前を平気で呼べるようになっているのだから。最初は、識別のために名前を呼ぶようになったのだけれども。


 瞬が居候になったときと同じように、沢村家には瞬とプリシスがいて当然な空気が出来上がっていた。一昨日なんか父・大樹が「二人ともよかったらうちの娘にならないかい?」と言ったほどだ。酒を飲んでいたので酔っぱらいの戯言として流されたが、冬樹は内心冷や汗をかいたものだ。


 冬樹にとって彼女たちは出来の悪い姉なのだろうか。それとも妹なのだろうか。どっちにせよ勘弁願いたい。


 そんなことを考えながら、冬樹は自室の机に向かって『ビックリ箱』を触っていた。


 窓の外では降り止まない雪が続いていた。いくらなんでも降りすぎだった。問題なのはその量ではなくて、降雪が継続していることだ。休みなしに雪は降っているのである。ニュースでは異常気象と報じられていた。


 IXYを失って以来、祖父の遺した『ビックリ箱』は冬樹の唯一の心の拠り所だった。暇があれば手に持っている。必要もないのに布で磨いていた。


 『ビックリ箱』を手にしたまま椅子の背もたれに体重をかけて、天井を見上げて、吐息を一つ。


 あっけない、と感じた。何がと言うと、今の生活がである。


 隣の共同和室から瞬とプリシスの話し声が聞こえてくる。また何か論争しているらしい。


「だからあの時はゴルディオさんが退いていたらよかったんですよ! 状況を考えて!」


「馬鹿言ってんじゃねえぞあの時退いてたらこっちがやられてただろ! ってかゴルディオって呼ぶなってなんべん言ったらわかりやがる!」


「何言ってるんですかゴルディオさんはゴルディオさんです! 大体プリシスなんて可愛い名前似合ってませんよ!」


「なっ……なんだとこらぁ──────────ッ!」


 またか、と冬樹は思う。今のようなやり取りはもはや数百回目の日常茶飯事である。もう止める気にはなれない。


 そして、そこが問題だった。さっきのようなやりとりを違和感無く日常茶飯事として受け入れている自分に、冬樹は違和感を感じる。


 我が家では異世界から来た尋常ならざる生物を養っているのである。外国からホームステイにやってきたマイケルやジェーンとはわけが違うはずなのである。


 なのに何だろう、この違和感のなさは。最初こそ驚きはしたものの、瞬の毎日行う住宅街の『掃除』も、冷えた食べ物を一瞬にしてほかほかにするプリシスの『電子レンジ』も、今ではなんでもないようなことと感じている。


 実にあっけない。


 いいのか、これで?


 そんな事を考える。


 いつの間にか心の深い場所にいる──それが感想だった。瞬にせよ、プリシスにせよ、言葉では説明できない魅力がある──のだと思う。気が付けば家族のように接してしまう、親近感だろうか。人と距離を持ち、村上のように話しかけてくる者しか相手にしなかった冬樹が、今では時々彼女達に話しかけるのである。いつか瞬が言った『私に冬樹さんに好かれるための魅力がないと思っているなら大間違いですよ!』という言葉の意味も今ならわかる気がする。なるほど、と納得できる。確かにもしかしたら、自分は彼女を好きになりつつあるのかもしれない。


 そこで冬樹は自分に対して驚いた。


「……!」


 今、何を考えていた? 好きになりそうになってる、だって? おいおい。


 冬樹は天井を仰いだまま目を閉じて、肺の奥から息を吐き出した。


 勘弁して欲しい。いくら何でもそれはないだろう。相手は少女の姿をしていると言っても、異世界の化け物なんだぞ。犬や猫に対して『愛玩する』以上の感情を持てるか? 答えは勿論NOだ。


 馬鹿なことを考えるんじゃない。


 思考にそんな終止符を打った冬樹が身を起こした時だった。


 隣の部屋の論争が一層ヒートアップした。


「何でこんな大切なこと忘れてたんですか!」


「うるせえな忘れてたもんはしょうがねえだろ!」


 冬樹が思考の世界にいた間に話題が変わっていたらしい。一際大きな声で侃々諤々、喧々囂々と彼女たちは声を飛ばし合っている。


「大体何なんだよそのくだらねえルールはよ! 何であたしがんなことしなきゃなんねえんだ!」


「何でもどうしてもありませんよ! これは最初から決まっていたことで、それに納得したからゴルディオさんだってここに来てるんじゃないですか!」


「納得してるか馬鹿野郎! あたしはテメエと決着つけに追いかけてきただけなんだ! そんなアホなゲームには興味ねえ!」


 どうやら何かのゲームに関して言い争っているらしい。人生ゲームでプリシスがズルでもしたのだろうか。


「アホ!? アホって、今、アホって言いましたか!? ひどい! このゲームとルールは私が考えたんですよなのに何ですかその言い方!」


「アホだからアホつったんだ当たり前だろこのアンポンタン!」


 アンポンタンと来たものだ。何処でこんな言葉を覚えてきたのだろうか、プリシスは。何日か前に聞いた話だが彼女たちの話している日本語は、別に魔法や特別なことをしたわけではなく、ちゃんと『勉強』して身につけたものらしい。あまりにも単純な答えが逆に冬樹は意外だった。


「アホでもアンポンタンでもありません! このゲームは極めて合理的です! 私とゴルディオさん、どちらが先に冬樹さんに好きになってもらうか! 冬樹さんほどの心の固い人間に好かれるというのは即ちカリスマ性の現れであり、それは王として必要な素質です! 私達が合併したときの王を決めるにはどちらがより民から慕われているかが重要なポイントなんですよ! それがわかっているんですか!」


「だからそこがアホなんじゃねえか! ゲームで王を決めるよかどっちが強いかで王を決めた方が手っ取り早えし、もっと合理的だろ!」


「力だけで王はやっていけません! 国は民あってのものです! 民の信頼を一身に受けられる方が王になるべきなんです!」


「だったらこんな所で人間相手にちんたらやるよか投票かなんかで決めりゃいーだろが! なんで場所が地球で相手がサワムラフユキなんだよ!」


「だからそれはさっきも言ったじゃないですか! 冬樹さんほど心の固い、しかも人間に、好かれるかどうかが重要なんです! 心の固い異種族の、心を開くことが出来るかどうかっていう点が! 国の繁栄のために交渉をすることだって有るんです! もし二人とも冬樹さんに好かれなければ私達のどちらにも王になる素質はないと判断できっ!」


 やけに中途半端なところで瞬は言葉を断ち切った。いきなり、しん、と家の中が静まり返る。


 冬樹は、『ビックリ箱』を机に置いた。そして机の上に両腕を組んで敷き、その上に頭を乗せて、俯せに倒れる。


 眠った振りである。


 隣の部屋から感じるのは、何も言わない沈黙ではなく、何も言えない沈黙だった。


 冬樹は瞼を閉じている。真っ暗な暗闇しか見えない。だからか、五感が冴えていた。視線を感じる。背後からだ。隣の和室の引き戸の開く音も、自室のドアが開く音もしなかったが、誰かがこの部屋にいて冬樹を見ている。多分、瞬だ。彼女は『物質透過』ができるのだ。和室とこの部屋を隔てる壁を抜けて、こちらに顔を出しているのだろう。初めて会った日、彼女はその能力を使って鍵のかかっていた沢村家に侵入したのだ。全身を透過させるのは疲れるので腕だけを透過させ、鍵を開けて。


 冬樹がさっきの話を聞いていたのかどうかを確かめに来たのだろう。机で眠った振りをしている冬樹を見て安心したのか、


「……ふぅ……」


 という安堵の息が聞こえた。直後、背中に感じていた気配が失せる。冬樹はその体勢のまま聞き耳を立てた。隣の部屋の会話が微かに聞こえる。


「……よかった……冬樹さん、寝てたみたいです……」


「……そ、そか……やばかったな……」


「ええ……ばれたら冬樹さん絶対怒りますからね……」


「ってか……あんなやばいこと大声で言ってんじゃねえよ……」


「なっ! なんですかその言い方は元はと言えばゴルディオさんが悪いんじゃないですか! あたし達が何のためにここに来たか覚えてるか──なんて聞くから!」


「お前あたしのことゴルディオって呼ぶのいい加減にしろよ本人嫌がってんだから少しは配慮ってもんを──って、だから大声出すなって!」


 一生やってろ。冬樹は心の底からそう思った。




 机で眠ったふりをしたまま、冬樹は煮えたぎる感情を必死に押し殺している。




 上等じゃないか。ゲーム、だって?


 かつて瞬が言ったことがある。『それは冬樹さんがげ』『現世における、たった一人の聖なる魂の持ち主……ですから』


 笑わせる。


 本当は『ゲームのターゲットだからです』だったんだろ。


 戦争? 聖なる魂? 心が一つになったときに莫大なエネルギーが発生する?


 笑わせてくれる。最高だよ。こんなジョーク、見たことも聞いたこともない。


 全部、嘘だったんだな。


 全部、芝居だったんだな。


 ただただ、僕に好かれる、それだけのために。


 いや、その度胸や手腕は認める。心の底から認める。見事だよ。本当に危ないところだった。後もう少し時間があれば、僕は本当に君を好きになっていたかもしれない。ついさっきまで『自分は誰も好きにならない』っていう自信がぐらついていたんだから。


『私、冬樹さんのそんなところが好きなんです』


 ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな!


 何様のつもりだ。そっちは『精霊』様か。でもって僕は下等な『人間』か。なるほど。確かにそっちが人間よりも格上の存在って言うのなら、納得してやる。人間だってそうだからな。自分達より格下の存在のことなんてほとんど気にかけない。肉も野菜も『美味しく食べてもらった方が喜ぶ』と思っている。好き勝手に殺したり刈ったりしておいて実に平和な思いこみだ。反吐が出る。


 それと同じことなら、君達が僕のことを犬や猫、つまり畜生同然に見ていても不思議はない。君達の感覚を例えるならこうか?


『人には絶対馴れようとしない、群の中に入ろうともしない犬を調教することができれば、自分は王になれる』


 そのために餌を用意したり優しい言葉をかけてやったり。優しくされることの無かった犬は見事それに騙されて心を開き、目的は達成される。


 本気じゃなかったんだろ? 用意した餌も、かけてやった優しい言葉も、全ては本気じゃなかったんだろ。目的を達成するための『手段』だったんだろ。心が篭っているように見せかけているだけで、本当はそんなことはなかったんだろ。そうだ。自分がさっき考えていたとおりだ。犬や猫に対して『愛玩する』以上の感情を持てるか? 答えは勿論NOだ。


 体の深い所にナイフを突き立てられたような気分だ。胸が痛い。裏切られた──僕はそう感じている。そして、そう感じている自分に無性に腹が立つ。裏切られた? 信じていたっていうのか、あいつらを。そうだ、信じてたんだ。全幅の信頼とまではいかないけれども、少し、本当に少しだけ、信じていたのに。今までの誰よりも。


 許せない。絶対に許せない。身勝手な理由で僕の奥まで踏み込んで来て、そこをズタズタに切り裂きやがった。


 ただでは済ませない。あいつらの思い通りにはさせない。そんなのはとんでもない。


 ゲーム?


 そんなものは叩き潰してやる。お前達が畜生同然に思っている『人間』の恐ろしさを見せつけてやる。


 思い知らせてやる。


 冬樹は心にそう誓った。


 自分を貫くことを知っている少年の、誓いだった。




 僕を、甘く見るなよ。






 冬樹は表面上の態度を変えなかった。意識的に今まで通りの態度で瞬とプリシスに応対した。しかし言葉を交わす度に憤怒で五臓六腑を焦がし、何度この手で叩きのめしてやろうと思ったことか。


 感付かれるわけにはいかなかった。全てを秘密裏に進める必要があった。目には目を、歯に歯を、裏切りには裏切りを。


 金曜日に根回しを済ませた。自称『顔が広くて情報通』の村上を利用した。必要な物、用意するべき物はたくさんあった。


 コネというコネを使い、知識という知識を総動員し、冬樹は『計画』を動かし始めた。


 村上が、


「なあ? 急にどうしたんだ?」


 と聞いてきたが答えなかった。だが、言うとしたらこの単語を使っていただろう。


「復讐」


 神無学園は噂通り変な学校だった。いや、それは変などというレベルではなかった。はっきり言っておかしい。異常だ。壊れている。常識などヘノカッパな学校だった。だが、それは冬樹にとっては好都合だった。普通では手に入らない物をこれといった苦労をすることなく入手できたのだから。


 金曜日は下準備だけにしておいた。本格的な準備は休日である土曜日にすることにした。明日は第四土曜なのである。


 帰りの遅かった冬樹に、瞬は『何か用事でもあったんですか?』と聞いてきたが適当にはぐらかした。プリシスはビールを飲みながらテレビを見て笑っていた。これぐらいなら大丈夫だろう、とその後頭部にヤバイ角度のハイキックを見舞ってやる。人の家で偉そうに振る舞っているんじゃない、と言ってやった。会心の一撃だったにも関わらずプリシスは起き上がり鼻からビールをこぼしながら、


「ブッ殺すぞらぁ──────────ッ!」


「やれるものならやってみろ」


 プリシスはハッタリと脅しに弱かった。


 冬樹は瞬が来てからの記憶を何度も洗いなおした。おかげで色々なことに気付くことが出来た。それは、とても重要なことである。冬樹には情報が必要なのだ。考えること──それが勝つための『手段』だった。繰り返し、脳内の『計画』をチェックし、必要があれば修正を加えた。


 土曜日。冬樹は『村上の家に行ってくる』と瞬とプリシスに言い残し、家を出た。その足で神無学園に向かい、前日に申請して入手しておいた許可証を使って中に入る。早速、準備を始めた。やるべきことは山ほどあった。まず金やコネで手に入れた道具の用意、設置、テスト、練習。何度もやり直し、できるだけ精度を高めた。もちろん付け焼き刃なのはわかっていたが、やらないよりはマシだった。特に、俗称『ヤバゲ部』と称されているミリタリー部や傭兵部(冗談ではなくて本当にこんなクラブが神無学園にはある)などの地下に射撃訓練場があったのは幸運だった。酔狂としか言えない代物ではあったが今の冬樹には有用な施設だった。だが、冬樹は心の底から真にこう思う。


 この学園の理事長はアホだ。


 何でもかんでもやりすぎであり、金を使いすぎである。どうでもいいことに妙に力を入れている節がある。ヤバゲ部──由来は『ヤバイサバイバルゲーム部』 ──がある上に、その地下には射撃訓練場である。声を大きくして問いたい。ここは学校なのか? もしそう問えたにせよ、その答えを聞くのにはひどく怖いものがあるが。


 だが、まあいい。そんなことは冬樹には関係ない。文句を言いたい奴がいればその内言うことだろう。今の冬樹はただそれを利用するだけである。


 職員室に侵入してさりげなく鍵束を盗んだ。どうせ誰も使いはしまい。気付かれることはないはずだ。いくつかの特別教室を回り必要な物をかき集め、それらを全て、元は現像室だった部屋に集めた。そう、集めた物は全て材料だ。これからそれらを加工せねばならない。冬樹の頭の中にある雑学を総動員して、『計画』に必要な道具を作成した。一つは、硝酸カリウム、硫黄、炭素、マグネシウム、紙粘土、蝋燭、そして小瓶。一つは、塩素酸カリウム、ワセリン、やはり小瓶。一つは、濃塩酸、濃硫酸、当然の如くガラス瓶。


 何を作るかなど、知れていた。


 冬樹は黙々と危険な『内職』にいそしんだ。それが終わると出来上がった道具を所定の場所に隠し、鍵束をこっそり職員室に戻した。最後にトドメとばかりに再び射撃訓練場で練習し、ここでも必要な物を入手して校舎の各地に配置した。


 こうして準備は整った。あとは本番に備えるのみである。


 冬樹はほくそ笑みもしない。その無表情な仮面の下では、今でも怒りの炎が渦を巻いている。


 冬樹は今、全ての干渉を遮断するような、そんな顔をしている。


 『計画』の決行は明日、日曜日だ。月曜になるまでには全ての決着をつける。そう心に決めている。


 日が暮れてから家に帰ると、瞬は母・雪子と料理を作っていて、プリシスは父・大樹と酒を飲んでいた。二人とも、楽しそうにしている。冬樹は氷のような瞳で彼女達を見つめた。いい気なものだ、と心の中で吐き捨てる。


 二階の自室で祖父の残した『ビックリ箱』を手に、冬樹は再度決意を固めた。これで、決着をつける。これで、終わりにする。あの二人を自分たちの世界に追い返し、冬樹はこれまでの平穏な日常を取り戻す。


 もう誰も信じるものか。






 日曜日。


 決戦の日である。


 冬樹は、言った。


「大事な話がある」


「はい?」


「ぁあ?」


 場所は沢村家のリビング。時刻は午後三時を回ったところ。これまでずっと二階の自室に篭っていた冬樹が突然リビングに現れ、掃除機をかけている瞬と、ソファの上でつまらなさそうに寝ころんでいたプリシスに言い放ったのだ。どうでもいいが瞬はこの家にこれでもかと順応しており、プリシスも別の意味でそうである。だがプリシスにだけ、冬樹はこう言いたい。お前ここに何しに来た。


 掃除機を止め、にっこりと笑顔を浮かべ、瞬が聞いた。


「何ですか? 冬樹さん」


「てっとり早く頼むぜぇ、あたしは今忙しいんだー」


「お前が忙しいならアリが全滅するぞ」


 間延びした口調で言うプリシスのあからさまな嘘を一蹴し、冬樹は二人の顔を交互に見た。人畜無害な笑顔を浮かべている雪女に、退屈で脳味噌が溶けそうな顔をしている火炎娘。正直、顔を見ているだけで腹が立つ。怒りが表に出ないように努めて、冬樹は続けた。


「今日の夜八時、学校の第一校舎の屋上に来て欲しい」


「屋上……って、校舎の一番上、ですか?」


「そう」


「ぁんだよー、なにするってんだよー」


「それはその時に話す」


「あの、冬樹さん? その話って屋上じゃないとダメなんですか?」


「そう」


「楽しいのかよそれー?」


 思わず、笑ってしまいそうになった。冬樹は顔の左側を少ししかめて、皮肉を言った。


「楽しいさ。最高に」


 瞬とプリシスの二人は同時に驚きを顔に浮かべた。思わぬ言葉を聞いた──顔にそう書いてある。


 冬樹はこれ以上の会話は危険だと判断し、切り上げた。


「じゃ、僕は出掛けてくるから」


「あ、冬樹さん、どこ」


 追いかけてくる瞬の質問を遮り、一方的に念を押した。


「散歩。夜の八時、第一校舎の屋上。忘れないように」


「は、はい……」


 コートを着て、傘を持ち、家を出る。空を見上げれば灰色の雲。今日も雪が降っている。一度、瞬に聞いたことがある。この雪はもしかして君の仕業なのか、と。彼女は慌てて否定した。その慌てぶりが怪しかった。この雪のせいで周辺の住民がどれだけ迷惑していることか。まあ、精霊『様』にはどうでもいいことなのだろう。転けて怪我をした子供に絆創膏を張ってあげた? はっ。とんだ偽善者だ。


 冬樹は学校へ向かう。コートのポケットに右手を入れ、中に収めた『ビックリ箱』に触れる。体が微かに震えているのは寒さのせいではない。カメラに触れれば治まると思ったがダメだったようだ。


 武者震い、という奴だろうか。これから始めることに胸を躍らせている自分がいる。


 住宅街を抜け、川沿いの土手に出た。黒い傘越しに薄暗い空を見上げ、足元に視線を降ろし、冬樹は深呼吸を一つ。白い息が空気に散る。勿論、空からは誰も落ちてこないし、地面から火柱が噴き出すことはない。


 前を向いて、小さく頷いた。


 そんな出来事とは、これから訣別するのだ。




 私立神無学園。


 決戦の舞台である。


 時刻は既に七時半を少し過ぎたところ。日はとうに沈み、夜の闇の中を白い雪がちらちらと舞っている。雪が降る様子を見ながら、冬樹は思った。


 この雪が止めば、きっとそれが終わりの合図だ。


 理由は特にない。なんとなく、そう思っただけだ。直感で、この雪は何か理由があってこんなにも長い間降り続けている──そう冬樹は思ったのだ。


 先程、あらかじめ用意しておいた道具や設置しておいた罠などの最終チェックを終わらせた。異常なし。全力は、尽くせる。


 冬樹は緊張している自分を否定するわけにはいかなかった。むしろ開き直り、怯えていると言ってもよかった。自分はこれから異世界の化け物二人に喧嘩を売る。そう、相手は人間ではないのだ。冬樹が身につけている格闘術も、この短期間で用意した武器も、通用しないかも知れないのである。しかも用意した武器は一部を除けばどれもこれも正規の物ではなく、冬樹の持っている知識と雑学を混ぜ合わせて作った稚拙な物ばかりなのだ。


 不安がないと言ったら真っ赤な嘘だ。


 だが、それらを圧してあまりある感情がある。それが今の冬樹の原動力だ。


 怒り。その一言に尽きる。


 雪の降り積もる屋上に身を放り出し、冬樹はこれから相対する二人の姿を思い浮かべる。


 あの二人だけは許すわけにはいかない。雪女の少女なんかは特に。今までの人生の中でこれほどの屈辱は初めてだった。絶対に晴らさなければならない。何が何でも。


 この自分の心の奥まで土足で踏み込んできて、これ以上無いほどに傷つけていったのだから。


 そう、これは戦いだ。冬樹の世界を守るための戦争。たった一人の世界大戦なのである。


 負けるわけには、いかない。冬樹の心境を今では死語となった言葉で言い表すのなら、こうなるだろう。


 絶対ぎゃふんと言わせてやる。




 午後八時。


 決戦の時である。


 月など見えるわけがない、静かな雪の夜。


 化け物が人間らしい登場の仕方などするわけがなかった。冬樹が待っていた少女二人は空からやってきた。瞬は雪のように淡い蒼い光を、プリシスは燃える炎のような紅い光を身に纏って。


 瞬は初めて出会ったときと同じ服装をしている。白いセーターと同色のフレアスカート、素肌を隠す白のタイツ。何故か短い黒髪にカチューシャをつけ、いつもと違う髪型をしている。


 プリシスは本革の上下というワイルドな格好をしている。艶やかな漆黒のジャケットとスラックスは不良然とした彼女にはよく似合っており、彼女もまた、何故かその金髪を一本三つ編みにして赤いリボンで結っていた。


 冬樹は冬樹で、二人に見せたことのない出で立ちをしている。ヤバゲ部の人間から借りた、動き易さを重視した黒の上下である。関節の可動を妨げることなく丈夫な布で作られたそれは、冬樹の『戦闘服』であった。もちろん、眼鏡ははずしてある。


 何とも形容しがたい空気がそこにはあった。


 冬樹は一瞬、自分はもしかして場違いではないのか、と思ってしまった。何だ、二人のこの格好は。何故いつもと微妙に違う? 何か勘違いをしているのではないか?


 そこまで考えて思い至った。話の振りが悪かったのだ。大事な話がある、夜の午後八時、学校の屋上で──いかにもな台詞だった。勘違いされるのも無理はない、と今更思う。


 なるほど、ね。僕がどっちかに『好きだ』って言うかもしれないって考えていたわけだ。腹が立つな。どこまでも身勝手な精霊『様』だ。


 冬樹は、言った。


「勝負してもらう」


 いきなりだった。単刀直入にも程があった。当然の如く二人は『?』とお互いの顔を見合わせた。質問が返ってくる前に冬樹は続ける。


「理由が必要なら言ってやる。決着をつけたいんだ。瞬か、プリシスか。君達二人が僕と勝負して、勝った方に僕は協力する。別に心を一つにして莫大なエネルギーを発生させる必要はないだろ? 核爆弾と一緒だ。所持している、ってアピールできればそれで戦争は終わるだろ」


 嘘をつくことに罪悪感など無かった。そもそもは向こうがついた嘘なのだから。のせられた振りをして何が悪いのか。


「ルールは簡単だ。エリアはこの学園の敷地に限り、敵に『まいった』って言わせればいい。敷地の外に出てはいけないし、出た瞬間に負けは確定する。それだけ。何か質問は?」


 冬樹は二人の顔を交互に見た。瞬は『え? え? どうして?』という狼狽えた顔をしているが、プリシスは『ん? なんかよくわかんねえけど勝負すればいいのか?』と、実に嬉しそうに好戦的な表情を浮かべている。


 数秒の沈黙の後、瞬が躊躇いがちに口を開いた。


「あ、あの、冬樹さん? どうしていきなりそんなこと……」


「いつまで経っても終わりが見えないからさ。どっちも諦めようとしない上、長々と家に居候し続けようとしている。なら少し無理矢理にでも結果を出せばいい。君達も家に帰れる。いい案だろ?」


「あ、や、その……それは確かにそうなんですけど……」


「質問はそれだけ? なら、勝負を始める前に一つ言っておくことがある」


「いいからさっさと始めようぜ。フユキのくせにおもしれーこと考えるじゃねえか。今までのツケ、ここで返してやるぜ」


 プリシスはやる気満々だった。三つ編みを結っているリボンを外し、闇の中で輝いているように見える──否、実際に仄かに光を放つ金髪を躍らせる。ほどいた髪を一つにまとめ、リボンでいつものポニーテールにした。


 その戦いの歓喜に彩られた顔を無表情に見つめ、冬樹は言った。


「僕を甘く見ない方がいい。確かに正直言って、君達は僕から見れば化け物だ。空を飛ぶ、火や氷を操る、物質透過。挙げればキリがない程の能力を持っている。生物学的に見て言おうか。その皮膚は急激な温度変化にもびくともしない。高温の炎であぶられても火傷しないし、きっとどんな冷気で冷やしても凍り付かないんだろうな。しかも亀の甲羅以上に固い。並の力じゃ傷一つ付けられない、と僕は見ている」


 冷静に分析した結果だった。そして、考えて気付いた。肌で感じていた以上に彼女らは『化け物』だったのだ。戦車を持ってきても傷一つ付けられないだろう、と冬樹は推測している。まるでミニチュアの怪獣だった。


 だが。


「それでも弱点はある。僕はそう考えている。例えば目、鼻、口、耳。その中はどうかな。亀だって外側は固くても中身は脆い。君達が『生物』であるならば、その常識は通用するはずだ」


 無表情に言い放たれた冬樹の言葉に、瞬は顔を少し蒼くし、プリシスは『上等じゃねえか』と笑みを深くした。


 その様子を見ながら、冬樹は上着の大きなポケットから黒い『それ』を取り出した。一言で言えば『レーザーエイミング付きWALTHER P99』。わかりやすく言えば、赤外線レーザーで照準できるごつい拳銃、である。本物だ。ヤバゲ部の地下射撃訓練場から持ってきた。中に込めてあるのは勿論ゴム弾だ。いくらヤバゲ部でも実弾は手に入れられないのだろう、置いてなかった。いや、もしかしたら所持しているのかも知れないが、冬樹は使わない。そこまでするつもりはないのだ。冬樹は銃をまずプリシスに向けた。レーザーエイミングの赤い点が、プリシスの額に現れる。


「なおかつ、君達の体重は人間の女の子と変わり無い。例え眼球や口の中が丈夫でも、銃弾が生む衝撃のエネルギーに耐えることはできないだろ。少なくとも吹っ飛ぶはずだ」


 言いながら、なんて台詞だろう、と意識の隅で思う。銃口を突きつけている自分も、突きつけられている彼女達も、非常識だ。自分もここまで堕ちたか──自嘲する。


「だから、僕を甘く見ない方がいい。【人間】だと思って手を抜いたら、足元をすくわれるぞ。僕は、容赦はしない」


 プリシスに言っても意味は無さそうだったので、主に瞬に向けて言った。雪女の少女は驚愕の表情のまま硬直している。言葉を失っているらしい。


 勿論、そんなことは関係なかった。冬樹は冷酷に言い放った。


「じゃ、ゲームスタート」


 引き金を引いた。昨日の内にすっかり慣れてしまった衝撃が肩に生まれ、ものすごい勢いでプリシスが仰け反った。構わない。躊躇しない。更に二発撃つ。プリシスの体が吹っ飛び、背後の小屋の壁に激突した。それから様子見として発砲を止めると、やはりというか何というか、彼女は平然と立ち上がり、


「おーいててて。結構きくなぁ、それ」


 と言って、少し赤くなった額を抑えた。そして、にやりと笑った。


「今度はあたしの──番だぁぁぁぁっ!」


 夜の暗闇に光が生まれた。それはプリシスの右掌に現れた炎の放つ光だ。いつか半壊した部室から見た巨大な火球が冬樹に向かって放たれた。


 しかしその頃にはもう冬樹は動いている。屋上の隅へ向けて走り出していた。そうしながら瞬に照準、引き金を引く。呆然としていた彼女は鈍器で側頭部を殴られたような動きで転倒した。背後で火球が炸裂。熱気を感じる。走る。フェンスに向かって跳躍、素早く昇り、プリシスに銃口を向けて一発。右肩を着弾の衝撃に押されつつプリシスは左掌を冬樹に向け、咆吼。


「うらぁあぁあぁっ!」


 先程よりも一回り大きな火球が冬樹に迫る。それはとても現実味のない光景だ。数匹の炎の龍が絡まりあったような球形の熱エネルギーを避けるため、冬樹は跳んだ。


 何もない空中へ。夜の闇の中へ。


 瞬が叫んだ。


「!? 冬樹さん!?」


 冬樹の体は重力に引かれて落ちる。落ちながら瞬の本当に驚いている顔を見て、冬樹は内心で唾棄した。僕が自棄になって飛び降りたとでも思っているのか。これぐらい計算の内だ。


 冬樹の落ちていく先にはプールがあった。水を抜き、かわりに漕を埋めているのは救命用の大きなクッションだ。オレンジ色のそれはかなりの速度で落ちてきた冬樹の体を見事に受け止めてくれた。ぼすん、とくぐもった音と共に冬樹は跳ね、素早く起きあがって屋上を見上げる。


 目を見開く。右腕に巨大な炎の塊を振り上げたプリシスが彗星の如く落ちてきていた。


「!」


「死ねやサワムラフユキ──────────っ!」


 ヤバイ、あっちは変な風に本気になっている。冬樹は不安定なクッションからプールサイドに上がり、全力疾走。ほんの一秒の誤差で燃え盛る砲弾と化したプリシスの右拳がプール漕に炸裂した。


 爆音。そして衝撃。爆風に背を押されながら冬樹はなおも駆けた。視線の先には、プールのフェンスの近くに置いてあるトランポリン。演劇部から失敬してきたそれを使ってフェンスを飛び越えた。


 勝負は校舎の中に入ってからだ。だけど少し不安になって背後に叫んだ。


「いいか! 相手を殺したら負けだ! あくまで『まいった』って言わせるのが勝利の条件だぞ!」


 声が届くかどうかは不明であり、聞こえたとしても理解してくれるかどうか。言い終えた瞬間にガス爆発のような爆音が冬樹の耳を劈いた。


 冬樹は舌打ちしてとにかく校舎へ向けて走った。




 脳を揺さぶるような爆発音に瞬は我を取り戻した。爆発? 火? っていうか私って冬樹さんに撃たれた?


 体ではなく、心に受けた衝撃が大きすぎて、衝撃を受けたことにすら気づけなかった。何故? どうして? 嫌われちゃったの? っていうか冬樹さんが飛び降りた。人間はこの高さから落ちても死ぬのに?


「──そ、そんな!」


 慌てて立ち上がって屋上の隅まで走った。そこからは星空のような街の灯が見え、そしてグラウンドに──


「……よ、よかった……」


 グランドを走る小さな影を認めて、瞬はその場にへなへなとへたりこんだ。冬樹が飛び降りた瞬間、自分が落ちたわけでもないのに死ぬかと思った。心臓が縮小しすぎて破裂しそうだった。意識せずに冬樹の名前を叫んでいた。


 好きだからだ。この世界へ来る前に、その生き方を知って憧れた。この世界へ来て、実際に言葉を交わして、理屈もくそもなく好きだと思った。言葉少なで言うことは冷たくて辛辣でも、どこかそれが素直で真っ直ぐで強いと思える──そんな『素直で頑固なひねくれ者』なところに惚れた。恋、なのかどうかはわからない。強い憧れを勘違いしてしまっているのかもしれない。自分は彼とは違って、どちらかというと他人に流されて生きてきたから。誰かの敷いた赤い絨毯を歩いて、みんなのために王になる──そんな自分を強く意識していたから。手に入らないものに対する憧れを混同しているのかも知れない。


 だからどうした。そんなことは関係ない。自分は冬樹が好きだ。それだけだ。


 その好きな人がついさっき、自分に対して銃口を向けた。そして今、ゴルディオと戦っている。見た感じ、ゴルディオは本気でやっている。爆音や火球の大きさでわかる。いつも自分とやるときと同じ出力だ。


 危ない。


 このままでは冬樹が殺されてしまうかもしれない。見過ごすわけにはいかない。


 止めなければ。


 それにこんな勝負で結果を出すなんてとんでもない。それでは意味がない。もっと、ちゃんと、ゆっくり──誰かを好きになるってことは、そういうことだと瞬は思う。


 これじゃ、本当にゲームになっちゃう。そんなの、嫌。


 王になるためだけに冬樹に会いに来たのではないのだから。そんなのは建て前だ。いや、最初はそう思っていたし、考えていた。だけど途中から目的は変わってしまった。


 好きだから、この世界に、会いに来たのだ。それが本音なのだ。


 だから──!


 瞬は立ち上がって駆け出した。


 校舎の中へと。




 第二校舎の中へ駆け込んでいく冬樹。それを追いながら、プリシスは顔が緩んでいくのを止めることが出来なかった。


 楽しい。


 何がって、暴れられることが。この世界へ来て以来とんと体を動かす機会がなかったのだ。瞬と再会したときのことを除けば、やれ死なせてはいけない、やれ壊してはいけない、やれなんとか条約に違反する。うっとうしいことこの上なかった。酒でも呑んでぐうたらしているしかなかった。それがどうだ、人間の方からこっちに喧嘩売ってきやがった。それを買って何が悪い? 悪くなんかねえよなぁ?


 ブッ殺してやる。大体、最初からくだらねえゲームだかルールには興味なかったんだよ。それにあいつにはいつもムカついてたんだぜ? やることは一つじゃねえか。今すぐあいつを殺してゲームを潰す。でもって今度こそ力で王座を奪い取る。


 今度こそ絶対に!


 プリシスは鼻っ面に獰猛なしわを寄せ、獣のように笑った。


 第二校舎に飛び込み、廊下を走る。と、十数メートルほど行ったところで、ぬるっ、と足が滑った。


「──!」


 廊下に油が塗られていた、と気付いたときにはプリシスの体は宙に浮き、そのまま重力に逆らう。転倒しない。


 なるほど、な。この建物の中はあいつのホームグラウンドってか。


 頭に血が昇りやすい性格の彼女だが、こと戦いにおいてはそれがあてはまらない。熱くなりつつ、何処か冷めている。彼女は『火炎』なのだ。熱く、激しく、かつ無情に、冷酷に、全てを燃やす。戦闘──特に何かを破壊する場合──の彼女は実に冷静な思考で、己が全力を発揮することが出来る。


 だが。


 頭上で何かが動く気配がしたかと思った次の瞬間、ざばぁ、と音を立ててバケツをひっくり返したような水が降ってきた。


「…………」


 びしょ濡れになったプリシスは驚きの表情を隠せなかった。言葉を失ったまま呆然と頭の上を見上げると、そこにはロープで吊されたバケツがある。そのロープは天井を伝って廊下の奥まで伸びていて──その先に、冬樹の姿があった。


 かっ、と音を立てて彼女の頭の中は一瞬で沸騰した。


「てっ──テンメエェェェェェ!」


 彼女は何もない空間を蹴っ飛ばしたかのように前へ跳んだ。弾丸の如く、廊下の奥にいる冬樹に向かって一直線。そして、


 ばりん、と彼女は【鏡】にぶつかった。


「!? !? !?」


 わけがわからなかった。目の前の光景全てにヒビが走った。直後に鏡が砕け、その奥に本物の廊下の姿が現れる。一瞬惚け──気付いた。


 冬樹は廊下の奥にいたのではない。背後にいたのだ。


「こっ……こんの……ッ!」


 怒りに燃える瞳を振り返らせた頃には冬樹の姿は既になく、ただ足音だけが聞こえた。階段を上っている。


「ざけてんじゃねえぞコラァアァアァアァアァッ!」


 叫び、燃える炎の如き光を身に纏う。飛ぶ。


 二階。七メートル向こうの教室だけ光が灯っている。迷うわけなど無かった。冬樹はあそこにいる。そうとしか考えられない。少し開いた出入口の扉の前に足を着け──何故扉が少し開いているかを考えずに──勢いよく開いた。


「ここかぁっ!?」


 ぼふっ、と頭に何かが落ちてきて白い粉が舞った。


「ああ!?」


 慌てて頭に載ったそれを払い落とす。床にことんと落ちたそれは、プリシスの記憶に間違いがなければ黒板消しというものだ。


「……ふ、ふざけた真似しやがってぇぇぇっ! ……ぁん?」


 と、前方の教卓の上になにやら立て札のような物がある。


『右を見ろ』


 とある。プリシスは素直に右を見た。そこには壁に張り紙がしてあり、それには、


『左を見ろ』


 左を見ると、前から三番目の机の上に立て札。


『下を見ろ』


 足元を見下ろすと、床にも小さな紙が。


『上を見ろ』


 プリシスは素直に従って上を見上げた。


 天井には便所にあるような鏡が張ってあり、その横に、


『ざまあみろ。↓馬鹿が見る馬鹿にしか見えない馬鹿の顔』


 思いっきり馬鹿を見てしまった。


「────」


 絶句。


 刹那、プリシスは文字通り爆発した。




 冬樹はプリシスのいる五つ先の教室にいた。明かりを点けていない真っ暗な部屋で、微かな光を頼りにWALTHERの弾丸を補填している。傍らにはUZIという有名な軍用サブマシンガン。これはこの教室に隠して置いた物だ。


 冬樹は今、机と机の間に腰を下ろして教室の窓際の壁に背を預けている。頭上の窓の鍵は開けてあった。プリシスに見つかったらUZIで牽制しつつ窓から飛び降りるつもりなのだ。ここは二階だが念のために窓の下にはマットを敷いてある。


 大丈夫、落ち着け──冬樹は自分に言い聞かせる。ここまでは順調だ。この調子であの二人に『人間』という存在の強さ、恐ろしさを教えてやればいい。自分たちが蔑 んでいた生き物がどれだけ強く、恐ろしく、底が深いかを。


 右方向から、ずどん、と腹に響く爆音。そして衝撃。多分、挑発を仕掛けて置いた部屋からだ。引っかかったのは間違いなくプリシス。馬鹿め、あんな子供だましに引っかかったのか。そう思いつつも心臓が早鐘を打っている。なんだかんだ言って自分も緊張しているのだ。


 だから、顔の両隣に白い腕が現れたときは思わず声を上げそうになった。壁があるはずの背後から伸びてきた二本の腕は冬樹の首から下を抱きしめた。


 瞬しかいなかった。彼女は『物質透過』ができるのだから。


 冬樹は壁から生えた──端から見れば気味の悪い事この上無い──腕から逃げ出そうとして、


「ま、待ってください! 私は冬樹さんを止めに来たんです!」


 その言葉に動きを止めた。壁から抜け出てきた瞬の顔が左肩の上に現れる。反射的に冬樹はついっと顔を右に逸らした。


 止めに来た? 何を今更。止まるわけがないだろう。君達を負かせるまで。


 瞬は震える声で言った。


「やめてください、こんなこと。どうしていきなり変なことを言い出したんですか? 冬樹さんらしくないです。冬樹さんはもっ」


「君に僕の何がわかる」


 氷のような声が、瞬の言葉を鋭利に切り裂いた。


 瞬の息を呑む音が聞こえた。それを無視して、冬樹は言った。


「離せ」


 その一言で思い出したように瞬の両腕に力が篭る。


「い、嫌です」


「離せ」


「嫌です!」


 沈黙。様々な、複雑な気持ちが凝縮した一秒──そんな間をおいて、冬樹は冷徹な声で言った。


「ゲームだったんだろ?」


「……え?」


「なら、ゲームで決着をつけて何が悪い?」


「え? ……え?」


 瞬からは冬樹の顔は見えない。冬樹からも彼女の顔は見えない。見たくない。だから、押し殺した声であっても、その言葉は言えた。


「僕の心を弄ぶのは楽しかったか?」


 ひうっ、と心臓と肺を同時に掴まれたような声がこぼれた。そして、冬樹を押さえ付ける両腕の力はどうしようもないくらいに弱まった。


 冬樹は無情な動作でその腕を振り解き、ゆっくり立ち上がった。


 そして振り返り、壁から出ている瞬の顔を見下ろした。




 どこまでもどこまでも冷たく無表情なその顔を、瞬は鬼よりも怖いと思った。


 この世で一番怖い、それは怒りの表情だった。




「体育館」


 そう言い残して教室を出ていく冬樹を止めることなど、瞬には出来なかった。力のない動作で壁から身を抜き、さっきまで冬樹が座っていたところにへたり込む。


 ば、バレてた──!?


 銃で撃たれたときよりも、冬樹が屋上から飛び降りたときよりも、強烈な衝撃だった。


 冬樹の言葉はどうしようもないほど大きな穴を瞬の胸に穿った。膨大な喪失感。そして、その穴を徐々に絶望感が埋めていく。


「……ど、どうしよう……」


 頭がくらくらするほど混乱していた。取り返しのつかないことをしてしまった──そう思う。どうしよう。私の知っている冬樹さんはこういうことを絶対に許してくれない人だ。いや、それどころか憎みさえする人だ。


 私は、冬樹さんを騙していた。私は、冬樹さんを裏切っていた。それは許されない罪なのだ。さっきの冬樹さんの声はいつもと同じ調子だったけど、私には分かる。とても冷たかった。冬樹さんは、間違いなく怒っているし、傷ついているし、悲しんでいる。そして傷つき悲しんでいるからこそ、冬樹さんの怒りの大きさは計り知れない──


「……だから……だから、こんなこと……」


 思い至り、呟く。そして果てしなく打ちのめされる。冬樹にここまでさせたのは紛れもない、自分だったのだ。


 頭の中が真っ白になった。何も思い浮かばなくなった。


 呆然とする瞬の耳には、遠くから聞こえてくる爆音や銃声は聞こえていない。


 謝らなきゃ……


 不意にそんな思考が浮かび上がる。そうだ。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。どうしようもなく冬樹を裏切り、傷つけ、悲しませてしまった。謝らなければいけない。まだ、まだ余地はあるはずだ。冬樹は怒っている。それはつまり自分は見捨てられていないということだ。謝れば許してくれないまでも、怒りは鎮めてくれるかも知れない。いいや、もはや冬樹の怒りが鎮まるとか許してもらうとかそういう次元の問題ではない。


 謝らなければいけないのだ。自分は、どうしても。それが道理だから。


 体育館──と冬樹は言っていた。行かなければ。行って謝らなければ。


 瞬はふらふらと立ち上がり、体育館を探して走り出した。




 UZIが火を吹いた。冬樹は既に第二校舎から第一校舎へと移動しており、その三階の窓から第二校舎の二階の廊下を歩いているプリシスを狙った。馬鹿が、体中から赤い光が出ているぞ。当ててくださいって言ってるのか?


 WALTHERを使うとレーザーで気付かれてしまう恐れがあるため、敢えてUZIで『下手な鉄砲数撃ちゃ当たる』を行った。


 ガラスの窓が悲鳴を上げて割れ砕け、赤い光の縁で描かれていたプリシスのシルエットが窓の下に消えた。それを確認すると同時、WALTHERを取り出してプリシスがいた廊下の一角をレーザー照準で撃つ。何を狙ったかと言えば消火器だ。


 ぼうん、と粉っぽい爆音が響いた。消火器が人間くさい動きで苦しそうにのたうち回り白い粉塵を撒き散らし、その一部が割れた窓から外に噴き出した。


 トドメとばかりに冬樹は小さな瓶を懐から取り出した。窓から身を乗り出し、それを前方、眼下の廊下に向かって投げつける、窓の下に身を隠す、更なる爆音が響く、早くも冬樹は次の予定ポイントへ向けて移動を開始する。投げつけたのは爆弾だった。


「──ぬがああああああああ!」


 移動を開始した二秒ほど後、先程まで冬樹がいた所に雄叫びと共に光の塊が現れ──おもしろいほどあっけなく、校舎の一部が蒸発した。プリシスか、と思う。火炎だけじゃなくて閃光のような熱量まで使えるのか──と言うよりも何を考えているあの女、いくらなんでもアレを喰らったら死ぬどころじゃすまないぞ。骨すら残らない。


 一発も喰らうわけにはいかないな──


 冬樹はUZIの弾倉を交換しながら暗い夜の学校の廊下をひた走る。




 ずぶ濡れに消火器の粉で綺麗なほど真っ白になったプリシスは、人間相手に手こずっている自分が信じられなかった。さっきから向こうの攻撃──主に銃弾や瓶型の爆弾──は的確でその殆どを避けきれていないのに、こっちの攻撃は向こうには全然当たっていないらしい。まあ建物の中だと言うことで手加減しているのもある。あんまり派手にやると自分が生き埋めになってしまう可能性があるため、大出力の攻撃は出来ないのだ。


 ほらまた、廊下をゴロゴロと鈍い音と共に何かが転がってくる。それはガラス瓶だ。中身がたっぷり詰まっているためにその動きはとろい。これが冬樹の放った爆弾だというのはわかっている。プリシスは知らないが、硝酸カリウム、硫黄、炭素、マグネシウム、紙粘土、蝋燭を冬樹がある方法で混ぜ合わせて作った物だ。爆弾を追うように廊下の奥から赤い光が這ってきて──赤い点がガラス瓶に重なった。銃声。ゴム弾に砕かれたガラス瓶が眩い光を発し、プリシスの足元で爆発する。


「ちぃっ──!」


 舌打ちして両腕で顔をかばう。冬樹の言った通りだった。口や鼻や耳はよくわからないが、プリシス達の弱点は目なのだ。そこだけは他の部分と比べれば異常に脆いのである。


 コンクリートに小さな穴を開けるほどの威力を前に、しかし彼女の体はびくともしない。服だけがあちこち擦り切れて、革のスラックスは膝から先がボロボロになっていた。


 思わず見えない冬樹に向かって怒鳴った。


「ちっくしょ──────────ッ! でてこぉい! 卑怯だぞぉぉぉぉっ!」


 出てくるわけがないのはわかっていたが、怒鳴らずにはいられなかった。やばいな、と少し思っている。あの少年はこの建物の中にいくつもの罠を忍ばせ、いくつかの武器だけを使って、実に的確な戦闘を展開している。いわば自分はクモの巣に捕らわれたようなものだ。まずい。まずすぎる。冬樹は嘘を言わない少年だった。甘く見ていたら本当に足元をすくわれてしまった。向こうにこちらに対する決定打がないのがせめてもの救いだ。


 手玉にとられてんのは変わりねえか──くそっ!


 苛立ち紛れにすぐ側のドアを蹴り飛ばす。木製のドアは悲鳴を上げて砕け散った。


 冬樹の足音が遠ざかっていく。


 プリシスはそれを見失わないために追いかけるしかなかった。


 ちくしょう……絶対、絶対に追いつめてやる。勝つのは、あたしだ!


 そう誓った直後、冬樹の仕掛けた──塩素酸カリウムとワセリンで作った──プラスチック爆弾の地雷に引っかかった。プリシスは玩具みたいに吹っ飛んでしまった。廊下に仰向けに寝転がったまま叫ぶ。


「こんちくしょお──────────ッ!」




 体育館の照明は煌々と広い空間を照らしていた。


 冬樹は走って体育館の中を横切り、一番奥の舞台に上った。ここにも罠の準備をしてある。後は、プリシスと瞬が来るのを待つだけだ。


 冬樹は舞台の上で深呼吸して、息を整えた。事はこれ以上ないほど上手く進んでいた。あっけないぐらいだ。相手に決定打を与えているとは言えないが、こっちだって何のダメージも受けていない。罠の数々で相手に精神的な苦痛は十分に与えられたはずだ。そしてそれが目的だった。


 後は、あの二人に『まいった』と言わせればいい。そして、そのための手段はこの体育館に用意してあった。


 ポケットから腕時計を取り出して時間を確認する。午後九時六分。大体一時間ほど遊んでいたことになる。仕込んでいたネタは殆ど使ってしまった。まあ主にプリシスに向けて、ではあるが。彼女はおもしろいぐらい全ての罠にはまってくれた。単純すぎて怖いぐらいだ。あそこまで凄いと天然だからだとは思うのだが『わざとかもしれない』とついつい穿った見方をしてしまう。


 今も何かの壊れる音やプリシスの怒号が遠く聞こえてくる。距離と方向とプリシスの反応を合わせると、あれはきっと第二校舎の一階に仕掛けておいた『電気ウナギ』の罠だ。今頃彼女は天井から降ってきた電気ウナギに絡み付かれていることだろう。


 だが、こんな状況でも冬樹は油断しない。舞台の上でUZIを構えた。体育館の中全てに視線を走らせる。さっきみたいに瞬が壁抜けをしてくるかもしれない。どんな有利な状況であっても冬樹は笑わない。笑えない。笑うことを知らない。


 生真面目な顔で、サブマシンガンを構えている。


 それから数分後。


 ついに冬樹の待っていた時がやってきた。


「──冬樹さんっ!」


 体育館の出入口に必死な表情の瞬が現れた。冬樹は無言。返事などしない。UZIの銃口を向けた。瞬はどもりながらも何か言おうと、


「──あっ、あのっ、あのわ、私っ」


「動くな。撃たれなくなかったら僕の指示に従え」


 体育館の中では声がよく響いた。冬樹の言い放った言葉とその冷たい視線に、瞬は頬を叩かれたように口をつぐんだ。


「体育館の中央まで」


 UZIの銃口で場所を示す。瞬はまた何か言おうと口を開きかけ──閉じた。俯き、冬樹の示した場所へとぼとぼと歩く。


「そこで待機。僕がいいと言うまで口を利くな。逆らえば撃つ」


「…………」


 見ている者も落ち込みそうなほど、瞬は表情を曇らせた。今にも泣きそうな顔をする。しかしそれを見ても冬樹の心は揺るがなかった。ざまあみろ、そう思う。


 それから程なくして、同じ出入口にもう一人の少女が姿を現した。


「うらあっ! とうとう追いつめたぞテメこのクソ野郎!」


 ボロボロの服を着たプリシスはそう言った。説得力の欠片も無かった。どこからあんな台詞が飛び出したのか冬樹には不思議で仕方がない。──ああ、馬鹿だからか。納得する。


 プリシスは『ずびしぃっ!』と右人差し指で舞台上の冬樹を指し、


「もう逃がさねえぞ! ここがテメエの墓場だ!」


「言ってろウジムシ」


「なっ……なんだとこらぁ──────────ッ!」


 プリシスの両目と眉がそのままひっくり返ってしまいそうな勢いでつり上がった。その周囲で赤い光が連続的に弾け、彼女は炎の如きオーラを身に纏う。砲丸投げのようなフォームで右拳を引き絞る。その拳が赤熱し、無茶苦茶な力が集束していくのがわかる。冬樹は何も言わずにUZIの引き金を引いた。ゴム弾の雨が真横に降る。UZIが吐き出した大量の衝撃力の塊はしかし、プリシスに触れるより早くその周囲を覆う力場によって時に弾かれ、時に蒸発した。


 プリシスは壮絶な笑みを浮かべた。


「あたしの拳で直接逝けやオラァアァアァアァ──────────ッ!」


 冬樹の判断は素晴らしかった。プリシスが体育館の床を蹴った。冬樹はプリシスから銃口をはずし、ポケットから取り出したナイフを握り、舞台袖へ向かって走り出した。プリシスの跳躍は飛翔に繋がるものだった。重力を無視して彼女は魔法のように飛ぶ。冬樹は間に合わない、そう察して思い切ってナイフを投げた。一本じゃ足りないかもしれない。不安になって持っているナイフを全て取り出し、舞台袖にピンと張って固定してあるロープに向かって投げた。投げまくった。うまくいった。一本目のナイフはロープに切れ込みを入れ、二本目も別の所に切れ目を作り、三本目でロープは切断された。その時、プリシスはちょうど瞬の横を通り過ぎようとしている所だった。


 最後の罠が発動した。


 がっ! という音に瞬もプリシスもぎょっとした。音がしたのは冬樹から見て右、二人から見て左。三人ともその方向に視線を向けた。その行き着く先には五つある体育館の入り口の一つがあった。誰もがそれを確認した、その時だった。


 出し抜けに扉が開いて中から緑色のネットが飛び出した。


「「──!?」」


 絶妙のタイミングだった。放たれた矢のような動きで体育館の中央へ飛んだネットは瞬く間にその体を広げ、【偶然にもそこにいた】瞬とプリシスを飲み込んだ。その唐突さに二人はひとたまりもなく驚いて悲鳴を上げた。


「きゃああああああああっ!?」


「うわああああああああっ!?」


 ワイヤーの巻き取られる鋭い音と共にネットは広がり続け、あっと言う間もなく瞬とプリシスは原住民の罠にかかった猛獣のような状態になった。二人してもみくちゃに体を絡め合ってネットの巾着で天井から吊される。


 二人の少女は数メートル空中でぶらんぶらんと宙吊りになるという状況に追い込まれたのだった。


「なっなに何ですかこれどうなってるんですかええ──────────っ!?」


「おい何だよこれどうなってんだよくそ──────────ッ!?」


 彼女達はどうしようもなく狼狽え、ぎゃあぎゃあと喚いた。プリシスの右手あたりで煙が上がるがあのネットは難燃性だ。もう少しは保つ筈。


 冬樹は有無を言わさない口調で叫ぶ。


「目を閉じろ!」


 そしてネットの巾着袋の真上にUZIの銃口を向けて引き金を引いた。銃声が幾重にも重なり、無数のゴム弾が天井のネットの結び目、そこに吊しておいた十数本の小瓶を砕いた。


 砕けた瓶に詰まっていたのは透明な液体だった。それらは全て真下でおにぎりになっている瞬とプリシスに降り懸かる。


「っきゃあ冷たいっ!?」


「うわべっべっべっなんじゃこりゃあっ!?」


 冬樹は二人の声を無視。じっと二人の様子を観察する。すると二人の体から、じゅうう、と何かの焦げる音と白い煙が。


「……え? あ、なにこれなにこれなんなんですか!? 何の音ですか!? 何で煙が出てるんですか!?」


「あたしが知るかよってかどけよ鬱陶しいなおい──って服!? 服が溶けてるぞお前!」


「そういうゴルディオさんだって! ってえええええっ!?」


 その通り。二人の身を包んでいる衣服が音を立ててその姿を消しつつあった。今先程、彼女達が被ったのは濃塩酸だったのだ。それでも肌には何の異常も無さそうな様子を見て、予想していたとはいえ冬樹は呆れてしまった。何という肌をしているのだろうか、彼女達は。


 彼女達の肌はまさに鉄壁だが、それを覆う衣服はそうではない。部室が半壊したときの二人の戦闘を思い出して、そのことに気付いた。あの時、瞬の肌は炎にあぶられても火傷を負わなかったがシャツの袖は燃えた。あの時、プリシスの肌は巨大なツララを以てしても貫けなかったが服には穴が開いた。なら、そこが弱点だ。服を剥ぎ取ってしまえば、おそらく彼女達は動けなくなる。


 まだ量が足りないか──そう思った冬樹は銃口を更に上へ向けた。ネットの巾着は天井を縦横に走る鉄骨にくくりつけてある。そしてその更に上の天井には、こちらは濃硫酸の瓶を吊してある。


 UZIの引き金を引いた。


「うっきゃあああああああ!? ちょっ、ふ、冬樹さん!? 冬樹さん!?」


「わっばか何考えてやがるこのスケベ変態ここから降ろせ──────────ッ!」


 聞く耳などもつわけがない。冬樹は二人の服が溶けるのを何も言わずに待った。数分も経つと、二人の服は跡形もなくなってしまっていた。胸の大きさは並で全体的にスレンダーな体型の瞬も、胸も尻も大きく腰は並という少し努力すればかなりイケるのではないかな体型のプリシスも、揃って要所要所を隠そうと腕を動かそうとした。だがネットは無情だった。二人にまともな自由など認められなかった。生まれたままの姿をさらけ出すこと以外には、何一つ。あまりの恥ずかしさにこのまま消えてなくなってしまいたいという願いの篭った、そして恥ずかしすぎて半分泣いている、悲痛な悲鳴が上がった。


 冬樹は鬼のように冷たかった。


 彼が懐のポケットから取り出したのは、なんと一台のカメラ。彼がいつも大切に磨いていた祖父の形見、名も無き『ビックリ箱』である。


 瞬とプリシスの顔がこれ以上無いほどにひきつり、トマトが真っ青になって裸足で逃げ出すほど顔を真っ赤にして、それはそれは大きな声で悲鳴を上げた。瞬もプリシスも化け物とは思えない、実に女の子な声で許しを請う。


「いや──────────っ! すみませんごめんなさいもうしわけありません私が悪かったんです許してください──────────っ!」


「わ──────────ッ! 馬鹿馬鹿よせ馬鹿考え直せ悪かったあたしが悪かった謝るからそれだけはやめてぇ──────────ッ!」


 しかし、冬樹は復讐に燃える冷酷な男だった。


 シャッターは容赦なく切られた。それこそ十回以上も。


 少女達の服と同様に濃塩酸と濃硫酸にやられたネットがついにちぎれ、真っ裸の少女二人は体育館の床の上に落ちた。彼女達にとってネットの寿命が終わるのは、ほんの一分だけ、しかし致命的に遅かった。


 あられもない姿になった彼女達は床の上で団子虫のように丸くなった。それは女性の弱点であった。そして男が取ってはいけない行動でもあることを冬樹は自覚していた。


 それでも冬樹は無表情に、舞台の上からその様子を見下ろして、言った。


「まいった──は?」


 二匹の芋虫のうち金色のが真っ赤な顔だけ上げて、


「ばっかやろうふざけんな何考えてやがんだ卑怯だぞエッチ変態スケベ──────────ッ!」


 珍しい。プリシスが泣きそうな顔をしているのを冬樹は初めて見た。しかしだからこそ冬樹は心理的優位に立てる。勝ち誇ったように言ってやった。


「写真を公開してやろうか?」


 どこからどう見ても悪人だった。グランプリ一等賞だ。瓶爆弾よりも威力のあったその言葉にプリシスは顔を蒼くし──それでも虚勢を張った。


「やれるもんならやってみろよ! だけどなぁ! そんなコトしたらタダじゃすまさねえぞ! ってか今ここであたしから逃げられると思ってんのかカメラごとケシズミにしてやらあ!」


 確かに、今すぐにでも彼女が本気になればそれは叶うだろう。顔にも口にも出さないが、実はUZIの弾は切れている。あとはポケットの中のWALTHERだけだ。今、彼女が裸を曝すことをいとわずに冬樹と戦うのであれば、本当にそれは可能である。


 だが──冬樹は溜息を付いた。それは相手をあからさまに哀れむ溜息だった。強い視線でプリシスと目を合わせ──勿論、彼女はうっと怯み──冬樹は容赦なく少女の弱点を突いた。


「そっくりそのまま返す。やれるもんならやってみろ」


 プリシスはハッタリと脅しに弱かったのである。




「……まいった」


「……まいりました」


 今にも消えて無くなってしまいそうな、それは蚊の鳴くような声だった。




 冬樹は勝利したのだった。






 当然の如く、瞬やプリシスの望む決着などつかなかった。


 毛布で身を包んだ二人に、冬樹は彼女達の恥ずかしい姿の入ったカメラを盾にこう言った。


「もう僕につきまとうな。自分たちの世界へ帰れ。僕はもうどっちにも協力しない」


 この指示に従うのならばカメラの中のフィルムもやる、と言った。また、従わない場合はこれを現像してばらまく、とも。


 文句が出てくるわけなかった。瞬にも、プリシスにも、頷く以外の道などなかった。二人とも裸を男に見られたのなんか初めてだった。それが写真という形で残るなんてとんでもなかった。


 交渉は問題なく終了した。冬樹は『ビックリ箱』からフィルムを取り出して、プリシスに渡した。しかしその途端、彼女は獰猛な笑みを浮かべて、


「へっ、これさえ手に入ればこっ」


「もう一度やるか?」


 冬樹は懐から一本の瓶を取り出した。透明な劇薬が、ちゃぷん、と揺れる。


「ちの……もん……」


「僕なら構わないぞ。今度は最後まで容赦しない」


「…………」


 反撃の狼煙は上がる前に水をぶっかけられてしまった。


「その毛布、それだけしか用意してないから後は知らないけどね」


 しれっと言う冬樹をプリシスは無言のまま、すさまじい形相で睨みつけた。そして、ふんっ、とそっぽを向き、そのまま去っていった。赤い光を発して弾丸の如く飛び、体育館の壁をど派手にぶち破って出ていった。


 そして、それが最後だった。彼女はあっけないほど簡単に自分の世界へ帰っていってしまった。


 壁壊していくなよ──そう思いながらその姿を見送った後、冬樹はおもむろに、


「君も、だ」


 俯いている瞬に向かって言った。びくり、と電流を流されたように瞬の体が震えた。その時、不意に冬樹は気付く。毛布にくるまれている少女の体は思いがけず小さかった。思わずポケットの中のWALTHERに意識を向け、冬樹は複雑な心境になった。


「……ごめんなさい……」


 ぽつりと瞬が言った。


「ごめんなさい……本当に……」


 瞬の方を見ずにあさっての方向に視線を向けて、冬樹は聞いた。


「……何が?」


 瞬は俯いたまま顔を上げようとしない。ぽつり、ぽつりと語る。


「私……冬樹さんを騙していました……嘘、ついていました。……本当に、ごめんなさい……」


「謝られても嬉しくない」


 冬樹はきっぱりと遮断するように言った。無茶を言っているのは自分でも分かっている。だが、それが本音だった。


「謝るぐらいなら最初からしなければいいだろ」


 そう思うから、苛立ちを隠さないでいる。


「……ごめんなさい……」


 再度謝罪の言葉を繰り返す瞬に、冬樹はついカッとなって怒鳴ってしまった。


「うるさい! 謝られても僕は嬉しくないって言っただろ! 僕は──!」


 僕は──なんだ?


 唐突に気付いて、冬樹は息を呑んだ。


 僕は、何を望んでいる? 何がしたくて、こんなことをしたんだ?


 ──そうだ、復讐だ。この目の前にいる精霊『様』に裏切りの代償を与えてやることだ。


 そして復讐はもう終わった。代償も与えた。では、その後は?


「…………」


 何も考えていなかった自分に驚愕した。待て、ちょっと待て。そうだ、この娘に帰ってもらえばいい。それで終わりだ。すっきりする。


 ──ならば何故、最初からそうしなかった?


 決まっている。復讐するためだ。思い知らせるためだ。


 ──すっきりしたのか、僕は?


「…………」


 肯定したら、それこそ大嘘つきだった。冬樹は、少しも満足していない自分がいることに気付いた。同時に、ひどく虚しくなった。


 何やっていたんだ、僕は……?


「うっ……くっ……ひっく……ごっ、ごめん、なさいっ……ごめんなさいっ……!」


 瞬がとうとう泣き出して、涙混じりに謝罪の言葉を繰り返す。これだったのか? こんなものだったのか? 僕はこんなのを求めていたのか? 自分の心を傷つけられた仕返しに、この娘を泣かしたかったのか?


 違う。そうじゃない。そうじゃないはずだ。


「僕が──僕が求めていたのは……」


 呆然と呟くその先は、言えない言葉だった。冬樹だから、言えない言葉だった。言えば冬樹が冬樹でなくなる、そんな言葉だったのだ。


 言葉を無くし、いつかと同じように藁にもすがる思いで、苦し紛れに冬樹は言った。


「帰るのは明日でもいい。荷造りとか、あるだろうから」


 今も昔も、泣いている女の子は苦手だった。









 翌日、雪が止んだ。


 冬樹の直感は当たっていた。


 降り続ける雪は瞬とプリシスのゲームが『続行中』という合図だったのである。


 ゲームは終わった。冬樹が潰した。だから、雪が止んだ。簡単な図式だった。


 冬樹は今、玄関で瞬を待っている。彼女は父・大樹と母・雪子に別れの挨拶をしていた。「そうかぁ、国に帰っちゃうのかシュンさん」「寂しくなるわねぇ、プリシスちゃんも急に出て行っちゃったし」「ありがとうございました。本当に、お世話になりました」「いいんだよ、気にしなくて。家事まで手伝ってもらって感謝するのはこちらの方さ」「そうよ。気にしないで、またいつでも遊びに来てちょうだいね?」「はい、是非また!」


 手ぶらで玄関までやって来た瞬に、冬樹は聞いた。


「もういい?」


「はい」


「じゃ、行こうか」


 時刻は既に十二時半。真っ昼間であるが、冬樹は学校をさぼったわけではない。神無学園はあの有り様であり、勿論まともに授業が行われるわけがなく、生徒は連絡があるまで自宅で待機という状況である。


 別に瞬が帰るのに家を出る必要はないらしいが、それはそれ、両親に対する体裁というものである。冬樹は『空港まで送ってくる』という名目で瞬の見送りをすることになった。


 家を出て、二人はまだ積雪の残る住宅街を歩き、まだ緑の生え変わっていない土手まで来た。


 二週間前に瞬が落ちてきた場所である。


 空気は気まずいの一言に尽きた。冬樹も瞬もお互いに話しかける種がないのである。例え突発的に瞬あたりが無理をしたとしても、


「そ、そういえばここって私が落ちてきたところですよねっ」


「ああ、そうだね。あの時はびっくりした」


「あはは……すみません……」


 たったこれだけのやり取りで雰囲気は悪化した。


 冬樹と瞬はそのまま土手を降り、


「そ、そういえばここって私が溺れたところですよねっ」


「ああ、そうだね。あの時は本気で馬鹿だと思ってたから。今でもだけど」


「ぐふぅ! ひ、否定できる力をください神様……」


 更に悪化の一途を辿る空気の中、二人はどちらからともなく顔を見合わせた。


 自然と見つめ合う。


 同時にはたと気付き、同時にぷいっとそっぽを向いた。重い空気が質量を持って二人にのしかかる。勇気を振り絞るのは瞬の方が早かった。


「……冬樹さん。一つ、勝手な話をしてもいいですか?」


 冬樹は答えなかった。その無言はこの場合、肯定だった。瞬ははにかんで俯き、両手の指を複雑に絡め、


「前、私、言いましたよね。冬樹さんのこと、色々知っているんですよ──って」


 冬樹は無言。


「だから私、昨日思ったんです。ああ、冬樹さんってやっぱり優しい人だな……って。そりゃちょっとひねくれてるとは思いますけど、でも、何というか『素直にひねくれている』って感じで」


 冬樹は無言。


「……あのカメラ、冬樹さんのおじいさんの形見なんですよね。それで……」


 冬樹は無言。


「もう壊れていて、写真撮れないんですよね。フィルム入れてたのって、振りだけ──だったんですよね?」


 冬樹は無言。この場合、沈黙は肯定だった。そう、あのカメラは売らないし、売れない。いくら古くてアンティークの価値があっても、故障していては意味がないのだ。瞬はくすりと笑って、


「私、冬樹さんのそういう何気なく優しい所って好きです」


 冬樹は無言。無表情。感情の揺らぎを見せない冬樹に、瞬は急に表情を曇らせ、


「……騙しておいて、何言っているんでしょうね、私。ごめ」


 んなさい、と言いそうになって瞬は口をつぐんだ。謝ったらまた怒られると思ったのだ。


 冬樹は無言。


 瞬は哀しそうにそっと吐息。


「……それじゃ私、そろそろ帰りますね。……嫌われちゃったみたいですし……」


 冬樹は無言のまま、瞳を瞬に向けた。冬樹の見ている前で瞬は姿勢を正し、まるでお手本のような御辞儀をした。


「お世話になりました。本当にありがとうございました。多大な迷惑をおかけしてしまったこと、心からお詫び申し上げます」


 声が震えていた。顔を上げた。唇の右端がわなわなと震えるのを止められなかった。泣きそうになるのを必死に我慢して、精一杯の笑顔を浮かべて、


「さよう」


「また」


 別れの言葉を冬樹が遮った。瞬は驚いて目をぱちくりさせた。ばつが悪そうに冬樹は視線を川に逸らし、


「……来ればいいと思うよ。父さん達、また来いって言ってただろ? あの人達、君のこと気に入ったみたいだから。君が来たら喜ぶと思う」


 沈黙。

「……それだけ。もう来るなとは言わない。嘘ついていたことはもう怒っていない。忘れてはないけどね。もう報復はしたから。それに……」


 沈黙。冬樹はその時だけ、瞬の顔を真っ向から見た。


「僕は別に、君のこと嫌いじゃないから」


 そしてまた視線を逸らした。この素直ではない少年のその態度が『照れている』とわかるのは、瞬以外で言えば村上ぐらいなものだろう。


 瞬の両目から、大粒の涙がこぼれた。ポツリ、と言う。


「ひどい……」


「えっ」


 思わぬ言葉に驚いたのか、冬樹は弾かれたように瞬の顔を見た。


 瞬は、涙を流しながら笑っていた。


「ひどい……そんな……そんな優しいこと、こんな時に言うなんて……ひどいです……私、これから帰るのに……帰りたくなくなっちゃうじゃないですか……」


「えっ、いや、その……」


 ちぐはぐな顔と言葉に、冬樹は狼狽していた。良いことを言ったつもりなのに、悪いことを言ったつもりはないのに、女の子が泣いてしまった。


 そんな冬樹の狼狽える姿がおかしくて、瞬はくすくすと笑った。冬樹は『わけがわからない』と言いたそうな顔で困っている。それがおもしろくて瞬はもっとくすくすと笑った。そして涙を拭い、笑いながら言った。


「ありがとうございます。私、また来ますね! 絶対絶対ずぇぇぇぇったいに! 首洗って待っててくださいね!」


「──っていうか待ってろ、だろ?」


 冬樹の言葉に、瞬は一瞬だけ面食らい──思いっきり笑顔で頷いた。


「はい!」


 雪女の少女の体が、蒼く淡い光に包まれた。


 冬樹は──彼にしては幾分柔らかい調子で──言った。


「気を付けて」


 瞬は頷き、満面の笑みで言った。


「それでは、また!」


 何の前触れもなく瞬の体が垂直に浮き上がり、アッという間に空に浮かぶ点になった。と思った次の瞬間には空の彼方へ素晴らしい速度で消えてしまった。


 冬樹は、瞬が飛び去った方向を見ていた。


 五分ほど見続けていた。


 そして何事もなかったかのように家に帰っていくのが冬樹だった。








 後日談





 白い雪がしんしんと降る、そんな朝のことだった。


 雪の積もった道を傘を差して歩きながら、沢村冬樹は小さな吐息を一つ。


 さくり、さくりと雪に足跡を刻みながら歩いている。一年前まではこうやって真っ白な雪に足跡を付けていくことに何も感じなかったが、今は違う。小さい頃のように、ほんの少しだが、楽しいと感じている。


 そう。あれから早くも一年が過ぎていた。


 黒い傘に黒い学生服、その上に羽織っているのは雪にも負けないほど真っ白なダッフルコート。両手には黒い手袋を填めている。


 冬樹は今でも神無学園に通っている。進級して三年八組。今年の春には卒業する予定だ。あの冬樹と異世界の少女二人の戦いによる学園の被害は甚大なものだったのに。教室は滅茶苦茶、廊下はでこぼこ、体育館の床は濃塩酸と濃硫酸で穴だらけ、校舎の殆どが焦げており、しかも一部は蒸発していて、二階男子トイレの鏡が紛失していたという。勿論、犯人などすぐに判明した。言うまでもなく、事が起こる前の数日間の冬樹の行動がその原因である。


 だがそれでも、冬樹はここにいる。


 それは何故か。それを語るに必要な人物は村上と、神無学園理事長である。なんのひねりもない友情物語と言ってもよい。冬樹を退学にせざるを得ないなと考えていた理事長の元に、村上が大量の署名を持って現れたのだ。当然、そんな署名など何の力も持たないはずだった。


 しかし──しかしである。神無学園の理事長は変な理事長だった。そして変な理事長は『そういうの』が好きな理事長であった。そんな馬鹿な、と思う人は思うだろう。実に都合のいい話である。


 だがそれでも、冬樹はここにいる。


 余談だがその時の冬樹は珍しく村上に『ありがとう』と礼を言い、そして大笑いした金髪の少年は腕の関節を極められて悶絶したという。


 吐く息が白い。手袋を持ってきて良かった。人は学習する生き物だな、と思う。去年は似たような状況で手袋を持ってなくて後悔した覚えがあった。


 昨晩から降り続いている雪は、街を真っ白に染め上げていた。冬樹が歩いている住宅街の家々の屋根には、例外なく雪という白いペンキが塗られ、窓という窓は霜で曇っている。


 住宅街を抜けると、そこは川沿いの土手だ。元々は緑が敷き詰められている土手だが、もちろん今は全て雪に覆われている。その土手の向こう、眼下に幅十数メートルの川が横たわっている。凍ってこそいないが、次々と雪を呑み込んでいるその様子を見ていると、何故か冬樹は一人の雪女を思い出す。


 短い黒髪の、白い服ばかりを好んで着ていた少女だ。すごい馬鹿で、意味もなく元気で、泣き虫だった。物好きなことに、冬樹のことを好き、と言っていた。彼女と過ごしたのは冬のたった二週間の間だけだった。だが、それはまるで瞬きのようで、それでいて、強烈な印象を冬樹の中に残していった。


 土手を歩いていた冬樹は、ある地点で立ち止まった。そこは件の少女と初めて会った場所だった。冬樹は何故自分が足を止めてしまったのか、わかっている。昨日は降っていなかった雪が、朝になったら降っていたから。理由もなく、この雪は合図だ、と直感でそう思う。


 その時だ。


 周囲の空気がガラリと変わったような、そんな違和感を感じた。


 胸騒ぎ。期待のような予感がする。


 冬樹は迷いなく空を見上げた。そして、目を見開いた。冬樹は今では信じるしかないものを見た。


 灰色の雲を背景に、白い服の少女が蒼く淡い光を纏って浮いていた。


 冬樹が気付いたことに気付いたのか、少女は上空からにっこりと微笑んだ。ゆっくりと、歩くような速度で空から雪のように舞い降りてくる。


 再会だった。一年前に別れた少女との。冬樹は安堵するような、それでいて何かを諦めるような、そんな白い吐息をついた。聞きたいことがたくさんあった。金髪とルビーのように赤い瞳の少女について。彼女の世界の戦争について。あの後どうやってどちらが王になる方法を決めたのか。そして、どちらが王になったのか。


 いや、それも今はどうでもいい。今、言うべきことは、やるべきことは一つだ。一年ぶりに再会した少女に、冬樹は言った。




「はじめまして」



「……はうあぁっ!? ふっ、冬樹さんっ!? 冬樹さんですよねっ!? 私ですよ瞬ですよ! 忘れちゃったんですかぁっ!」


「誰だっけ、君?」


「うにょおおおおっ! 忘れてる! 忘れちゃってますね! ヒドイッ! ひどすぎますぅっ! 首洗って待っててくださいとまで言ったのにっ!」


「冗談だよ。覚えてる。瞬だろ?」


「ぐはっ……! 冬樹さん、久しぶりだって言うのになんてハイブロウな挨拶を……」


 雪の積もった地面に足を着くと同時に膝を突いて四つん這いになった瞬に、冬樹は、


「相変わらず単純だな、君は」


 と言って、くすりと笑った。


 直後、その事実に気付いた瞬は弾かれたように顔を上げて、思わず冬樹の顔を凝視した。


 冬樹が笑っていた。


 冬樹が、笑っていたのだ。




 白い雪がしんしんと降る、そんな朝のことだった。







  完


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