火(娘)に油を注ぐ雪(女)
目の前にホットコーヒーの入ったスカイブルーのプラスチックカップが置かれるのを、プリシスは「伏せ」を命じられた犬のようにじっと見ていた。
何が何だかわからないぐらい、胸の中がむしゃくしゃしていた。自分の周囲を取り巻く全てに苛立ちを覚えていた。
その中でも特に大きいのはテーブルの向こうで足を組んでコーヒーを飲んでいるサワムラフユキに対してのものだ。
眉を吊り上げて唇を尖らせて睨んでやる。くそ、卑怯な奴め姑息な奴め。あたしを騙していやがった。「サワムラフユキか?」って聞いたら「違う」って言ったくせに。その上あたしのことを「臭い」とかぬかしやがった。そりゃあん時のあたしは臭かったさ。ああ認めてやる。あたしは臭かった。だから何だって言うんだよ。臭いっていうのは悪いことなのかよ。もし悪いっていうんなら喰えねえ食べ物が滅茶苦茶に増えちまうじゃねえかよ。
プリシスはすっかり拗ねていた。ふてくされていた。心の中で屁理屈をこねて目の前に置かれたコーヒーには絶対手を出そうとはしない。
叱られて拗ねた子供の顔をしているプリシスに、冬樹が言った。
「……飲まないの?」
「飲むかよ。こんな泥水みたいなの」
「コーヒーと泥水の違いもわからないのか」
「わ、わからいっ! で、でも絶対飲まねえぞ! テメェなんか絶対信用しねえ!」
「好きにすればいいさ」
冬樹はにべもない。それがプリシスにはかなり悔しい。腹が立つ。何だこいつ何だこいつ何だこいつ何だこいつ何だこいつ──!
「まず聞きたいのは君が何者であるか、だ」
出し抜けに冬樹がそう切り出した。
プリシスは眉をひそめ、
「……何だそりゃ?」
「君は僕を捜していたんだろう? むかつくメガネじゃなくて、沢村冬樹っていう人間を。それは……何故だ?」
瞬間、プリシスはわずかにたじろいだ。相対している少年の目が、その声が、鋭い。どきりとした。しかしそんな風に驚いてしまった自分に憤りを感じてそっぽを向き、ふん、と鼻息をついて、
「別に理由なんてありゃしねえさ。単に見つかったらラッキーみたいな感じで聞いただけだよ。何か文句あんのか」
「ある」
返ってきた言葉はあまりにも簡潔で、率直だった。
冬樹はテーブルの上にあった写真の束を手に取り、中から一枚を取り出してプリシスの方へ滑らせた。
「君みたいに僕のことを捜している人間がもう一人いる。見覚えは? 真ん中の女の子だ」
「ああ?」
なんだくそ、こいつ喋り方までむかつくぜ──そう思いながらプリシスは差し出された写真に目を向けた。
硬直した。
まぎれもなかった。間違えるはずがなかった。そこに写っていたのは『あいつ』だった。
声が聞こえる。
「その娘はもう一人、ゴルディオっていう人間が僕を捜していると言った。けど、君はゴルディオじゃないんだろ? だとしたら君はどうして僕を捜していたんだ? 何が目的なんだ?」
写真から目が離せなかった。そこに写った『あいつ』はやっぱり短い黒髪で、やたらと蒼い目をしていて、人畜無害な笑顔を浮かべて、白い服を着ていた。
自分の唇の両端がつり上がっていくのを止められなかった。体の奥底から衝動が衝き上がってくる。
「くっくっくっくっ……はっはっはっはっ……」
抑えきれず、いきなり顔を真上に向けて大声で笑った。
「はーはははははははははははは!」
「うるさい」
空のプラスチックカップが宙を飛んでプリシスの顎に直撃、スッコーン、と小気味良い音が飛び跳ねた。
「はうあぁっ!」
いきなりの衝撃にプリシスは仰け反り、喧しい音と共に丸椅子から転がり落ちた。がばっと立ち上がり、
「な、なにしやがるテメこのクソ野郎!」
「質問に答えろ。君は何の目的で僕を捜していた」
ばん、と両手をテーブルに叩き付けた。
「うるせえテメェ何様のつもりだコラ! 人間のくせにいきがってんじゃねえぞ!」
冬樹は何も言い返してこなかった。ただ、その眼光の鋭さが増したような気がした。しかしそんなことはプリシスには関係なかった。負けじと燃えるような瞳で冬樹を睨み殺そうとする。
火花の散るような数秒が過ぎた。
先に口を開いたのは冬樹だった。溜息交じりに、
「わかった、もういい。君がゴルディオじゃないなら」
もう用件はない、帰ってくれ。そう続くはずだったのだろう。だが、既に放たれた言葉の中にプリシスの引き金を引く単語があった。頭の中が瞬間湯沸かし器になった。
彼女は文字通り口から火を噴いた。
「あたしはゴルディオじゃねえええええええっ!」
「!」
目の前に炎が迫るのを、冬樹は信じられない思いで見ていた。このままでは自分の首から上が炎に喰われる。無意識の反射行動は自分で驚くほど速かった。丸椅子の上部を右手で掴んで少し持ち上げ、手首のスナップを利かせて空中で傾けると同時に両足を前に放り出して体を落とす。間一髪の差で冬樹の顔は炎の放射線状から逃れた。
頭のすぐ上を熱い「流れ」が通り過ぎていくのを、冬樹は感じた。次の瞬間、コンクリートの床に尻餅をついた。臀部を強打したが痛いと思っている余裕はなかった。
「……!」
心臓が早鐘を打っていた。自分は今ひどく間抜けな表情をしていることだろう、と思う。目を見開いて唇は半開きになった、まるで惚けたような表情を。
正直言って、どうしようもなく驚いていた。頭をハンマーで殴られたような衝撃があった。
恐怖を感じていた。
今、自分は死にそうになったのだ。
「へっ、ざまあみやがれ」
その声で冬樹は我に返った。途端に表情を引き締め、立ち上がる。上目遣いにテーブルの向こうに立つ黒い服の少女を見た。焦げ臭い。ちら、と視線を向けると冬樹の背後の壁が黒く焦げていた。
化け物。その単語が再び冬樹の脳に焼き付けられる。そうだ、こいつは化け物だったのだ。すっかり忘れていた。数十メートルの高さから落ちても怪我一つしなければ炎の中に突っ込んでも火傷一つ負わないのだ。その上、火まで噴くのである。ふと、瞬だったら吹雪でも噴くのだろうか、と考える。
「…………」
冬樹は無言のまま、服の汚れを払った。視線はプリシスに固定したまま、動かさない。腹の奥から静かに怒りがこみ上げてくる。
険悪な空気が生まれていたのは言うまでもない。
冬樹はプリシスと睨み合った。
「今のはどういうつもりだ」
冬樹の詰問に、プリシスは両手を腰に当てて不敵な笑みを浮かべ、
「はっ、悪ぃな。あたしは怒ると思わず火ぃ噴く癖があるんだよ。大体仕掛けてきたのはそっちの方じゃねえか。ああ?」
確かに先にカップを投げつけたのは冬樹の方だ。先日この部室の窓を割られたことと質問に答えようとしないプリシスの態度に腹を立てての行動だった。ちなみに三日前の件はマンホールの中で何かが爆発した物として、学校側が水道局に文句を言った。苦情を言われた水道局は災難だっただろう。実際には何の責もなかったのだから。
だが。
「それにしたって限度ってものがあるだろ。カップ投げられた仕返しに火を噴くか普通」
「うるせぇな。だから火ぃ噴いたのは癖だっつってんだろ」
二人の視線がぶつかり合い火花を散らす。
内心で思う。この女と瞬、どちらかを好きになれと言うなら自分は瞬を選ぶだろうな──と。
その直後、そんな余りに愚かしい思考に発狂しそうになった。どちらかを好きになる? そのときは瞬を選ぶ? 馬鹿か僕は。一体何を考えている。自分が誰かを好きになるなんてこと、あるわけないのに。
険悪な均衡を崩したのはプリシスだった。
「──そうだそうだそうだ! そうなんだよ!」
いきなり大声を上げて先程冬樹が差し出した写真を取った。そして両親に挟まれてリビングに立っている瞬を指差し、
「こいつだ!」
と叫んだ。
冬樹はその意図を汲み取りかね、眉根を寄せた『だからどうした』な顔をした。
ここまでの会話でとっくにわかっていたことだが、プリシスは短気だ。だから冬樹は彼女の次なる行動が容易に予想できた。彼女はばりばりと頭をかきむしって『ああっもうっ! だから──なんだよ!』と喚くだろう。
「ああっもうっ! だから、こいつに会わせろって言ってんだよ!」
ほら。
「そんなこと言ってないだろ」
「だったらそれぐらい汲み取れよ!」
随分と身勝手なことを言う。
冬樹はわざとらしく大きな溜息をつき、しかし良いことを思いついた。プリシスの目を真っ直ぐ見つめたまま、
「会いたいって言うのなら会わせてあげてもいい。だけど」
「……なんだよ?」
「条件がある」
「条件、だぁ?」
「ああ。それを呑むんなら、会わせてあげてもいい」
まるで悪役の台詞だな、と冬樹は思った。もしそうならここで体の一つでも要求するのが筋だろうか。それも面白いかもしれない。瞬を連れてさっさと自分の世界へ帰れ、とか。
一拍置いて、冬樹はその条件を口にした。
「ちゃんと僕の質問に答えろ」
雪を落とす灰色の雲を見上げ、瞬は白い息を吐いて微笑みを浮かべた。
今日も問題なく雪が降っている。とても良いことだ。
だが──
「……積もってますよねぇ、なかなか」
視線を足元に降ろして辺りを見回し、瞬は両手を腰に当てて嘆息した。彼女は今、沢村家の玄関を出たすぐの場所に立ち、家を見上げている。濃い灰色の屋根にはどっさり雪が載っており、いつ落ちてくるかわかったものではない。しかも、もし屋根の雪が落ちてきた場合、下手をすれば玄関の入り口が埋まってしまう。
雪は勿論好きだが、人間の暮らしにとっては不便な物であるということは瞬にもわかっていた。
白いブラウスと同色のロングスカートという薄着の出で立ちをしている瞬は、すっ、と両手を前に伸ばして肩より上に持ち上げた。視線は上、屋根に積もった雪に向ける。
それだけでよかった。
目に付く範囲にある全ての雪が、浮き上がった。まるで白い虫の群のような動きだった。重力の戒めから解かれた雪達は舞い上がり、暴れ回る蜂の群の如く空を飛び回り、空中のある一点に集結していく。
『雪女』と名乗ったのは伊達ではない。やがて、瞬の上空に巨大な雪玉が生まれた。
沢村家を中心とした一帯は全ての雪が消え失せ、まるで春が来たかのようにすっきりしていた。
瞬のサファイアの瞳が頭上の雪玉を捉え、にっこりと笑みの形に細まる。
歌うように、瞬は何事かを呟いた。
それは魔法の呪文だった。
音もなく、巨大な雪玉が弾けた。
降り続ける雪に交じって、弾けた雪の結晶が舞い散る。美しい光景だった。しかし、再び地上に降りた雪の結晶が積もることはなかった。車に、屋根に、アスファルトに触れた端から溶けていった。
そして『掃除』された住宅街に、再び空から降ってきた雪達が積もろうとしていく。
そんな光景を、冬樹は家から少し離れた場所から見ていた。
「──あ、冬樹さん」
瞬がこちらに気付いて声をかけてきても、冬樹は返事をすることが出来なかった。いや、余裕があっても彼は返事をしなかっただろうが。
何度見てもアホな光景だった。雪が浮いて、飛んで、集まって、弾けて、溶けて、消えるのである。ニュートンが、エジソンが、アインシュタインが、涙を流して発狂して舌を噛んで自殺しそうな光景だった。歴代の偉大な科学者や発明者が、冬樹には不憫でならない。
しかもそれを引き起こした当の本人は、まるで当たり前のことをしたような顔をしている。いや、当たり前なのか。実際に目の前で起こったのだ。現実に起こり得ることで当たり前ではないことなんてないのである。
しかし、何度見ても信じられない物は信じられなかった。冬樹がこれまで受けてきた学校教育というのはある意味で恐ろしく優秀だったのかもしれない。冬樹の脳には『常識』というものが完璧に刷り込まれているのだから。
冬樹は歩き出して、瞬に近付いた。皮肉交じりに、
「派手にやったね」
「え? そ、そうですか? てへへ……恐縮です」
「別に誉めてないよ」
「はうっ! ふ、冬樹さん、冷たい……」
冬樹は辺りを見回し、空を見上げて、白い息を吐き、
「どうせまた積もるのに」
と呟いた。
それを耳ざとく聞きつけた瞬は、まるで拗ねたような口調で、
「いーんですー。あんまり雪が積もってると凍っちゃったりして、小さい子達が転んだりしますから。さっきだって幼稚園ぐらいの女の子が転んで怪我しちゃったんですよ?」
「それで?」
「え? あ、ちゃんとバンソーコー張ってあげましたよ? そうそう、その子って偉いんですよー、転んでも泣かなかったんです」
にこにこと嬉しそうに、瞬は話す。冬樹はそんな瞬を頭の上から足の先までまじまじと眺めた。短いがサラサラとしていそうな艶やかな黒髪、サファイアブルーの垂れ気味の瞳、桜色のぷっくりとした唇。可愛い──とは思う。世間一般ではこういう娘を『美少女』と呼ぶのだろう。だが、首から下は──それほどではないが──異常だった。こんな寒い日にブラウス一枚で涼しい顔をしているのだ。
化け物。その単語が再び冬樹の脳裏をよぎる。
「……冬樹さん?」
黙った冬樹に、瞬が小首を傾げた。はっ、と我に返った冬樹はごまかすように、
「……いや、君にも良いところがあるんだな、って」
「あ、もしかして私のこと好きになってくれました?」
「さようなら」
「ああっヒドイッッ!」
抗議の声を上げる瞬を無視して冬樹は家に入った。玄関で体の雪を払って靴を脱ぎ、
「鞄はちゃんと部屋に持って上がってくださいね」
いつも通りリビングにバッグを放り入れようとしたら瞬に釘を刺された。そういえば彼女は随分とこの家に馴染んだな、と思う。馴染んでいる彼女も変だと思うが、今みたいに注意されるようになってしまった自分も自分だ。
仕方なくバッグを背負って階段を上ろうとして、冬樹は思い出した。立ち止まり、背後の瞬の方に振り返る。
「聞いて良いかな?」
「はい?」
冬樹は方向転換。リビングに身を移し、バッグの中から一枚の写真を取り出す。あのプリシスという少女が火柱の中から出てくるところを撮影した物だ。それを瞬に見せ、
「この人に見覚えは?」
と聞いた。
瞬は写真を受け取りながらソファに腰を下ろし、しばし凝視。次いで、あは、と笑う。
「……あれ? これ、ゴルディオさんですか?」
その言葉に冬樹は、やっぱり、と溜息をついた。
「本人はプリシスって名乗ってたけど?」
「ぷり……? あ、ああ、はいはい。そうなんです。ゴルディオさんって自分の名前が嫌いらしくて、いつも自分で考えたあだ名を──」
瞬の言葉は途中で途切れ、間延びした沈黙が発生した。
空気が凝固したような、間。
次の瞬間、瞬は素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。
「ごっ、ごるでぃおさん──!? そんななんでどうして!? え、あ、会ったんですか!? 冬樹さんゴルディオさんと会ったんですかー!?」
驚愕の表情を浮かべて写真と冬樹の顔を何度も見比べる。冬樹はあっさり頷いた。
「ああ」
瞬は正体不明の悲鳴を上げた。
「うにょぉおおっ! どうしようどうしよう! もうゴルディオさん来ちゃったの!? あのっあのっ、何か言ってませんでしたかゴルディオさん何か変なこと言って──あああああどうしようどうしよう!」
全然わけがわからない。だが、瞬がよほど動揺しているらしいのはわかった。その滑稽な様子に、できることならさっきみたいにカップの一つでも投げつけてやりたい、と冬樹は思ってしまう。
冬樹は、ふぅ、と息をつき、強い声で言った。
「うるさいよ」
パブロフの犬のようにその一言で瞬の動きが止まった。冬樹は凍り付いた瞬の手から写真を取り返し、聞いた。
「順序立てて、説明してくれるかな?」
『プリシス=ゴルディオ』という考えはやはり正しいのかもしれない、とは思っていた。何故なら『ゴルディオ』という名に対する彼女の反応がやけに過剰なものだったからだ。人違いならそれで済むはずだ。だが、彼女は、
「あたしはゴルディオじゃねえっ!」
と怒りを露わにした。考えられる可能性は二つ。一つ、プリシスはゴルディオなる人物を嫌っている。二つ、彼女はゴルディオと呼ばれることを嫌っている。
この二つの可能性と状況を照らし合わせれば、答えは明確だった。彼女は火の中から出てきたし、冬樹のことを捜していた。そして、瞬のことも知っていた。
即ち、彼女は火族のゴルディオである。
だが確信は持てなかった。次のように条件付きで質問責めにしたが、確証を得ることができなかったのだ。
「何が目的で僕を捜していた?」
「覚えてねえ。いや、本当だぞ? 本気で覚えてねえんだって。まあ、捜せって言われたのは確かだな。……あ、それでもテメェを捜していたのはむかついたからだぞ」
「言われたって、誰に?」
「姉貴だよ」
「姉貴?」
「姉貴は姉貴じゃねえか。他に言いようあるかよ?」
「……じゃあ、何が目的で【ここ】に来たんだ?」
「そりゃあ決まってるじゃねえか。その女と決着つけるためだよ」
「……瞬のことか?」
「あー……そういう名前だった気がするなぁ」
「名前も知らないのに、決着? わけがわからないな」
「ほっとけ。ってか、いいからさっさとそいつに会わせろよ。質問には答えてんだろ」
「まだだ。僕の質問はまだ終わってない」
「ちっ……さっさとしろよ」
「君は戦争を終わらせるために来たのか?」
「ぁん? んー……そうかも、な」
「じゃあ、君も僕の魂を狙っているのか?」
「ああ? なんだそりゃ?」
「……違うのか?」
「あったり前じゃねえか。人間の魂なんざ何に使うんだよ? クソの役にも立たねぇだろ。……なあ、まだ終わらねえのか?」
以上があの後に交わされた会話の内容である。この後、冬樹は「明日の今頃、またここに来たらその時に会わせてやる」と彼女に言った。もちろん自称プリシスは「ふざけんな!」と激昂したが、「なんなら自分で捜すか? 僕の用事はもう済んだから無理に約束を守る必要はないんだぞ」という冬樹の言葉に渋々引き下がっていった。我ながら見事な悪役っぷりだったと思う。少女の悔しそうな顔が今でも瞼の裏に浮かぶ。
「つまり彼女の目的は『君と決着を付ける』の一点に集約されている、と僕は見る」
冬樹の部屋。いつかのようにガラス張りのテーブルにホットコーヒーとアイスティー。服を着替えた冬樹は以上のように思うところを述べた。
結局、あのやり取りで冬樹が得た確証はそんなところだった。今となっては彼女が火族側の精霊であることはわかっているが。
「どうする?」
敢えて主語を省き、冬樹は聞いた。対し、瞬は正座した両膝の上に手を乗せて俯いたまま、無言。
冬樹は瞬が口を開くまで待った。
「あ、あの……言っちゃっていいですか?」
「ああ」
「その……できれば会いたくないなー、って、思います」
その答えを聞きながら、冬樹はコーヒーを口に含む。湯気で眼鏡が曇った。わずらわしいので眼鏡を外してテーブルに置いた。
「実を言いますと……私とゴルディオさんって、お互いの中でもそこそこ偉かったりするんですよ」
「へえ」
「うわっ、冬樹さんその声ってもしかして信じてませんね? もしかして私のこと下っ端とか思ってませんでした?」
「思ってた」
「ぐふぅ! ……いや、私がそれだけ間抜けだったのは認めますけどね……うう。冬樹さん、私あなたのその正直なところ好きですよ……」
と言われても涙ぐみながらでは説得力がない。冬樹は後半の言葉を無視して話を促す。
「で?」
「あ、はい。それで、つまりは首長を除けば実質ナンバーワンなんです、私達は。だからこそ代表者として私達がここに派遣されてきたわけですが……」
そこで僅かに言い淀み、
「要するに目的が同じってことなんです。私とゴルディオさんは。ただ、ゴルディオさんはやけに私のことを敵視していたんで、冬樹さんのこととは別に私と決着をつけようとしているのかも……」
「それで?」
「……でも、私はそういうつもりが全然無いから、会いたくないなって。そう思ってます」
「……なるほど、ね」
呟くように言って、ず、とコーヒーを一口。吐息して、
「約束しちゃったんだけど……君がそう言うなら仕方ないか」
明日断ってくる。そう言おうとした瞬間、
「あっ……! だ、ダメです!」
瞬はテーブルに身を乗り出し、切羽詰まったような声で叫んだ。冬樹は思わず上半身を引いて、
「……は?」
「もうゴルディオさんと会っちゃダメです!」
「……どうして?」
冬樹が問うと瞬は、うっ、と言葉に詰まり、気まずそうに視線を逸らした。その頬が仄かに桜色に染まっているのは冬樹の気のせいだろうか。
「それは、その……ふ、冬樹さんがゴルディオさんのこと好きになっちゃったら……困りますから」
一瞬、冬樹は彼女が何を言っているのか理解できなかった。まばたきを数回繰り返し、
「……僕があの娘を好きになる──って?」
瞬は、コクン、と頷く。
「だから会っちゃいけない──って?」
瞬は、コクン、と頷く。
「君、もしかして本気で言ってる?」
瞬は、コクン、と頷く。
やっぱり馬鹿なんだな、この娘は。そう思いながら冬樹は溜息交じりに言った。
「……相変わらず素敵な思考回路してるね、君」
「あううぅっ。どっ、どうしてですかぁ!?」
短い付き合いの中で冬樹の言う『素敵』が『馬鹿』であることを、瞬は学んだらしい。かつてのように恐縮したりせずに、抗議の声を発する。
そして冬樹も、短い付き合いの中で既に遠慮が無くなっていた。かつては言わなかったことを口にする。
「どうしてもくそもない。そっちこそ、どうしてそんな天文学的に低い可能性を本気で考えられるんだ」
「考えるに決まってるじゃないですかぁ! もしそうなったら困るのは私なんですよ!?」
「考えなくていい。余計なお世話だ」
「いいんですっ、私が好きで考えているんですからっ」
「それが余計だって言っているんだ」
「余計って言われてもやめられないものはやめませんっ!」
言いながら、自分は何という会話をしているのだろうか、と冬樹は思った。恥ずかしい。まるで浮気を疑う恋人の誤解を解こうとしているみたいだ。
冬樹はわざとらしく大きな溜息をつき、
「……もういい。好きにすれば」
努めて素の口調で言ったつもりだった。だが、
「なんでそんな素気ない言い方するんですか! 拗ねないでください!」
「!」
どきりとした。同時にどきりとした自分に腹が立った。何だ、何を僕は図星を指されたような気になっているんだ。気にするな、無視しろ。
無視できなかった。
「拗ねてなんかいない」
「いーえっ、冬樹さんは拗ねています! 私にはわかるんです」
声が少し大きくなる。
「君に僕の何がわかる」
「ちょっとぐらいならわかります! だってほら、今だって私と目を合わそうとしていません!」
弾かれたように冬樹は瞬の顔と向かい合った。どうだ目を合わせたぞほら──そう言うように子供じみた行動に出る自分が不思議だった。しかし男の子っぽい髪型の少女は、むー、と怒ったように眉を寄せたまま、
「何で怒ってるんですか」
「怒ってない」
「嘘です」
「しつこいな」
冬樹は再び視線を逸らしてコーヒーを飲む。左頬に瞬の視線を痛いほどに感じる。頭の何処かが冷静に囁く。おい、どうしたんだ? 何でお前はこの娘に限ってこんなに意地を張るんだ? 村上とだってこんなやり取りしたこと無いだろ?
認めない。認めるわけにはいかない。そんなのは嘘だ。気のせいだ。単に三日間で少し馴染んだだけだ。だから遠慮が無くなってきているだけだ。
遠慮が無いと言うのはつまり、素の自分をさらけ出していることかもしれない。
そんな考えを振り払うように言った。
「とにかく、明日断ってくるから」
「だったら私も行きます!」
叩き付けるように瞬は言った。コーヒーを飲んでいた冬樹の動きが止まった。
しん、となる。
冬樹は目だけを動かして横目で瞬を見た。雪女の少女は顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいた。もっとも、プリシスと名乗った火族の少女と比べれば可愛いものだったが。
そう、その目は火族の少女と比べれば明らかに迫力に欠けている。そのはずだ。そのはずなのだ。なのに、何故だろう。
それ以上に癪に障った。
コーヒーカップを、ごん、と重い音を立ててテーブルに置き、押し殺した低い声で、
「勝手なこと言うな」
立ち上がった。そのまま歩き出して部屋から出て行こうとする。
「絶対絶対ずぇぇぇぇったいについて行きますからね!」
背中にぶつかってきたその声を冬樹は壁のように黙殺した。
自分で自分がよくわからなかった。何故こんなに怒りを感じているのだろうか。何故こんなにあの娘の言動に過敏に反応してしまうのだろうか。
意地を張ってしまうのだろうか。
嫌いなのだろうか。そうかもしれない。相手は化け物だ。いきなり冬樹の生活に乱入してきて、今ですら冬樹の頭の中は時折混乱している。そして彼女と一緒にやってきた火族の少女のせいで安息という言葉が冬樹の辞書から消えてしまった。実際には部室の窓と現像室の中をぐちゃぐちゃにされただけだが、それだって日常と比べたら痛い出来事には違いない。特に現像室の様子は『とんでもない』という形容が付くほどで、片付ける目処が立たないので今日はそのままにして帰ってきた。そう、今やあそこの実質的な責任者は冬樹なのだ。頭が痛くなる。
冬樹の日常は一体どこへ行ってしまったのか。
思えば、あの時、振り返ってしまったのがいけなかったのかもしれない。瞬が空から落ちてきて、それを無視した冬樹の名を彼女が呼んだ、その時。冬樹の日常は音を立てて壊れてしまったのかもしれない。
完膚無きまでに。
リビングのソファに座った冬樹は、天井──ちょうど冬樹の部屋の真下にあたる場所──を見上げて深い溜息をついた。
平穏な生活を壊したのはあの二人だ。憎むべき異分子なのだ。ちょっと『泊まっていけばいい』と言っただけでもう三日も居候している、遠慮のない奴なのだ。
だからだ。全ては彼女達のせいなのだから、自分は彼女達を疎んでいる。早くいなくなって欲しいと思っている。あちらの事情に巻き込まれるなんてまっぴらごめんだ。さっさとあの二人を再会させて、なんとか和平に持ち込ませればいい。それで解決だ。あちらの戦争が終わり、二人は帰って冬樹には平穏が戻ってくる。一石二鳥、一挙両得だ。
と、そこまで考えたのに。
何故だろう。
苛立ちが、治まらない。
ギスギスした空気が漂っていた。
昨夜以来、冬樹と瞬は言葉を交わしていない。
瞬は勝手に学校までついて来たし、冬樹はそれに関して何も言わなかった。
時は既に放課後。
数十分も前から、二人は写真部の部室で重い空気に耐えている。
プリシスを待っているのだ。
制服姿の冬樹はいつものようにコーヒーの入ったプラスチックカップを傍らに置いて、IXYをいじっている。珍しく白のカジュアルシャツにホワイトハーフジーンズという活動的な格好の瞬は、部室の奥のソファに腰を下ろして、ただじっとしている。
二人とも何も言わない。
ただ時間だけが過ぎ、澱のように積もる静寂が壁となって二人の間を隔てていく。時が経てば経つほど口を開くのに必要な勇気が多くなっていき、そして時間は既に致命的なまでに経過していた。声を出すなんてもうとんでもない状況だった。
きっかけが必要だった。
お互いがお互い、何かきっかけはないものかと考えていた。沈黙が長すぎて他に考えるネタが尽きていたのもあるが。
どちらかが物音を立てる度に時を止めてしまいそうな緊張が走る。もしこの場に村上がいたら、いたたまれなくなって逃げ出すだろう、間違いなく。
だが、そんな村上が救世主になった。
見覚えのあるエセ金髪頭が、いきなり部室の扉を開いて現れたのだ。
「おお? こんな所にいたのかよ、冬樹」
彼は丸椅子に座っている冬樹を見つけて、軽く驚いた顔をした。
驚いたのは冬樹の方だった。村上には冬樹が写真部の部長になったことどころか、写真部に所属していることすら教えていないはずなのに。
「おおー! 驚いてる? もしかして驚いてんのか? おおー! あの冬樹センセを驚かせるなんて俺も出世したねー。ぬっふっふっ」
驚きながらも冬樹のひねくれ根性は一級品だった。
「留年しそうな成績で出世できるわけないだろ」
「ぐべえ……き、キツイぜぇ、相変わらずその突っ込みは……」
真剣に顔を青くする村上に冬樹は聞いた。
「どうやってここに来たんだ」
村上はおどけて答えた。
「足で歩いてスタスタと」
「…………」
「のわああっ!? ごめん! マジごめん! 俺が悪かった! 俺が悪かったから頼むからそんな怖い顔して青いオーラ噴き出すなよ!」
「別にそんなものは出してない」
「見えるんだって……なんかそういうの」
「だからどうやってここに来たんだ」
「いや、なんかな、お前とこの間の女の子がやけに暗い感じでこっちの方に来たって話聞いてさ、もしかしたらなーって思って。あ、どうもー」
冬樹から視線を外して、奥の瞬に笑顔を向ける。
「あ、は、はい。どっ、どうもです……」
「こっちに来たって言っても、こことはわからないはずだろ」
村上はウィンク一つ。冬樹に右の人差し指を立てて見せ、それを左右にテンポよく振りながら、
「ちっちっちっちっちっちっちっ。こーの俺の情報網を甘く見てもらっちゃ困るなぁ、冬樹くぅん。これでも俺ってば顔が広かったりするんだぜ? それに冬樹の情報なら何でもござれだ。写真部に入ってたこともとっくの昔に知ってたって」
「……何だって?」
思わず驚きが声に出てしまった。
「あ、私それ知ってます。『すとーかー』って言うんじゃないんですか?」
「アウチ! なーかなか痛いこと言うね君。あ、名前は? 俺、村上淳。ジュンって呼んでいいから」
「あ、奇遇ですね。私は瞬って言います。よろしくお願いします」
「おお、こりゃ確かに奇遇。これはきっとアレだな。運命の女神様が」
「そんな話はどうでもいい。何か用なのか?」
村上の話を途中でぶった斬った冬樹に、村上と瞬の二人はほぼ同時に、
「冷たいぞー、冬樹くーん」
「冷たいですよ、冬樹さん……」
なんでこんなに仲がいいんだこいつら。冬樹は恨めしくそう思う。初対面でこれだけ馴れ馴れしく喋りかける村上も、それに楽しそうに応対する瞬も、冬樹には理解しがたい。
「……で?」
冬樹にしては珍しく、険のこもった声だった。
「いや、単にお前と一緒に住んでる女の子ってどんなのかなーってよ。それだけ。悪いな、お楽しみのとこ邪魔しちゃってよ。そんなに怒るなよぉ」
「別に怒ってなんかいない」
つと、村上と瞬が顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑い出す。間に挟まれた冬樹はそれが妙に気にくわない。
「んじゃ、俺はこれでお暇するわ。瞬ちゃんも、そんじゃね」
「はい、また」
肩より上に手を挙げて振る村上に、瞬もまた笑顔で手を振った。村上は扉を開けて出ていこうとして、
「あ、冬樹。ちょっとちょっと」
冬樹に手招きする。
「……?」
訝しがりつつも冬樹は呼ばれ、村上と一緒に一度部室の外へ出た。雲という名の雪製造器は今日も絶賛稼働中である。ちらちらと白い小さな結晶が降り積もっていた。
村上がジェスチャーで『耳を貸せ』と言う。冬樹は何も言わずに左耳を寄せた。村上が囁く。
「お前最近変わったよな」
その一言に冬樹は軽い──それこそデコピンを受けたぐらいの、ではあるが──衝撃を受けた。
──変わった? 僕が? ……どこが?
そんな冬樹の心を見透かしたように村上は続けた。
「あの瞬ちゃんのせいか? あの娘が来てから、何て言うか……お前の喋り方が変わったじゃん。いつも妙に抑揚の無い声だったのがさ、妙に感情的になって。さっきなんか腹立ててんのまるわかりな声出しちゃってまー。何? 惚れた?」
冬樹はそのままの体勢から左腕だけを動かして、村上の側頭部に裏拳を叩き込んだ。
「あだっ! いちちち……悪い悪い、冗談だってば。怒るなよぉ」
痛そうに側頭部を押さえて、しかし嬉しそうに笑って、村上は冬樹から離れた。さらさらの金髪を掻き上げて、にへっ、と笑う。
「ま、いいと思うぜ、そんな冬樹も。なんか人間的でいいじゃん? 今みたいなお前も俺は結構好きだぞ? あ、今ならクラスの連中とも仲良くなれんじゃねえかな?」
冬樹は村上を横目に一瞥し、
「……うるさい。もうわかったからさっさと帰れ」
「へーいへい。んじゃなー」
ものすごく嬉しそうに手を振って雪の中を小走りに去っていく村上に、ものすごく腹が立った。何なんだ、あの太陽みたいな笑顔は。全く、人の詳しい事情も知らないで。
自分が腹を立てていることに気付いて、更に腹が立った。あーもうなんなんだ僕は一体。何であんなこと言われたぐらいで腹を立ててるんだ。
怒気を孕んだ溜息をつき、部室の中へ戻った。中ではさっきと同じくソファに座った瞬がいて、テーブルの上にはコーヒーとIXY。瞬が声をかけてきた。
「あ、ジュンさん、帰られました?」
「ああ」
素気なく答えて丸椅子に腰を下ろす。
「おもしろい人ですよね。それに、冬樹さんのことちゃんとわかってらっしゃいますし」
心臓を鷲掴みにされたかと思う。先刻の外での会話を聞かれたのかと思った。
「確か……去年でしたよね。冬樹さんとジュンさんが初めてお会いになったのは。屋上で」
「ああ」
そういえば、いつだったか村上がそんな事を言っていたな──そう思いながら冬樹は答えた。
それから気付いた。
「……何でそんなこと知ってるんだ」
「え?」
冬樹の問いかけに、瞬はびっくりしたようにキョトンとした。
冬樹はよく覚えていないが、確か村上から聞いた話によると、自分と彼が出会ったのは上級生から呼び出しを受けたときだったらしい。だがそんなことを知っているのは村上か呼び出した上級生だけのはずで、冬樹はそのことを瞬に話していないし、村上と瞬は先程のが初対面だったはず。
「どうして君がそのことを知っているんだ」
そういえばこの少女は冬樹の名前を最初から知っていたし、神無学園、そして冬樹の家の所在地だって知っていた。
何故だ?
「…………」
瞬はしばらく惚けたようにソファから天井を見上げていて、
「あ」
とこぼした。左掌を右の拳で、ぽん、と叩き、そして何故か冬樹を指差す。
「そういえばまだ言ってませんでしたね。私、こちらに冬樹さんに会いに来る前に色々と資料を見てきたんです」
「資料?」
オウムの様に返しながら、そういえばいつの間にかギスギスした空気が消えていることに気付く。自然と会話が成り立っていた。
瞬は、はい、と頷き、
「冬樹さんのこれまでの人生を色々とまとめた資料があるんです。それには冬樹さんが生まれて、幼稚園に入って、小学生になって、中学生に上がって、今の高校生になるまでのことがざっとした流れで書いてあったんです」
探偵でも雇って身辺調査でもしたのか、と思う。
瞬はくすりと笑って、
「だから、私、冬樹さんのこと色々知ってます。だから、ちょっとぐらいならわかるんですよ」
天使の微笑。なんて臭い言葉が冬樹の脳裏を一瞬かすめた。化け物と天使の違いは何だろう、とも考える。随分とまあ、自分には似合わない修辞表現を思いついたものだ、と自分に対して呆れた。
「そうですね……例えば、冬樹さんが今みたいな性格になっちゃった原因って知ってます? あ、違いますね。覚えてます?」
覚えている。今となっては顔も名前もその人数すらも思い出せない、いじめっ子達のせいだ。あそこから自分の人生も性格も斜めになったのだと思う。基本的に人を信用できなくなり、人との関係に対して消極的になった。
しかし冬樹は嘘をついた。
「さあ?」
当てられるものなら当ててみろ。そんな気持ちがあったのだと思う。
瞬は、えへへ、と笑い、偉ぶって話を始めた。人差し指を立てて、
「冬樹さんが小学生の頃の話です。同じクラスにある女の子がいました。その子の名前を仮に瞬ちゃんとします。だけど、瞬ちゃんは──これも仮にゴルディオちゃんとして──ゴルディオちゃんという女の子にいじめられていました」
予想外の展開に冬樹は内心、焦りを感じた。何だ? 何の話だ?
「しかし、そこにとてもかっこいい正義の味方が現れました。その名も沢村冬樹君です。冬樹君はゴルディオちゃんに言いました。『やめろよ、可哀想だろ』。しかしゴルディオちゃんは強情な女の子でした。『何よあんた、ひっこんでなさいよ』。冬樹君を退けて瞬ちゃんの髪を引っ張ろうとします。勿論、正義の冬樹マンは黙ってません」
冬樹マンはやめてくれ。そう言いかけてやめた。とりあえず最後まで聞こう。続きが、気になる。
「冬樹マンはゴルディオちゃんの襟元を引っ張りました。瞬ちゃんから離れさせようとしたのでしょう。だけど、どういう理由なのか、たったそれだけでゴルディオちゃんの可愛いお洋服が破けてしまいました。お気に入りの服だったのでしょうか、ゴルディオちゃんは火がついたように泣き出してしまいました」
記憶は、唐突に繋がった。
布のちぎれる音、女の子の泣き声、野次馬達から上がる『泣ーかした泣ーかしたー、ふーゆーきーが泣ーかしたー』、いじめられていた女の子の、助けを請うような、同時に冬樹を哀れむような──そんな瞳。
全てが一斉に蘇り、記憶の奔流が瞬く間に冬樹の頭の中を流れていった。
女の子を泣かしたのは覚えていた。その後に自分を取り巻いた歌のせいでひねくれてしまったのも、覚えていた。
なのに、どうして女の子を泣かしたのかは、すっかり忘れてしまっていた。
そうだったのだ。冬樹の性格が歪んでしまった原因は。
誰かを助けようとしたのにその行為が報われなかった。それどころかクラスの中で孤立した。誰も助けてはくれなかった。自分の力だけで降り懸かる悪意を振り払ったら、もう誰も冬樹のことを見なくなった。だから、誰も信じなくなり、自分から誰かに近付こうとすることもなくなった。
完全に忘れていた。今の今まで全然思い出さなかった。どうして忘れていたのだろうか。どうして思い出さなかったのだろうか。
瞬の昔話は続いている。
「それを周りで見ていた男の子達が──」
思わず遮った。
「いや、もういい」
「え?」
「いい。思い出したから」
自分では分からなかったが、それはいつになく沈んだ声だったのだろう。言った途端、やけに空気が重くなった。
しんと静まり返った。
俯き、両手の指を複雑に絡めて、十数秒の沈黙を間に挟んでから、瞬は言った。
「……私、あの時の冬樹さんがしたこと、間違ってなかったと思ってます」
嫌な事を思い出して気分が暗くなっていた冬樹は、その言葉に、ふぅ、と溜息を一つ。
「……間違ってなかった? 何言ってるんだ。そこまで知ってるならその後僕がどんな仕打ちを受けたか知ってるんだろ?」
言う声にも皮肉が篭る。
瞬はばっと顔を上げて、立ち上がり、胸を両手に当てて、
「そ、それでもです! それでも冬樹さんは正しかったんです! 私はそう思います!」
うるさいな。君がどう思おうともその後の結果は変わらないだろ。僕は、いじめられた。それをはねのけたら一人ぼっちになった。だから何も、誰も信じないようになった。苦しかったんだぞ。君にそれがわかるのか。大体、
「正しいことに何の意味があるって言うんだ」
ぽつりと漏らしたその言葉を、
「好きです!」
という瞬の大声が踏みつぶした。
何を言われたのか全く理解できなかった。
本当に理解できなかった。十秒経っても、二十秒経っても、冬樹は「は?」とすら言えない。
たかが四文字の言葉が冬樹の思考回路を破壊した。
その瞬間、身動きするのは犯罪だった。冬樹は金縛りにあったかのように動けないまま、視線だけを動かして瞬を見た。
彼女は顔を真っ赤にして、肩で大きく荒い息を繰り返していて、泣きそうな目で冬樹を見つめていた。
冬樹は柄にもないことをした。手元のプラスチックカップを指差し、
「コーヒーが?」
とすっとぼけて見せた。
「違います」
IXYを指差し、
「カメラが?」
「ち・が・い・ま・す!」
柄にもないことなんてするものではなかった。わざらしい冬樹のボケは瞬の声を荒げさせた。彼女は一言一言発する度に両手をぶんぶん振り回す。
「冬樹さんがです! こ、これでも資料を見てからここに来るまで本当は楽しみにしていたんですよ私! そりゃあ……資料の通りなら冷たい人だなって思いましたし、実際そうでした。最初なんて冬樹さん、私のこと無視して行っちゃいますし……」
話がかつてないほど恐ろしい方向へ向かっている。そのことに気付いた冬樹に、しかし成す術など無かった。彼はまだ先程のダメージから回復できていない。何も考えられない。
意識しているのかしていないのか、そんな隙だらけの冬樹に付け入るように瞬は言葉を繋げる。熱に浮かされたように、まくしたてる。
「で、でもっ、私はそんな冬樹さんのことが『いいなぁ』って思いました。た、正しいことをするのって本当は難しいんですよねっ、怖いんですよねっ。だからあの時の冬樹さんはすごいと思いますし、そのまま自分を貫いてきたことなんかもう素晴らしいですっ。尊敬します! 私、冬樹さんのそんなところが、す、すすす、好きなんですっ!」
再び天地鳴動の一撃が冬樹を襲った。頭の中が真っ白になった。まともな思考など吹き飛ばされてしまっていた。十年間纏ってきた心の鎧だって、今ははぎ取られていた。
だから、そのまま何も言えなかった彼を責められる者などいるわけがなく、むしろ責められるべきなのはこの状況の進行を邪魔した自称プリシスという少女の方だろう。
まともな思考を吹き飛ばされた冬樹が、なんとなく、
「……ありがとう」
とこぼしそうになった、その時だった。
彼女は弾丸のようにやって来た。
「おう来たぞコラァアァアァアァッ!」
ずばーんと勢いよく扉を開いてバズーカのように言い放った。
忘れた頃にやってくる、まるで天災のような奴だった。
さっきまでの展開で冬樹も瞬も例外なく何故この部屋にいるのかをすっかり忘れてしまっていた。それ故に驚きは半端なものではなかった。
冬樹はあからさまな驚きの表情を浮かべていた。ぎちっ、と表情筋の強張る音が聞こえてきそうだった。両目を見開いて、まるで見てはならないものを見てしまったような目でプリシスを凝視している。実に稀少な表情だ。すぐそこにあるカメラで写真に撮れば、村上あたりが笑い死ぬかもしれない。
瞬は両手を口に当てて両目を見開いていた。顔は他に例えるものがないほど真っ赤になっていた。トマトが真っ青になるぐらいの赤さだった。
そんな二人の反応はプリシスにとっても意外だったらしく、彼女は目を丸くして絶句した。
得体の知れない、気味の悪い静寂が満ちる。
「…………」
「あ、や、その……」
「……???」
とっかかりがまるでない、何とも形容しがたい一瞬が過ぎた。
それを打破するべく言葉を発したのは瞬だった。
「ご、ゴルディオさん……」
だが、その言葉は引き金でもあったのだ。
プリシスの太い金色の眉が、ぴくん、と跳ね上がり、その下の紅い瞳が吊り上がって瞬を見た。
「あッたッしッはッ──ゴルディオじゃねええええええっ!」
その瞬間、一体何が起きたのか、冬樹にはわからなかった。
いきなりだった。
轟音と共に目の前が真っ白になった。強烈な衝撃に体が吹っ飛んだ。壁に背中からぶつかった。何かが壊れる音がした。冷たい風を感じた。
瞬の悲鳴を聞いたような気がした。
どれほどの時間が経ったのか、気が付くと視界が元通りになっていた。だが、冬樹の脳は眼から送られてきたその視覚情報をすぐには認識できなかった。
灰色の雲に覆われた空が見えた。自分に降り懸かる雪が見えた。実際に頬に落ちた雪は冷たかった。
部室の屋根が消えていた。
屋根だけではなかった。左手の方から冷たい風が来るなと思って見たら、部室の奥の壁が無くなっていた。
吹き飛んでいた。
瞬が座っていたソファが向こうの方でコンクリートの破片と一緒にバラバラになっていた。
朧気に、何かものすごい衝撃があったのだな、と理解できた。その瞬間、自分が息をしていないことに気付いた。
「……げはっ! げほっげほっ!」
冬樹は苦しそうに咳き込んだ。背中を強打して息が詰まっていたのだ。何度も深く息を吸い込んで、肺を落ち着かせる。
再度、辺りを見回した。写真部の部室はもう散々な有り様だった。無事な物など何もなかった。テーブルも、丸椅子も、カップを入れた棚も、石油ファンヒーターも、カップ麺の塔も。消えるか、壊れるか、倒れているかのどれかだった。
IXY。そうだ、カメラは?
そう思った冬樹のすぐ側で、IXYは無惨な姿に変わり果てていた。見てすぐに、もうだめだ、と思った。フレームが崩れ、レンズがこれ以上ないぐらいに砕けていた。
EOSよりは安かったけど、学生の財布にしては厳しい出費だったのにな。そう思うが、喪失感や悲しみの感情は意外となかった。今は、まだ。感覚が麻痺しているのが自分でわかる。現実感が無さ過ぎた。
ようやく瞬とプリシスのことを思い出した。目の届く範囲を捜すが、見当たらない。
立ち上がろうとして、全身がギシギシと軋んだような気がした。右手を腰に、左手を壁について、なんとか立ち上がる。
頭上からくぐもった妙な音が落ちてきた。もう天井のない部室の中から空を見上げて、冬樹はそれを見た。驚く気力はもう無くなっていた。無表情に、ただ見ている。
分厚い雲の下で、蒼い光の粒と紅い光の粒が飛び回っていた。光に集るハエのような動きで空を旋回して、時折ぶつかり合い、ぱしぱしと眩しい光を迸らせる。あれが瞬とプリシスだと、直感でわかった。
「…………」
呆然と見上げる以外に出来ることなど何もなかった。紅い方からは時折、火炎放射器のような炎が伸びる。蒼い方からはたまにツララのような煌めきが発射されては、何故かそのまま空中で消える。
戦争。その単語が思い浮かぶ。そうだ、あの二人は今、戦っているのだ。
アニメさながらの光景だった。信じろと言うのは無茶だった。冬樹は右手で頬をつねった。夢なら早く醒めて欲しかった。つねった場所は赤くなった。痛かった。
泣きそうになった。
何なんだ一体。どうして僕がこんな目に遭うんだ。僕が一体何をしたって言うんだ。こんなの、理不尽だ。
二つの光の粒は高度を下げたのか、蒼い光の中に瞬、紅い光の中にプリシスがいるのが見えた。
プリシスから放たれた火球を、瞬は右手で払いのける。白のカジュアルシャツの袖が燃えたが、彼女の肌は火傷しなかったようだ。だが、華奢な女の子が素手で乗用車ほどはある火の玉をかき消すという光景は、かなりシュールなものがあった。
瞬の繰り出した人間の大人ほどはありそうなツララを数本、プリシスは真っ正面から受ける。顔と胸と腹と右脚。その身に纏った黒い服に穴は開けられたようだが、ツララの先端が彼女の体に突き刺さることはなかった。ツララは砕けて大気に溶けるように消失する。
高度が下がって彼我の距離が縮まったためか、炎と空気が渦巻く音やツララの砕ける音が冬樹の所にまで届いた。
化け物としか言いようがなかった。怪獣に比べたらマシかもしれないが、そんな比較はなんの慰めにもならなかった。
もう、限界だった。
雪雲に覆われた空を、そして、そこで繰り広げられるド派手な闘いを見上げながら、冬樹は気を失った。
糸の切れた操り人形のように、倒れる。
目を開けると、見慣れた天井が飛び込んできた。
「…………」
家の、自分の部屋の、天井だった。
夢、だったのかな。
そう思う。
しばらく天井を見つめたまま、何も考えないでいた。
電気を消してカーテンを閉めているが、部屋の中は微かに明るい。つまり、外は明るい。夜ではない。
夢、だったんだな。
ほっと安堵すると同時に、どこか寂しい気持ちが胸に去来する。
何だかとんでもなかったが、同時に自分を理解してくれる人がいた──そんな気がする。それが夢だったことが少し、本当に少し、残念だった。
ゆっくり上半身を起こす。寝過ぎたのだろうか、体の節々が痛い。今は何時なのだろう。
冬樹は背後の机に視線をやった。そこには暗い中でも光る文字盤を持つ時計が置いてある。時計の針は十時半頃を示していた。ということは朝と昼の中間あたりか。そう思ってのっそりとベッドから出た。
カーテンを開けると、窓の外では雪が降っている。なんだ、正夢だったのか。
ドアのすぐ横に照明のスイッチがあるので、足元のガラス張りのテーブルに気を付けながら部屋を横切り、スイッチオン。
ぱっ、と室内が明るくなる。
何だか久しぶりな感じがする自分の部屋は、妙に広い気がした。人、一人分。
自分が黒いパジャマを着ていることに気付くまでが、冬樹の安穏な妄想だった。いや、願望だろうか。
複数の人間が立ち上がって走り出したような、そんな物音が隣の部屋から聞こえてきた。
胸騒ぎ。
冬樹の中に生まれた嫌な予感は一瞬と経たずに大きく膨張し、
「冬樹さん起きたんですかっ!?」
「おいこら生きてっかサワムラフユキ!?」
ばん、と部屋の扉が開く音は、天国への扉が閉まる音と、地獄への扉が開く音によく似ていた。
夢なんかではなかった。
全ては現実だった。
「………」
それでも冬樹は、自分は寝ぼけているのかもしれない、という絶望的な希望にすがりつき、目を擦ってみた。
白い服を着た短い黒髪の少女も、黒い服を着た金髪のポニーテールの少女も、消えなかった。
二人の少女は一斉に機関銃の如く喋りだした。
「大丈夫ですか冬樹さん私がわかりますか瞬です怪我はありませんかごめんなさいゴルディオさんがいきなり襲いかかってきたものですから応戦するしかなくて冬樹さんが怪我しているなんて気が付かなくてもう本当に本当にごめんなさい!」
「おいこら生きてるよな平気だよな死んでないよなあたしが悪いんじゃねえぞあいつが悪いんだからなあたしのことゴルディオって呼びやがったんだぞっていうか今も呼んでるし呼ぶなこらあたしの名前はゴルディオじゃねえブッ殺すぞテメェ!」
それを冬樹はたった一言で蹴り飛ばした。
「うるさい」
それは完全防音の魔法、あるいは金縛りの呪文のようだった。瞬もプリシスもぴたりと止まって口を閉じた。
冬樹は俯き、はぁー、と息を吐いた。瞬とプリシスの顔に緊張が走る。瞬は『怒られるきっと大声で怒られる』とぎゅっと目を閉じ、プリシスは『何だよ別にお前なんか怖くないぞ』という顔で視線を空中に逃げまどわせた。
その一秒は実に長い一秒だった。
冬樹は、言った。
「瞬、コーヒー。プリシス、何か食べ物」
「へ?」
「は?」
間抜けな顔をする二人。冬樹は声で殴りつけるように怒鳴った。
「いいからコーヒーと食べ物!」
異世界から来た少女二人は稲妻に打たれたかの如く身を震わせた。
「はっ、はいいいぃっ!」
「え、な、なんだなんなんだよなに、あっこらあたしも連れてけっ!」
瞬は情けない返事をして一階へ走り、プリシスも慌ててその後を追う。
どたばたがらがっしゃんと音が聞こえてくる。
どうやら彼女たちはまだ気付いていないらしい。プリシスはともかく、瞬は気付いたときには吃驚仰天することだろう。
冬樹が、彼女たちの名前を呼んだことに。
冬樹は動く度に鈍い痛みを伴う体に鞭打ち、よたよたと机の椅子に腰を下ろした。それだけでも結構な労力が必要だった。
何だかよくわからなかった。あれからどうなったのだろうか。あの二人はいつの間に仲直りをしたのだろうか。写真部の部室はどうなったのだろうか。
浮かんでは消える疑問。
「……どうでもいいか」
そう思った。そして冬樹はどうでもいいことは忘れる質だった。
すぐに忘れた。
窓の外では、雪が降っていた。
To Be Continued…