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冬(樹)はなかなか笑えない


 答えなんて出るわけがなかった。承認することも、拒絶することもできなかった。


「時間が欲しい」


 そう言った。


 そう答える自分に、内心で驚いていた。最初はにべもなく突っ跳ねていた自分が、こんな態度をとるとは。情けなく思うと同時に、一連の出来事で自分の内面はそれほど揺れていたのか、と自覚した。


 あくまで端から見てではあるが、冬樹の態度は誰がどう見ても乗り気ではなかった。だからだろう、瞬が焦ったのは。彼女は立ち上がり、腕を大きく動かして声を張り上げた。


「あの、あの、困るんです! 早くしないといけないんです! ゴルディオさんが──!」


 泣きそうな顔で叫ぶ瞬に、冬樹は冷静な質問を飛ばした。


「ゴルディオさんって?」


「火族の人です! その人も冬樹さんを──冬樹さんの魂を狙っているんです! その人って危ないんです、いきなり爆発したりとかするんですよ!?」


 やっぱりな、と思う。


「私達にはどうしても冬樹さんが必要なんです! じゃないと……じゃないとみんなが、みんながっ……!」


 とうとう彼女のサファイア色の瞳から、大粒の涙がこぼれる。


「殺されちゃいます! きっと、皆殺しにされちゃいますっ! 火族の人達は本当に火みたいに残酷なんです! 私達を消すことなんか何とも思ってないんです!」


 女の子の涙を見て、気まずさよりも怒りがこみ上げてきたのは何故だろう。


「身勝手なことだっていうのはわかってます! だけど、だけど! そうしないと──!」


 何が気に障ったのかはわからない。とにかく冬樹はカチンと来た。


 その一瞬前、冬樹には何故か『ああ、自分はこれから怒鳴るな』という事がわかった。そして『怒鳴るなんて何年ぶりだろう、久しぶりだ』という感想を抱いたときには、もう手遅れだった。


 自分で自分を止められなかった。感情の爆発を制御できなかった。


 立ち上がって叫んだ。


「うるさい! いい加減にしろ! 自分勝手なことばかり言うな! 人を何だと思ってる! 僕は君たちの道具じゃない! そっちの事情なんて知ったことか! いきなり出てきて常識破りな事ばかりして!」


 途中で、これは八つ当たりだな、と自覚したが、それでも冬樹は自分を止められなかった。


「なにが戦争だ! なにが聖なる魂だ! ふざけるな! 君たちの世界で戦争が起こっていようが誰が死んでいようが僕には関係ないじゃないか! なのにどうして僕が君たちみたいな『化け物』に狙われないといけないんだ!」


 息が切れた。肩で呼吸を繰り返す。喉が痛かった。少し声を抑えて続ける。


「いいか、例え僕が君に協力するにしても、君にはメリットがあるかもしれないけど僕にはそれがない! 君が言っていることは僕に戦争に参加しろって意味だ! それがどういう意味かわかってるのか? 僕が協力すれば相手に勝てるってことは、つまり僕が相手側の火族だか火女だかの精霊を殺すってことだ! それをわかってて言っているのか!」


 ここで語彙が尽きた。熱く加速した感情はまだ胸の中でもやもやしていた。言いたいこともまだたくさんあると思う。だが、言葉が思いつかない。はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返す。


 瞬は、泣いていた。痛みをこらえるような顔で、唇を結び、見開いた目からはらはらと涙を流して。


 頭の中がぐつぐつと煮えていて、自分が少女の泣き顔で心を痛めたのか、ざまあみろいい気味だ、と思ったのか、よくわからなかった。


 瞬が俯いた。


「……ごっ……ごめん、なさい……」


 涙でべちょべちょになった声だった。


 初めて、胸に痛みを覚えた。自分の言動の実感が、じわじわと脳に染み込んでくる。


 言葉のナイフどころではなかった。銃弾の嵐だった。少女の心をこれでもかこれでもかとなぶる行為だった。


 後悔した。


 だけどそんな行為に意味など無かった。所詮、後悔は済んでしまったことにしかできない。決して先には立たない。


「ごめっ、ごめんなさっ……いっ……ごめんなさ、いっ……!」


 両手で顔を隠して、なおも瞬は謝罪の言葉を重ねる。冬樹は何も言えない。


 泣かしたのは自分だ。


 自覚した途端、罪悪感の刃が冬樹の胸を苛んだ。


 瞬の口から言葉にならない嗚咽が漏れる。誰がどう見ても悪者は冬樹だった。不意に冬樹の脳裏に、小さな子供達の歌声が響き始めた。


『泣ーかした泣ーかしたー、ふーゆーきーが泣ーかしたー』


 この歌を最後に聴いたのはいつだっただろうか。何年ぶりだろう、久しぶりだ。


 この歌のせいで、自分が頑固にひねくれてしまったのは、覚えているのに。


 声を出すのに、ひどく勇気が要った。


「……異世界から来たって言ってたけど、泊まる所とか、あるの?」


 我ながら現実感のない台詞だな、と思う。


 瞬は何も言わない。ただ嗚咽を漏らしながら、首を横に振った。


 体を動かすのに、途方もない気力が必要だった。膝を折り、その場に腰を下ろす。テーブルのコーヒーに手を伸ばし、ず、と一口含む。言い出すべきタイミングがわからない。泣きじゃくっている瞬を直視できなかった。


 そうしている内に、少しずつだが瞬の嗚咽がおさまってきた。


 そこを狙った。


「その……泊まっていけばいい、家に。親には、僕の方から言っておくから。ここのすぐ隣に客用の部屋があるから、そこを使ってくれていいから」


 こくりと瞬は頷く。


「着替えとかは、大丈夫?」


 こくりと瞬は頷く。


「荷物は? 手ぶらじゃないんだろ?」


 こくりと瞬は頷く。


 ひくっ、ひくっ、としゃっくりしか聞こえない静寂。


 次こそは、と冬樹は内心で思っている。何となく間を埋めるために、もう一度コーヒーに口を付ける。本当に言いたいことを言うのに、正体不明のプレッシャーがあった。


「その……」


 黒い絨毯のふわふわした羽毛にしか視線を注げなかった。


「……ごめん。言い過ぎた」


 言えた。


 瞬が軽く驚く気配を感じた。


 しゃっくりが途切れた。


 人に謝罪をするのは一体何年ぶりだろう、よく覚えていない。恥ずかしいやら照れくさいやら格好悪いやらで、冬樹は複雑な心境だった。


 視線を上げ、ちらり、と瞬の方を盗み見た。


 驚いた。彼女は、涙を流したまま、こちらを見て嬉しそうに笑んでいた。


 アンバランスな顔で、あは、と笑い、


「冬樹さん、もしかして私の機嫌をとろうとしています?」


 言い返す言葉が出てこなかった。あからさまな飴と鞭だった。沈黙した冬樹に瞬は、


「でも、ありがとうございます」


 右手で左目の涙を、左手で右目の涙を拭い、にぱっ、と笑顔を浮かべた。


「もしかして、少しは私のこと好きになってくれました?」


「いや全然」


「はうーっ!? は、速くなかったですか今の返事!? なんでそんなことだけ速攻で答えられるんですか!?」


「さあ?」


「さあ──って!? 自然ですか!? 自然なんですね!?」


「……まあ」


「まあって! しかもその不自然な間は一体!?」


 唐突に沈黙。空白の間が三秒ほど続き、やがて、冬樹は言った。


「座って、お茶飲めば?」


 笑いもしない。






 プリシスは怒れる少女だった。紅蓮の炎を身に纏い、とにかく全速力でインド洋の上空を翔ていた。


 吠える。


 怒りの炎が膨張し、周囲に熱気を振りまく。


 その姿はまるで猛る炎の竜の如し。


 ウェーブのかかった金髪をポニーテールにした紅い瞳の少女プリシスは、文字通り怒りに燃えていた。


 文句などいくらでもあった。


 筆頭が、あの〈刹那の雪〉の二つ名を持つ少女。いつもいつも自分の邪魔ばかりをする。だけどその実力には一目置ける。いつもいつも引き分けで、あるいは勝ったり負けたりを繰り返している。ものすごく嫌な奴。


 そんな嫌な奴に、今回は負けてしまって地面に叩き落とされた。しかも追いかけようと思ったら、いつの間に仕掛けたのかはわからないが、奴の用意した落とし穴に引っかかってしまった。そう、あいつのことだ。絶対先にこっちに来て罠を仕掛けていたんだ。間違いない。それであいつは、あそこに自分を落としたのだ。計算高い奴め、と思う。だが同時に、流石だ、とも驚嘆する。自分は力では勝っているが、いかんせん頭では負けてしまっている。奴は自分の長所を上手く使っているのだ。


 だが。


 プリシスの怒りが増大し、彼女を包む炎がさらにその激しさを加速する。


 そもそも、自分がここにいるのはあいつのせいなのだ。あいつがいるせいで、自分はわざわざこんな所までやってきているのだ。


 くだらないゲームで決着をつけるために。


 くだらない。本当にくだらない。そんなことをする必要なんて無いのに。自分とあいつが本気になって決着をつければいいのに。それだけで済むのに。


 なのにどうして?


 会ったこともない、しかも人間に、自分が好かれるように努力せねばならないのか。


 ざけんな。


 やる気なんてこれっぽっちもなかった。件の人間に関しては、もう名前も覚えてないし、顔なんかは顔を見たことすら忘れている。


 ルールなんてくそくらえ、そう思っている。あいつさえいなくなればゲームをする必要もなく、全ての決着がつくのだ。それでいいではないか。どこに問題がある。


 プリシスは怒る。自分の感じている理不尽の全てに。


 メガネ。そう、メガネだ。あのメガネをかけた人間もかなり腹が立つ。




『臭いよ君』




 思い出したら爆発した。インド洋のど真ん中に、一瞬だけ穴が開く。露出した海の底に数匹の焼き魚ができていた。数秒して、それらは海に飲まれる。誰かが発見したらそれは驚くことだろう。海の底で焼き魚を見つけた──と。


 危ないところだった。プリシスは怒りのあまり気を失ってしまいそうになった。


 臭いとは何だ、臭いとは。そんなこと言ったらあのメガネだって妙な匂いがしたではないか。そもそも自分が臭かったのは『あいつ』のせいなのだ。自分が悪い訳じゃないのだ。




『臭いよ君』




 何度思い出しても腸 が煮えくり返る。あのメガネの人間は、今度見たら絶対ぶっ殺す──プリシスは心に固く誓った。


 吼える。


 嫌なこと、ムカっ腹の立つことを思い出していると、それに関連した記憶が連鎖的に頭からこぼれ出てくる。


 理不尽なゲーム。


 嫌な名前で呼ぶ『あいつ』。


 落とし穴に落ちたこと。


 臭くなった。


 言いたいことだけ言って逃げやがったメガネ。


 それでもって今一番、何に腹を立てているのかと言えば。


「メガネを捜してたら道に迷ったってことだよちくしょぉおおおおおおぉっ!」


 どこをどう捜せば日本からインド洋まで来れるのか。


 少女は咆吼を上げ、遥かなる日本を目指して飛び続けるのだった。






 冬樹の両親は寛大だった。冬樹が嘘の事情を創り、それを話すと、あっさり瞬をこの家に置くことを了承してくれた。


 真似出来ないな、と冬樹は思った。自分はあんな風に人の言うことを簡単に信じ、それを認めることが出来ない。


 冬樹がでっち上げた理由はこんな物だった。


 瞬と冬樹はインターネットで知り合った友人で、彼女は外国人である。目を見ればわかる。彼女の瞳はまるでサファイアのようだから。瞬はこの日本に人を捜しに来ていて、その人物はどうやらこの辺りに住んでいるらしい。だから、その人物が見つかるまで瞬をこの家に置いてあげてくれないだろうか。


「ほう、可愛らしいお嬢さんじゃないか。いいぞ、大歓迎だ」


 冬樹の父・大樹は新聞を片手に、あっさりそう言った。


「へぇ、黒髪の外人さんっているのね。あら、可愛らしい。お父さん、そういえばあたし達って女の子も欲しかったのよねぇ。思い出すわぁ」


 冬樹の母・雪子はソファから立ち上がり、やけに嬉しそうにはしゃいだ。


 こんな適当な嘘を信じる両親が、冬樹には信じられなかった。


「あの、どうも。瞬です。よろしくお願いします。日本語、わかりますから大丈夫です」


 瞬は両親に対して、ぺこりと頭を下げた。日本語が理解できることだけは主張しておいてくれ、冬樹がそう頼んだ。そう言ってから『そういえば何故、異世界からきた存在が日本語を?』という疑問が冬樹の脳裏をよぎったが、考えるのはやめておいた。日本語が通じる、それでいいじゃないか。問題はない。まあ機会があれば聞いておこうと思う。


「シュン? 日本人の名前みたいなんだね」


 大樹の言葉に、瞬は曖昧な笑みを浮かべる。


「ええ、はい。ここに来てから、よく言われます」


「何日ぐらい滞在するのかしら?」


 雪子の質問に瞬は気まずそうに俯いた。


「あの……わからないんです。申し訳有りません」


「ああ、いいのよいいのよ。気にしないでちょうだい。こんな小さな家だけど、遠慮なく何日でも泊まっていってちょうだい」


 からっと笑う雪子に、大樹が言葉を続けた。


「そうだよ。ウチの冬樹の友達なんだ。遠慮することはないよ。……ん? 冬樹、何処に行くんだ?」


「……客室の用意してくる」


 リビングにそう言い残して、冬樹は二階の共同和室へ向かった。あまり両親とは話したくない気分だった。言わなければいけないことは言ったのだから、もういいだろう。


 冬樹の部屋のすぐ隣に位置する共同和室は、沢村家に客人が来たときには客室となる。畳の匂いのする室内にはベランダへと続く窓、空の洋服タンス、布団を収納している押入がある。逆に言えばそれしかない、すっきりした八畳間だ。


 下の階から「いやー、ウチの冬樹は無愛想でね。反抗期という奴かな?」「全く、誰に似たんでしょうね。あなた?」「何を言ってるんだ、似ているとしたら君だろ? ほら、大学生の頃──」「あはは……」両親の嫌な会話と瞬の苦笑いが聞こえてきた。人をダシに使うな、と思う。


 吐息。


 押入を開き、中から布団一式を取り出す。慣れた手つきで冬樹は客室の真ん中に布団を敷いた。


 下の階には行きたくなかったので、そのまま布団の上に腰を下ろす。ふと、天井を仰いだ。


 頭の中にこびりついて離れない疑問が、一つ、あった。


 何故、自分は瞬に『泊まっていけばいい』と言った挙げ句、両親に嘘までついているのだろうか。


 瞬に指摘されたように、ご機嫌とりだったのかもしれない。あの時はとにかく泣き止んで欲しかったから。泊まるところがない、と聞いて少し可哀想だと感じたのもあって、藁にもすがる思いで『泊まっていけばいい』と言った。


 それに、遠巻きに狙われるよりも近くに置いた方が安心だ──そう思ったのかもしれない。彼女の語った事情が本当なら、どうせ追い返しても意味はないのだ。あの少女には退けない理由があるのだから。


 しかし、本当にそうなのだろうか。自分は、本当に、打算だけであの少女をこの家に泊めようとしているのだろうか? 別に追い返してもいいのではないか? 遠くから付け狙われようが問題がなければそれでもいいのでは?


 何か特別な感情を、自分は彼女に抱いてはいないか?


 そこまで考えて、冬樹は内心で苦笑した。何を今更。今までそうやってきたんじゃないか。自分は、昔から損得勘定を基本として生きてきたのではなかったのか。馬鹿馬鹿しい。


 考えるだけ無駄だった。そうだ、打算だ。遠くから付け狙われるのは気味が悪い。側に置いて多少のコミュニケーションもとれれば『学校へ来るな。家で大人しくしていろ』とも言える。それだけだ。


 冬樹は、自分が他人に対して好意を抱くなんてことはない、と思っている。何故ならば、他人が冬樹に対して好意を抱かないからだ。この先、人を好きになることは確実にない。そう断言できる。これまでの人生の中でそのことを知った。結婚なんて言葉は、それこそ異世界の言葉だ。


 背を倒し、布団を横切るように倒れた。階下から声が聞こえてくる。「ところで、シュンさんはどこの国の人なのかな?」「あ、アメリカ、です」「シュンさんはハーフなんでしょ? お父さんかお母さんが外人なんじゃない?」「え? あ、はぁ……」「捜している人ってどんな人なのかな? もしかして、恋人かな?」「あ、いえ、その……」「お父さんやめなさいよぉ。あ、シュンさん。もしフリーなんだったらウチの冬樹なんてどうかしら? ちょっと無愛想な所があるけど、根はいい子なのよ」「……はい、そうですね。冬樹さんは、とてもいい人です」「おお? ということは孫はクォーターか。老後が楽しみだなぁ」「そうねぇ、お爺ちゃん」「うむ、お婆ちゃん」「ええ!? あ、いや、その、えええっ!?」「おほほほ」「わははは」


 何の話をしているんだか全く。


 冬樹は天井を見つめて、吐息。


 どうしようかな、と思う。


 僕は、誰も好きにはならない。だから、あの子の目的は達成されることはない。それはゴルディオとかいう金髪の娘でも同じ事だ。よって、彼女たちの世界の戦争は終わることがない。


 それはとても残酷なことのような気がする。


 なのに、現実味がまるでなかった。誰かが死ぬと聞いても、まるでゲームや漫画の中の話みたいに思える。もっと詳しく、それこそ死んだ者の名前を聞いたとしてもきっと無駄だろう。『記号が一つ消えた』としか受け取れないし、それがやけに怖い。


 この事を言うべきなのだろうか。それとも、それこそが残酷なのだろうか。


 それに、例え百歩譲って自分があの娘を好きになったとしても。


 戦争を終結させる手段には、なりたくない。


「…………」


 本当に、どうしよう。




 広い机の上にあるのは、白いタワー型のデスクトップパソコンとブックエンドに挟まれた教科書、そして二つのカメラ。一つはIXY、もう一つは名もない古いカメラだ。


 冬樹は部屋に戻り、机に向かってIXYをいじっている。フィルムの残りがもう少ない。できるだけ早く使いきって、中身を現像しようと思う。見せる相手がいないのが残念だった。この中には、世にも不思議な──そして世にも恐ろしい──光景が切り取られて入っているというのに。炎の中から飛び出す少女、とか。まあ、その数枚後にはその少女のえらく間抜けな姿も入っているのだが。


 IXYを置き、今度は名も無きカメラを手に取った。


 黒と銀のフレームをもつそれは、恐ろしく古いカメラである。発売されたのが一九〇六年頃で、当時の値段で二百七十五円だったらしい。難しく言えば『三十五ミリフォーカルプレーンシャッター式距離計連動カメラ』、別名で『ビックリ箱』と親しまれていた。ファインダーは逆ガリレオ式な上、フィルム巻き取り軸までついている。これ以上はないってぐらい古く、素晴らしく性能の低い、しかし冬樹のお気に入り。


 祖父の形見である。


 祖父の手にあった頃から毎日磨いているので、銀色の部分は今でも光を当てると鋭く照り返す。これが、冬樹の手にした最初のカメラ。彼にカメラへの興味を持たせた物だ。


 ある意味ではものすごい代物である。これ以上に古いカメラを冬樹は見たことがない。年代物だから、アンティークとしての価値はそれなりにあるのではないだろうか。まあ、いくら積まれても売る気はないし、多分、売れないだろう。


 右手側の本棚に視線をやる。棚の中には何十冊ものアルバムが詰まっており、内の九割が祖父が撮影した物だ。残る一割は冬樹が撮影した物。父の大樹はカメラや写真には興味を示さなかったのだ。


 冬樹の写真は風景を撮った物ばかりだ。内、人物の写っている写真はたったの一割。冬樹以外の人間が写っているのは、更にその一割だ。


 写真の趣味を友達に話したことなんか、一度もなかった。夏休みなどの大きな休みの際に、ふらりと旅行に出ては観光地の写真ばかりを撮ってきた。自慢できる友達は、いなかった。否、友達がいなかったわけじゃない。自慢しなかった。それほどのものじゃなかったから。


 そんなことを思い出していると、奥の方にしまい込んでいた記憶がゆっくりとかま首をもたげた。脳内で再生を始める。


 そもそも、冬樹はいじめられっ子だったのだ。きっかけは些細なことだったと思う。冬樹が何かの拍子に女の子を泣かせた──それからだっただろうか。だから学校に写真なんて持っていったら、いじめっ子に何をされるかわかったものじゃなかった。遠巻きに嫌みを言われたり、写真を奪われたり、トイレに行った隙をつかれて写真を隠されたりされたことだろう。奴等は陰湿だったから。カメラなんてとても持っていく気にはなれなかった。


 小学三年生の頃、格闘技を習い始めた。それを知っても奴等は冬樹に対する意地悪を止めようとはしなかった。根も葉もない噂を流された。曰く『沢村は鼻クソと耳クソを食べて生きている』。誰も冬樹に近寄らなくなった。冬樹の遠巻きから、いやらしくヒソヒソ話をするようになった。掃除の時、冬樹の机だけが雑巾で拭いてもらえなかった。


 小学四年生になった時、始業式が終わった直後にそいつらが大声で言った。静かな体育館に『沢村は鼻クソと耳クソを食べて生きている』という言葉が響き渡った。四年生になる際にクラス替えがなかったのは、冬樹の不幸か、はたまたそいつらの不幸か。


 全校生徒の前でそいつらをぶちのめした。ごめんなさいなんて聞いてやらなかった。泣いても叫んでも服の裾を離さないで、何度も殴って、何度も床に頭を叩き付けてやった。鼻血では済まなかった。頭や顔を縫った奴や、鼻の骨が折れてしまった奴もいた。周囲の生徒達どころか、教師達ですら冬樹を止められなかった。冬樹を止めようとした教師は例外無く腕に噛みつかれ、全治二週間の傷を負った。教師の腕から抜け出した冬樹は、他の教師に助け起こされているいじめっ子に野獣の如く襲いかかり、狙われた小学四年生になったばかりの子供は「ひいいっ」と恐怖にまみれた悲鳴を上げた。いじめっ子の中でしょんべんを漏らしていない奴はいなかった。


 今度こそ本当に、誰も冬樹に近寄らなくなった。冬樹の遠巻きから、いやらしくヒソヒソ話をすることもなくなった。相変わらず掃除の時は、冬樹の机だけが雑巾で拭いてもらえない。誰も冬樹に話しかけようとはしなかったし、目を向けようともしなかった。教師ですらも。


 冬樹は自分を貫くことを覚えた。そしてそんな風に自分を貫く者は他人から疎まれるということを知った。それは、理不尽なことだと思う。自分はただ、降り懸かる火の粉を払っただけなのに。悪いのはあいつらだったのに。どうして僕が嫌われなければいけないのだろうか。


 そんな考えは冬樹の心を硬くした。開き直れてしまう腕っ節が、その頃の冬樹にはもう備わっていた。誰も冬樹に優しくしなかった。誰も冬樹に厳しくしなかった。誰も冬樹を見なかった。


 中学校へ上がっても、冬樹を取り巻く環境はあまり変わらなかった。周囲の人間はすべからく馬鹿で、敵だった。味方なんて一人もいなかった。学校中に根も葉もある噂が流れていた。曰く『沢村冬樹は危険人物だ。近寄ると怪我をする』。当然、誰も冬樹に話しかけてこなかった。


 冬樹が生徒の中で名前を覚えたのは『喧嘩上等』な先輩共だけだった。十人ぐらいいたが、主格は西村、大谷、中本という名前だった。最初は噂を聞いた向こうが喧嘩を売ってきたところを容赦なく叩きのめした。思えばあの頃が中学生活の中で一番騒がしい時期だったのかもしれない。車やバイクに囲まれたこともあったし、廊下を歩いていたら火の点いた爆竹を投げつけられたこともあった。それらの報復は確実にしてやった。特に西村、大谷、中本の三人は諦めの悪い奴等だった。何度冬樹に負けても懲りなかった。そういえば、一度聞いたことがあった。


「何度も何度も懲りない奴等だな。楽しいのか?」


 タメ口で聞いた冬樹に、西村は鼻血を垂らしながらこう答えた。


「へっ、うるせぇよ。他にすることがねーんだよ、喧嘩以外。ほっとけ」


 木刀を構えた大谷が、笑いながら付け加えた。


「俺たちゃ、親にも見放されってからなぁ、くかかか」


 中本は既に冬樹の一撃を受けてお花畑に旅立っていた。


 この答えを聞いたとき冬樹は、もしかしたらこいつらとは友達になれるかもしれない、と思った。どことなく、自分と似ているような気がしたから。当時の冬樹には、週に一度の格闘技の練習を除けば、勉強しかする事がなかった。


 もちろん、そんな時間などありはしなかった。結局、西村、大谷、中本の三人は冬樹に勝つことがないまま卒業していった。それぞれがどこかで就職したと、風の便りで聞いた。


 その後の、中学を卒業するまでの二年間は何事もない日々だった。何事も無さ過ぎた。唯一の楽しみは夏休みや冬休みに行く旅行だけ。学校は、つまらなかった。『沢村冬樹は危険人物だ。近寄ると怪我をする』という噂は、冬樹が卒業する三ヶ月前になってようやく消えた。卒業が近くなってクラスのムードが団結に向かっていただけだ、と冬樹は思っている。とりあえず、卒業アルバムに一人で写ることにはならなかったのだから、よかったのかもしれない。


 近いから、という理由で神無学園を受験した。落ちるわけがないし、落ちてもいいと思っていたので、神無学園以外は受験しなかった。勿論、合格だった。そして久方ぶりに数人の人間と、友達と呼べるかもしれない関係を持った。もはや人との接し方を忘れてしまっていて、太い付き合いは出来なかったが。


 二年に進級したらいきなり変な奴が現れた。そいつの名前は村上淳。確かに昔の噂のように冬樹を取り巻く妨害電波は無くなっていたが、あんな堂々と、しかも積極的に話しかけてくる奴は初めてだった。嫌いじゃない、とは思っている。村上との会話は苦痛ではないし、少しは楽しい。馬鹿だけど。しかし村上のことは嫌いじゃないが、どうにも人付き合いというのは苦手だった。自分から他人に話しかけることがなかなかできない。特に話しかける理由がない、というのは言い訳だと、自分でもよくわかっている。すっかり受動に慣れてしまっていた。


 また教師に関しては、神無学園に入ってから再び彼らに干渉されるようになった。中学時代では例の噂のせいか、冬樹に文句を言ってくる教師はいなかったのだ。まあ、一年生の頃を除けば問題はなかったから当然と言えば当然か。とはいえスタンスは小学生の頃からすっかり変わっていた。冬樹はすっかり教師という生き物が嫌いになっていた。大したこともしてくれないくせに偉そうなことを言う生き物──それが冬樹の見解だった。だからくだらないことで突っかかってくる教師には噛みつくようになった。腕力よりもむしろ、頭や口を使って。その結果、昔とは違う理由で、再び冬樹は学校の中で孤立しつつある。


 いや、孤立することはないか──冬樹は思い直す。村上がいる。あの馬鹿だけはどれだけキツイことを言っても冬樹から離れていかなかった。そんなところだけは妙に信用している冬樹である。


 こん、というノックの音が冬樹の意識を現実に呼び戻した。


「……?」


 返事はしない。『ビックリ箱』を机に置いて、ドアの方へ視線を向けた。数秒して再び、こん、とノック。それで誰かわかった。瞬だ。両親ならノック一回の後に声をかけてくる。


「開いてるよ」


 ドアを開いて、白い服の少女が姿を見せる。どうやら下の両親達からやっと解放されたらしい。冬樹は椅子に座ったまま、


「……何?」


 瞬は出入口の側で、体の前で両手を絡め、もじもじと、


「いえ、別にこれといった用はないんですが……」


「……?」


「その、お礼を言おうかなー、と思いまして」


「……何の?」


「色々、です。ありがとうございます」


 そう言って瞬はぺこりと頭を下げた。しかし冬樹にはその行為が理解できない。色々? なんだそれは。


 その真意を問おうとした瞬間、顔を上げた瞬が冬樹よりも早く口を開いた。


「あ」


 たった一音で冬樹は切り出すチャンスを失った。瞬は驚いた表情で冬樹を見つめ、失礼にも右の人差し指でこちらを指した。


「……何?」


 その動作が妙に思えたので、冬樹の声は自然と怪訝なものになった。


「眼鏡……外しているんですね」


 何故か笑みを浮かべて嬉しそうに瞬は言った。それで冬樹は、自分が眼鏡をつけていないことを思い出した。思わず顔に手をやって眼鏡の有無を確認してしまう。


 冬樹の眼鏡は勿論、伊達である。彼の視力は悪いどころか滅茶苦茶にいい。そんな冬樹が何故に眼鏡をかけているのかと言えば、理由は簡単だ。高校の入学式の前日だっただろうか。冬樹は今までのイメージをなんとか変えようと思ったのだ。だが、伊達眼鏡をかけて雰囲気を和らげることぐらいしか冬樹には思いつかなかった。両親に「どうしたんだ?」と聞かれたときは「気分」と言ってごまかした。


 特につけている理由もないので部屋に戻ってきたときに外したのだが、改めて指摘されると妙に気恥ずかしい。そんなわけはないのに、まるで素顔を見られてしまったような、そんな気分。


「……変?」


 反射的にそう聞いてしまった。瞬は、とんでもない、とばかりにぶんぶんと首を振る。


「いえっ! いいえっ! よく似合っていると思います!」


 眼鏡を外しているのに『似合っている』とはどういうことか。


「……日本語間違ってるよ」


「あ、あら? い、いやでもすごく似合っていると思います! か、かっこいいですよ!」


 ぐっ、と拳を握って熱っぽく語る瞬をよそに、冬樹は机の脇に置いておいた眼鏡を手に取って身につけた。自分はひねくれているな、と思いつつも天の邪鬼な行動を取ってしまう。


「……あ、あら?」


「他に用件は?」


 遮断するように冬樹は言った。瞬はまるでその言葉に叩かれたかのように身を竦め、


「あ、はい……、えと、その、もう一つ。謝ろうと思いまして……」


 妙な娘だな、と冬樹は思う。お礼を述べた次は謝罪か。


「ごめんなさい」


 ぺこり、と頭を下げる。冬樹は先程もした質問を繰り返した。


「何の?」


 先程と同じ答えが返ってきた。


「色々、です」


「釈然としないな」


 冬樹は素直にそう言った。細かいことだが、気になったから。


「さっきから君は主語を省いてお礼を言ったり謝ったりしてる。色々、って一言でごまかしてる」


 その鋭い言葉は瞬の心に突き刺さったに違いない。彼女はばつが悪そうに視線を逸らし、沈黙した。再び、体の前で十本の指を複雑に絡ませる。


「…………」


 冬樹はしばし瞬を見つめて、やおら口を開いた。


「……大体はわかる。泊めてあげることのお礼と、僕が怒鳴った内容についての謝罪だろ? でも前者は遠慮することない。この家は僕のじゃなくて、父さんの物だから。後者に関しては……」


 少し迷った。


「気にしないで欲しい。だけど、忘れて欲しいわけじゃない」


 一息。視線に力を込めて、言い切った。


「君みたいな女の子に『化け物』なんて言ったのは悪かったと思っている。けど、あれは僕の本音だ。嘘偽り無い」


「……はい」


 瞬は暗く沈んだ声で頷いた。おそらく彼女の耳には先程の冬樹の怒鳴り声が蘇っているのだろう。まるで小動物のように縮こまった彼女に、しかし冬樹は冷たく続けた。


「後、泊めてあげているからって希望的観測は持たない方がいい。僕は間違いなく君を好きにならないと思う。別に君が特別な訳じゃなくて、僕が誰も好きにならないだけだから、そこは気にしないで欲しい。泊めてあげるのは、君が諦めるまで待つためだ。あまり長い期間はどうかなって思うけど、諦めきれるまでならここにいてもいい」


 そこまで言って冬樹は俯いている瞬から視線を外した。机に向かい、『ビックリ箱』を手に取って、それでも意識は背後の瞬に集中して。


「僕は、戦争を終わらせるための道具にはなりたくないんだ」


 嘘偽り無い、それが冬樹の本音だった。どんな事情であれ、例えばそれが人間でなかったとしても、自分のせいで多くの命が失われることには堪え難い物がある。例えば、犬。だだっ広い荒野に所狭しと大量の犬の死体が転がっている、そんな光景。それを作り出す原因が自分にもあったのだとしたら、決して気分のいい物ではないはずだ。なまじ、『雪女』の瞬が人と同じ容姿で知能レベルも同等かそれ以上であるからに、余計に嫌悪感がある。


「そう……ですか……」


 吐息のようにこぼれ出たその声は、深く暗く沈んでいた。残酷な答えであることは冬樹もよくわかっている。が、どうしようもないことだとも思う。例え彼女の言う『現世におけるたった一つの聖なる魂』を持っているのが自分一人だけだとしても、これだけは譲れなかった。


 しかし。


「……でもっ! でも、私は諦めませんよ!」


 突然の大声にビックリした冬樹が振り返って見たものは、今朝と同じように、背筋を伸ばした『ビシッ』という音が似合いそうな体勢で、何故かこちらを指差している瞬だった。少女の顔には、やけくそな感じの不敵な笑みが浮かんでいた。


「諦めませんからね! 絶対! ずぇぇぇぇぇぇったぁいっ!」


 頭を振り回して瞬は叫ぶ。ぎらぎらと使命に燃える瞳で冬樹を睨み付け、その右手の人差し指で冬樹の心を射抜こうかとするように。


「ちょっと遠慮なしに言わせてもらいますとですね! 冬樹さんはそれで良いのかもしれませんけど私にだって絶対絶対ずぇぇぇぇったいに退けない理由が有るんです! もう絶対です! 何があってもです! 諦めるなんてとんでもありません! その言葉は私に対する挑戦ですね!? いいえむしろ私はそう受け取りました! 受けて立ってやろーじゃありませんか! 私に冬樹さんに好かれるための魅力がないと思っているならそれは大間違いですよ! 覚悟していてください! 絶対絶対ずぇぇぇぇったいに私のことを好きになってもらいますからね!」


 どーん、という感じだった。冬樹は完全に言葉を失ってしまった。柄にもなく目をぱちくりとさせて、キョトンとしてしまった。


 他人から怒りをぶつけられるということが、ものすごく久しぶりな気がした。


「いいですか! 覚えていてくださいよ! 私は諦めません! 絶対絶対ずぇぇぇぇったいに逃げ帰ったりなんかしません! 容赦しませんよ! 首洗って覚悟して待っててくださいね! っていうか待ってろ!」


 激しく言い投げて、瞬は竜巻のような勢いで背を向けてドアを閉めた。どかん、という大きな音。ずんずんと彼女の足音がドアを隔てた向こうから、床を伝って冬樹に届く。少し行ったところで、がちゃりとドアを開ける音。この家に十年以上住んでいる冬樹にはわかった。方向からして、あれはトイレのドアを開ける音だ。一秒ぐらいしてまた、どかん、とドアを叩き閉める音が響いた。ずんずんと足音が戻ってきて、しかし冬樹の部屋の直前で止まった。次いで、客室の扉を開ける音がして、閉まる音がした。


「…………」


 部屋とトイレを間違えたなアレは。勢いよく閉められたドアを見つめながら、冬樹はそう思った。


 笑おうにも笑えなかった。打って変わったような瞬の言動に驚いて心臓がなかなか早いペースで鼓動していたし、隣の客室には彼女がいるのだから笑い声が聞こえたら大変だ。


 それに。


 誰かに自分が笑っているところを見られたくも、聞かれたくもなかった。


 本当に変な娘だな……。


 溜息を吐いて机に向き直り、ビックリ箱を眼前に持ち上げ、


 ぐっ。


 ちょっとだけ吹き出しそうになるのを我慢した。




 そして、雪女と暮らすという冬樹の奇妙な生活が始まった。






 三日が過ぎた。


 勿論、瞬には学校へ来ないようにと言い置いてあるし、さぼった翌日には冬樹は写真部の部長になっていた。写真部顧問の科学教師・大野博 にそうお達しを受けたときの衝撃は計り知れない。一日中暗い気分で、憂さ晴らしに村上を口でいじめた。


 逆に言えば写真部の部長になったこと以外で変わったことは特になかった。理事長にはしっかり連絡しておいたので、廊下で物理の山崎と鉢合わせしたときは奴の方から視線を逸らした。可哀想に、減棒のお達しでも受けたのだろう。その時の冬樹に彼を笑う余裕はなかったが。


 村上に『あの娘、どうなった?』と聞かれたときは本当のことを話した。彼は大層驚いていたがそのおかげで、自分はかなり変なことをしているのだな、と実感できた。


 両親が働きに、冬樹が学校に出ているとき、瞬は家で家政婦の真似事をしている。彼女が言いだしたのだ。お世話になるのだから家事のお手伝いぐらいはさせてください、と。父と母は『捜し人のことはいいのかい?』と聞いたが、彼女は『今は情報収集の段階ですから』となかなか苦しい言い訳をしていた。


 異世界から来た雪女とのコミュニケーションは三日という期間の中で少しは進展していた。人間の順応性はそれなりに高いもので、既に沢村家には瞬がいて当たり前な空気が生まれていた。主に瞬と両親が喋っているだけなのだが、冬樹も交えた会話も少しずつ増えていっている。とはいえ、冬樹は何も言わないで聞いているだけだが。


 さて、実はともかく名だけでも写真部の部長となった冬樹は今、部室通りの最奥にある部室にいる。時は放課後。今日は部長就任のミーティングだった。


 部室の中にいるのは、冬樹を含めてたった四人。内の二人は一年生だった。残る一人は冬樹と同じ二年生の杉原。冬樹はこの男に部長の座を押し付けようと思ったのだが、どこかの金髪の化け物のせいでそれは叶わなかった。


 顧問の大野に聞いたところ、これが写真部部員の全てらしい。たったの四人。いや、四人も、と言うべきか。部活動は部員三人から認められるから、一人多いだけマシなのかもしれない。


 とにもかくにも冬樹は少し安心した。部員は全て自分と同い年か、年下だ。もしかしたら本当に『のぞき部』という汚名を晴らすことができるかもしれない、と、そう思う。まあ、一年生の二人が、すこし気がかりではある。なにせデブとノッポでやけに仲が良さそうなのだ。笑い方も何故か二人とも、ぐふふっ。滅茶苦茶に怪しい。こいつらはのぞき魔です、と言われたら、やっぱりなぁ、と思えてしまうそんな風貌なのだ。同級生の杉原がまともなだけに、冬樹はその一年生二人に対して一抹の不安を捨てきれない。


 通り一遍な自己紹介を済ませ、ミーティングはそれで終わった。部の指針もへったくれもなかった。単なる顔合わせだった。


 それでもって、ミーティングが終わったら三人とも帰ってしまった。三人とも明日からはもうここに来ないな、と冬樹は直感的に思った。


 だから今、冬樹は部室で一人、インスタントコーヒーを飲んでいる。


 机の上には先程隣の現像室で現像してきた写真が載っている。フィルムは瞬が来た次の日に使いきった。両親が、記念写真を撮ろう、と言いだしたのだ。


 写真の内容は大別して、冬樹が学校の帰り道などに撮った風景、火柱の中から現れた少女が窓から飛び込んでくるところ、その少女が床の上で間抜けな格好をしているところ、瞬と両親がリビングに並んで立っているところ、に分けられる。


 写真は嘘をつかない。冬樹はそう思っている。だからこそ、そこに写っているものをもはや否定できなかった。


 あの金髪の少女──ゴルディオ、だっただろうか?──は本当に炎の中から出てきて火傷一つ負っていないのである。それどころかその金糸の如き髪は美しいと評しても良かった。火炎の中にいた形跡など微塵も見られない。


 写真は現実を切り取る。だから、目の前に切り取られてあるのは、現実である。今更だが、冬樹は溜息を禁じ得なかった。


 先日ガラスを填めなおした窓に視線を向ける。外ではまだ雪が降っていた。この三日間、少しも止んでいない。さほど量が多くはないので困ることはないが、かと言って嬉しいわけでもない。今頃は瞬が家で雪かきでもしていることだろう。


 テーブルに肘を突き、もう一度写真に視線を落とす。そこには火柱の半ばが球形に膨らみ弾け、中から人が飛び出てくる様がしっかりと写っている。


 冬樹はふと、この世界のあり方について考え出した。もはや何を信じて、何を信じなくていいのかわからなくなっていた。科学、魔法、超能力、超常現象、ネッシー。全てがあやふやになってしまった今、冬樹の思考は二本の足で立てる大地を求めて彷徨する。


 ところで、犯人は必ず現場に戻る、という言葉がある。冬樹はこの言葉を思い出しておくべきだった。可能性を考え、対策を講じておくべきだった。それなのに彼は今、誰もいないのを良いことに眼鏡を外してインスタントコーヒーを飲みながら合成だったらいいなと思うぐらい出来すぎたSFチックな写真を眺めてぼけーっとしている。


 彼は、紛れもなく油断していた。


 そして彼女は、そんなときに現場へ戻ってきた。


 その激しい連鎖的な音は出し抜けに響いた。


「!?」


 まるで雷が落ちたような音だった。隣の現像室の窓が割れて室内の物がすべからくひっくり返ったような、実に嫌な音だった。擬音で表すならば、どんがらがらがっしゃーん。


 まるで人間の大人ぐらいの物体を窓から投げ入れたような──


 冬樹がそこまで思い至った時、ばん、といきなり部室の扉が開いた。雪を孕んだ冷たい風が吹き込み、そして、


「メガネどこだぁあぁあぁあぁあぁあぁっっ!」


 大声大会で一等賞間違いなしな大音声が衝撃波のように響いた。とんでもない声量だった。冬樹の全身がビリビリと震えた。


 声がわんわんと部室の中を反響しながら消えた後。


「……あん?」


 ぽつん、と間抜けな声が浮かび上がった。


 部室に飛び込んできたのは全身びしょ濡れの金髪紅目の少女だった。まぎれもなく、冬樹の手元の写真に写っている、あの少女である。


 冬樹は振り向きざまに彼女と目を合わせて硬直していた。出た、という感じだった。大声に思考を吹き飛ばされた冬樹はぴくりとも動けない。


 次の瞬間、冬樹はとんでもない馬鹿を見た。


「あれ? お前、ここにいたメガネ知らねーか?」


 何を言っているんだこいつは。冬樹はそう思いながら自分を落ち着かせようとして、とりあえず手に持ったワイルドストロベリーのプラスチックカップをテーブルに置いた。


 深呼吸を一つ。


「……誰?」


 冬樹の問いに少女は声を荒げた。


「だからメガネだよメガネ! ほらメガネかけた嫌味な奴であたしに『臭いよ」


 いきなり少女の全身から蒸気が迸った。焼けた石に水をぶっかけたように発生する白い蒸気に彼女の姿はあっと言う間もなく隠れ、


「ぬああああああっっ! くっそぉおおっやっぱ腹立つううう!」


 ずごん、とまるで金槌で壁を殴ったような音。狭い部室が軽い地震のようにぐらぐらと揺れた。


 風が吹いて蒸気が晴れて、冬樹は出入口のすぐ横の壁に少女の右腕が埋まっているのを見た。あの様子だとおそらく壁を貫通して隣の現像室まで拳が出ていることだろう。少女は残った左手で『ずびしっ』と冬樹を指差し、叫ぶ。


「あーっもうっいいから! どうでもいいからとにかくメガネを出せ!」


 ここでテーブルの上の眼鏡を差し出したら彼女は落ち着いてくれるのだろうか。そんな馬鹿なことを考えつつ、冬樹は彼女の言い分を分析した。


 メガネ、というのは勿論冬樹のことだろう。だが、彼女は目の前にいる冬樹に全く気が付いていない。どうやら別人だと思っているようだ。間抜けにも『眼鏡をかけている』という特徴しか覚えていなかったらしい。それで冬樹に、冬樹を出せ、という阿呆な事を言っているのだ。


 なるほど。


 ならば望み通りにしてやろうではないか、と冬樹は眼鏡をかけた。


 しばし、場を風の吹く音が支配した。


 刹那、少女は再び大声大会で三等賞は確実な声を上げた。


「あ──────────っ!」


 驚きに目を見開き口をあんぐり開ける少女に冬樹は冷静に、


「うるさいよ君」


「うるさい!? うるさいだとテメー!? そういやこの間はよくもこのあたしに向かって臭いとか言いやがったなこの野郎! 今日までテメェの顔を忘れた瞬間はなかったぞ!」


「嘘つけ」


「…………うっ、うるせぇぇぇぇぇっ!」


「うるさいのは君だ」


「とにかく! ここで会ったが」


「三日目だ」


「ひゃく──み、みっかめ! 今日こそあの時のケリをつけてやらぁ!」


「どうやって?」


 冬樹の実に素朴な疑問に、しかし顔を真っ赤にして叫んでいた少女はぴたりと一切の動きを止めた。


 沈黙が降りる。


「ど、どうやって、って……そりゃあ、もちろん……えーと……」


 考えている。少女は今、冬樹から視線を逸らして、猛烈に頭を回転させて考えている。


 やっぱりこいつは馬鹿だな、と意識の片隅で思いながら冬樹は言った。


「君、名前は?」


「──あん?」


「名前を聞いているんだ。君が、ゴルディオ、って火族側の」


 少女は大声で冬樹の言葉を半ばで切り捨てた。


「ゴルディオじゃねえ! あたしの名前はプリシスだっ!」


「……プリシス?」


 冬樹は笑ってしまいそうになるのを何とか堪えた。プリシス。随分とまあ可愛らしい響きではないか。彼女にとてもよく似合っていない。今のように太い金色の眉を吊り上げて紅い瞳をぎらぎらと輝かせて冬樹を睨んでいる、この少女のどこを押せば『プリシス』などという可愛い名前が出てくるのだろうか。


 思わず正直に言ってしまった。


「似合ってない名前だな」


「なっ、なんだとこらぁぁぁぁっ!」


 顔をトマトのようにして猛る彼女の姿は、もはや滑稽だった。その声だってヒステリーを起こしたみたいにひっくり返ってやけに甲高くなっている。


 しかし──と冬樹は思考する。瞬は言った。ゴルディオという名の火族の精霊も冬樹を狙っている、と。だからこそ冬樹は『ゴルディオ=目の前の少女』と思っていた。だが彼女の名前はゴルディオではなく、プリシスと言う。これは一体どういうことなのだろうか?


 いや、ちょっと待て。ならこのプリシスという少女が化け物で、かつ冬樹を捜していたことはどうやって説明する? おかしいではないか。ゴルディオなる人物が別にいるのだとしたら、この少女は何故、火族の精霊でもないのに冬樹を捜していたのだ?


「だったらそういうお前の名前はどうなんだよ言ってみろよ変だったら笑ってやっからよ!」


 考え事中の冬樹はこの問いに至極あっさり答えた。


「沢村冬樹」


 少女、プリシスは自由な左手で優雅に金髪を掻き上げ、せせら笑うように、


「はっ、そーかよサワムラフユキかよそりゃご大層な名前じゃねえか立派立派、立派すぎて笑っ」


 はた、とそこで停止した。


「──サワムラフユキ?」


 その名をもう一度舌の上で転がす。錆びたロボットを思わせる動きで、紅い瞳が冬樹を見る。


「……サワムラフユキ?」


 冬樹は頷いた。


 プリシスは目を見開いた。


 大声大会で二等賞は間違いなしの大声が放たれた。


「サワムラフユキ──────────っ!?」


 ずぼっ、とプリシスの右腕が壁から抜けた。


 風が吹いてテーブルの上の写真が飛んだ。


 ひらひらと空中を渡ってプリシスの足元に滑り込んだ写真には、まるでヨガの修行僧のような格好で頭を下に尻を上にした彼女が写っていた。






To Be Continued…





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