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地面から火(娘)が噴き出した

 臭い。


 何なんだこの匂いは。鼻がひん曲がりそうだ。


 彼女は鼻を強く衝く異臭に顔をしかめながら、じゃぶじゃぶと水の中を進んだ。


 臭いのはこの水か? くそ。こんなもんに肩まで浸かってんだから、上がったときにはあたしも臭くなってんだぞ、絶対。


 っていうか、ここ何処だよ? 臭いわ、真っ暗だわ、水で溢れてるわ、最悪だぜ。


 第一あたしは何でこんな所にいるんだ? くそ。なんか思い出そうとしたら胸がムカムカしてきたぞ。言い方変えたらムカが胸胸してきたか? うわ、自分で言っておいてなんだが、すんげぇくだらねぇ。


 彼女は進みながら視線を上げた。その【紅い】瞳が闇の中でくりっと動き、その軌跡が二条の縦線を描く。


 ここが真っ暗なのはつまり光がねえってことだろ。【こっち】にも太陽はあるって話だから、光がねえってことはつまり、あたしの頭の上には天井があるってことだな。


 彼女はその場で立ち止まり、背後を振り返った。


 真っ暗だ。何も見えない。


 いきなり落とし穴に落ちてからなんとなくここまで来たけどよ、もしかして他に出入口とかねえのか?


 もしそうだとしたらやばいな。マジやばい。来た道覚えてねぇって。適当に進んでりゃそのうち出口に出れるだろって思ってたあたしって、もしかして馬鹿なのか?


 いや、馬鹿っていうのならそれはあたしじゃない! あいつだ!


 そうだそうだ、あたしがこんな所にいるのも元はと言えばみんなあいつのせいじゃねえか。


 あのクソ野郎、勝負事に変な提案持ちかけやがって。挙げ句にゃ人をハエみたいに叩き落としやがった。しかもご丁寧に落とし穴まで用意しておきやがって。思わず落ちちまったじゃねぇか。


 彼女は知らない。その『落とし穴』が一般にはマンホールと呼ばれていることを。それが何かの手違いで開けっ放しにされていたことを。


 自分が今、下水道にいるということを。


 だが、例え知っていたとしても彼女にはそんな事は関係なかっただろう。行き当たりばったりが彼女の信条なのだから。


 じゃぶじゃぶと下水の中を進みながら、彼女の中で、苛立ちが加速しながら膨張していく。


 ああもう腹が立つったら腹が立つ! ちくしょお! よく考えたらあたしは何でこんな所歩いてんだよ! 臭いんだよ! 臭くなるだろ! ええおい!


 ぎらり。闇の中で淡光を放つ彼女の紅い瞳が、剣呑な輝きを帯びた。途端、周囲の気温が急激に変化した。


 熱気。


 彼女の首から下を包んでいる泥水が、突然灼けた鉄に触れたように悲鳴を上げた。


 その蒸気の生まれる音は最初は小さく、しかし段々と大きくなっていく。下水が一瞬にして沸騰、蒸発していく。


 そこにいきなり小さな太陽が出現したかのようだった。下水道の中は高温の蒸気に満たされた。


 もはや熱量の塊と化した彼女は、それでも前に進む。彼女に触れた水、汚物、全てが一瞬にして蒸発する。そして今まで以上の臭気が発生したが、彼女の鼻はもはや完全に麻痺していた。


 ぶっ殺す! 絶対ぶっ殺す! あのクソ野郎をブチ殺して帰ればあたしの勝ちだ! 姉貴やあっちのボスが何て言っても知ったこっちゃねえ! あいつを殺せばどう考えてもあたしの勝ちなんだ! つまんねぇルールなんざくそくらえだ!


 ごん、といきなり額に衝撃が生まれた。いつの間にか行き止まりまで来ていたらしい。暗闇の中、壁にヒビの走る、ぴしり、という音が間抜けに響いた。


 何というか、別に痛くはなかったのだが、このタイミングで壁に頭をぶつけてしまったことが何故だかやけに癪に障った。


 ぶち、と彼女の頭の中で何かの糸が派手にちぎれた。


 彼女は口を顔より大きくして吠えた。


「ざけてんじゃねえぞコラァアァアァアァッ!」






 寒い。


 雪の敷き詰められた校庭の端を歩きながら、冬樹はがちがちと歯を鳴らしていた。


 部室まで行けばストーブがあるのだから少しぐらい我慢しよう。そう判断したことを早くも後悔した。


 冬樹は思う。山崎のせいだ。あの男のせいで自分は今ここにいて、コートを教室に忘れた挙げ句このように寒い思いをしている。あの男さえいなければ自分は今ここにいないし、コートを教室に忘れるような間抜けなことはしなかっただろう。


 腹が立つ。覚えていろ。今日にでもさっきのことを理事長に報告してやる。


 ある意味実に他力本願な情けないことを心に決めながら、冬樹は校庭を渡って部室通りに入った。ここには神無学園に存在する数十のクラブの部室が、奥まで向かい合って並んでいる。一番奥の右側にあるのが写真部の部室だ。冬樹は背負ったバッグを担ぎなおし、足早に奥へと進んだ。


 写真部の部室の前に立つと、まず目に入るのは落書きだらけの扉だ。元は白かったであろう扉の表面には色とりどりのペンで書かれた『のぞき部は解散しろ!』『変態!』『今度潰しに来てやるからな!』等々の文句が躍っている。冬樹はいつも思うのだが、一番最後の落書きをした人は本当にここを潰しに来たのだろうか? なにせこの落書きが生まれたのが、冬樹がこの学園に入学する前だったので、彼にはそれを確かめる術がないのだ。まあ、写真部はこうして現存しているのだから、潰されなかったことだけはわかるのだが。それでもこの落書きを書いた人物がどのようにここを潰しに来たのか、そしてどのように撃退されたのか、つまらないことだが非常に気になる冬樹だった。


 まあ、もし全てを知ったとしても言うべき言葉は一つだけだろう。


 落書きで宣言する前に潰しにかかれよ。


 扉を開け──ノブがない。壊されている。冬樹は、ふぅ、と溜息。右足で蹴りを一発ぶち込むと、握り潰されるカエルの鳴き声みたいな音を立てて扉が開いた。


 素早く中に滑り込み、背中で扉を閉じる。部室の中は暗かった。すぐ右の壁に手を伸ばし、手探りで電灯のスイッチを探す。ぱちっ、と照明が点いた。


 ここに来るのも何カ月ぶりだろうか。上から見ると縦長の長方形に見える部室の中は、意外と散らかっていた。否、むしろ汚いと形容できた。冬樹はここ最近この部室に足を踏み入れていなかったのだが、他にここに出入りしていた者がいるらしい。右奥の隅っこで空のカップ麺の器がいくつも重なり塔を成している。


 コンクリートの床に転がっている毛布や空っぽのフィルムケースなどを避けながら、中央の四角テーブルの横を通り、奥のソファへ。バッグをソファの上に放り出し、カップ麺の塔とは逆の方、つまり左奥の隅に鎮座しているストーブに歩み寄る。それは生意気にも石油ファンヒーターだ。部員がほとんど部活動をしないため、写真部の部費は余りに余っている。しかしその部費は来年度までに使いきらなければいけない規則があり、そのため本来ならばカメラやフィルムを買うための費用がこのような備品に使われることになるのだ。


 冬樹は丸い運転ボタンを叩いて、ピッ、という音を聞くと、温風の延長線上に丸椅子を持ってきて腰を下ろした。次いでテーブルの上に手を伸ばし、そこにあるインスタントコーヒーの袋を掴んだ。と、ふと思い直し、椅子を引いて身を屈める。テーブルの下に棚が隠れていた。その中から適当にワイルドストロベリーのプラスチックカップを取り出し、テーブルの上に置く。今度こそインスタントコーヒーの袋を開いた。


 ガーッ、とファンヒーターが気合いの声を上げ、温風を吐き出し始めた。すぐに暖かい空気の流れが冬樹を包む。


 再び腰を屈めて棚からスプーンとスティックシュガーを取り出した。コーヒー粉、砂糖の順でカップに入れ、テーブルの真ん中にある電気ポッドへ。ちなみにこの電気ポッドも部費を消費するために買った、通常の部活動には過ぎた物である。八分目まで湯を注ぐと、心を落ち着かせてくれるコーヒーの香りが立った。


「……はぁ……」


 軽く二・三度かき回しただけのコーヒーを一口啜り、冬樹は大袈裟に息を吐いた。熱い液体が喉を通る感覚がとても快い。まだ砂糖が溶けきっていなくて少し苦かったが、それが良かった。授業でも冬の寒さでも戻ってこなかった『現実感』が、舌に残る苦みにはあった。


 寒さも大分引いてきたので、冬樹は立ち上がってソファの上のバッグをテーブルの上に持ってきた。そして中から取り出したのは、愛機・キャノンIXY。シルバーメタリックの小さなカメラだ。どちらかというと家庭向きのカメラで、EOSという本格的なカメラと比べると性能的に見劣りする。だが、冬樹はこれで満足していた。こちらの方が小型で軽く、操作は簡単。性能が劣ると言っても、普通に写真を撮る分には支障ない。それに最大の問題は、EOSとIXYでは値段が一桁違うことだ。流石に学生の身で数十万は厳しかった。


 不意に冬樹の脳裏に、小さい頃に死んでしまった祖父の言葉が蘇った。


『良いカメラ自体にゃ意味はないんや。それなりの技術を持った者がおらんとそのカメラの本領は発揮されんからの。解るか、冬樹? 要はカメラやのうて、撮るもんの技術なんや』


 その通りだ、と今の冬樹は賛同する。だからこそ、今の自分がEOSを買っても使いこなせないと思い、IXYを使いこなせるように頑張っている。


 ただの強がりと言わば言え。その通りだ。


 冬樹はIXYを手に持って丸椅子に腰掛け、コーヒーを一口。


 手に持ったIXYだけに限らず、冬樹はカメラに触れていると何故だか落ち着く。多分、否、間違いなく父方の祖父の影響だろう。母方の祖父母は健在だが、父方の祖母は父が小さい頃に亡くなっており、祖父も冬樹が小学校に上がる前にこの世を去った。その祖父が死ぬ前によく冬樹にカメラを触らせてくれたのだ。彼は昔からカメラが好きだったらしく、実際何百、何千もの写真が家の専用の棚に眠っている。そしてそれらを撮影したカメラも、形見として冬樹の机の上に飾られている。確か、名前もない初期のキャノン製のカメラだった。


 冬樹はコーヒーを半分ほど飲むと、おもむろにIXYを顔の前に構えた。ゆっくり上半身を回し、ファインダー越しに部室の中を見回す。


 ソファの上にある窓が四角い視界に入った。ガラスの向こうでは、少しぐらい休憩しても誰も困りはしないのに、相変わらず雪が降り続いている。


 その一瞬を切り取るのもいいかもしれない。そう思った冬樹がシャッターを切った、その瞬間だった。


 耳を劈く爆音が大気を揺るがした。まるで衝撃波だった。冬樹の全身がビリビリと震え、体中の筋肉が硬く強張った。


「──!?」


 テーブルの上のカップが倒れてコーヒーがこぼれた。カップ麺の塔が崩壊した。ファンヒーターが許容範囲以上の衝撃を感知して緊急停止した。


 それだけではなかった。冬樹の視界、四角いファインダーの中で激しい動きがあった。


 窓の外で雪が噴き上がっていた。まるで間欠泉の如く。


 ファインダー越しに目を剥いた。爆音で真っ白にされた思考に、一つの単語が浮かび上がった。


 瞬。


 下からか? 下からなのか? 上からがダメだったから今度は雪の下から現れるのか?


 冬樹はIXYを構えたまま硬直して、ただひたすら待った。何を待っているのかは自分でもよくわからなかったが。


 刹那、冬樹の予想は裏切られた。雪の中から現れたのは白い服の少女ではなく、なんと真っ赤な火柱だったのだ。突如現れた炎は、瞬時にして雪の柱を喰い尽くした。


 部室の中が火の色に染まる。もちろん、冬樹の視界も真っ赤だ。


 まるでファンヒーターの音を何万倍にも増幅したような轟音が耳の奥で響いていた。


 意識の隅で、またか、と思う。


 今、自分の目の前で起こっているのはどう考えても『爆発』だ。そしてそれが俗称『のぞき部』と呼ばれる写真部の部室の裏で起こっているというのは、明らかに異常だ。


 非常識だ。


 僕の日常はどこへ行ってしまったのだろうか。冬樹はそう思いながら、何故か指が勝手に動いてIXYのシャッターを連続で切っていた。


 時間の流れが緩慢に感じられた。シャッターを切る毎に時間が進んでいるような気がした。そのコマ送りの視界の中、さらに異常な光景を冬樹は見る。


 火柱の中に人影が見えた。


 シャッターを切る。


 人影が濃くなった。


 シャッターを切る。


 炎が突き破られた。火柱の半ばが球形に膨らみ、殻を破るように人影が飛び出した。


 シャッターを切る。


 火炎の中から右腕を前に伸ばした人間──人間なのか?──が現れた。


 シャッターを切る。


 人影は女の子だった。黒い服に、金色の髪。髪型はウェーブのかかったポニーテール。綺麗な髪だ。炎の中にいたのが信じられないくらい。むしろ、何故焦げていない?


 シャッターを切る。


 驚くべきことに、彼女は髪が焦げてないどころか火傷を負った風にも見えなかった。そのくせ身に纏った黒い服は所々が焦げていてその黒さを増していた。


 シャッターを切る。


 彼女はこっちに向かって飛び出していた。その瞳がまず窓に焦点を結び、次に窓の向こうの冬樹を見た。ぞくりとした。彼女の瞳はまるでルビーのように紅かった。ふと、そういえば瞬の瞳はサファイアのように蒼かったな、と思う。


 シャッターを切る。


 ファインダーにクモの巣のようなヒビが走った。否、違う。ヒビが入ったのは窓だ。金髪紅眼の少女が黒いブーツで窓のど真ん中に蹴りを入れたのだ。ブーツの底の模様は白いヒビに隠れて見えない。


 シャッターを切った。


 ガラスの砕ける音。耳の奥で鳴っていた轟音がさらに大きくなった。外では急激な温度変化によって強い風が吹いていたらしい。ガラスの鋭い破片が束になって一斉に冬樹に襲いかかった。


「!」


 体が反射的に動いていた。IXYを胸に抱きしめ、窓に背を向けながら床を蹴った。丸椅子を巻き込んで倒れ込む。床の上で亀のように体を丸めた瞬間、背中にいくつもの小石をぶつけられたような軽い衝撃。豪風の音。すぐ側で大きなガラスの破片が床にぶつかって砕ける音。テーブルの上のカップが床に落ちる音。カップ麺の器が転がる音。連鎖する音。そして、


 ごつん。というおそらく少女が着地した音。それが終止符だった。


 唐突に静寂が訪れた。


「…………」


 嵐が去ったことを悟った冬樹は体を起こして、背後を振り返った。


 金髪の少女がなんとも奇妙な格好で床の上に転がっていた。まるでヨガの修行僧だった。頭を下にして、お尻を上に向けて──そう、ちょうど小学生がマット運動で後ろ回りを失敗したときにするような、そんな体勢。


 笑えなかった。いや、そもそも冬樹は基本的に笑わないのだが、それを差し引いてもこの状況であのポーズは笑えなかった。


 少女はその体勢のまま身じろぎ一つしない。頭が下になっているところから察して、頭を打って気絶してしまったのだろうか。いや、まさか。なにせ地面から噴き出した炎の中から無傷で出てきたのだから。そんなはずはない。


 不意になんとなく、変な体勢で固まっている少女をカメラに収めようと思う。IXYを構え、シャッターを三回切った。


 そうしながら、冬樹はぼんやりと考える。地面から火柱が出るってだけでも非常識なのに、さらにその中から女の子が出てくるなんて。空から降ってきた女の子が無傷だった事よりも凄い。


 その時、強い匂いが冬樹の鼻を衝いた。ドブの匂いだ。思わず右手で鼻から下を覆った。辺りを見回しながら立ち上がる。その拍子に服に付いたガラスの破片が床に落ちた。


 こんな所にドブ川なんてなかったはずなのだが、何だろう、この匂いは──と考えたときには答えがわかった。


 変な体勢のまま動かない少女だ。悪臭は彼女から漂ってくる。


 そういえば部室の裏手には下水のマンホールがあったような気がする。窓の外に目を向けると、もはや雪も炎も噴き出しておらず、ただ地面にぽっかり空いた黒い穴だけが見えた。そのすぐ右に丸いマンホールの蓋が転がっている。あそこから出てきたのだとしたら──なるほど。臭いわけだ。


 出し抜けに少女の体が動いた。頭の両隣に置いていた二本の足を勢いよく振り上げ、その反動を持って跳ね起きる。長いポニーテールがその動きに追随して蛇のように躍った。


「あーっ! すっきりしたーっ!」


 冬樹に背を向けて、両腕を頭上に掲げて全身を伸ばした彼女は爽快な声でそう叫んだ。続いて、あっはっはっはっ、と楽しそうに笑う。


 いきなり目が合った。振り返った紅い視線に、冬樹は射抜かれたような感覚を覚えた。


 割れた窓から雪を孕んだ風が吹き込んでいた。冬樹と少女の間で渦を巻き、両者の髪を揺らす。


 一秒の間を置いて。


「よう」


 少女は片手を上げて、何の躊躇もなしにそう言った。その瞬間、冬樹は『ああ、やっぱり』と思った。


 直感だが、間違いないと思う。不思議と確信できる。


 今、少女はまるで冬樹を値踏みするように上から下までじろじろと見つめている。その動作が冬樹の中に生まれた嫌な予感をさらに加速させた。


「んー……」


 少女が冬樹の顔を見つめ、小首を傾げる。その瞳が何かを思い出そうとしている。


 やがて、彼女は言った。


「あー……お前って、サワムラフユキって奴か?」


 確信めいた予感はやはり的中していた。


 彼女は、冬樹の名前を知っていた。


 それだけで十分だった。


 冬樹は反射的にこう答えていた。


「人違いです」


「そうか。そりゃ悪かった」


 冬樹の嘘に少女はあっさり頷き、にっ、と笑った。


 瞬間、冬樹はむっとした。なにを笑ってるんだこいつは。まあ、マンホールから火柱と一緒に飛び出したのは、この際どうでもいい。問題は窓を割って飛び込んできたことだ。こちらも危うく怪我をするところだったというのに、詫びもせずにいきなり質問をしてその挙げ句に笑うとは、なんて非常識な。


 ──非常識?


 冬樹は内心で自嘲した。『マンホールから火柱と一緒に飛び出したのは、この際どうでもいい』だって? 何を考えているんだ、僕は。非常識も二度も起これば常識になるっていうのか。見解が広がるのは結構だが、考え方まで非常識に染まってどうする。まともに考えろ。


 そうだ、非常識だ。目の前に立つ少女は、今朝の雪女と名乗った少女と同じようにあまりに常識からかけ離れている。


 そう、瞬とこの少女とは関連がある。そう考えない理由がどこにあるだろうか。


 もはや落ち着いて考える必要もなくなってしまった。今の冬樹は全てを認められる。


 瞬に関する出来事も、そして今先程、眼前で起こったことも。


 だからわかる。


 目の前にいるのは『化け物』だ、と。


 その化け物が聞いてきた。


「そんじゃお前、サワムラフユキって奴、知らないか?」


「知らない」


 冬樹はさらりと答えた。落ち着いていた。自分でも驚くほど冷静になっていた。ついさっきまで超常現象を目の当たりにして動揺していた自分が嘘のようだった。


 化け物は腕を組んでうんうんと頷き、


「そうかぁ……どうすっかなぁ……今ん所、名前しか手がかりがねえからなぁ。顔は忘れちまったし」


 その言葉を聞いて、冬樹は『やはり』と思う。こいつも、そしてあいつ──瞬──も、僕のことを知っている。そして、目の前のこいつは僕のことを捜している。


 もしやこいつも『あたしのことを好きになれ』とか言い出すんじゃないだろうか。


 冗談じゃない。


 冬樹は部室の中を見回した。ぐちゃぐちゃだ。テーブルの上ではコーヒーがこぼれているわ、床にはカップ麺の器やカップが転がっているわ、ガラスの破片が散らばっているわ。


 そこで思い至る。先程の爆音は凄いものだった。間違いなく、校舎の方にも届いていたはずだ。まずい。このままここにいたら校舎から様子を見に来た教師達に見つかる。瞬と階段で会っていたときと同じだ。授業中にこんな所で女の子と二人で何やっているんだ。そう言われて返す言葉を冬樹は持っていない。


 どうする? 部室通りを抜けると隠れる場所などないから、すぐに見つかってしまう。かといって、このままここにいるわけにもいかない。どうする?


 まずは自分がここにいたという証拠を消さなければいけない。こぼれたコーヒーを拭き取って、カップの指紋を消して、バッグを持つ。よし、それで行こう。


「……ん? なあ、なんか臭くないか?」


 化け物が今更そんなことを言った。冬樹は、こいつも馬鹿か、と思いつつ教えてやる。


「君が臭いんだろ?」


「あたしが? 何言ってんだよテメェ。ふざけてると──」


 そこで一度言葉を止め、


「──あ、そうか。そういえばそうだった。あ、悪いな、あたしが臭いんだった。あっはっはっはっ」


 何故そこで笑う。


 だが次の瞬間、


「──何であたしが臭いんだよ! なんかまた腹立ってきたぞ!」


 何故いきなり怒鳴る。


 何なんだこの娘は──冬樹は彼女を無視してテーブルにIXYを置き、下の棚から雑巾を取り出してコーヒーを拭き始めた。雑巾を取り出すついでにカップも拾った。それは取っ手の部分だけを拭いて、そのままテーブルに置いておく。それにしてもドブ臭い。早くこの部屋から出よう。


「理不尽だろ!? なあ! どうしてあたしが臭くならないといけないんだ!? ああ!?」


 知るかそんなこと。冬樹は完璧に無視した。


 コーヒーを吸い込んで重くなった雑巾を、部屋の隅、ちょうどカップ麺の塔が建っていたあたりに放り捨てた。


 右手にIXY、左手にバッグを持つ。


「…………」


 なにやら怒りに打ち震えているらしい化け物に対して何か言おうと思ったが、特に言うべき事が思いつかなかった。


 ただ、冷淡な瞳で見つめた。


「──なんだよ」


 冬樹の視線に気付いた化け物が、むっと眉根を寄せて言う。これに冬樹は冷たい声で返した。


「別に何でも」


「なんか言いたそうな顔してるじゃねえか」


「気のせいだろ」


「いんや、あたしの直感がそう言ってるね」


「恐ろしくズレた直感だね。凄い、賞賛するよ」


「……ケンカ売ってんな?」


「ないね。買いたいならケンカ屋に行ってくれ──あ」


「んだよ!」


「一つだけ言えることがあった」


「あん?」


「臭いよ君」


 あまりにストレートな言葉に、一瞬、金髪の少女の動きが停止した。紅い目が見開かれ、口をあんぐり。


 冬樹はその隙を逃さず彼女に颯爽と背を向け、こちら側にはノブのある扉へ。


 左肩にバッグを担ぎながら扉を引いて、出て、閉めた。外に出た途端、冬樹は寒さに身を震わせた。空気が冷たい。呼吸をすると肺の中までが冷える。見上げると、上空ではまだ灰色の雲が雪を落としていた。


 ふぅ、と白い溜息。やっぱり家に帰ろう。部長決定のミーティングなんてもうどうでもよくなってきた。どうせなんとかなる。もしかすると、ちゃんとミーティングに来た責任ある者にこそ部長の座は譲られるのかもしれない。あるいは、もし自分が部長に任命された場合でも、それはそれで、今までの写真部の汚名をこの手で晴らせば問題はないのだから、悪くはないかもしれない。冬樹は突発的にそんなことを思う。これまではその『晴らすための汚名』を被ることを嫌がってきたくせに。


 本当にもう、日常の何もかもがどうでもよくなってきていた。


 と、思い出す。そうだそうだ、このままここにいてはいけない。そろそろ誰かが来る頃だ。


 冬樹は辺りを見回し──


 ぴん、と閃いた。


 早速【そこ】に身を隠すことにする。多少なら寒さもしのげるから実に手頃な隠れ場だ。


 しばらくすると部室通りの入り口付近から、どやどやと騒ぐ声が聞こえてきた。


「ここあたりですよね?」


「どこにも爆発した後は見当たらないがねぇ……」


「部室通りの裏なんじゃないですか?」


「しかしどうしてこんな所で爆発なんかが……」


 教師達のようだ。数は四・五人と言ったところか。古典の五十嵐の声も交じっていた。段々こっちに近付いてくる。やがて、声と足音が冬樹のすぐ側を通り抜けていった。


 数秒後、大音量の怒声が爆発した。


「ざけてんじゃねえぞコラァアァアァアァッ!」




 地雷を踏んでしまった教師達はひとたまりもなく驚き、一目散に逃げていった。


 中には「ぎゃああああ!」と叫んだ奴までいた。冬樹は、あれは五十嵐だな、と思っている。


 続いて「どこだこらー!」「出来てきやがれー!」「ぶっ殺ーす!」という大音声が雪雲を吹き飛ばすような勢いで轟いたが、冬樹は完璧に無視した。


 一分もしたら声は聞こえなくなってしまった。諦めて去っていったか、冬樹を捜しに別の場所へ移動したかのどちらかだろう。


 今が動くべき時だった。


 冬樹はドアノブに手をかけ、写真部の【すぐ隣の部屋】から出てきた。


 理屈は簡単だ。俗称『のぞき部』の隣に部室を構えたいクラブがあるか? いや、ない。よってそこは空室となり、今現在ではあまり使われることのない写真部の現像室になっている。冬樹はそこに身を潜めていたのだ。


 今ならば五十嵐達も職員室に逃げ帰って「テロリストがテロリストが!」とか間抜けな電話を警察にかけていることだろう。そしてあの金髪の少女もいない。


 左腕を胸の高さに持ち上げ、腕時計を見る。もう十分もすれば四限も終わる。食堂でもう少し時間を潰してから教室にコートを取りに戻って、それから家に帰ろう。


 冬樹は校舎から見ても誰だかわからないようにバッグを頭の上に掲げ、小走りに移動を始めた。






 昼休み。二年一組の自分の席へコートを取りに戻ってくると、そこに村上が座っていた。


 村上は、にへへ、と笑い、


「おお? どーこ行ってらしたんですか? 授業さぼりの冬樹センっセっ」


「それ皮肉のつもりなのか? 欠席しない居眠り魔と授業さぼる優等生を比べた場合、どっちがマシかわかるか?」


「うぐっ……」


 ここで、どっちも問題なことには変わり無いだろう、と言えないのが村上という少年である。


 彼は慌てて取り繕うように、


「あ、いや、って言うかさ、相変わらずやるよなー。あの山崎相手に噛みつくのって冬樹くらいなもんだろ? 見てるこっちとしてはなんか悔しそうな山崎見てるだけでスカッとするんだけどさぁ」


「たまには自分で噛み付けよ。僕はお前達の代表者じゃないんだから」


 冬樹が椅子の背に手を伸ばすと、村上は体を前に倒して机の上に体を投げ出す。椅子の背にかけてあったコートを手に取ると、村上の体温だろうか、やけに生温かった。


「不愉快だ」


「へ?」


「なんで僕がお前の体温を感じないといけないんだ」


「ええ? あ、そか。ご、ごめんごめん」


 男の体温ほど、男が感じたくない温もりはまずないだろう。村上もそれもわかっているのか、すまなそうな顔で謝った。


「あ、そういや山崎の奴すんごい顔してたぞ。真っ赤っつーか真っ青っつーか」


「どっちだよ」


「最初は真っ赤だったんだけどよ、段々青くなっていったんだよ。何でだろな?」


「初めは僕に対しての怒りの赤。青くなったのは授業中に生徒を教室から追い出すことがどれだけ悪いことか気付いたからだろ。多分」


「え? 先生って授業中に悪いことした奴、教室から追い出しちゃダメなのか?」


「当たり前だろ。僕たち生徒には学ぶ権利があるし、お金だって払ってんだから」


「へえー。あ、でも、宿題忘れたり遅刻したら廊下にバケツ持って立たされてたりしてたじゃん、アニメとかで」


「アレは罰だよ。まあ授業受けさせないのは確かに問題だけど、教育には必要だろ?」


「なるほどなー」


「さっきの山崎は僕に『出ていけ』って言った。あれがやりすぎ。理事長に報告したらいくらか減棒されるね、間違いなく」


「ふむふむ」


 村上は頷いているが、冬樹には彼が本当にわかっているのか疑問だ。


 バッグを机に突っ伏している村上の上に載せ、


「ぐふっ」


 黒のダッフルコートに腕を通す。


「お? もう帰んのか?」


「ああ。今日はもう授業とか言っていられる状況じゃなくなったんだ。気分が」


「飯は?」


「家に帰って食べる」


 村上の上からバッグを取り、背負う。


「じゃ、また明日」


 背を向けた冬樹に、村上は『あ』の形に口を開けた。


「そういえばよ、あの女の子──」


「気を付けろ、僕は今ひどく不機嫌だ」


 冬樹の圧倒的な一言が村上の言葉を止めた。


 村上は後にこう語る。『冬樹から立ち昇る蒼い炎のようなオーラを見た』と。


 彼はそれを見間違いだとは思わなかった。首だけで微かに振り返った冬樹の視線が針、否、剣先のように痛かった。視線に射殺される、とすら思った。


「な、なんでもない……ごめん、俺が悪かった……」


「じゃ、また明日」


 冷たく言い残し、冬樹は教室から出ていった。


 冬樹の姿が見えなくなってからようやく、村上は、ほう、と胸を撫で下ろした。


「なあなあ」


「ん?」


 背後から声がかかった。冬樹の席──今は村上が座っているが──の後ろの席の男子だった。名前は確か、安田だったか安井だったか、多分、安田。


「村上って、なんで沢村と仲良いんだ? って言うかあんなこと言われて腹が立ったりしないのか?」


 あんなこと、と言われても心当たりが多すぎて安田がどれを指しているのかがわからない。それに、どうして仲がいいのか、と聞かれてもどう答えればいいものか。嫌いじゃないから。これぐらいしか思いつかない。だって珍しくねぇ? あんなにはっきり物言ったり先公に真っ正面から噛みつくって奴。俺は好きなんだけどなー。あ、それにもう一つ。あいつってものすごく──


「って言うか、一発シメてやりゃーいいじゃん。弱そうなんだから」


「!」


 この一言に村上は目を剥いた。思わず声を張り上げる。


「じょ、冗談じゃねえって! お前知らねえのかよ!?」


「えっ?」


 安田は目をぱちくりとさせた。


 村上は安田の方に体を寄せ、声を抑えて、


「いいか? これは俺達が一年の頃の話だ」


「う、うん」


 村上の雰囲気に呑まれてか、安田の声も小さい。


「俺はこの髪──」


 と言って村上は自分の金髪を摘む。


「のせいで上級生に呼び出し喰らったわけなんだが」


「そりゃ喰らうだろな」


「ほっとけ。で、行ってみたらそこにはもう一人先客がいてよ」


「それが沢村?」


「その通り! で、何で呼び出されたのかは、俺の想像なんだけどよ。肩ぶつかるなり何なりして、冬樹が」


「ものすげー毒を吐いた、とか?」


「と、俺は思う。もしかしたら、文句言った上級生を無視したとか」


「うわ、それ有りそうだって」


「なんせああ言う奴だかんなー。で、ここからが問題よ。その後、どうなったと思う?」


「どうなったって……二人してボコられた?」


「ノン・ノン」


「じゃ、二人で協力して喧嘩した?」


「ノン・ノン。甘いねー、安田君」


「おい、俺の名前は中村だぞ」


「うわ、ごめん! マジごめん!」


「クラスメイトの名前ぐらい覚えておけよな。ま、いいけど。で、答えは?」


「あ、そうそう。そん時の俺はマジビビってたからさ、先輩に『明日から頭丸めて来い』とか言われて『ああ、せっかく金髪で決めて高校デビューしようと思ったのにぃぃぃ』とか思いながら頭丸めようと考えていたわけ」


「いやこの際お前の話はどうでも良くて、沢村の話を──ってお前高校デビューだったのか! 激ダサ!」


「ひ、秘密だぞ! 誰にも言うなよ!?」


「わかったわかった。で、沢村はその時どうしたんだ?」


「ああ……あいつな、『お前も明日、頭丸めて来いよ』って言われて、こう答えやがったんだ」




「ふざけるな」


 それはやけに徹る声だった。


 一年生一人、二年生五人、三年生六人、合わせて十二人は、その少年──沢村冬樹が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。


 十二人の内一人しかいない一年生、村上淳はその時こう思った。


 ああ、こいつ、殺されるな──と。


 状況わかってないよな。ここを何処だと思ってやがんだ? 反吐が出るぐらいお約束な、人気のない屋上だぞ? 唯一の出入口は鎖で閉められてんだぞ? 上級生が十一人もいるんだぞ?


 ボコボコにされるに決まっている。


 なのにそんな状況で「ふざけるな」って相手に言うか、普通? 俺みたいに素直に『わかりました』って言っておけばいいのによ。


 可哀想に、こいつ、目が開けられなくなるぐらい殴られてズボンとパンツ脱がされてフルチンで屋上からプールに落とされんだぜ。


 鈍い音が聞こえた。肉に包まれた骨同士がぶつかり合う音だ。


 ほうら見ろ、早速殴られやがった。ざまあみやがれ。


 と、視線を横に向けた瞬間、村上は信じられない光景を見た。


 自分の隣で恫喝されていたメガネの一年生が、その右拳を振り上げていた。そして、その側で上級生の一人が宙に浮かんでいた。


「!」


 後に名が沢村冬樹だとわかる少年が、上級生を殴り飛ばしたようにしか見えなかった。そして冬樹の次なる行動がそれを証明した。


 彼は屋上のコンクリートを蹴り、前へ出た。そして未だ数十センチ空中に浮いている上級生に一瞬で近付き、腹に飛び蹴りを一発ぶち込んだのだ。


「ぐげっ……!」


 上向きの拳撃に加え、横向きの蹴撃を加えられた上級生はひとたまりもなく吹っ飛び、


『うおお!?』


 背後にいた仲間達を巻き込んでコンクリートの上に転がった。巻き添えを喰らった者はともかく、飛び蹴りを受けた上級生はもはや気絶していたが、それでもゲロを吐いた。寝ゲロならぬ気絶ゲロだった。臭い。


 上級生達が色めき立った。雰囲気からしてやられたのは下っ端だったらしいが、問題だったのはきっと『獲物が逆らいやがった』という点だろう。


「てんめえっ!」


 村上を恫喝していた奴が冬樹に掴み掛かった。と思った次の瞬間には、そいつは冬樹に腕を掴まれたまま宙を舞っていた。


「──!」


 声など出るわけがなかった。村上はただ目の前の光景に圧倒されていた。何も考えられなかった。馬鹿みたいに口をあんぐりと開けていた。


 野球の投手のようなフォームで上級生が、ぶん、と投げられた。彼は悲鳴を上げながら仲間の方へ飛んでいった。


 そこから先はよく覚えていない。とにかく凄かった。屋上の真ん中で、冬樹が残る九人の上級生を圧倒的な強さで次々に伸していった。


 全てが終わった後でも村上は唖然としていた。自分と、もう一人のメガネの一年生以外、全員コンクリートの上に倒れている。そんな中、村上は目の前の事実にただただ呆然としていた。


 ぱんぱん、と手を叩く音が彼を我に返した。


 弾かれたように視線を向けると、単に冬樹が手に付いた汚れを払うように手を叩いていただけだった。たったそれだけの音に過剰に反応してしまったことで、村上は自分がこのメガネの一年生に対して怯えていることを自覚した。


 鋭くつり上がった目が、眼鏡越しに村上を見た。


 もしかして俺もぶっ飛ばされるのか?


 脈絡もなくそう思って全身がすくみ上がる。が、冬樹は彼を一瞥しただけで、あっさり背を向けて出入口の方へ歩き出した。まるで道端の小石か何かを見るような態度だった。取るに足らない、そう言っているような。冬樹はドアノブに絡まっている鎖を丁寧に外し、放り投げた。鎖が落ちる先には一人の上級生。ぼす、と鎖が重そうに彼の腹に落ちた。


「うぐっ」


 一声呻き、どうやらその上級生は目を覚ましたようだった。それに気付いた冬樹が戻ってきて──


「てめぇ……こんなことしてタダでげえっ!」


 反吐が出るほどお約束な台詞は最後まで聞けなかった。歩み寄った冬樹がその右足を、倒れている上級生の喉に乗せたのだ。息が苦しいらしく、上級生は両手で冬樹の足を掴んでじたばたと抗う。しかし、冬樹の足はびくともしないようだった。


 よく徹る声が再び響いた。


「もう一度だけ言う。ふざけるな。一体何様のつもりなんだ。お前達に僕の何かを決定する権利があるとでも思ってるのか。調子に乗るな」


 傲慢な言葉だった。だが、村上としては同感だった。そうだ、その通りだ。もっと言ってやれ!


「先輩だろうが僕より年上だろうが、やって良いことと悪いことがある。暴力で誰かを屈させようなんてガキかお前達は。僕はそんな方法じゃ屈したりしないし、それ以外の方法でも絶対に屈したりしない。覚えてろ。今度また僕に余計なちょっかいを出してきたらその時は」


 ぞくりとした。


「容赦しない」


 それだけ言い残し、今度こそ冬樹は屋上から去っていった。


 直接言われたわけでもなかったのに、村上は冬樹の言葉に背筋を凍らせていた。直接言われた上級生はもっと悲惨だった。冬樹に何を見たのだろうか、彼は震えながら失禁していた。


 村上は、自分が笑顔を浮かべていることに気付いた。何故、と考えるより早く答えは出た。


 痺れた。


 その一言に尽きる。あのメガネの一年生の行動、言葉、全てに痺れていた。感動していたと言っても過言ではない。


 あんな風に言いたいことを言う奴がいるんだ。あんな風に自分を貫いている奴がいるんだ。


 その強さよりもむしろ、生き様に村上は衝撃を受けていた。


 頑張れば自分だって自由に生きられるかもしれない。


 そう思えた。


 これが、村上淳と沢村冬樹の出会いだった。一年後のクラス替えで同じクラスになるまではまるで接点がない上に、当の冬樹は二年になった頃にはこの事を忘れていたが、村上にとってはこれが始まりだった。


 世にも珍しい頑固少年に、自分の人生観を変えられた日だったから、実によく覚えている。


 自分から積極的に冬樹に話しかけて、自称『沢村冬樹の友人筆頭、冬樹の友人と言えば俺だ』になった今でも。


 ちなみにその後は、出入口を建物の内側から封鎖して家に帰ってやった。その日は土曜日だったから彼らの発見はきっと月曜になったことだろう。それとも宿直の先生に見つけてもらってついでに説教されたか、あるいは悲壮な決意を固めて皆で仲良くプールに飛び込んだか。


 なんにせよ、報復してやったことは事実だ。村上はすっきりしている。




「……マジ?」


 半信半疑の顔で呻くように言った中村に、


「マジマジ、ちょーマジ」


 村上は真顔で何度も頷いた。


「え、なに? 空手とか拳法とかマーシャルアーツとかやってるわけ? 沢村って」


「さあ? そこらへんは怖いから聞いてねーんだわ」


「怖いって……おいおい」


「だってお前、『冬樹って何か格闘技やってんのか?』って聞いて『一子相伝のなんちゃら暗殺拳』とか返ってきたらどうすんだよ。怖いじゃねえか」


「うわ、しかもそれ有りそうだし。確かに怖いわな……」


「だろ? つーわけでシメるとかそういうのはまず思いつかないね。第一、俺が冬樹の友達やってんのはあいつのこと気に入ってるっていうか、嫌いじゃないからだし。ま、お前だって付き合ってみりゃわかるって」


「そんなもんかねぇ……俺にはひねくれ者の毒舌家にしか思えないけどなぁ」


「いや、それはそれで大いに当たってるんだけどな」






「──っくし!」


 くしゃみが出た。別に誰もいないのだから構うことはないのだが、それでも冬樹は反射的に傘を持っていない左手で口の周りを覆った。


 風邪のひきはじめだろうか?


 ここで『誰かが自分のことを噂しているのだろうか?』と考えないのが冬樹という少年だった。


 冬樹は今、あの川沿いの土手を歩いている。今朝、いきなり少女が空から落ちてきた、あの道だ。実は内心、あの少女がまた空から落ちて来るんじゃないかと思って少し慄いていたりする。朝に冬樹が刻んだ足跡はもうすっかり埋まっていて、当然、瞬が土手から転げ落ちた跡も消えていた。


 よく降る雪だ。冬樹は空を見上げつつ、辟易する。よく降ると言ってもまだ丸一日降っていないわけだが、昨日までは少しも降らなかったというのにどうして今日に限ってこんなに降るのだろうか。まあ今更雪が珍しいわけでもないが、毎年一度はこんな事を思ってしまう。


 途中で左に折れ、住宅街に入る。


 今頃はみんな弁当を開いている頃だろうか。ふとそんなことを考え、何故だか昨日までみんなと同じように弁当を食べていた自分がやけに懐かしく感じる。


 深い、溜息。


 どうやら思っていたよりも大分やられてしまっているらしい。たかがそんなことを懐かしく感じるなんて。重症、否、重傷か?


 まだ昼だというのに、今日は生涯の思い出ベストテンに入りそうな出来事ばかりが二回も起こった。空から雪と一緒に女の子が降ってきて、地面から火と一緒に女の子が噴き出した。本当に、自分の日常はどこへ行ってしまったのだろうか。


 歩くこと十数分。冬樹は我が家にたどり着いた。表札が雪で隠れていたので手で払う。黒地に『SAWAMURA』という白い文字を確認して、冬樹は金色のドアノブに手をかけた。


 ぱちり、と静電気が走った。


「……っ!」


 この、ちくっ、とした小さな刺激がしかし、致命的だった。この瞬間、冬樹の脳裏によぎった嫌な予感をかき消してしまったのだから。


「ただいま」


 呟くように言って靴を脱ぐ。この時間、家には誰もいないのだ。ならば「ただいま」などと言う必要はないのだが、これは冬樹の癖だった。彼は誰もいなくても食事をする前は「いただきます」、食べた後は「ごちそうさま」とちゃんと言う。変な所に律儀な少年なのだ。流石に購買のパンなどを食べるときには言わないが。


 すぐ左手のリビングへのドアを開いて、背負っていたバッグを投げ込む。カーブの軌道に乗って飛んだバッグは、リビングに入ってやや左にあるソファに落ちて、ぼすっ、と音を立てた──はずだ。冬樹はリビングの明かりもつけずバッグの行く末も確認せずにドアを閉めていた。


 階段を上って二階へ。上がりきって回れ右すると、目に入るドアは四つ。左手に二つ、真っ正面に一つ、右手にも一つ。順にトイレ、両親の寝室、共同和室、冬樹の部屋だ。彼は一人っ子なのだ。


 コートを脱ぎながら自室のドアへ近付き──彼はとうとう玄関のドアの鍵が開いていたことにも、自室のドアの隙間から光が漏れていることにも気付かなかった。


 ドアを開いた。


 部屋の中に、白い服の少女がいた。


 冬樹のベッドに腰掛けていた。


「あ、お邪魔してます」


 瞬は少し照れくさそうに肩を竦めて、軽く頭を下げた。


 冬樹はドアを閉めた。


 一、二、三、四、五。


 再びドアを開いた。


 部屋の中に白い服の少女がいる。


 冬樹のベッドに腰掛けている。


「…………」


 冬樹は全身を襲う、何とも言えない脱力感に耐えなければいけなかった。


 今日は、一体、何なんだ……。


 膝をついてうなだれたい衝動に駆られたが、誰かの前でそんなことをするのは冬樹の矜持が許さなかった。


 右腕に抱えていたコートを廊下に落とし、左手をドアの縁に置いて体重をかける。


「あー……」


 言葉に迷った。何と言えばいいのだろうか。何を言えばいいのだろうか。


 わからない。


「えー……」


 かといって『不法侵入だ』と叫ぶ気にはなれない。彼女に対してそんな類のことを言うのは、何か根本的に違う気がする。


「……君は、なんなんだ?」


 陳腐な質問だな、と自分でも思った。こんな質問、自分だって答えられない。曖昧すぎる。


 だが瞬は、にぱっ、と笑ってこう答えた。


「えと、二度目の改めましてなんですけど、改めまして。私、雪女の瞬って言います」


 嬉しそうな声だ。


「あ、でも、雪女っていうのはこちらの言い方なんですよね。ちょっと難しく言うと〈刹那の雪〉って言うんです。私の二つ名なんですよ」


 楽しそうだ。


「あ、すみません、違うんです。こんな話をしに来たんじゃなくて──」


 何が違うんだか。それに、こんな話を、とは言うが、誰も君と話をするなんて言っていないはずだ。


 だが、今朝の通学路に始まり部室での爆発に至る数々の出来事で、冬樹の中に『聞くしかないのかもしれない』という諦観が生まれていた。


「……どんな話?」


 この一言が、もしかすると、冬樹が彼女に対して初めて言った好意的な言葉だったのかもしれない。


 しかし、言いながら冬樹は思った。彼女はきっと、こう言う。


 ワタシヲスキニナッテクダサイ。


「あの、さっきもした、私を好きになってください──っていう話なんですけど……」


 勘弁してくれ。


 そう声を大にして叫びたかった。






 目の前に冷たい氷と紅い液体の入ったグラスが置かれるのを、瞬はじっと見ていた。一方それを置いてくれた冬樹は、少し離れたところに湯気を立てる灰色のマグカップを置いている。マグカップの中身はインスタントコーヒーだ。


 まるでルビーを水に溶かしたような色の液体は、紅茶。つまりアイスティーである。自分はホットコーヒーのくせに何故瞬にはアイスティーなのか。もしそう聞かれたら冬樹はこう答えただろう。


 雪女だから、何となく。冷たい方がいいかな、って。


 しかし瞬にしてはそんなことを気にしている場合ではなく、冬樹にお茶を出してもらった、たったそれだけの事に思わず顔がにやけてしまうほど喜んでいた。


 ず、とコーヒーを一口含んだ冬樹が、足の短いガラス板のテーブルの向こうから怪訝そうな目でこっちを見ている。彼は服を着替えており、学生服姿から灰色のセーターとブラックジーンズという出で立ちになっていた。


「……飲まないの?」


 いつまで経ってもアイスティーを見つめているだけで動かない瞬に、冬樹は躊躇いがちにそう言った。


 そんな、飲むなんてもったいない。そう思った瞬だったが、


「もしかして熱い方が良かった?」


「あ、いえ! これで結構ですっ! もう十分OKですっ!」


 冬樹の言葉に慌ててグラスを手に取った。両手で持ち、口に近付ける。からん、と紅く染まった氷が揺れた。ゆっくりと、一口、舌に乗せるように含む。すると、ほんのり甘い味が口の中に広がった。


「……~っ!」


 脳天を突き抜けて全身を駆けめぐったのは、感激であった。喜びであった。これ以上おいしい飲み物なんてないと思った。


 今、自分は、あの沢村冬樹から、お茶をもらっているのだ。


 それは今の瞬にとって至上の出来事であった。何故かって、あの沢村冬樹である。自分がここに来た目的の人物である。その沢村冬樹が自分にお茶を出してくれたのだ。これを喜ばずに何を喜べと言うのか。名刺を川に投げ捨てられたときはどうしようかと途方に暮れたものだが、それ以後の努力の甲斐あって自分は今ここにいる。諦めないで良かった、と心の底から思う。


 よかった。本当によかった。ゴルディオさんに先を越されてなくて。『あっ! UFOだ!』って聞いたときはもうゴルディオさんが来たのかと思って焦っちゃったけど、嘘だったみたいだし。とりあえず、これで安心。


 はふぅ、と妙に儚い吐息が瞬の唇から漏れた。


「──で?」


 いきなり冬樹が言った。


「え? ──あ、ああ、はいっ!」


 思わず聞き返してしまってから瞬は思い出した。慌てる。そういえば瞬が話を始める前に冬樹が『待って。落ち着くためにお茶入れてくる』と言ったために、まだ肝心の話をしていなかったのだ。


 そうだそうだ油断しちゃダメ、と瞬は自分に言い聞かす。まだ目的は達成されていないのだ。ゴルディオさんより一歩リードしただけなのだ。うかうかしてたら足元をすくわれる可能性はまだ大きい。


 よし──!


 心の中で正体不明の気合いを入れ直し、グラスをテーブルに置く。


「えーと……何から話せばいいんでしょう?」


 瞬は冬樹の部屋の中を見回しながら、そう話を切りだした。


 冬樹の部屋は、瞬が思っていたとおり綺麗にまとまっていた。雰囲気からして汚い部屋に住んでいるようには見えなかったのだ。


 白い壁紙に、黒のふわふわした絨毯。瞬から見て右手の壁際には黒いパイプベッドと黒い机。机の上には白いデスクトップパソコン。左手の壁際には白のクロゼットと洋服ダンス。背後にはなにやらアルバムらしきものがたくさん詰まった白い本棚。


 白と黒以外の色は、机の上の教科書や本棚に詰まったアルバムの背中ぐらいにしかない。瞬にはそれが、少し面白かった。


「……そんな風に人の部屋眺めて、面白い?」


「はい」


 反射的に答えてしまってから、冬樹の口調に込められた呆れの色に気が付いた。また慌てる。


「──えやぁっ!? す、すすす、すみませんっ!」


「いいよ、別に。それよりも……」


「あ、はい。話ですね、話。えーと……」


 本当に何から話せばいいのやら、と瞬は思案した。単刀直入に言うのは既に失敗している。他に何か別の方法で話をしなければ。


「さっきも言ったとおり、私を好きになってください、という話なんですが……」


 そう言った瞬間、閃光の如く記憶が蘇った。



『僕は君が嫌いだ』




「……あー、いえ、その……冬樹さんは私のことが嫌いだったんですよね、あはは……」


 何だか急に情けなくなってきて、ごまかすように笑みを浮かべて俯いた。つい先程入れたばかりの気合いは、実にあっさり萎えてしまった。今思い出してもあの言葉は衝撃的だった。あんな風にあんな台詞を面と向かってはっきり言われたのは、多分、生まれて初めてだ。彼に自分のことを好きになってもらう目的が達成されない──ではなく、瞬という個人としてあの言葉に傷ついた。


 冬樹は何も答えない。ちらりと視線を向けると、彼は眼鏡越しにこちらをじっと見つめていた。


 さっと視線を伏せ、自分の膝頭辺りを見つめながら瞬は考える。


 やばい。どうしよう。ゴルディオさんより一歩リードしたどころじゃない。下手したら五十歩も百歩も後退してる。嫌われてる、私。


 いや、待て。あれは、そうだ。きっと最初のやり方がまずかったんだ。だから嫌われてしまったんだ。今思えば自分でも浅はかだったと思う。高い所から落ちてきて派手に登場して、こんなインパクトのある女の子どうですかー、とこれ見よがしにアピールしようとしていたなんて。まさか無視されるとは思いも寄らなかったけれど。


 お姉様から聞いた話によると、この沢村冬樹さんは頭がいい。きっと私の思惑なんてあっさり看破されていたんだろう。だから、あんなわざとらしいことをする女の子は嫌いだ、って思われたんだ。


 反省。やっぱり自分なりの方法なんて無理がありすぎた。やっぱりお姉様に教えてもらったとおりにしよう。そうすればきっと、うまくいく。冬樹さんは私に好意を持ってくれる。


 瞬は顔を上げ、しゃんと背筋を伸ばした。


「「あの」」


 冬樹と瞬の声が重なった。


 ごきん、と瞬間冷凍されたみたいに空気が固まった。


 そのまま、三秒ぐらい固まっていただろうか。


 先に動いたのはやっぱり冬樹だった。


「──一つ聞かせてもらいたいんだけど、君はどうして僕の名前を知っていたんだ?」


 『お先にどうぞ』と言わないのが冬樹らしい。


「あ、はいっ、それはお姉様から──」


「お姉様?」


「はい、お姉様から聞いて──」


「じゃ、その君のお姉さんはどうして僕の名前を?」


「それは冬樹さんがげ」


 ──はっ!


 瞬は言ってはいけないことを口にしようとして、慌てて自分の口を両手で塞いだ。


「……げ?」


 静まり返った部屋に、ぽつん、と冬樹の言葉が浮かんだ。


 し、しまったぁ──────────っ!


 瞬は滅茶苦茶に混乱してしまった。両手で口を塞いだ体勢のまま、身動きもできない。目を見開いた、いかにも『やってしまった』な顔で硬直する。


 私ってばなんて失言を──! しかも中途半端な! 『げ』って何? 『げ』って何ーっ!? もっと早くに気付けば良かったのに!


 頭の中がぐわんぐわんと揺れていた。体中が火照り心臓が早鐘を打っていた。いつもよりやけに速い自分の鼓動を耳にして、焦りに拍車がかかる。


 ど、どうしよう、どうやってごまかそう? げ、幻術師? げ、幻獣? げ、芸術? げ、玄関口で騒ぎ立てるゴルディオさん? あ、これちょっとおもしろ──ってちがーうっ!


 その時だった。まるで天啓の如く、瞬の中に言葉が生まれた。この言葉を思い出した自分を誉めて上げたいと、瞬は思う。


 言う。


 げ、


「現世における、たった一人の聖なる魂の持ち主……ですから」


 言えた。尊敬する姉から教えてもらった言葉そのままだった。これで失敗したら泣いて帰るしかなかった。


「……は?」


 冬樹の、何を言っているんだこいつは、と言っているような声が痛かった。だが、ここで圧されてはいけない。無理矢理に笑顔を浮かべる。


「その、つまり、そういうことなんです。私は、あなた、沢村冬樹さん、つまり『現世におけるたった一人の聖なる魂の持ち主』であるあなたに、会いに来たのです」


「…………」


 冬樹は無言。嫌な間が生まれる。自分は雪女と名乗る存在なのに、それでもこの空気を寒いと思った。


 まだだ。きっと、まだ足りない。冬樹さんは納得していない。下手をすればボロが出るから、慎重に。


 ゆっくり深呼吸。表情を引き締め、きゅっ、と唇を引き結ぶ。脳裏に、ゆっくりと言葉が浮かんでくる。それを追うようにして、瞬は凛とした声で話し始めた。


「最初から話させていただきますね。よければ、最後までご静聴お願いします。私の名は、瞬と申します。【ここではない何処か】から来ました。そして、こちらで言うところの『雪女』です。もしかすると、精霊、と言った方がわかりやすいかもしれませんね。あくまでわかりやすい言葉を選べば、の話ですので、正確には違うかもしれません。正式には私の二つ名は〈刹那の雪〉と申します」


 冬樹は無言。無表情のまま、こちらを見つめている。『最後までご静聴お願いします』がうまくいったらしい。変に突っ込みを入れられなければ、最後まで【暗唱】できる自信がある。


「私の一族、名を──仮に『雪族』としましょう。雪族は現在、これも仮称『火族』と戦争状態にあります」


 『戦争』と言う単語に、冬樹の眉がぴくりと上がった。思った通りの反応、よしよし。


「ですが双方の力は拮抗しており、決定打に欠ける小競り合いを繰り返す始末。そんな状況が随分長いこと続いております」


 ここで一旦、間をおく。話には流れというものがあるから、決して焦ってはいけない、焦りは失敗を呼ぶ──姉の言葉が耳に蘇る。瞬は意識的に微笑みを浮かべ、


「しかし、とうとう決定打が見つかったのです。それが、沢村冬樹さん、あなたなのです」


 力強い語調で、あなたってすごいんですよー、という感じを前面に押し出してそう言った。


 が、冬樹は無言。無表情のまま、こちらを見つめている。


 あれ? と瞬は思う。おかしいな。ここではちょっとだけでも驚いてくれると思ったのに。


 やや腑に落ちない感触を得ながらも、瞬は続けた。


「先程も言ったとおり、あなたは『現世におけるたった一人の聖なる魂の持ち主』です。普段は凡人とあまり変わりはありませんが、その真髄は私達と力を合わせたときに発揮されます。あなたと、私達が心を一つにしたとき。なんとその瞬間に、この世のものとは思えない莫大なエネルギーが発生するのです! すごいんですよ! 予測不可能な程のエネルギーですから!」


 自分で言いながらも思わず熱くなってしまい、身を乗り出して声を張り上げてしまった。


 しかし、それでも冬樹は無言。無表情のまま、こちらを見つめている。


 冬樹の瞳が『それで?』と言ったように思えて、瞬は乗り出した身を引き、咳払いを一つ。


「……それがつまり、最初に申しました『私を好きになってください』という話に繋がるわけです。あなた、沢村冬樹さんが私を好きになってくださることで、発生するエネルギーは私に流れ込み、その力を以て私達は戦争を終結させることが出来る──と。そういうわけなんです。お解りいただけましたでしょうか?」


 冬樹は無言。無表情のまま、こちらを見つめている。


 あまりの反応の無さに、瞬は流石にたじろいだ。


「あ、あの……冬樹さん?」


 顔を覗き込む。しかし、彼は身じろぎ一つしない。瞬が見えていないようだ。目が、何処か遠くを見ている。どうやら何か考え込んでいるらしい。


 瞬は思う。もしかして、成功した? もしそうだとしたら、きっと冬樹さんが考えているのは私をどうやって好きになるかってことのはず。まあ当然と言えば当然。戦争って単語や、あなたこそがキーポイントなのです、ということを殊更に強調して言ったのだから。


 これで悩みもせずに断られたら、こちらが困る。


「…………」


 瞬はじっと、冬樹の言葉を待っている。




 自分は今、人類未曾有の状況にいるのではないだろうか。冬樹はそんなことを考えている。


 現世におけるたった一人の聖なる魂の持ち主。


 なんと間抜けな響きで、なんと怪しさ大爆発な肩書きであろうか。格好悪い。これならまだ『のぞき部長』の方が遥かにましだ。


 しかも何だ、心を一つにしたら莫大なエネルギーが発生する、というのは。何故それが『聖なる』なのだ。どこがどうなってそんな危なそうなモノが神聖とされるのか、冬樹には全くわからない。


 だってそうだ。瞬の言うことをもっと厳密に訳して簡略すれば、詰まるところ、冬樹は核爆弾の作動キーなのである。彼女がそう言った。冬樹が協力するなら、戦争に一気に決着がつく、と。


 否。ちょっと待て。僕は何を真剣に考えている。それ以外に突っ込むところはたくさんあるだろう。


 【ここではない何処か】って何処だ? 雪女? 精霊? 雪族と火族の戦争? 僕が彼女を好きになれば戦争が終わる?


 非科学的を通り越して、非現実的だ。同時に、非現実的を通り越して非科学的とも言える。


 そして『火族』という単語。それと、地面から噴き出した火柱を繋げるのは当たり前の発想だった。


 紅い瞳の、金髪の少女。その姿が脳裏をよぎり、真っ先に思い出したのはドブの匂いだ。嫌な印象だな、と意識の片隅で思いながら冬樹はぞっとする。


 やっぱり、と確信する。


 あの少女の姿をした化け物も、自分を捜していた。その目的はおそらく瞬と同じ、冬樹の『現世におけるたった一つの聖なる魂』なのだろう。


 信じられないことではあった。だが、自分が狙われているというのは現実だと、冬樹は実感する。


 正直、『戦争』という単語が出たときには驚かされた。思わぬ言葉だったから。だが本音を言えば、冬樹にとってはそんなこと──瞬の言う、彼女やその周辺の事情──はどうでもよかったりする。


 問題なのは、『空から落ちてきても怪我一つなく、常識では信じられない速度で移動をする少女』と『マンホールの中から炎と一緒に飛び出してきても火傷一つ負わない少女』が自分を狙っているという、その事実だ。


 こんな二人──人、という数え方で良いのか?──の化け物に狙われるのと、世界一凄腕の殺し屋に狙われるのとでは、どちらがましであろうか。冬樹にはその判断がつかない。


「あ、あの……冬樹さん?」


 瞬の声が聞こえたが、無視した。しかし、しかしである。自分が狙われていることを認めるというのはつまり、目の前の女の子が雪女であり、精霊であり、自分が戦争のキーファクターであるということを認めることではなかろうか。


 良いのか、そんなことを認めてしまって。


 勿論、瞬とあの金髪の少女が『化け物』だということは認める。実際、冬樹は心の底からそう思う。少女の姿をしているのは生物学的に見ればおそらくカモフラージュ。本性は恐ろしい魔物かもしれない。もしかすると人肉が好物なのかもしれない。用が済めば冬樹を喰ってしまうつもりなのかもしれない。


 だがしかし。雪女や精霊などという非科学的な存在まで信じて良いのだろうか。それは、とある一部を除き、世界中の人間を敵に回すことなのでは? そう、科学万能の時代そのものを敵に回してしまう所業だ。雪女はいる、などと声高に叫んだ日にはその瞬間から変人扱いだ。ただでさえ近所や学校では無愛想で通っているというのに。


 嗚呼、段々何が何だかわからなくなってきた。


 つまり、要するに、結果的に。


 信じるしかないということだろうか。


「…………」


 いや、やっぱり待て。そんな早くに結論を出していいものだろうか。否、断じて否。信じる信じないは心の問題で、思考ではない。信じられるときに、信じればいいはずだ。そうだ、きっとそうだ。


 かつて無いほど混乱の極みにあった冬樹は、しかしそれをおくびにも出さず、長い時間を置いてようやくこう答えた。


「……正直、信じられないな」


 瞬の反応はやはり劇的だった。クリスマスの朝、どきどきわくわくしてプレゼントを開けたら、ぬいぐるみが欲しかったのに魔女っ娘のスティックが入っていた──そんな反応だった。その表情を見て、冬樹は思い出す。そういえば知り合いが受験に落ちたとき、あんな顔をしていたな、と。


 瞬は数時間前と同じ声を上げた。


「ええっ!? どっ、どうしてですか!?」


 どうしてもくそもあるか、とは思わなかった。


「信じられないから信じられないって言ってるんだ。君は自分がどれだけ非常識なことを言っているのかわかってるのか?」


「ひ、非常識って言われましても……」


「大体、【ここではない何処か】って何なんだ。そんな言い方が通じるならどこだって【ここではない何処か】だろ。信じて欲しいなら、ちゃんとはっきり言ってくれ」


 うっ、と瞬が言葉に詰まる。それを見た冬樹の『理性』が急速に立ち上がる。ほら、どうした。何か言うと困ることでもあるのか。それとも、言えない理由でもあるのか。冬樹の頭は落ち着いていく。


 だが少女の一瞬の躊躇は、実に巧妙なフェイントだった。


「あの……異世界、って言えば、わかりやすいと思います」


 強烈なストレートの直撃を受けて『理性』は鼻血を噴いて吹っ飛んだ。


 思わず聞き返してしまう。


「い、異世界……?」


 声が小さいのは、冬樹が普段から大きな声を出していないからだ。


「はい」


 痛恨の一撃だった。冬樹の思考回路はこれまでで最大級の被害を受けた。


 ファンタジーだ。きっと、これはファンタジー。夢なのだ。頬をつねれば痛くないに決まっている。そうすれば、今ベッドの中で毛布にくるまって寝ている自分は現実でも頬をつねり、その痛さで目が覚めて朝日が拝めるに違いない。


 しかし、頬をつねる勇気が冬樹にはなかった。


 顔の筋肉を無表情で凍らせたまま、身動きもできない自分に、愕然とする。


「つまり、君は異世界から来た、雪女……って?」


「正確にはちょっとちがうんですけど、概ねそんな感じなんです」


 おおむねだろうがペチャパイだろうが、どっちでもよかった。


「……それで、その異世界の戦争の決着をつけるために、僕が?」


「はい」


 瞬はこくっと頷く。


「…………」


 絶句した。喋らないのではない。本当に言葉を失ってしまったのだ。


 たっぷり三十秒は沈黙してだろうか。冬樹は訥々と聞いた。


「……それで、僕に、君を、好きになれ、って?」


「……はい」


 はにかみながら頷く瞬。


 冬樹は先程と同じ事を思う。


 勘弁してくれ。


 心の底から、そう思った。






To Be Continued…

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