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空から雪(女)が降ってきた





 星の散らばる夜空を、二色の光が切り裂いた。


 蒼と紅の光球。


 二つの光球はまるで舞うように交差しながら、素晴らしい速度で夜空を駆ける。


 突然、蒼い光が速度を上げた。まるで紅い光から逃げるように、ぐんぐん距離を開いていく。


 すると紅い光が、まるで怒りに打ち震えるかの如く明滅した。次いで紅い光も速度を上げ、蒼い光との距離を縮める。


 二つの光は舞っているのではなかった。蒼い光が逃げ、紅い光が追っているのだ。


 二条のいびつな軌跡を夜空に残しながら、蒼と紅の光球が空中でぶつかり合った。


 二色の光球は互いに強い光を放ち、せめぎ合う。そして不意に離れ、再び激突。それを何度か繰り返している内に、紅い光が再び、しかし弱々しく明滅し始めた。速度も落ちる。


 まるでその時を待っていたかのように、蒼い光がさらに輝きを増した。鞭のしなりを思わせる動きで、勢いよく紅い光に突撃する。


 光が爆ぜ、弱っていた紅い光はあっけなく力負けした。弾け飛び、彗星の如く地上へ落ちていく。


 蒼い光はその結末を見届けることなく、加速。一瞬という時間を以て、その空域を脱出した。星空の彼方へ消えていく。


 そして夜空に静寂が戻った。


 少しして、空に星ではない白いものが大量に生まれた。


 雪だ。


 音もなく白い雪が地上に舞い降りる。


 何かの始まりを合図するような、そんな雪だった。






 白い雪がしんしんと降る、そんな朝のことだった。


 雪の積もった道を傘を差して歩きながら、沢村冬樹は小さく溜息を吐いた。


 休み明けの月曜日、学校があるというだけでも気分が重いのに、この雪である。ただでさえ重い気分がさらに重くなる。


 さくり、さくりと雪に足跡を刻みながら歩く。小さい頃はこうやって真っ白な雪に足跡を付けていくのが好きだった気がするが、今では何でもない。むしろ鬱陶しい。雪なんか降らなければいい。そう思う。


 黒い傘に黒い学生服、その上に羽織った黒いダッフルコート。ついでに背負っているバッグも黒。別に黒が好きというわけではない。制服とバッグに関しては校則でそう決まっているだけだ。学校はいつも子供に『無個性』を押し付ける。中にはそれに反発する子供もいるが、冬樹はどちらかというと『無個性な事を皆でしているからこそ、それぞれの個性が表れる』と考えている方だ。まあ、このような考え方は昨今の高校生ではまだ少ないらしく、そのせいか冬樹はクラスメイトから妙に冷めた奴と見られている。顔に引っかけた縁無し眼鏡もそのイメージに一役買っているのかもしれない。


 吐く息が白い。まだ大丈夫だろうと思って手袋を填めずに家を出てきた事を後悔する。傘の柄を右腕に引っかけ、両手を上着のポケットに突っ込んだ。


 昨晩から降り続けている雪は、街を真っ白に染め上げていた。冬樹が歩いている住宅街の家々の屋根には、例外なく雪という白いペンキが塗られ、窓という窓は霜で曇っている。


 住宅街を抜けると、そこは川沿いの土手だ。元々は緑が敷き詰められている土手だが、もちろん今は全て雪に覆われている。その土手の向こう、眼下に幅十数メートルの川が横たわっている。凍ってこそいないが、次々と雪を呑み込んでいるその様子を見ていると背筋に悪寒が走った。例え指先だろうと、浸けた瞬間に全身が凍り付いてしまいそうだ。


 右に曲がり、川沿いに土手の上を歩く。この先にある橋を渡ってしばらく進めば、冬樹の通う神無学園がある。


 もう少しで教室のストーブにあたることができる。そう思い、冬樹は歩調を速めた。


 その時だ。


 周囲の空気がガラリと変わったような、そんな違和感を感じた。


 直後、ものすごく嫌な予感がした。


 立ち止まる。


「……?」


 胸騒ぎがした。


 雪の降り続く中、冬樹は辺りを見回した。が、別段何の異常もない。冬の、いつも通りの風景である。


 気のせいだったのだろうか?


 そう思った瞬間だった。


「──ぁぁぁぁぁ──」


 という微かな声が耳に届いた。遠い声だ。幽霊の呻き声のようにも聞こえる。冬樹はぎくりとし、再度辺りを見回して声の発信源を探した。


 見当たらない。


「──ぁぁぁぁぁ──!」


 声がどんどん近付いてくる。冬樹は焦り始めた。何だかその場にいてはいけないような気がしたので、二・三歩後ろに下がった。


「──ぁぁぁぁああああ──!」


 声はさらに近付いてきた。もうかなり近い。そこでようやくわかったのは、声が上から近付いてきているということ。


 見上げた。そして、目を見開いた。冬樹は信じられないものを見た。


 人だ。灰色の雲を背景に、飛行機に乗っているわけでも宙に浮いているわけでもなく、人影が空を舞っていた。否、その人影は空中で体を大の字に開いて、雪と一緒になって落ちてきていたのだ。一瞬スカイダイビングかと思ったが、恐るべきことにパラシュートらしき影は見当たらなかった。


 問答無用の出来事に口を開いたまま唖然とする。冬樹の思考回路は完全に停止した。


 その刹那──


「──あああああああ!」


 ずどん、とものすごい音を立てて、【それ】は冬樹の目の前に落下した。


 衝撃で路上の雪が派手に噴き上がり、白い霧が視界を覆った。飛び散った雪が冬樹の全身を叩き、黒いダッフルコートの所々に白い模様が生まれる。雪は上に向けたままの顔にまで届き、いくらかが口に入って、いくらかが眼鏡のレンズに付着した。


 静寂は唐突に訪れた。


 しんとした空気の中、冬樹は数秒間、口を開いて空を見上げたまま硬直していた。


 やがて冬樹は口を閉じて、口内に入った雪を飲み込んだ。次いで深く息を吸い、空に向かって大きく吐いた。ふぅぅぅ、と白い息は長く伸び、空気に溶ける。左手をポケットから出して、眼鏡についた雪を落とした。


 それから視線を下ろし、冬樹は【それ】を凝視する。


 ごくり、と喉を鳴らした。


 雪が抉られて露出したアスファルトの上に、白いセーターと同色のフレアスカートに身を包んだ少女が大の字に倒れていた。ついでに白いタイツをはいていたので、髪が黒くなければ周囲の雪と同化していたかもしれない。今頭に雪をかけて隠してやれば、きっと誰かが気付かずに踏んでいくことは間違いないだろう。冬樹はふと、そんな場違いなことを考える。


 少女はうつ伏せに倒れているので、その顔を見ることはできなかった。


「ぅぅ……」


 小さく篭った呻き声が聞こえる。驚くべき事に、彼女は生きていた。冬樹の感覚が狂っていなければかなりの高さから落ちたはずなのに。むしろ現時点で五体がバラバラになっていてもおかしくはないと思う。


 はっきり言うまでもなく、少年の目の前にある事実は『異常』だった。


「…………」


 そこで冬樹は足元のモノを無視するように再び空を仰いだ。上空には灰色の雲が広がり、ちらちらと雪を生み出し続けている。静かに降りてくる雪を額に受けながら、冬樹はもう一度溜息を吐いた。ふぅぅぅ、と白い息が伸びて、霧散する。


 一拍置いて、真っ正面に視線を向けた。道の先に、川を渡る小さな橋が見える。あそこを渡らなければいけない。冬樹は歩き出した。足元に倒れている少女を避けて雪を踏み、その横を通り過ぎる。


 さくり、さくりと雪に足跡を刻みながら歩く。小さい頃はこうやって真っ白な雪に足跡を付けていくのが好きだった気がするが──


 背後から、がばっ、と音が聞こえ、それと共に怒声が冬樹の背を叩いた。


「ちょっ、ちょっとちょっとちょっとぉっ! 無視ですか!? 無視ですか!?」


 冬樹は振り返らずに即答した。


「僕は何も見ていない」


 抑揚のない口調で言い放ち、立ち止まらない。歩き続ける。


「今の見てました!? 空から落ちてきたんですよ!? これ以上ないってほどド派手に! それを無視しますか普通!?」


 冬樹は足を止めない。


「僕は何も聞いていない」


「ああっヒドイッッ! 私、体張ったんですよ!? ってか普通あの高さから人が落ちてきたら『大丈夫?』とか『無事?』とか聞きません!? 救急車呼んだりしません!?」


「僕は何も知らない」


 冬樹は徹底的に遮断した。


 第一、それだけ大声出せるほど元気なのだから『大丈夫?』とか『無事?』とか聞いたり、救急車を呼んだりする必要はないだろ、と思う。


 歩調を上げ、さくさくさくとテンポよく雪道を行く。背後で少女がさらに声を上げているが、決して後ろを振り返らない。振り返ったら負けだ、と思う。振り返った瞬間に冬樹が今まで信じてきた常識は崩れ去ってしまうのだ。訳もなくそう思い、冬樹の胸中には焦りにも似た感情が生まれた。


 だってそうだ。あの高さから落ちてピンピンしている。いや、その姿は見ていないからピンピンしているかどうかわからないが、とりあえず声は元気だ。


 いきなりの出来事。有り得ない結果。いっそ少女が地面に落ちた瞬間、五体バラバラになって雪を真っ赤に染めてくれれば、この出来事は日常ではなかったにせよ異常ではなかっただろう。せいぜいその場でゲロを吐いて、一生忘れられなくて、時々思い出しては吐き気をもよおす程度の事だったはずだ。


 ──何で、何であんなに元気なんだ?


 少女の言った通りだった。あの高さから落ちてきたら普通、死ぬ。


 ──何で生きてるんだ?


 信じられなかった。伝説のツチノコを見たってこんな気持ちにはならなかっただろう。今なら幸せのツボを売りつける怪しい宗教家の言葉でも信じられた。


 足を止める気は全くなかった。だが、次なる少女の言葉はそれを覆すほどの威力を持っていた。


「もうっ! いい加減ちょっとぐらい止まってくれたって良いじゃないですか! 沢村冬樹さんっ!」


 少女は冬樹の名前を呼んだのだ。


 思わず立ち止まって振り返ってしまった。


 思えば、この瞬間に冬樹の日常は音を立てて崩れてしまったのだろう。


 完膚無きまでに。


 降り積もる雪の中、冬樹は少女を見た。


 白いふんわりしたセーターに、同色のフレアスカート。素肌を隠す白のタイツ。黒い髪はまるで男の子のように短いが、よく似合っていた。


 顔は──ちょっと可愛いな、と思った。


 彼女は背筋を伸ばして、何故か冬樹に向かって右の人差し指を向けていた。『ビシッ』という音が似合いそうな体勢で、しかしはぁはぁと肩で息をしている。怒鳴りすぎたせいで少し酸素欠乏気味らしい。顔が赤かった。


「…………」


 冬樹は訝しげに眉根を寄せた。訊かなければいけない疑問があった。


 ──どうして僕の名前を知っている?


 初対面のはずだ、彼女とは。こちらはあの娘の名前を知らないどころか、顔を見たことすらない。


 冬樹が疑問を口にしようとした時、少女が安堵したように、にこっ、と笑った。いきなりの表情の変化に冬樹は口を開くタイミングを失う。言葉を発するのは少女の方が早かった。


「ああよかった……やっとこっち向いてくれましたね。本当にもう、聞いたとおりに冷淡な人……、あ、初めまして! 私、瞬です。名前、瞬って言うんです。よろしくお願──あっそうだ、名刺あったんだっけ」


 わたわたとスカートのポケットを探りながら、立ち止まっている冬樹に向かって小走りで駆け寄る。ポケットの中から一枚の紙切れを出す頃には、彼我の距離は互いの白い息がかかるほどになっていた。瞬と名乗った少女はその紙切れを両手で持ち、冬樹に向かって差し出す。


 冬樹は思う。これは勧誘か何かだろうか?


「はい、これ。名刺なんです」


「…………」


 冬樹は無言のまま、ポケットから右手を出してその名刺を受け取った。さっと一瞥する。


 それには住所や電話番号は記されておらず、ただ手書きで『瞬』という名前とその職業が書いてあった。


 思わず、冬樹はその職業の欄を何度も見直した。しかし、何度見ても間違いではなかった。


 そこにはこう書いてあったのだ。


『雪女』


 冬樹は名刺から目をはずし、少女の顔を見た。


 彼女は少年の視線に気付くと、にっこり笑ってこう言った。


「改めまして、私、瞬って言います。雪女なんです」


 極上の笑顔だった。舞い散る雪が彩りを添えて、一種、幻想的な笑顔でもあった。


 だからこそ怪しい事この上なかった。


 もう迷うことはなかった。冬樹は思った通りに行動した。


「さようなら」


 冷たく言い放ち、迷い無く右手で風を切り、名刺を川に向かって投げ捨てた。


 瞬は笑顔のまま名刺の行く末を視線で追った。


 名刺はナイフのように真っ直ぐ飛び、川面に突き刺さった。ぴちゃりと水が跳ね、一度は沈んだ名刺が浮かび上がると、まるで枯れ葉のように川下──冬樹から見て前方──の方へ流れていく。


 二秒ほどの空白。ただ、雪だけが降る。


「……はうあっ! な、なんてことを!? アレでも一生懸命つくったのに!」


 一瞬どころか二秒も遅れて瞬は驚愕の声を上げた。川に向かって走り出そうとした彼女の足の前に、冬樹は自分の足を置いた。すると当然、


「っあ──!」


 足を引っかけられた瞬はあっさりバランスを崩した。場所は川沿いの土手の上。川に向かって倒れ込んだ彼女は、お約束のように土手を転げ落ちる。


「きゃああああああああ!」


 冬樹は雪だるまになる瞬を見届けず、踵を返して歩き出した。


 背後で悲鳴が連なり、最後には、どぼん、という音がした。


 同時に瞬の悲鳴も川に沈むように消えた。


 歩きながら、ざまあみろ、と思った。


 何が雪女だ。ふざけるのもいい加減にしろ。こんな朝っぱらから──月曜日で学校があって雪が降っているというのに──一体何だってんだ。もう気分が重いってレベルじゃない。腹が立ってきた。今日は厄日なのか?


 ばしゃあっ、と水を弾く音が聞こえたが、それでも冬樹は振り返らなかった。無視だ、無視。ああいう手合いは無視するに限る。


「ふ、冬樹さんっ、ちょっと待っ──きゃあっ!」


 またも派手な水音。多分、転けた。冷たいだろう。下手したら心臓麻痺で死ぬかもしれない。だが可哀想だとは思わない。なにせ自称雪女なのだ。それぐらい屁でもないはずだ。雪女が寒さで死ぬなんてジョーク、子供でも笑わない。


 そんな皮肉げなことを思いながら、冬樹は足を速めた。もしかすると追いかけてくるかもしれない。さっさとこの場から立ち去らなければ。苛立たしげに大きく白い息を吐く。


 橋の上まで来て、何気なくちらりと川下の方を見下ろした。いつの間にいなくなったのだろうか、少女はその影も形も見当たらなかった。だが、冬樹はその事をさして気に留めなかった。どうせ諦めて帰ったのだろう、と。


 橋を越えると、道の先に神無学園の校舎が見えた。校門前辺りに他の生徒達の姿を認める。


 ふぅ、と吐息。


 そういえば、と考える。


 結局あの娘は一体何がしたかったのだろうか?


 少し考え、


「……どうでもいいか」


 という結論が出た。


 そして冬樹はどうでもいいことは忘れる質だった。


 すぐに忘れた。


 空を見上げると、雪はまだ止みそうになかった。






 私立神無学園は県下でも有名な高等学校だ。


 別段、飛び抜けて進学率が良いとか、また逆に不良生徒が多いとかいうわけでもない。


 変なのだ。


 何が変なのかというと、その校風。


 一言で言えば『自由』。だがそれは、生徒だけの自由ではない。


 特筆すべきは理事長の自由だ。


 なにせ、そもそもの学園創立の理由が『理事長の趣味』だったりするのだから驚きだ。校則は全て理事長が考え、作成している。それらの内容も勿論趣味だ。チャイムが毎日変わったりするのも理事長の趣味だ。そのチャイムが結婚式の鐘だったり頭の痛くなるような甲高い電子音だったり時にはライオンの雄叫びだったりするのも、やっぱり理事長の趣味である。そんな学校に生徒なんているのかというと、いないような気がするのだが、いる。しかも理事長以外が頑張っているのか大学への進学率はそこそこ高かったりする。


 理事長が考える校則も生徒の自由を尊重するものなので、むしろ生徒からの人気は高い。それだからまあ、校則の中に『理事長をおばさんと呼んではいけない』という一文があっても『お茶目』の一言で済まされてしまう。


 この事態は逆説的に言えば、理事長以下の教師や生徒達も変だと言うことになる。


 だが、変人だらけのこの学校では、だれもその『変』に気付くことはなかった。


 冬樹の通っている学校は、そういう所なのだ。




「いよっ、冬樹」


 玄関に入ってすぐ、冬樹の背中に声がかかった。振り返るより早く、脳裏に声の主の名前が浮かぶ。


 村上淳。冬樹の数少ない友人の一人だ。冬樹は人からよく言われるように冷淡な性格をしているので、彼に寄ってくる人間は少ない。だが、中にはそんな冬樹に自分から話しかけてくる物好きな輩もいて、村上はその筆頭だった。


 振り返るとまず、派手な金髪が目に付いた。所々に雪がついている。次いで、その下に張り付いたいかにも軽薄そうなにやけ顔。それでも顔の造形は整っていて、髪型やファッションセンスも悪くないから女子にはよくもてる。冬樹とは正反対のタイプだ。


 冬樹は特に表情を変えずに、


「おはよう」


 と言った。抑揚のない口調は彼の素なのだ。


 村上はそういう反応に慣れた感じで、にかっと笑う。


「おいおい、相変わらず暗いなおい。ま、こんな雪じゃ仕方ねぇか。あ、聞いたか? この雪、日本中で降ってるらしいぜ。テレビで異常気象だっつってた」


「へぇ」


 村上が横に並ぶと同時に、冬樹は短い答えを返した。冬樹がこんな風に曖昧な相槌を打つのはいつものことだ。村上もそれをわかっていて彼に話しかけている。むしろ、冬樹が「へぇ」と返すだけでも大変なことなのだ。先程の少女のように、初対面の人間に対してはほとんど何も喋らないのだから。


 頭を振って髪に付いた雪を振り払いながら、村上は続けた。


「雪は毎度のことだけどよ、鬱陶しいつーかめんどくさいつーか、うぜぇよなぁ。って言うかさ、雪の日ぐらい学校休みにしろって感じじゃねぇ?」


 冬樹は溜息交じりにこう答える。


「そんなことしたら、冬の間中ずっと休みになるだろ」


「それがいいんじゃねぇかよ」


 へへへ、と村上は笑う。


 二人は下駄箱の前で立ち止まり、上靴に履きかえる。冬樹は下駄箱の扉を閉じながら、


「村上はそれでいいかもしれないけど、僕は授業が遅れるからまっぴらゴメンだね」


「かーっ! 相変わらず堅いっつーかクールだねぇ、冬樹センセは」


「言外に『お前は馬鹿だから』って言っているんだよ」


「ぐふぅ! キツイ、キツイぜぇ、その言葉は……」


「事実だろ」


「いや、そりゃ確かに認めるが……」


「認めるならそれ以上の反論は意味を持たないから止めた方がいい。惨めになるだけだ」


「ぐぅ……」


 冬樹の刺々しい言葉にぐぅの音しか出ない村上。しかし、このようなやりとりは彼ら二人の日常茶飯事だ。これが冬樹に人が寄ってこない原因であり、村上が冬樹の友人たる理由である。一言で言えば、冬樹は毒舌家なのだ。人は冬樹の吐く毒を嫌い、離れていく。だが村上を含むその他は逆に、裏表なく言いたいことをはっきり言う冬樹の性格に好感を持っているのだ。


 村上が振る今朝のニュースの話題に、冬樹が「へぇ」や「ふぅん」などと相槌を打ちながら、二人は第一校舎の廊下を歩く。日の光が無いせいか、廊下は照明が灯っていてもなお薄暗かった。ちなみに廊下の壁には『廊下を歩くときは右側通行』という張り紙が張ってあるので、彼らはそれに準じている。当然の如くその張り紙を張ったのは外国帰りの理事長だ。


 なお、神無学園における校則とは絶対の物である。どんなふざけた校則でも、守らない者にはそれなりの処分が下される。伝説によると、かつて『理事長をおばさんと呼んではいけない』という校則を知った勇気ある者が、理事長に『クソババア』と言って退学処分になったことがあるらしい。その無謀な勇者は今も病院のベッドで悶え苦しんでいるとかいないとか。


 階段を上がり、二階へ。冬樹と村上の属している二年一組の教室は、二階廊下の一番奥にある。長い廊下の所々では何人かの生徒達が雑談を交わしていて、そのざわざわとした喧噪の中を、冬樹は村上の話に耳を傾けながら歩いた。


 ようやく廊下の端にたどり着き、教室に入った途端だった。


 クラスメイト全員の視線が、出入口に立った冬樹に集中した。


 ぎょっとした。


 次の瞬間、冬樹は窓際の自分の席に座っている【モノ】を見てさらにぎょっとした。


 さっき川に落としたはずの少女がそこに座っていた。定規でも入っているのかと思うほどきちっと背筋を伸ばして、瞳を真っ直ぐ黒板に向けて。驚くべき事に、その白い服は濡れた様子が全くなかった。一体いつの間に乾かしたのだろうか。いや、そもそもどうやって冬樹より先にこの教室へ来たのか。


 冬樹の視線を追いかけるように、クラスメイト全員の視線が彼の席に座っている少女──瞬に向く。


 押し寄せる視線の波に気付いてか、瞬が周囲を見回した。と、出入口の冬樹に気付く。


「あ、冬樹さんっ!」


 再びクラスメイト全員の注目が冬樹に殺到した。まるで冬樹と瞬の間を寄せては返す波のようだ。すぐ横の村上のも含めて、全ての目がこう聞いていた。


『あの子、誰?』


 知るかそんなこと。そう言えたらどんなに楽だっただろうか。


「…………」


「……な、なあ。あの子、誰だ? お前の知り合いか?」


 冬樹が黙っていると、村上がついに声に出して聞いてきた。


 冬樹は答えなかった。


 周囲の視線を振り払うように歩き出す。強い歩調だ。有無を言わせない速度で机と机の間を縫い、最短距離で自分の席へ。


 机に座っている瞬の横に立つ。


 瞬が冬樹を見上げた。


「もう、ひどいじゃないですか。いきなり足を引っかけるなんて。いくら私が雪お」


 冬樹は無言のまま背中のバッグを机の上に置いて、


「どいてくれないか」


 問答無用で瞬の座っている椅子を後ろに引いた。


「ひょえっ!?」


 椅子はあっさり瞬の尻の下から抜け、支えを失った少女の体は重力に引かれるまま床に落ちる。


 どっ、と鈍い音がした。


「きゃう!? は、はぅぅぅぅぅ……で、臀部打っちゃいました……」


 それは痛い。だが、腰の辺りを押さえてうずくまる瞬に対し、それを見下ろす冬樹の言葉は冷たく素気なかった。


「どいてくれ、って言っているんだ。邪魔なんだよ」


 冷然と放たれる容赦のない言葉に、瞬は、はっ、と顔を上げた。そして、


「あ、は、はいっ、すすすみませんっ」


 慌てて立ち上がり、さっとその場から退く。冬樹はそれを確認すると、入れ替わるように椅子に腰を下ろし、音を立てて机との距離を詰めた。コートのポケットに両手を突っ込み、ぷい、と窓の外に顔を向ける。


 そして、しん、と教室の中が静まり返った。誰も身動き一つしない。教室中の興味が全て窓際の前から二番目の席に注がれ、そこからはやけに刺々しい雰囲気が教室全体に流れ出ている。


 誰もが思った。今の沢村冬樹には触れてはいけない、と。触らぬ神にたたり無し。今彼に触れれば、一体どれだけの毒の込もった言葉を浴びせかけられることか。あるいはぞっとするほど冷酷に遮断されることか。下手をすると無視されるかもしれない。二年一組の生徒は遠巻きにひそひそ話を囁き始めた。真っ先に捕らえられたのは出入口にいた村上だ。数人が彼にこっそり近づき、ひそひそと、


「おい、どうしたんだよ、沢村の奴」


「なに怒ってんだ? やけに機嫌悪そうだけど……」


「あの女の子、誰よ? 沢村って彼女いたっけ?」


 連続して放たれる質問に、村上はまとめて簡潔に答えた。


「わっかんねぇ……」


 そして再び教室の中は静まり返り、野次馬共は冬樹とその側に立つ瞬の一挙一動を見守った。


 先に動いたのは瞬だ。彼女は冬樹の机の前に移動して、右のポケットから水を吸ってよれよれになった名刺を取り出し、おずおずと机の上に置いた。名刺の『瞬』という一文字は滲んでおり、もはや単なる染みにしか見えない。


「あの……受け取ってください」


 冬樹は答えない。瞬の顔を見ようとすらしない。窓の外に顔を向けたまま。


 空気が重い。


「えと……何度も言うようですけど、私の名前は瞬です。覚えてくださいね。で、その、実は」


「何の用?」


 冬樹の声が瞬の台詞を切り裂いた。


「……へ?」


 いきなりの奇襲に、瞬はすっとぼけた声を上げた。


 冬樹は窓から視線を剥がし、瞬を見た。高低差から自然と彼女の顔を見上げる形になる。冬樹のややつり上がった鋭い目と、瞬の丸い垂れ気味の目が真っ正面から向かい合う。瞬が威圧されたように息を呑んだ。


 冬樹は繰り返した。


「だから、何の用? 何か用があるならさっさと済ませて帰ってくれないか。君はこの学園の生徒じゃないんだろ?」


 愛想もへったくれもない言いぐさだった。


 だが瞬はこの言葉に両掌を胸の前で合わせて、ぱっと顔を輝かせた。


「──よかった! 私の話を聞いてくれるんですね? 実は冬樹さんに大事な大事なお話があったんです!」


 嬉しそうに言う瞬から視線を逸らし、冬樹は嘆息。


 馬鹿馬鹿しい。一体何の話があるって言うのだ。何かの宗教の勧誘か? 幸せのツボでも売りつける気か? 冗談じゃない。


 だが、冬樹のその予測は大きく外れていた。


「まず本題から入りますね」


 瞬は前置いて、深呼吸を一つ。


 続けた。


「私を好きになってください」


 刹那、時が止まった。全ての音が消えた。まるで世界中の何もかもが我が耳を疑っているような、そんな一瞬だった。


 そして時が動き出した瞬間、冬樹以外の全員が声を上げていた。


『はぁ?』


 事前に打ち合わせしていたんじゃないのかと思うほど良い感じにハモっていた。二年一組の生徒は変なところで気が合っているようだ。


 誰もが瞬を凝視した。その一秒後に誰もが冬樹を凝視した。誰がどう考えても次は冬樹が口を開く番だった。そんな空気が流れていた。その中で冬樹は無表情に瞬を見上げていた。否、無表情ではない。驚きで頬の筋肉が硬直して表情が変えられなかったのだ。


 絞り出すように冬樹は言った。


「……は?」


 他のみんなと同じ様な返し方だったのは、冬樹もまた二年一組の一員だったからかもしれない。


 瞬は、どんな根拠があるのかやけに自信満々な顔で、丁寧に繰り返した。


「だから、私のことを、好きに、なってください」


 そして教室に雪の積もる音さえ聞こえそうな静寂が満ちた。


 冬樹の思考は見事なカウンターを喰らって真っ白になっていた。


 目の前の女の子は今なんと言ったのだろう? そういえば男の子みたいな髪型をしているけれど、声はちゃんと女の子らしくて可愛い感じだ。そう、その可愛い感じの声はこう言ったのだ。ワタシヲスキニナッテクダサイ。私をスキニなってください。


 私を好きになってください。


 好きに。


 なるわけがないだろ、と思った。


 チッ、チッ、と誰かの腕時計の発する秒針の音が聞こえる。それを三回数えてから、冬樹は口を開いた。


「……君、もしかしてそれ、本気で言ってるの?」


 遠慮など微塵もない返事が返ってきた。


「はい!」


 凄い馬鹿だ、と冬樹は思った。こんな馬鹿な人間、今まで見たこと無い。この娘に比べたら村上でも足元に及ばない。


 これは、本物の馬鹿だ。


 だから冬樹はこう言った。


「……素敵な思考回路しているね、君」


 当然、それは皮肉のつもりだった。しかし。


「え? そ、そうですか? てへへ……恐縮です」


 なんと瞬は顔を赤らめ、嬉しそうにはにかんだのだ。


 二年一組にいた全員がこう思ったことだろう。


『いや違うってそれ』


 冬樹は、猿から生まれたエイリアンを見たような気分になった。


 しまった。迂闊だった。相手は馬鹿だったのだ。こんな遠回しな言い方ではこちらの意図が伝わらないに決まっている。もっと直接的にはっきり言うべきなのだ。


 段々、本当に腹が立ってきた。冬樹はやや俯き、怒りを抑えるために大きく息を吐いた。窓の外に目を向け、声にありったけの棘を込めて言った。


「……無理だね。不可能だ。そして嫌だ。僕は君を好きにならない」


 一言で断っても食らいついて来そうな気がしたので、徹底的に拒絶してやった。


 その冬樹の意図はまたも相手には通じなかった。相手はどこまでも馬鹿だった。


 反応は劇的だった。瞬は机に手を突いて身を乗り出し、切羽詰まったような表情で叫んだ。


「ええっ!? どっ、どうしてですか!?」


 どうしてもくそもあるか。そう怒鳴りつけたいのを冬樹は必死に我慢した。


 何なんだ、この娘は。朝っぱらいきなり空から落ちてきて、しかも雪女だと名乗って、挙げ句には『私を好きになってください』?


 ふざけている。人をおちょくっているとしか思えない。もしかするとこれはテレビのドッキリか何かなのだろうか? 実はクラスメイト全員がサクラで、黒板の端辺りにカメラが隠してあったりするのだろうか? まさか。いや、まさかとは思うがこの学園の理事長が理事長だ。有り得ない話ではない──かもしれない。


 苛立つ。結局この状況が何なのかわからない。そしてわからないという事実にひどく腹が立つ。


 そっちの用件に関してはもう断ったんだ。なのに何で『どうして?』なんて聞くんだ。それを知ってどうなるってものでもないだろ。僕が君を好きになることはない。絶対にない。だからさっさと帰ってくれ。もう君の相手はしたくないんだ。


 冬樹の心の奥底から、いくつもいくつも言葉が湧き出てくる。が、それらは一切口を割って出ることはない。言いたいことが同時に出てき過ぎて、うまく言葉にできないのだ。


 何も言わない代わりに、冬樹はありったけの感情を込めて瞬を睨んだ。それは端から見れば無言の威圧であり、鋭くなった冬樹の目に気付いた瞬はびくりと体を震わせた。


 教室の空気がピンと張りつめた。冬樹が怒っているのは誰の目にも明らかであり、そろそろ爆発すると推測するのは容易かった。そして二年一組の誰も、そう村上でさえ、怒っている冬樹を見るのは初めてだった。


 何が起こるかわからない。そんな不安に満ちた数秒間が過ぎ──


『いちっ、にっ、さんっ、ダアアアァァァァッッ!』


 黒板の上のスピーカーから放たれた【チャイム】が全てをぶち壊した。この不意打ちに度肝を抜かれなかった人間はいなかった。一昔前のコントのように転けた奴までいた。


 もちろん声の主は理事長その人だった。冬樹は冷静に、今度はプロレスにはまったか、と考える。


 スピーカー独特の余韻を残して、予鈴のチャイムが終わった。緊張の糸は音を立ててちぎれ、後には緩んだゴムのような空気が残った。クラスメイト達はガタガタと音を立てて動き始め、今までのことを全て忘れていつも通りの雑談をする。


「なぁ、今日の一限って何だっけ?」


「五十嵐の古典だろ?」


「あっやべっ、俺、今日当たるんじゃなかったっけ? マジやべ、ちょっとノート見せてくれよ」


「百円」


「高い。一円」


「安すぎるわい!」


 もはや冬樹と瞬に気を払う者などいなかった。完璧に忘れていた。否、どうでも良くなった、と言った方が正しいだろう。彼らの関心は全て一限目の授業に移っていた。


 だが、当の二人は未だ現実から切り離されたように向かい合っていた。


 実を言うと冬樹は困っていた。内心、いつも通り変だった予鈴のせいでかなり拍子抜けしている。しかし、珍しく険しくしたこの顔をどうすればよいものか。見ると、瞬はまるで怯えた小動物のような、硬い表情で自分を見つめている。こちらの言葉を待っているのだ。


 言うことは一つしかなかった。冬樹は瞬から視線を逸らし、溜息交じりに言った。


「──とにかく、もう帰ってくれ。用件は済んだはずだろ」


 瞬はしつこかった。


「ま、まだです! 私の用事はまだ」


 叩き潰した。


「僕は君が嫌いだ」


 特に大きい声だったわけではない。むしろ囁くような薄い声だった。それでもその威力は絶大だった。


 瞬は目を見開いて、写真を撮られたようにその動きを止めた。


 冬樹は硬直した瞬を一瞥。ふん、と鼻息を吐き、もう目の前の少女を無視することに決めた。どうせ先生が来たら追い出されるのだ。放っておけばいい。バッグに手を伸ばし、教科書やノートを机の中に移す。


 視線を感じて振り返ると、村上がこちらを見ていた。窓際から二列目の最後尾に座っている彼は、小首を傾げるジェスチャー。意味は『どうなったんだ?』。それに対して冬樹は簡単な答えを返した。無視。意味は色々。『大丈夫、もう済んだ』とも取れれば、『よくも助けに来なかったなこの裏切り者』とも取れる。


 前に向き直ると、瞬はまだそこにいた。その体勢が微妙に変わっている。彼女は腕を組んで俯いていたのだ。右手の人差し指を唇に当て、なにやら小声で呟いている。


 いきなり顔を上げた。


「あの、質問して良いですか?」


 冬樹は無視した。見向きもしない。机の中から古典の教科書とノートを取り出す。


 馬鹿はじっと冬樹を見据え、そのまま言葉を繋げた。


「……どうすれば私のこと、好きになってくれます?」


 くだらない質問だ。冬樹は答えない。内心、君がこの教室から出ていけばそうなるかもね、と答えようと思ったが、やめた。この馬鹿はその言葉を本気にしかねない。


 その時、教室の中がやけに静かになった。それに気付いて出入口に視線をやると、そこに最近奥さんと上手くいってないらしい古典教諭の五十嵐が立っていた。最近奥さんと上手くいってなくて、むすっ、としていた顔が、瞬を見つけてさらに険しいものになった。


 冬樹は予想する。眉根を寄せた彼の第一声は、何だね君は、だ。


「何だね君は?」


 思った通りだった。


 瞬はその声に振り返り、五十嵐の顔を見て、口を『あ』の形に開いた。慌てた様子でキョロキョロして、再び五十嵐の顔を見たときにはひどく困惑した表情を浮かべている。どうやら、今更自分以外の人間が席に着いていることに気付いたらしい。


「……あ、や、そ、その……」


「んぅ?」


 しどろもどろの瞬に、五十嵐が怪訝そうに顔をしかめた瞬間だった。


『あっ! UFOだ!』


 黒板の上のスピーカーがそう叫んだ。間抜けにも冬樹以外の全員が反射的に窓の外に目を向けていた。唯一、それが理事長による【本鈴】だという事に気付いた冬樹だけが動かなかった。


 この時、冬樹は素早く前方に手を伸ばして瞬の右肘を軽く叩いた。


「!」


 はっとなって振り返った少女に、彼は視線でもう一つの出入口を示す。


 流石の彼女もそこまで馬鹿ではなかったらしい。咄嗟に、うん、と頷き、そして、


 何故かすぐ側の窓を開け放った。


 冬樹は呆気にとられた。火をつけたはずの紙が凍りついてしまったような、そんな気分だった。


 びゅう、と雪を孕んだ冷たい風が教室に吹き込み、室温を急激に下げる。


 瞬は窓の外に身を乗り出して、こう叫んだ。


「どこ!? どこですか!? UFOってどこですか!?」


 冷たい風に打たれて、冬樹は頭を冷やした。


 馬鹿に期待した自分が馬鹿だった。




 この直後、瞬が五十嵐の手によって教室から追い出されたのは言うまでもない。






「つまり反語は『なになにであろうか、いや、なになにでは決してない』という意味で、この場合は──」


 毎度のことだが、五十嵐の授業は冬樹にとってはつまらないものだった。教科書を読めばわかることを延々解説するのだから。いや、もっと言えば学校の授業は全てつまらない。冬樹は自分の頭脳に対し、なかなか悪くはない、という自負を持っている。学校で習う事で理解できなかったことはなく、中学、高校でもテストで九十五点以下をとったことはない。周囲からはよく『沢村は頭いいよな』と言われるが、冬樹はそれは違うと思っている。自分はただ勉強が出来るだけだ。勉強が出来るというのは、ただ単に先人の知恵を享受しているだけで、むしろ出来ない方がおかしい。現代人は大昔の人間より脳が発達しているはずなのだから、その脳の発達していなかった頃の人間の知恵を理解できなくてどうするのか。冬樹が思うに、本当に頭のいい人間とは、新しい何かを生み出す事の出来る者だ。そして全てに対して理解の深い者である。それが天才だ。


 また、彼としては馬鹿の定義も常人とは異なる。世の中には知能障害者などがいるが、彼らは決して馬鹿ではない。残念ながら彼らの限界は見えてしまっている。何かを理解したくても、出来ないのだ。


 しかし、それ以外の人間は違う。理解する力は確実にあるはずだ。だが実際にはそうではなく、物事をしっかり理解していない輩が多い。それはおそらく、理解しようとしていないからだ、と冬樹は考えている。冬樹はそんな、知能があるのに理解できない、しようとしない者こそを馬鹿と呼ぶ。


 つまり、物事を理解できないのが馬鹿なのではなく、理解しようとしないのが馬鹿なのだ。


 理解できないと言えば、そういえば今朝の出来事は正に理解不能の『超常現象』だったと思う。


 空から落ちてきた人間が死ななかった。あれはどう考えても超常現象だ。雪がクッションになったとはいえ、高さが高さだった。おかしいと思うと同時に、凄いとも思う。


 見知らぬ少女が自分の名前を知っていた。超国家機密機関モノの漫画や小説ではよくある話だが、まさか実際にそれが自分に起こるとは思わなかった。これもある意味、超常現象だ。


 そしてその少女の行動もまた超常現象だった。雪女だと名乗ったり、いつの間にか教室に先回りしていたり、挙げ句には『私を好きになってください』発言。訳がわからないことこの上ない。目的が全然見えないのだ。あの娘は一体何がしたかったのだろうか?


 冬樹は肘を突いて、机の隅に置いてあるよれよれの名刺を見た。触りたくなかったのでそのままにしてある。そのうち風で飛んでいって誰かが箒でチリトリに乗せてゴミ箱へ運んでいってくれるだろう。名刺の文字は滲んでしまっていて何が書いてあったのかはもうわからない。確か、瞬、とか書いてあっただろうか。それがあの少女の名前。


 すごい馬鹿だったな、と思う。こちらの言うこと成すこと全てを理解しようとはしなかった。特に最後のは痛快とも言えた。逃げろと合図してやったのに、あろうことか窓を開けて飛んでいるはずのないUFOを探しだしたのだ。


 ──はた、と気付く。


 そういえば、何故あの時、自分はあの娘を逃がそうとしたのか?


 そう考えついて、かなり驚いた。思わず目を丸くして、瞬きを数回。


 そうだ。何をやってるんだ自分は。助ける必要なんてなかったはずなのに。あの娘は結局、五十嵐に「君はうちの生徒じゃないね? 出ていきなさい。じゃないと警備員を呼ぶよ」と言われてすごすご教室から出ていったのに。最初からそうさせておけば良かったではないか。自分はなんて余計なことをしたのだろうか。


「…………」


 わからない。あの時の自分は一体何を考えていたのだろうか。あの娘を助けようとしていた? そんな馬鹿な。自分で言うのもなんだが、それは有り得ない。そんなことを考えるほどお人好しのつもりはない。そもそも、彼女に対しては怒りすら覚えていたのだ。確かに、早く帰って欲しいとは願っていたが。


 ふぅ、と小さく吐息。答えが出ない。多分、反射的な行動だったのだろう、と思う。釈然としないものがあるが、なんとなく、という言葉で説明を付けられる。なんとなく、全員に隙が出来たから逃がしてやろうと思った。なんとなく、あの娘が怒られるのが可哀想だと思った。なんとなく、あの娘を──


 視界の端で何かが動いた。窓の方だ。何気なく目を向けて──冬樹は右手に持ったシャープペンシルをノートの上に落とした。


 窓の外に、白い服の少女がいた。


 窓から見下ろすことの出来る校庭、ではなく、まさしく窓の外。ガラスのすぐ数センチ向こうに。


 にっこり笑顔を浮かべて。


「────」


 しかも冬樹が気付いたことを知ったのか、こっちを見て嬉しそうに手を振った。


 その瞬間、冬樹の頭の中で、何かが音を立てて壊れた。それは理性の崩壊だったのかもしれないし、あるいは彼の常識の瓦解だったのかもかもしれない。


 もしくはその両方か。


「……!」


 もはや我慢がならなかった。


 冬樹は椅子を蹴って立ち上がった。


 その瞬間、窓の外の瞬は口を『わ』の形に開いて慌てて身を屈めた。その姿が窓の下に消え、冬樹からは見えなくなる。


 がたん、という椅子の音に授業が中断され、八十二個の瞳が冬樹に注目した。黒板の前に立つ、八十二個の内の二個が言った。


「どうした、沢村?」


 五十嵐の言葉に冬樹はナイフの如き鋭い動作で振り向き、言った。


「気分が悪くなったので保健室に行かせてください」


 有無を言わせぬ口調だった。その眼鏡の奥の目が鋭くなっていた。まるで親の敵を見るような目だった。五十嵐はその視線に貫かれて雷撃に打たれたかの如く身を震わせた。思わず一歩後じさった彼は、こくん、と頷き、呻くように言った。


「あ、ああ……き、気を付けてな……」


 冬樹は五十嵐に軽く頭を下げ、どう見ても気分が悪いようには見えないはっきりした足取りで彼の前を横切り、八十二個の視線に見送られて教室を出ていった。


 廊下に出て、とりあえずは建て前通りに保健室へ向けて歩き出す。本当に保健室まで行くつもりはない。どうせ途中であの娘が出てくるに決まっているのだ。誰もいない廊下を音を立てないように、しかし怒りを撒き散らすかのような歩調で歩く。


 そして冬樹の予想通り、瞬は彼の前に現れた。授業中の教室の前をいくつも通り過ぎ、廊下の角を曲がったそこに──一階へ降りる階段の半ばに彼女はいた。手すりに背を預け、まるで冬樹が来るのを待っていたように。


 ──また、だ。冬樹はまた、物理的な矛盾を感じた。いくらなんでも速すぎる。自分が教室を出てここに来るまで、どれぐらいの時間がかかった? 一分か、あるいはそれよりも短いはずだ。そして彼女はどこにいた? 教室の窓の外だ。


 有り得ない。あの場所からこの階段まで一分以下の時間で来るなど。冬樹が知る、この校舎の構造を考えれば物理的に不可能なはずだ。隠し通路でも無い限り。


 だが、現実は歴然としていた。少女は今、彼の目の前にいる。息も切らせずに。


 つまり、この校舎には隠し通路があるのだ。理事長が理事長だ。納得は出来る。だから冬樹はそうやって自分を納得させた。


 無理矢理に。


「あ、冬樹さんっ」


 無邪気な声。それに対し、冬樹は階段の上から彼女を見下ろし、真っ直ぐにこう言い放った。


「いい加減にしてくれないか」


「……え?」


 キョトン、とする瞬。


 冬樹はさっと周囲を確認した。静かな廊下では声がよく徹る。別段、それを聞きつけた誰かがやってきたとしてもどうという事はないのだが、それはそれでなんとなく気まずい。授業中に女の子と二人で何をやっているんだこいつは、と思われたくない。


 声を抑えて一気に続きを。


「何のつもりかは知らない。知りたいとも思わない。僕につきまとうな。さっきも言ったけど僕は君が嫌いだ。好きになんて絶対にならない。それが答えだ。大体、君は自分が何をしているかわかってるのか? あんなことして君を好きになる奴がいると思ってるのか? 本気でそう思っているなら出直してきた方がいい。もう一度幼稚園からやり直すことをお薦めするよ」


 自分で思っていたよりもすらすらと言葉が出てきた。止まらない。口が勝手に動く。


「もしくは精神病院だね。自分のことを雪女だなんて思いこんでいるのは危険な状態だよ。そりゃ確かにあんな高さから落ちても平気な点と、この学校の隠し通路を知っている点は非常に興味深いとは思う。思うけど僕は君と関わり合いたくない。理由はさっきも言った通りだ。僕は君が嫌いなんだ。だからどんな理由があるにせよ──」


 言いながら、どうして自分はこんなにべらべらと喋っているのだろう、と思った。自分は一体何のためにこうやって一方的に彼女に言葉を投げつけているのだろうか。これではまるで──


 まるで、彼女に怯えているような。


「──!」


 化け物、という単語がいきなり脳裏をよぎった。いや、むしろ、抑えていたものがついに飛び出したような、そんなタイミングだった。


 冬樹は口を半開いたまま、硬直した。顔の筋肉が強張っているのがわかった。いきなり止まった冬樹の言葉に、瞬は『?』と首を傾げる。その顔から察するに、おそらく冬樹が言っていた内容もろくに理解していなかったのだろう。黙っていたのはただ単に怒涛の如く寄せられる言葉の波に圧倒されていただけで、表情は先程と同じ、キョトン、としたままだ。


 今、冬樹の中で葛藤が起こっていた。理性と本能がぶつかり合っていた。


 理性は言う。そんな馬鹿なことがあるものか。見ればわかるじゃないか。目の前にいるのは、確かにかなり変で馬鹿な女の子だ。心からそう思う。だけど、逆に言えば単にそれだけの女の子だ。化け物? 何を言っているんだ。常識で考えろ、常識で。そんなのいるわけないだろ。


 しかし、本能が叫ぶ。常識? ふざけるな。女の子っていうのはどんな高さから落ちても絶対にぐちゃぐちゃにならないとでも言うのか。見ただろ? 見たんだろ? この目の前の女の子は、マンションの屋上以上の高さから落ちてきたのに怪我一つないんだよ。川に落としたはずなのに服が濡れていないんだよ。信じられない速さで教室に先回りもしたし、今だって信じられないことに彼女はここにいる。さらには授業中、いきなり窓の外に現れた。これがトドメだ。この校舎の構造を知っているならもうわかっているはずだ。窓の外に、足を引っかける所なんてあったか? あの子がどこかに手をかけてぶら下がっているように見えたか?


 理性は落ち着いて反論する。いや、それは屋上からピアノ線か何かで吊り下がっていたのかもしれないし──


 本能がにやりと笑う。馬鹿が、墓穴を掘ったな。じゃあ聞く。あの子、僕が立ち上がったとき、屈んで窓の下に隠れただろ? あれはどうやって説明する? まさか屋上に協力者がいて、そいつがわざわざ下に降ろしたとか? いたとしてもそれは誰だ?


 理性は考える。それは多分──


 いきなり本能が吠えた。浮いていたんだよ! それしか考えられないだろ! 雪女かどうかはともかく、目の前にいるのはただの女の子じゃない! 常識では考えられない『化け物』だ! 違うか!?


 理性がヒステリックに声を上げた。馬鹿言うな! そんなことあるわけない! 信じられない! ふざけるのもいい加減にしてくれないか!


 本能が怒鳴った。現実を見ろ! そっちこそ常識で考えてものを言え! 現実も、真実も、目の前にあるだろ。それが答えだ。答えを否定しても意味なんか無い。できるのはその公式を探ることだ。


 理性が呟く。分からない、判らない、解らない。


 本能が言う。確かめよう。簡単だ。目の前の女の子に聞けばいい。それで全てがわかる。


 理性が自嘲気味に笑う。聞いてどうする? そんなことして何になる? 意味なんか無い。


 本能が真面目に言い放つ。聞きたいだけだ。何にもならないかもしれないけど、知りたい。それだけだ。意味なんて後からついて来るものだろ?


「…………」


 冬樹はたっぷり一分は硬直していただろうか。その間に、神無学園の第一校舎の一階と二階の間にある階段には、沈黙の塵が山になりそうな程に積もっていた。


 どこからか声が聞こえる。授業を進める先生の声であり、誰かのつまらない駄洒落に笑う声。他にも体育館で跳ねるバスケットボールの音や、どくどくと鼓動する自分の心臓の音。


 二メートルほど前方の、二メートルほど下にいる少女の顔。短く刈った黒髪。その下にあるやや垂れ気味の目は、真っ直ぐ自分を見つめている。今、気付いた。てっきり黒だと思っていた少女の瞳の色は、まるでサファイアのような海の色をしていた。どうだ見たか、と本能が勝ち誇ったように言う。


 冬樹は喋れない。まるで言葉の出し方を忘れてしまったように、そこに突っ立っている。聞きたいことがあるのに、どう聞けばいいのかわからないのだ。


「──冬樹さん?」


「!」


 瞬の発した何気ない声に、冬樹は喉から心臓が出るかと思った。だが、びくっと震えたり、声を出さなかった自分を誉めたいと思う。鉄のように硬く、鉛のように重くなっていた体に自由が戻った。


 今になって自分がろくに呼吸もしていなかったことに気付いた。ゆっくり深く息を吸って、静かに吐く。


 天井を見上げた。


「……あー……」


 声を出してから激しく後悔した。なんて切り出せばいい? 君は化け物なのか? 雪女って本当? 僕に好きになって欲しいって言うけど、それはどうして?


 眼下に視線を戻し、冬樹は言った。


「とにかく、今日は帰ってくれ。目障りなんだ」


 出た言葉はそれだけだった。


 気が付いたときには冬樹は踵を返して歩き出していた。廊下の角を曲がり、廊下を行く。


 瞬は、追いかけてこなかった。






 思えば、自分の態度はそれなりに軟化していたのだろう。


『とにかく、今日は帰ってくれ』


 今日は、である。言外に『明日来い』と言っているようなものだ。いつもの自分なら絶対に言わない言葉だった。今日どころではなく、未来永劫来るな──いつもの自分ならそんな意味のことを言っただろう。


 なんだかんだ言って最終的には理性が勝った。考える時間が欲しかった。本能はあくまで本能であり、裏打ちされたものがあるわけではない。直感を元に考察してこそ、それはより確実なものとなるのだ。無闇に信じるより、疑いに疑い抜いて得る真実にこそ価値がある。


 簡単に言えば、直感だけを信じて馬鹿を見たくない。そういうことだ。


 授業中。


 黒板の前では、現在六十四回目のダイエットに挑戦中の小枝先生が声を張り上げて英文を読み上げている。


 一限目の古典はさぼった。かと言って保健室に行くつもりもなかったので、渡り廊下を使って瞬がいる階段を避けて校舎内を移動し、購買で缶コーヒーを買って食堂のストーブの前でぼーっとしていた。


 そして現在は二限目である。冬樹は教科書とノートを机の上に出してはいるが、教科書は開いていない上に、ノートは数学のものだった。


 授業なんてどうでもよかった。小枝の突き刺すような視線を感じるが完璧に無視した。窓の外に目を向けて、未だ降り続けている雪を眺めている。


 雪女。彼女は、そう名乗った。よくは知らないが、雪山によく出没する妖怪ではなかっただろうか。吹雪で遭難した男の前に現れては、その美しい姿で魅了し、凍り付かせるとかなんとか。あるいは、愛した男を氷漬けにして永遠に愛する、とか。


 嫌なイメージばかりじゃないか、と冬樹は溜息。


 その瞬間を、六十四回目のダイエットも失敗しそうな小枝満子二十八歳独身(彼氏募集中)は見逃さなかった。


「ヘイッ、ミスターサワムラ! 今読み上げた英文の」


「福祉には多くの種類があります。福祉の一つに、失業、貧困、ホームレス、アルコールと麻薬の中毒、配偶者と子供の虐待という社会問題を扱うものがあります。日本で最たる社会問題は、アルコール中毒、中学生のイジメ、女性への性的嫌がらせ、そして高齢化する社会です」


 小枝がみなまで言うより早く、冬樹は和訳を一気に口にした。完璧な和訳だった。クラスメイトから、おーっ、という声が挙がる。


「……ぐ、グレイト……」


 小枝は悔しそうに、席も立たずこちらも見ずに完璧な和訳を言った生意気な生徒を睨み付けた。教科書も開かずに答えられた事が特に悔しいのだろう。これでノートが数学のものだとわかったら、ここ数日まともに食事をしていない彼女は怒りのあまり卒倒してしまうに違いない。


 このやりとり一つで懲りたのか、この授業中、小枝が再び冬樹の方に目を向けることはなかった。


 二限目は、雪女について考えているだけで終わった。チャイムはやはり『あっ! UFOだ!』だった。今度は冬樹も含めた全員が窓の方を向いた。


 三限目は数学。今にもヒステリックな悲鳴を上げて死んでしまいそうな、神経質メガネ──高橋今日子の授業だ。まるで宇宙人のような顔と、やけにか細い声。そんな彼女の授業は生徒達の居眠りタイムである。背後から村上の寝言が聞こえた。


「だからぁ、携帯をスタンガンにぶち込んで桃太郎を」


 どんな夢を見ているんだか。冬樹は雪を見ながら呆れた。机の上は先程と同じままだが、高橋は気付いていないようだ。と言うよりも、彼女は決して生徒を見ようとはしない。臆病な教師なのだ。彼女は授業に関しては根本的な物が欠けているが、テスト前に配るプリントの出来がとても良い。そのため、彼女は理事長に『優秀』の判をもらって教壇に立っているのだ。


 冬樹はまだ瞬のことについて考えている。例えば今は、彼女は本当に窓の外に浮いていたのか、について。ピアノ線以外にも梯子が考えられる。あれならば一人で昇り降りができ、彼女が窓の下に隠れられたことも説明できる。が、それはそれで、あんな短時間の内に窓の外から校舎の階段まで移動できることの説明にならない。むしろ梯子を片付けることを考えると、彼女の移動速度が人間離れしていることがさらに強調される。


 化け物──と言わないまでも、魔法使い、超能力者、未来からやってきた人型ロボット、等々の単語が冬樹の脳裏に浮かぶ。


 常識はどこかに行ってしまっていた。


 四限目は物理。みんなの嫌われ者の蛇面──山崎照夫の言うことが全て皮肉に聞こえる。今まで信じてきた物理法則が揺らいでいた。いまなら石を金に変えようとした太古の錬金術師の気持ちがわかる。


 この時間も教科書もノートも出さず、降り止まない雪を眺めていたら──


「おいコラッ。なめとんのか、そこのガキ」


 山崎の声だった。この物言いこそが彼の嫌われ者たる由縁。そう、彼は『嫌われ教師』ではなく、まさしく『嫌われ者』なのだ。彼の左手に填められている結婚指輪を信じている者など、この学園にはいない。今時、体育教師でもまず見ない横柄な態度。蛇を思わせるねちっこさ。そして口汚い関西弁。パーマをかけた髪が似合いすぎている。


 冬樹は彼の言葉を無視した。ご多分に漏れず冬樹もこの偉そうな教師が嫌いだった。いや、一度はっきり言ったことがある。


「馴れ馴れしく話しかけないでください。僕はあなたが嫌いなんです」


 と。敬語を使ったのは単に山崎が年上だったからだ。それ以上の意味も、それ以下の意味もない。そしてこの一言以来、当然のことだが冬樹は山崎に目を付けられた。だからこうして、今のように冬樹が少しでも妙な素振りを見せると、彼はここぞとばかりに突っかかってくるのである。


「この俺の授業でシカトするかコラ。ああ? やる気ないんなら出て行けや」


 嫌な口調だ、と冬樹は思う。ここまで人の神経を逆撫でできる声とイントネーションを発せられることに、素直に感心する。しかもその一連の動作と言えばもはや神業だ。チンピラよろしく肩をいからせ首を上下に振りつつ、実に微妙な歩調でこちらへじわじわと近付いてくるのだ。


「おう、聞ーとんかコラ。お?」


 ほら、もう席の横まで来た。何故だろう。この男の声を聞いていると、静かに降る雪がまるでゴミか何かのように見えてしまう。


 冬樹は吐息。


 素早い動作で机の中の物を全てバッグに詰め込んで、立ち上がった。


 出て行けと言うなら出て行ってやる。後で吠え面かかせてやる。


「わかりました」


 山崎の蛇面なんか見たくなかった。冬樹は真っ正面に視線を向けたまま言い放ち、教室を出ていった。後でこの事を理事長に報告すれば処罰を受けるのは山崎の方だ。


 扉を、どかん、と音を立てて閉める。


 しん、と静まり返った廊下をずかずか歩きながら、決めた。


 今日はもう家に帰ろう。


 落ちつける時間が欲しい。家に帰って自分の部屋でコーヒーでも飲みながらカメラをいじって落ち着こう。


 と、不意に冬樹はある事を思い出した。


 立ち止まる。


 そういえば今日は写真部のミーティングがあるのだった。議題は『新部長を誰にするか』。もし休めば自動的に部長の座が冬樹に押し付けられてしまうに違いない。それだけはどうあっても勘弁願いたい所である。なにせ写真部は神無学園の生徒の大半から『のぞき部』と呼ばれているのだ。その原因は四代前の部長にあるらしいが、それはともかく、写真部の部長になると言うことは『のぞき部の部長』になることである。


 恥ずかし過ぎる。


 ただでさえ『のぞき部』と思われるのが嫌であまり部活動には参加せず、誰にも写真部に所属していることを話していなかったというのに。


「…………」


 ふぅ、と冬樹は白い息をこぼした。


 仕方がない。いらぬ汚名を着せられないためだ。


 しばらく写真部の部室で時間を潰そう。あそこなら静かだし、コーヒーを飲みながらカメラを触ることが出来る。十分に落ち着けるだろう。


 それでもって、部長の座は大人しそうな杉原あたりに押し付けよう。冬樹が杉原を推せば、他のみんなもこぞって杉原を推すようになるはずだ。誰も『のぞき部の部長』なんかにはなりたくないのだから。杉原には悪いが、生け贄になってもらおう。


 冬樹は方向転換。階段へ向けていた足を渡り廊下へ向け直し、歩き出した。写真部の部室は部活動区の部室通りにある。それは校庭を挟んだ、ちょうど校舎の向こう側にある。


 外は雪が降っていて一面白銀だし、今は授業中だから校庭を歩く黒い学生服はひどく目立つだろうな。冬樹はそんなことをぼんやり考えて、再び不意にある事を思い出した。


 教室にコートを忘れた。






To Be Continued…

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