小説 銀の斧
銀の斧
昔ある所で、一人の男が川の傍で木を切っていた。
それは寒い寒い冬の日であったが、この男は朝日が昇る前に家を出発し、日が出た頃に木を切り始めるというとても真面目な木こりだったので、この日も早々に仕事に取り掛かっていた。この木こりには心優しい所があり、鳥の巣があれば、如何に良い木でも切り倒さず、さらにはその周りに良い木があっても切らず、別の木を探し歩くほどである。さらには友人の面倒見のいいところもある。これだけ聞けば指笛が吹けそうな青年のようであるが、この男、年は二十八あたりで、腕は太く毛がもじゃもじゃと生え、髪はぐしゃぐしゃの癖毛、さらには濃い髭を顔中にちぢれさせているのです。眉も太く大きく、目もぎょろり。そんな屈強な木こり、というよりも山賊の風貌をした男、前述の通り働きっぷりはすこぶる良く真面目である。世の中の不思議に数えられるべきと言われるしれないが、なんてことない、確固とした考え方を持っているのだけなのである。男の偏屈とも言える主義によって起こった災事、逸話はいくつかあるくらいである。
さて、日も昇りだんだんと暖かくなってきた頃、男は早めの昼飯を食い、再び仕事に取り掛かり、木を切っていた時の事。また一本の木を切り倒し、次に取り掛かろうと斧を振り上げ振りおろし、木にくいこませた。そして引き抜こうと、しなびた木の柄をぐっと引っ張ったが容易には抜けない。男が思ったよりも、深くにまで斧がくいこんでしまったようだ。男は両手に力を込め、ぐぐぐっと引き抜こうと試みるが、斧はびくとも動かない。男は一旦持ち直し、木に片足をあてて、力いっぱい引けれども斧は抜けず。男は体を折り曲げ、反動をつけて斧を抜こうとし、ふんっ、ふんっ、ふんっと、三度勢いをつけ引っ張るとと、斧は三度目にポンと引っこ抜け、男は勢いをつけすぎでひっくり返り、斧は男の手を抜けて、近くの川へドボンという音を立てて落ち、沈んでいった。
男は、川べりへ這っていくと、ああ、といった風に水面を見つめた。曇天の薄暗く沈んだ色をした水面は、男の顔をぼんやり薄暗く、対岸の木を鮮やかに映していた。男は試しに焦げ茶色の硬い肌をした手を少し水に入れてみたが、やはり寒い冬だけあって、水は男のざらざらの肌を突き刺すほどの冷たさで思わず手をひっこめたのだった。しばらくの間男は斧がここから見えないものかと、目を細めながら川をやぶにらみしていたのだが、見えるのは雲で暗く沈んだ空と、対岸の木々だけだった。
男は窮困した。これは弱ったぞ。斧の場所もわからないとなると、手さぐりで探すしかないじゃないか……。男はしばし躊躇した後、斧が無いと仕事にならない事に気付き、ごたごたとした思考を振り払い、決意した。……ええい、やるしかないのだ! さあ斧を探しに、川に入るぞ! と思い到って、立ち上がり、服を脱ごうとした正にその瞬間、川の中央がぼんやりと白く光ったと思うと、そこからさーっと水中からヘルメス神が現れたのだった。ヘルメス神は、白い美しい絹をまとった美しい青年で、ヘルメス神の周りには輝く光の残滓が漂っていました。ヘルメス神は物憂げに瞼をゆっくりと開き、これまた非常にゆったりとした口調で男に尋ねた。
「汝が落としたのは、この斧であるか?」
そういうヘルメス神の右手には、いつの間にか輝く金の斧が握られていたのだった。男はこの光景に驚き、口も開いて、服を脱ごうと裾に手をかけた格好のまま、首を横に振った。するとヘルメス神は、そうか、と鷹揚に言い、左手を水面にかざすように少し動かすと、左手の傍に銀色の美しい斧が現れ、ヘルメス神はそれをつかみ、男に尋ねた。
「では、この斧であるか?」
男はこの頃やっと口をきけるようになった。
「いや、そんな斧じゃない」
と男が答えると、そうか、とヘルメス神は唇をゆっくりと動かして言い、
「では……」
とメルヘス神が呟くように言うと、メルヘス神の足元にゆっくりと水面斧が浮き上がってきたのだった。そして水面から離れ、水を滴らせながら宙に浮き上がり、ヘルメス神の胸のあたりの高さでとまった。ヘルメス神はその古びた斧に、目をゆっくりと落とし、そしてゆっくりと目を上げ、男を見つめながら、尋ねた。
「では、この斧か?」
男は、目を見張り、じっとその斧を見つめた。遠目ではあったが、男にはそれが長年使い続けた男自身の斧であることが分かった。
「そうだ。その斧だ。俺が落としたのはそれだ。間違いない」
メルヘス神は、そうかと頷き――これがまたとても遅いのだ――右手の金の斧と、左手の銀の斧から手をゆっくりと放した。金の斧と銀の斧は手から離れても落ちず、宙に浮いていた。その二つの斧はしばらく浮いていると、ヘルメス神の前に浮いている古びた斧の近くまで、宙を移動すると、三つの斧がまとまって男の方に近づいてきました。そして男の真ん前まで来て宙で止まりました。そこでヘルメス神は厳粛に、おおらかに、神々しく、言いました。
「汝は、正直な男だ。我は、非常に感服した。よってこの金の斧、銀の斧を授けよう。」
そう言いきると同時に、浮いていた三つの斧は地面にすっと降りていきました。男は神が突然現れた事に非常に驚いていたが、金銀の斧を男に与えられようとしていることを理解していた。そしてその事がどうも腑に落ちなかった。正直に答えただけで、金銀の斧を貰ってしまっては、分に合わないと考えたのだ。平生より金を余計に受け取ることも、客におまけをすることもしない男には、男の斧を拾ってくれたという親切は受け取れたとしても、金銀の斧を貰うということは抵抗があったのである。それに男は身の丈に合わないものによる悲劇についての忠告を祖父からよくよく聞かされて育ってきたし、男もそれに懲りた経験があったので、これを受け取るのはいけないと頭がぱっと冴え、男はヘルメス神に言いにくそうに断りを入れるのだった。
「すまんが、この金銀の斧は受け取ることはできない。俺の斧を拾ってくれた事にはとても感謝しているが、金銀の斧を受け取ることまではできないのだ」
ヘルメス神は美しい眉をひそめ男に尋ねた。
「なぜだ? 幾分か前に他の川で貰った者は非常に喜んでいたぞ。どこか不満でもあるのか?」
男は、こういうとき正直に言うのが一番だと知っているため、はっきりと理由を述べた。
「いや、不満などはどこにもない。俺は斧を拾ってもらって、感謝をしているのだから、不満などはない。むしろ感謝をしているからこそ、拾ってもらい、さらにこの金銀の斧を貰うことはためらわれるのだ」
ヘルメス神はまだ晴れないようで、首をかしげて再び男に尋ねた。
「なぜ汝はためらわれるのだ?」
男はヘルメス神を見据えて答えた。
「拾ってもらい感謝している上に、何もしていないのに金銀の斧をもらっては、不釣り合いすぎであるし、あまりに道理にかなっていないのだ」
ヘルメス神は合点がいったようで、ふむと頷き男に答えた。
「そうか。そんなことは気にしなくてもよい。我は汝の誠実さに非常に感銘を受けているのだ。その礼の様なものであるのだ。だから、ためらうことなぞどこにもないのだぞ」
こう言われても、男としては貰う事が出来ない。感銘を受けたのだろうが、礼だろうが、男自身としては何もしていないのであるから、金銀の斧など高価なものなどもらえないのである。男は今の生活を気に入っていた。仕事を終えた後に仲間と飲むビールのうまさと言えば格別である。突然の報酬などは思わぬ所で悪いものをもたらすことを知っていたため、男は尚も食い下がった。この辺になると男の感謝もどこかへすっとんでしまうようである。
「感謝されていようが、礼であろうが、俺は受け取りたくないのだ。俺は俺がしたことによって得たものでこそ、俺は充実を味わえるのだ。この金銀の斧を売ったら、俺は今の生活が壊れてしまうし、それによって得た金で何かをしても楽しくもないだろう。何かうまいものをおごられるくらいだったら受け取りたくもあるが、こんなもの受け取っても仕様がないのだ」
ヘルメス神は表情を曇らせ、うーむと思案して早口気味に言った。
「汝は我にすばらしい思いをさせてくれたのだ。だからこそ我は汝に金銀の斧を与えたのだ。そして汝はその誠実さは誇れるものである。その証が金銀の斧である。汝は我に金銀の斧を貰うことを遠慮しているのかもしれないが、我にとって金銀など価値はないのだ。いつでも造作なく作り上げることができるのだ。主にとっては高価な物でも、我にとっては些細な物だ。ごみの様なものである。それに汝も斧を売り金にする必要はないのだ。さあ、持って行くがいい」
男はこうまで言われても、納得はしなかった。たしかに斧を売る必要はないのである。しかしどうにも腑に落ちない。結局、何もしていないのに金銀の斧を貰うのが男はただ嫌なのである。そしてヘルメス神にとって、価値のないものだろうと、男にとってみれば価値はあるのである。だから男はさらに食い下がろうとしたのだが、男が口を開こうとした時、ヘルメス神はさっと水の中に戻って行ってしまった。
男は一人川のほとりに残され、ポツンと立って水面を見つめていたが、仕方なく三つの斧を拾い、そして晴々としない気分ままその日の仕事をした。どうしたものかと金銀の斧を持って、とぼとぼと帰路についたのであった。
宵になって、男はいつも仕事帰りに寄る酒場の扉を開けた。店内は薄暗く、男の友人はもう先に酒場でビール一杯注文して男を待っていた。友人は店に入ってきた男に目を向けて、驚いた。男がぴかぴかの美しい金銀の斧を持ってきたからである。友人は男に駆け寄ってはしゃいだ声で尋ねた。
「ねえねえ、その斧どうしたんだよ?」
男はしかめ面で言った。
「へんなやつがくれたんだよ。話は飯食いながらだ」
そう答え、友人の飲んでいたテーブルに着くと、料理を二三注文した。友人は不機嫌な男とは対照で、金銀の斧に舞いあがって興味津津でテーブルについた。そして友人も料理を注文した。
この男達、二人で一緒に働き、仕事の後、いつもこの酒場で飲み合うのである。この男の友人、ひょろひょろとした大したことない体に、ひどい癖っ毛を持っていて、目はくりっとしいる。そして良心をもった駄目な奴である。職業は男と同じ木こりであるが、男と二人でやることによって何とか生活をしているのである。体力がないから、一日に木を切る量が多いわけでもなく、朝も弱く、起きられない。頭も良くなく、度胸もない。しかしこの友人、既婚者なのである。良い奥さんを貰っていて、家庭は上手くいっている。子供はまだいない。なにか特技があるわけでも、生まれがいいわけでもないこの友人。唯一秀でた特徴があるとすれば、友人自身、自分が駄目な奴だと自覚している所くらいであるが、自分が駄目な奴だと口で言う人間はいるかもしれないが、心底認めている人間などそうそういないのであるから、すごい人間なのかもしれない。そしてそこがとても気に入っている男はこの友人と共に木こりをしているのである。
へっぽこ木こりである友人は木を切らせてもしょうがないため、薪にした木を売り歩き、木を運ぶ船や牛車の手配、男の小間使いと町人の一日小間使い、そして偶に木こりをやっているのだ。そんな訳であるから、男に頼っている部分も大きいのだが、男は友人には優しく、手前の偏屈さは引っ込み、――偏屈さが何一つ引っ掛かる所がないのかもしれないが――この友人に世話を焼いているのである。仕事まで一緒にするほどであるからおそらく男はこの友人から何かしらを得る所があるのだろう。
さて、友人はひどく男の持ってきた金銀の斧について聞きたがった。上気して聞いてくるものだから、男もそろそろ話してやるかと思い始めた時、料理が来たので、冷ましちゃいけないと、食べながら話すことにした。むしゃむしゃ、ごくごく、と間に挟みながら昼間の話をしたのである。
「まずなあ、俺がいつも通り川に近い木を選んで切っているとな、斧が深くささっちまってなあ。それで思いっきり引っ張ったら、斧のやつが手からすっぽぬけて、川に落としちまったんだ。それでどうしたものかと思っていると、川から神様がでてきてだな。そしたら三つ斧を取り出してきやがって、なんだかへんな事言って俺にこの斧をくれたんだよ」
男の友人は、この短い男の話を目を開いて驚きながら聞き、聞き終わってから、それはよかったね、と手を叩いて喜んだ。
男としては対していいこともなかったので、何も答えなかった。そうすると友人が男に尋ねるのてくるのだ。
「僕が行って、落としたら斧もらえるかな?」
男は貰いたくもないものを貰ったわけであるから、ぶっきらぼうに答えたわけだ。
「もらえるだろ。あのへんな神様はこんなのゴミみたいなものだって言ってたからな」
友人は、そっかあ! と嬉しそうに声を上げたのだった。
「その神様はどんな格好だったの?」
男はこれもどうでもよく答えた。
「布まとった男のだったよ。あいつぁ寒くないのかね」
友人はまたも、そっかあ!と声を上げて、頬は上気して夢うつつである。そしてうつつのまま、さらに男に尋ねてくるのだった。
「ねえねえ、その神様はどんな風にしゃべるの?」
その後、男は友人の質問を適当に答えた。男は一人昼間の話が終わってから、この金銀の斧をどうするかを真剣に考えていたのだ。とりあえず家の裏に穴を掘って埋めることは決まった。そして男の構想は空想も混じりはじめ、子供にどうやってこれを伝えたものかと、居もしない子供の事を考え出した。子供が生きているうちにしっかり自分のように、物事を分かった大人になればいいがなど考えていた。この男には子供はおろか、妻もいない。だのに将来結婚することを男は勝手に確信している為に、こんな空想をしているのだった。
次の日、男の友人は朝、なぜこんな奥さんがこの男と居るのだろうかと世の人が疑問を持つような、不釣り合いな良い奥さんに起こされ、斧を持って家を出た。町でひとまずの雑用を終え、そして昨日聞いた男が斧を落とした川のほとりへ行った。そこで、友人は斧をひょいっと川へ放り込んだ。斧が水面を破るポチャンという音がして、シーン辺りは静まり帰った。さて、今か今かと友人は胸を高鳴らせて、待ったが、出てこない。次第と、友人の胸の高鳴りは方向が変わり、背中や額に汗がにじみ出てくる。場所を間違えたかもしれない。僕は斧を捨ててしまったかもしれない……。
友人はその場でうろうろ歩きまわり、落とした斧の場所を見出そうともしない。川に入ろうだなんて思いもしないし、思ってもきっと友人にはできなかっただろう。さて、友人はとうとう涙ぐみ、地に両手をつけて絶望し、これからどうすればいいんだろうと、悲嘆に暮れ、おいおい泣いていると、水面がぼうっと光り出し、美しい青年の姿のヘルメス神が現れたのだった。
友人は顔をはっと上げ、驚愕して目をこれでもかと言うくらい見開き、ああ神様、神様……と呟きだした。ヘルメス神は男の時と同じように、これ以上ないくらいゆったりとした口調で尋ねた。
「汝が落とした斧は、この斧であるか?」
ヘルメス神の右手にはまたもや、金の斧が握られている。友人はあっあっ、と声がでず、しばらく喘ぐようにしていたが、唾を飲み込んで、一気にまくしたてた。
「そうです、そうです。その斧です! はい。僕が落としたのはその金の斧です。はい、はい。間違いありません。はい。その斧をください。はい。ください。お願いします。僕斧ないんです。くださいくださいくださいっ! お願いしますっ」!
支離死滅な言葉で頼み込んだのだった。
それを聞いたヘルメス神、突然、鬼の様な形相になり、眉は釣り上がり、瞳はぎょろりと飛びでて、頬はこけ、髪は逆立ち、衣ははためく。水面はざわめき、木々は揺れ、さらには辺りは暗くなり、友人は、え? と間抜けな声を発したその瞬間、
「この嘘つきの欲張り者め!!」
と空気の震えが友人のくせ毛をなびかせるほどの声で怒鳴り散らした。ひっと友人は声を上げ、飛び上がった。ヘルメス神は憤怒の表情で地が裂けるような声でつづけた。
「お前は今嘘をついたな。嘘をつくものは、盗人と同罪であるのだぞ! さらにお前は元々この金の斧が目当てでやってきたんだな。我は知っているぞ。知っているぞ。どうせ昨日の男の知り合いか何かであろう。お前は我が知らぬと思っているのかもしれないが、お前がわざとこの川にこの汚い斧を歩おりこんだのを我は知っているのだ! お前は、大うそつきだ! さらには欲張りだ。お前の様な人間は、親子三代にまでの罰を受けるべきだ。そうだ。そうなのだ!」
友人は目も開けていられないような大声を浴び、腰が抜け足は震え、歯をがちがちふるわせ、縮こまっていた。ヘルメス神は言いたいだけ言うと、すごい形相をしたまま、さっと水の中に帰ってしまった。
その晩、男がいつもの酒場に入ると、友人が上背中に毛布を掛け、テーブルで突っ伏している。ビールが傍らにあるわけでもなく、ただ突っ伏している。遠目にも震えているようにも見えた。とりあえず酒場のおかみさんに聞くと、昼間から来て、ずっとああしているらしい。見かねて、声をかけたが、首を振るばっかであるし、意識はしっかりしているようだから、とりあえず毛布を掛けておいてくれたらしい。男はとりあえずおかみさんに礼を言い、友人の居るテーブルに向かった。
男が近くに来ても、同じ調子なので、おいと言って肩をたたくと、友人はわっと起き上がり、男の腰に抱きついて、青い顔でわんわん泣いた。
苦労して泣きやませて、ビールと料理をおかみさんに運ばせ、友人が空腹に気付き、腹を鳴らす程度まで、落ち着かせた。友人は、時折ひっくと、嗚咽を上げたが、そろそろと料理を口にして、ぼそぼそ話しだした。
男はざっとその話を聞いて、憤慨した。やはり、あの野郎はどっかおかしい! と叫んで、テーブルを強くたたき、バンッという大きな音がして、そのショックで友人は泣きだした。男は憤慨した所で調子を崩されたが、静かに怒りの炎を燃やしながら、友人をせっせと慰め、つぶさに話を聞きだした。
次の日、森の奥にある年月を感じさせる古い家で男はいつも通り朝早く起き、朝食を済ませ、顔を洗い歯を磨き、服装を変え、よれたブーツをはいて、木のドアを押して開けて、外に出た。家の裏に回りこみ、まだ掘られて柔らかい土を掘り返し、金銀の斧をとりだして綺麗に洗いそれを持ち、使い慣れた斧は家に置いて、一昨日斧を落とした川のほとりに向かった。
男は斧を落とした川のほとりに着くと、すぐに斧を川に放り込むと、じっと水面をにらみつけてで待っていた。しばらくしてヘルメス神が出てきた。またこれものろのろとした口調だったのは言うまでもない。
「汝が、落としたのはこのトールの斧と七色の斧で――」
「――いや、俺が落としたのはお前が寄こした、金と銀の斧だ。それよりもお前に話がある」
男はヘルメス神の言葉を遮って言った。男の淡々とした声の裏には怒気がこもっていた。
「昨日、ここでひょろっとしたくせ毛の愚かな男が斧を落としたよな」
ヘルメス神はまたゆっくりと言う。
「ふむ。たしかに昨日ここでそのような男が――」
男はまたもや言葉を遮り、一線を越えた冷たい声で言った。
「そのくそったるいしゃべり方をやめろ。まともに話せるんだろう、このエセ糞神野郎」
言葉を遮られ、こうまで言われたヘルメス神、頬がひきつっていた。人間に無礼な口を聞かれたことがなかったのであろう。若干顔が赤みを帯びている。男はこの反応を見て、挑発をした。
「おお。言葉はなんとか伝わってるか」
ここで男は一旦言葉を区切り、声色を赤子をあやすような猫なで声で続けた。
「はい、じゃあ言葉のお勉強しましょうかね。続けて、言ってみようね。はい、あれは『まぁーま』で、こっちが『ぱぁーぱ』。……次は『あいうえお』言ってみようか。最初は『あ』だからね『あ』」
男は我ながら滑稽な事を言っていると思いながらもヘルメスの反応を見ながら、おどけ続けた。
「じゃあ言ってみようか。短小童貞の神様。分かっているのなら、どうぞ言って下さいまし。最初は『あ』ですよ。『あ』――」
「うるさい! 黙れ! 人間風情が!」
ヘルメス神は顔を真っ赤にして、髪を逆立て、地も震える声で怒鳴った。森の木がことごとくざわめき、さすがの男も目をつぶり、身を固くした。
「人間の分際で、我に無礼な口をききおって。貴様は許さないぞ。決して許さないぞ!」
ヘルメス神はすさまじい剣幕で男に喰ってかかった。しかし男も男、この神になんて言ってやりこめようかと一晩憤然としながら考え、腹を据え覚悟を決めてやってきたのだ。これくらいで動じるはずもない。安い挑発に乗るものだと一人ごちり、逆に冷静になり、男に上手くのせられた神に本題を切りだす。
「そうだ、それでいい。そうやって話してくれ。まあ、俺にはお前が許そうが許すまいがどちらでもいい。お前に話があってきたんだ」
男は静かな声で言うが、ヘルメス神は鼻息を荒くして、わなわなと震え答える。
「わ、我を散々侮辱しておいて、話とはなんだ! 話とは。我が貴様なぞの話をいまさら聞くものか……」
「そこをどうか頼む。先の非礼は詫びる。すまなかった。こちらにもどうしようもない事情があったのだ」
男は、頭を下げ切実な声で頼み込んだ。するとヘルメス神は何か思いついたようだ。殊勝に頼み込む男に対して、調子にのってヘルメス神は傲慢にも、
「そうだ。貴様が裸になり、跪いたのなら話を聞いてやらないこともない」
と上機嫌で厭味ったらしく言ったのだった。男はそれを直ちに聞き入れ、羽織っていたものから、帽子、靴下、下着まであっさりすべて脱ぎ捨て、冬の朝の肌を刺す寒さの中、冷たい地面の上で神に跪いた。神はその様子をあっけにとられたようにその様子を見ていたが、男が跪いたのを見て、言うのではなかったと後悔した。それと同時に、体中に嫌な血の流れを感じた。もはや、逃げられなくなったのだ。額からじわっと汗が出てきて、この男が得体のしれない自分の何かを脅かす、人間以外に感じられた。
男が顔を上げ、立ち上がるのをヘルメス神は非常に遅く感じられた。立ちあがった男の髭だらけの顔に憤怒は一切なく、とうとうとした水面のような静けさがあった。寒さなど何も感じていないような無表情で、男はぽつりと尋ねた。
「これでいいか?」
ヘルメス神はしばらくの間、何も言うことが出来なかった。もはや逃げ場などなく、先の発言も明らかに神には非ず、なにか意識していない己の悪事がこの男に暴かれていくような、そんな予感がして、じっと汗を垂らしていた。
沈黙が男とヘルメス神の間に横たわる。その沈黙は、男がヘルメス神の返答を待っていることだと、ヘルメス神は気付き、取り繕って答えた。
「……、うむ。……よいだろう」
ここで約束を反故に出来るヘルメス神ではない。むしろここで逃げ帰ってしまっては、全てに負けてしまうのだ。
「じゃあ、いいか?」
裸のまま男は尋ねた。
「聞くが、昨日男がここに来ただろう。なぜ追い返したんだ?」
ヘルメス神は、びくびく怯えていた内心、こんなことかとほっと息をもらし、だが持ち前の高慢さがでて、ふふん、やはりただの人間かなどと、心の中で侮ったのだった。
「ふん、言うまでもない。あいつは嘘つきだからだ。大方、お前の金と銀の斧を我からもらいうけた話を聞いて、そやつの欲深さから、我をだまして、金と銀の斧を奪おうと言う算段であったに違いない。身の程知らずの業突く張りはどこにでもいるものであるからな」
ヘルメス神は、自らが善行をしている神である事を誇るように、ふふんと笑った。
男は静かに、そうかと呟いた。神は一人勢いを取り戻し、なにがそうかだ、それがどうしたと男を笑った。男は再びヘルメス神に尋ねた。
「なら、俺にはなぜ金銀の斧を与えたのだ?」
「それは我が汝の誠実さに、心ふるわされたからだ」
「では、なぜ俺が断っても斧をよこしたのだ?」
「それは我が汝に感謝をしていたからだ。我に誠実な心を見せてくれたお礼にだ」
「そうか。ならなぜ感謝している相手である俺を納得させずに、斧を押しつけて帰ったのだ?」
ヘルメス神は押し黙った。理由が見つからないのだ。男は、ふっと口元に笑みが浮かべた。その笑いはヘルメス神の癪に障ったが、ヘルメス神は何も言わなかった。少しの沈黙の後、男はまた問いを投げかけた。
「ではなぜお前は、昨日来た男、俺の友人にどなり散らしたのだ?」
具合の悪かったヘルメス神は、ここぞとばかりに大声で言った。
「貴様の友人だかどうだかは知らぬが、その男は我に嘘をついたのだ! 嘘をつき、金と銀の斧をだまし取ろうとしたのだ。だから我は心の底まで怒りに染まり、目の前が赤くなりそうだったわ。やつは嘘をついた。だから我はやつに怒鳴りつけてやったのだ。改心させるためにだ! それが悪いか!」
これを聞いて、男はのどにつっかえるような笑い声を上げた。男はヘルメス神を嘲笑するように話した。
「お前は本気でそれを言っているのか? 本当にお前は似非神だな。嘘をついたからどなり散らしただなんて、上手い事をいう。お前の方こそ嘘つきだ。俺の友人の話だとお前は、怒鳴る前に天変地異の前触れのように辺りを暗くして、森をざわめかして、脅かしたって言うじゃないか。お前は最前、俺がひどく罵って挑発した時、ただの大声を上げただけじゃないか。目の前が真っ赤になるほど怒れたなんて、嘘八百だ! それに改心させる為に親子三代までの罰だなんて言う必要などどこにもない」
ヘルメス神は、ぐっと言葉を喉に詰まらせた。それにだ、と男は続けて、
「お前は、俺に金銀の斧を押し付けて、それによって、斧を貰える事を知った俺の友人が、お前に斧を貰いに来た事を分かっていたふうじゃないか。まるで、金銀の斧を与えたら他の人間が来る事を知っているかのように。俺はお前がそれを狙ってやっているように思えてならん。俺に無理やり斧を押し付けてきたことも、人に価値のあるものを与え、感謝されようとしているように見える。さらにはそれを知りここに来た俺の友人の様な人間に怒鳴り散らすことで、自己満足しているようではないか」
そこでヘルメス神は、はっととした。ヘルメス神は善行をしている気であったのだが、男の言うとおりである事に気付いたのだ。男はその様子を見て、一息ついて、また言葉をつないだ。
「最後にだ。お前は俺が斧を落として、俺が自分の物を正直に答えた事を褒めたと言ったな。だがな、あれはきっと大抵の人なら面喰らって、そいつ自身の斧を選ぶだろう。貰えるとも分かっていないのだから、きっと大抵の人は正直に答えるものだと思うのだ。そして、貰えるということだけを知ったのなら、目がくらんで嘘をついてしまうってこともあるんじゃないか? だから誠実かどうかなんてわからんだろう」
そこで男はヘルメス神を見つめた。ヘルメス神は、やや憔悴した様子でうなだれていた。男は、ああと今気が付いたように言って、
「さっき最後と言ったがもう一つあった。もしも俺がお前が斧をくれた話を詳しく説明していて、友人がわざと正直に自分の斧を選んだのなら、お前はどうしたんだ?」
男の口調はすでに、毒気も嘲笑もない。ヘルメス神はただ、うなだれていた。ふうと男は息をついた。
ずっとヘルメス神は何もいわずうなだれていたので、男は頭を掻いた。ひどく言い争う事になるかと思っていただけに、案外あっさりとヘルメス神が折れてしまい手持無沙汰になったのだ。とりあえず脱いだ服を着ようと思い、体を手でこすりながら、せかせかと服を着た。男が服を着終わってもヘルメス神はぼうっと心現にうなだれていた。こういう時は放っておくのが良いだろうに、男は気が抜けた所であったので、男のふてぶてしさが表れた。
「俺は、お前のように押しつけて帰ったりはしないから、何か言え」
男の言葉に、弱弱しくなったヘルメス神はのろのろと力なく顔を上げ、男に問うた。
「……我は、何をすればいいのだ?」
男は返答に困ったので、また頭を掻いた。
「とくにやることもないんじゃないか?」
男がそう答えると、ヘルメス神は頭を落とした。再び辺りに沈黙が漂う。男は気優しい人間でもあるので、ヘルメス神が哀れに思え、気をきかせて、
「とりあえず昨日落とした友人の斧を返してくれないか?」
とりあえずの救いの提案をしてみたのだった。しかしヘルメス神はうなだれたまま首を振った。
「……あれは、捨ててしまった。……水と風にしてしまったのだ」
男は、失敗したかと心の中で独りごちる。こういう時、この男の頭は先ほどのように回らず、下らない事を言ってしまったりもするのだ。
「神様なら、作ればいいんじゃないか? 金銀の斧のように」
ヘルメス神は顔を上げ、気味の悪いうすら笑いをした。
「我々は人間の作るものを作れないのだよ。汚らわしい、あのような物はつくれないのだ」
そうか、大変だなと男はまた魯鈍に答えた。この男本当に、決められない時は決められないのだ。この場合、慰めようはないようでもあるが……。男はやっととりあえずの解決方法を導けたようで、少し金をヘルメス神に頼んだ。斧を買える程度の金で折り合いをつけようとした。男はヘルメス神に、親指と人差し指で小さな丸を作り、多すぎないようにと忠告を何度もして、金を受け取った。その金は男の注文より、少し大きく、真珠のように真丸く美しかった。これは少し値が張るかもしれないと思ったが、ヘルメス神はうなだれしょんぼりと、男の様子を窺うように見つめてくるので、これで良しとし、ヘルメス神の心は少し軽くなったようである。
男はその後、友人の家に向かった。男の予想通り寝込んでしまい、呻き、泣き、嘆き、喚き……奥さんを手ひどく困らせていた所だった。男はヘルメス神からもらった丸い金を差出し、先ほどのヘルメス神との話をして、これで斧を買えと言うと、たちまち元気を取り戻し、男から震える指で金を受け取り、これは神から賜った金だ! と歓喜の声を上げ、これは家宝にいたす! などと台所からお椀を取ってきて、なるべく綺麗な布を奥さんに探させ、それをお椀に敷いて、即席の台を作り、祈祷の言葉を述べ、崇めだした。男はこの光景に大笑いし、奥さんも笑った。
後日、川の木を運搬をするため小舟を借り、川を上る際、流れが少し強く思えれば、
「ほら、あの神が嫌がらせをしてきやがる」
と二人で笑ったのだった。そしてその日に運んだ木は、良い値段で売れたそうな。