批評:Carlina de Place 「No One Calls」
Carlina de Placeの「No One Calls (LIVE SESSION)」という曲を聴いている。
私はyoutubeで良い曲を探すのが趣味で、定期的に探している。アニソン、ジャズ、ロック、クラシック、ジャンルは問わない。自分が良ければそれで良い、という基準で探している。
私はこのCarlina de Placeという人を全く知らない。デンマークの人らしい。
私は美人のアーティストというのは警戒している。Carlina de Placeという人は美人だ。美人の場合はその人の容姿か、楽曲か、どちらが評価されているのかを判定しなければならない。体のラインを強調した女性の弾き語り動画なんかがあるが、その場合、視聴者は音楽か容姿かどちらを気にすればいいのか。
しかしCarlina de Placeに関してはすぐに気に入った。彼女の音楽は確かに彼女の心を歌っている。それがわかれば、それで十分だ。
ある評論家は、書かれた文章が「私の方を向いているかどうか」を、読む時に気にしていた。
私にはこの意味がわからない。私の方ばかり向いている作品だけ拾っていくと、永遠に私は成長できない。私はその場に留まったまま、自分の好きなものばかり聴いたり、見たりしていればいい。私の感性や感覚が否定される要素がどこにもないので、いつまでも自分の感覚も認識も磨かれない。
自分に適合的な作品のみを喜ぶ人々は、芸術というものを客観的に捉え、その客観と自己という主観の間で葛藤を繰り広げ、自己を変化させていくという事は不可能である。
私はCarlina de Placeという人がどういう人か知らない。彼女はデンマークの若い女性アーティストだ。私は若くもないし、女でもないし、デンマークとは縁もゆかりも無い。
それにも関わらず、ある楽曲が、私とは一切関係ない楽曲が私の心に響く一瞬がある。これは何故だろうか。
Carlina de Placeの曲を聴くと、十分に彼女の心の襞が歌われているのがわかる。彼女が自分の心を丁寧に沿うように歌っているのがわかる。それが私の心を打つ。
「それが私の心を打つ」というのは果たして、どういう事だろうか。私は、孤独ではない、という事だろうか。あるいは、孤独は共有され得るという事だろうか。
芸術は人を救わない。これに関してははっきり言った方がいい。歌は宇宙を救わない。世界を救うのは、世界よりも大きなものでなければならないのではないか。私は世界の外に何があるか、知らない。
音楽は人を救わない。これははっきりしている。ただ、ある音楽が聴こえている時、私達はある経験をしている。しかしその経験を言葉でうまく人に伝える事はできない。
「感動した」という言葉は、感動を伝えない。心を言葉で伝えたいなら、あなたは詩人にならなければならない。言葉という道具を奏でて楽曲に等しい作品を作るしかない。
芸術は、人間は決して直接的にはわかりあえないという絶望から生まれたものであるが、しかしそれ故にその中に希望を抱いている。なぜなら、そうした絶望の形式は共有できるという願いが込められているからだ。
それらを通じて人は心を交流したと思い込む事ができる。この思い込みによって人が生きていけるとしても、生きていく事ができる事そのものは救済でもなければ、破滅でもない。ただ、それは応答可能性、芸術における対話の可能性を生みはする。
その証左として考えられるのは例えばこの文章そのものーーこの文章は、Carlina de Placeという、私が一切知らないアーティストの楽曲に感動した、という事実に私が堪えられず、思わず生み出してしまった駄文の一種だ。




