第1章 記憶
この日は、アスファルトからの照り返しがひときわ強く、暑さと眩しさが際立っていた。連日猛暑が続き、首都圏では猛暑日の記録を更新し続けていた。どのテレビニュースを見ても、「10年に一度の異常な暑さ」として報道されていた。
「ありがとうございました、今後もよろしくお願いいたします」
大きな白いビルの出口で、額からにじみ出る汗をハンカチで押さえながら、若々しい元気な声が響いた。
彼の名は、古賀 湊人26歳
彼は大学を卒業後、すぐにこの企業に就職し、現在は医薬情報担当者(MR)として勤務している。MRとは、医療関係者に対して自社製品の医薬品に関する有効性などの情報を提供する職種である。
「はぁー、やっぱり外は暑いですね」
「この季節の外回りは大変だよな」
彼は、3つ年上の先輩とともに各病院の担当者を訪ねていた。
午前中の仕事がひと段落したため、昼食を兼ねて近くの店で休憩を取ることにした。店内はクーラーがよく効いており、多くの客が座っていた。
「うわ、涼しいー」
と言いながら、クーラーの風が当たる席を探して座り、2人はそれぞれ違う軽食を注文した。
「さっきの病院の担当医は気難しくて、話すのが大変だな……疲れるよ。それに、あの言い方、ちょっと偉そうだったよな……」
と先輩が愚痴をこぼした。
担当するのは、一般病院から大学病院の医師や薬剤師まで多岐にわたる。必要であれば、さまざまな情報を提供しなければならなかった。
「えっ、いつもあんな態度なんですか?」
古賀は、シャツの胸元の汗を拭きながら先輩の言葉に反応した。
「あの態度を見て、古賀は何も感じなかったのか?」
先輩は少し驚いた様子で言った。
「まぁ、とにかく、あの病院の担当者は、いつもこちらの顔色ばかりうかがっていて……正直、やりにくいんだよな……」
たしかに、この先輩の言うとおり、この仕事は簡単ではなかった。病院の先生たちは基本的に優しい人が多いが、なかには気難しい態度をとる人もいて、常に気を遣う必要があった。それでも古賀は、その中にやりがいを感じていた。彼はもともと、周囲に気を遣うことを苦にしない性格だった。友人の数は決して多くなかったが、それでも彼は、友人たちから慕われる存在であったことは間違いない。
――――
そんな忙しい毎日を送り、夜の風が少し涼しく感じられる季節になった頃、俺はいつもどおり自宅に帰り、好きな映画を観ていた。
その時、机の上のスマホがブルブルと何かを伝えるように鳴り続けた。少し驚いたが、相手を確認して電話に出ることにした。
「はい、古賀です」
「あ!、出た!古賀か?久しぶりだな」
彼の名は、宇佐美 優斗
彼とは高校で知り合ってから一緒の大学に入り、卒業してからもたまに連絡を取り合う友人だ。
俺は久しぶりに宇佐美から連絡があったことが嬉しかった。
「なぁ、古賀、今度みんなで集まって飲み会を開こうって話があるんだけど、お前も来れるよな?」
「……で、いつなんだ……?」
参加できるか分からないが、とりあえず尋ねた。
「まだ日程は決まってないんだよ、今、何人ぐらい集まれるか調整してて……」
「あと、これは古賀にしか頼めないんだけど……」
「……小葉松に連絡できるか?」
ーーー小葉松
その名前を聞いて、忘れかけていた大切な何かを思い出した気がした。大人になりたくさんの記憶の奥深くに眠ってしまった何かを……
「あれ、おーい、古賀!聞こえてるか? もしもーし! もしかして……電波が悪いのかなぁ……」
「あ!、ご、ごめん、ちゃんと聞こえてるよ……」
「まぁ、とにかく、小葉松が来れるか確認して連絡をくれ、小葉松が来れないなら他にも探さないといけないから、よろしくー」
と言って、宇佐美からの電話は早々に切れた。
内容は、久しぶりに仲の良い友達同士で集まって飲み会を開くというもので、ひと昔前でいう合コンというやつだった。調整してると言ったのはおそらく男女の人数を合わせていることだとすぐにわかった。
もちろん、小葉松の連絡先はわかっていた。小葉松とは中学から高校、そして大学までずっと一緒だった。そして、卒業後はそれぞれ学んだ分野を活かす就職先に進んだ。その後はよく連絡を取り合っていたが、いつの間にか連絡を取り合うことはなくなってしまっていた。
大人になり忙しい日々の中で少しづつ忘れていく大切な記憶……
早速、小葉松へ久しぶりに連絡をしようと、チャットアプリのトーク履歴の中を探した。
「えっと……小葉松……小葉松 っと……あ! あった」
トークの内容は覚えていないが、画面を開くと2年前に小葉松から送られたスタンプで最後を締めくくっていた。
小葉松へチャットアプリで連絡するか、電話をするか悩んでいたが、久しぶりだったので、いざ電話しようとすると少し躊躇してしまっていた……
「あーどうしよっかなぁ………まぁ……」
とりあえず、さっきの内容はチャットアプリで伝えることにした。
「よし、これで送信すれば……」
送信ボタンを押し、小葉松に送った。すぐに返信が来るとは思わなかったので、スマホを気にせずさっきの映画の続きを見てから風呂に入ることにした。
シャワーを浴びて風呂から上がると、スマホの画面に何件かの通知が表示されていた。俺はひそかに期待を寄せながら、その通知を一つひとつ確認した。
「えっと……」
―アプリの更新完了ー
―期間限定割引チケットの案内ー
―明日の天気、降水確率ー
その中に、チャットアプリの通知はなかった。少し残念な気持ちになったが、明日ぐらいまでには連絡が来るだろうと軽く考えていた。
その時、スマホの画面が明るくなり、チャットアプリの通知が1件と表示された。
ーーチャットアプリ通知1件ーー
急いでその通知を開くと、
ーー土日限定 100円引きーー
ーー以下をクリックしてQRコードを表示するーー
それは、友達登録をした飲食店アプリからのラーメンの割引券の案内だった……
「……なんだよ……」
残念な気持ちが思わず、自分にしか聞こえない程度の小声になった。
小葉松とのチャットアプリのトーク画面で既読になっているか一瞬気になったが、トーク画面を開こうとは思わなかった。既読になっていたら、なぜ返信が来ないのか?既読になっていない場合でも、なぜ開いてくれないのか?と、余計なことを考えてしまうからだ。まあ、どちらにせよ、トーク画面を開いて確認する意味が無いことをわかっていた。
俺は濡れた髪をドライヤーで乾かしながらスマホを気にしたが、何の反応もなかったので髪の手入れをし、明日に備えてベットに入ることにした。
明日の仕事の段取りを考えながら思考を巡らせていたが、だんだんと眠くなってきた。
眠りに落ちそうになった時、再びスマホが通知を知らせる反応を示した。一緒そのままにしておこうか悩んだが、俺は眠気から抜け出し、すぐにスマホを手に取った。
スマホの画面が仰向けで寝ていた俺の顔を明るく照らして、少し眩しいと感じた。
ーーチャットアプリ通知1件ーー
内容を確認すると、それは小葉松からの返信だった。
ーー久しぶりだね! わかったよ 詳細が分かったら連絡くださいーー
久しぶりの小葉松からの連絡に何と返せばよいか悩んだ末、絵文字だけの寂しい返事をしてしまった。すぐに既読になったが、その後は何も返信がなかった。
小葉松とのトーク画面を再び開き、小葉松からの返信内容をもう一度読み直していた。覚えられる程度の短い文章だったが、なぜか2度読み返してしまった。
小葉松が何を思いながらこの文章を打っていたのだろうと考えていた。しかし、トーク画面を開いたままだと、再び小葉松から連絡があった場合に送られた瞬間に既読になってしまうことを恐れ、急いでその画面を閉じた。
数日後、宇佐美から飲み会の日程について連絡があった。それは、来週の土曜日の19時にいつも使っているお店に集まるという内容だった。
俺は、仕事の合間を見て、すぐにその内容を小葉松にも転送した。
その日は忙しい仕事が立て続けに入り、スマホの画面には、
ーーチャットアプリ通知1件ーー
という通知が、ずっと表示されたままになっていた。
夜になり、ようやくその通知に気がつき、返信の内容を確認した。
ーー連絡ありがとう 行けるかどうか日程調整中ですーー
小葉松からの返信は理解しやすい内容だが、短くシンプルだった。せめて絵文字でもあれば、感じ方が少し違ったのかもしれない。
日程調整……?別の用事が重なっているのか、来れないのか、それとも来たくないのかと俺は何度も頭を巡らせた。
小葉松が来れないとなると、他の人を探さなければならない。小葉松が参加できないと知った宇佐美はどう反応するのか、様々な感情が入り交じり、どうすれば良いのかわからなくなった。
しかし、その心配は必要なかった。翌日の夜、小葉松から、
ーーー参加できます^_^ーーー
と、絵文字付きの連絡があったからだ。
飲み会の日まで、あと10日。
俺は明日、宇佐美に連絡しようと思いその日はすぐに眠ることにした。
次の日俺は夕方まで研修があり、その日の帰りは21時を過ぎていたが、俺は小葉松からの連絡を宇佐美に電話で伝えた。
「もしもーし、宇佐美? お疲れー、飲み会の件だけど、昨日小葉松から連絡があったよ」
「え、マジ? で、なんて?」
彼はとても興味深そうに聞いてきた。
「来れるって返信があったわ」
「よかったー! これで6人が揃ったわー」
宇佐美は小葉松の参加が嬉しかったのか、人数が揃ったことを喜んでいるのか、どちらかわからなかった。
「えっと……そうすると……誰が来るんだっけ?」
俺は誰が来るか整理するように宇佐美に言った。
「まず、俺とお前、それから小葉松、あとは星野先輩の友人の望月さんという女性と、その望月さんの友人、それで、またその友人がさらに友人を連れてくるらしいよ……」
「……なんか、ややこしいなぁ……」
「確かに、そうだなぁ」
と宇佐美が言ったが、よく考えると人数がおかしいことに気がついた。
「ん!宇佐美?それだと、7人にならないか?だって、俺と宇佐美、小葉松に、お前の先輩の星野さんと望月さん、そして望月さんの友人とまたその友人だろう?」
「あ!……確かに……でも、望月さんの友達の友達は来れるかまだ分からないらしいから、少ないよりは多い方がいいだろう」
宇佐美は意外にそういうところが適当なのか、来れない人がいても人数が合うことを想定しているのか分からなかった。
「うん、わかった。じゃあ、結局7人になる予定だな。一応、予約の人数を7人に変更しておいた方がいいから、あとで宇佐美から店に連絡しておいてくれ」
「おー、分かった。じゃあ、当日は遅れんなよ!」
「あ、待った、宇佐美は当日どんな服装で行くんだ?」
「え、別にTシャツで良いかなって思ってるけど……」
「……そうか……」
「え!古賀、もしかして気合い入れた服装で来るのか? スーツ?」
「ん、なわけねーだろー」
「だよな、ほんじゃーー」
と言って、面倒くさそうに電話を切られた。
それから、すぐに飲み会の前日になった。俺は改めて明日の参加者を整理し、どんな集まりになるのか想像していた。
宇佐美ーーーーー 俺の友人
小葉松ーーーーー 俺の幼なじみ
星野さんーーーー 宇佐美の会社の先輩
望月さんーーーー 星野さんの友人
??ーーーーーー 望月さんの友人
??ーーーーーー ??の友人
明日、初めて会う人もいるため、少し緊張しながら何度も明日の服装をチェックした。そして、この日は早めに寝ることにした。
飲み会当日の夕方、俺は少し早めに家を出て電車に乗った。環状線の電車内はかなり混んでいた。行き交う人たちは、それぞれが様々な想いを抱えながら目的地に向かっているのだと思った。俺はそんなことを考えながら電車に乗っていた。
目的の駅に到着すると、少し早歩きでホームを降り、腕時計を確認した。時間は18時26分だった。ここから約束した場所まで歩いても5分程度だったが、早く到着した方がいいと思い、まっすぐお店に向かうことにした。目的地に着いたのは18時32分で、予定通り約30分前に到着した。
そして、少し早い感じもしたが早速お店に入った。
さすがに土曜日の夜だけあって、店内はかなり賑わっていた。
「いらっしゃいませ!」
その声に反応して、一斉に店中に同じ挨拶が続いた。
「何名様でしょか?」
元気が良くて可愛らしい子が対応してくれた。
「えっと、7名、宇佐美で予約していると思うのですが……」
「はい、ご予約の方ですね……少々お待ちくださいね……」
タブレットを忙しそうに操作し、
「あ!はい、宇佐美様のご予約ですね……あ、でも6名様となっておりますが…… 7名様……でしたか?」
完全に予約人数の変更を宇佐美が忘れていたと思った。
「あ、多分こちらから連絡するのを忘れていたのかもしれません……すみません……」
「でしたら、みなさん揃われた時にもう一度人数をおっしゃっていただければ大丈夫ですよ。お部屋には最大8名様まで入れますので、では案内いたしますね!」
俺を案内した子はマスクをしていたが、高校生のように見えた。とてもハキハキとしており、対応もすごく良かった。居酒屋での高校生のバイトは学校で禁止されているはずなので、おそらく社会人だと思うが、横顔がとても若々しく見えた。振り向きざまにネームプレートを見ると、イニシャルはH.Kと書かれていた。
案内された部屋は一瞬、狭いと思えるほどの個室で、すでにテーブルの上には6つのお通しが並べられていた。俺はどこに座るか考えたが、いわゆる上座側に女性、手前が男性となると思い、手前側の一番奥に座った。
すると、個室の扉が開き、
「おー久しぶり!古賀!お前、早いな!」
と聞き覚えのある声がした。それは宇佐美だった。
「おう!久しぶり!早く来たのはいつもの俺のクセだな」
と俺は答えた。病院の先生との打ち合わせが多いため、いつも早めに移動するクセがついていたのだ。
宇佐美は俺の隣に座った。
「それにしても、まだ毎日暑いよなー、古賀は相変わらず仕事は忙しいんだっけ?」
「うん、もう慣れたけどね……」
とたわいもない話をしていた。
「あ!宇佐美、人数の変更を忘れただろう?」
と、あまり責めないように言った。
「あ!ごめん、完全に忘れてたわ」
やはり宇佐美は完全に忘れていたようだった。
「あ、でも大丈夫らしいよ……」
と、言っていると、
「こんばんわー」
と女性の声が聞こえ、すぐに
「こんばんわ」
と男性の声が続いた。
「あ!先輩、お疲れ様です」
と宇佐美が立ち上がり、軽く会釈をして言った。
思わず俺も無意識にその行動に合わせてしまった。宇佐美が先輩と言ったので、おそらくこの男性が星野さんだ。そして、一緒に来た女性は星野さんの友人である望月さんという人だと思った。望月さんはとても綺麗な女性で、派手ではないが高そうな洋服を着ており、ブランドものの服でコーディネートしているようだった。『お姉さん』という言葉が似合いそうな雰囲気だった。
一方、星野さんは爽やかなシャツにスラックスだった、色の組み合わせが絶妙にマッチしていて、かなりの服のセンスを持っていると感じた。
「やっぱ外は暑いなー」
という星野さんの言葉は、誰もが最初に言いがちな口癖のようだった。
「あ!そうだ……宇佐美、昨日の資料を確認しておいたぞ、あれなら大丈夫だろう」
と星野さんが宇佐美に仕事の話をしていた。
「ありがとうございます」
と宇佐美が答えた。
「ちょっと、今日は楽しい飲み会なんだから仕事の話はしないでよねー」
と望月さんが不満そうに言った。
「まだ始まってないから、今だけだよー」
と星野さんが少し拗ねたようだった。
「もう、仕事の話は禁止ね、ねぇ、それより、宇佐美くんって彼女いるの? あ!でも、いたら今日来てないよねー、楽しみー」
と望月さんが宇佐美を見ながら話した。
「え!」
宇佐美は返事に困りながらも少し照れていた。
「陽菜、お前は相変わらず年下が好きだよなー、すぐにそうやって誘惑するんだから」
「誘惑してないじゃんー、ちょっと聞いただけだもん。それに、宇佐美くん照れちゃってカワイイーね」
と望月さんが楽しそうに言った。
そんな風に話すなんて、望月さんの外見からは想像もできなかった。
年下が好みなのかと考えながら、名前が陽菜であることが分かった。
「こんばんわー え!ここで合ってるんですかー?狭いんだけど……」
と言いながら、1人の女性が入ってきた。
みんな一斉にその女性に注目したが、誰かわからなかった。すると、すぐに
「こんばんわ」
と落ち着いた別の声が後ろから聞こえた。そこにはもう1人小柄な女性がいて、最初に挨拶をした女性と一緒に来ていたのである。
入り口が狭いせいか、全く見えなかった。
「さくら先輩は私の隣ですからねー」
とその女性が言った。
ーーさくらーー
一瞬その名を聞いて、時間が止まったように胸がドキっとした。隣の宇佐美にも聞こえたと思ったほどだ。
そう、その子が小葉松であった。
…………小葉松 さくら…………
中学から大学までいつも一緒にいて、幼なじみであり、いつも微妙な距離感だった。
そして、気持ちを伝えることができず、ずっと……俺の……好きだった女の子だった。




