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人間への想像力

作者: あじさい

 小学生の頃、夏、特に8月になると学校の図書案内やテレビに戦争の話題や戦争のアニメが出てくるのが、何となく気に入らなかった。

 たとえるなら、普段は陰口やいじめ行為をして憚らないクラスメイトたちが文化祭の時ばかり「クラスで一致団結」と言い始めた場合のような、あるいは、普段は母親のことをぞんざいに扱ったり「ババア」などと心ない呼び方をしたりする生徒が卒業式の時だけ「いつもありがとう」と言い出した場合のような、釈然としない気持ち。

 そう思うなら普段からそういう振る舞いをしておけよ、もっと言えば、今だけそんな、まともな人間みたいに振る舞われても、それが嘘だってことは全然隠せないよ、と思うわけである。


 日本で戦争が話題になる時も、いつもそんな感じだ。

 普段は戦争とは1ミリも関係ない、おいしいラーメン屋とか、行列のできるスイーツ店とか、野球がどうとか相撲がどうとか、挙句の果てには星占いに時間を割いておきながら、「そういう季節」になると急に戦争の話をする。

 おじいさんやおばあさんがテレビに出てきて、「戦争は悲惨だった」、「戦争は絶対に繰り返してはいけない」、「戦争の記憶を忘れてはいけない」。

 そこに万感の思いが込められていることが明々白々なだけに、あまりにも使い古された言い回しでコーナーが締め括られることが、子供心に可哀想だった。

 そんなありきたりなこと、小学生でも耳にタコができているようなこと、おそらくは誰からも文句を付けられないひどく無難なことが「報道」される。

 戦争のコーナーが終われば、アナウンサーたちは「続いてはスポーツです」と宣言する。

 これで苦行は終わったとばかりに晴れやかな顔、暗いことばかりの戦争の話題なんてきれいさっぱり忘れ去ったような顔で。


 最近はさすがにそうでもないが、子供ながらに不満だったのは、当時の日本人が戦争について語る際にもっぱら、「自分たちは被害者だった」という話ばかり強調していたことだ。

 本当は日清戦争、日露戦争、日中戦争で、外国人に殺されるだけでなく、外国人を殺しもしたはずなのに、アメリカに空爆された時の話しかしない。

 さらに言えば、空爆の中でも東京大空襲と広島への原爆投下の話がほとんどだった。

 小学生の私は、8月6日が広島原爆投下、8月9日が長崎原爆投下、8月15日が終戦、ということは、知識として暗記した。

 だが、沖縄決戦のことは、学校の授業で何となく聞いたことがある程度。

 それが一応の決着を見たのが何月何日かなど、知ろうともしなかった(ちなみに6月23日がその日で、沖縄慰霊の日とされている)。

 当時のテレビが報道しているのを見た記憶は私にはないが、あれは私の育った環境や巡りあわせが悪かっただけなのだろうか。


 小学生の私が何となく聞きかじって知りたかったのは、南京大虐殺の話だった。

「空襲で悲惨な目に遭ったと言う日本人も、外国人に対しては同じような無差別虐殺をしていたらしい。状況が許せばアメリカに対しても同じことをしていたのではないか」

 という疑問は、別に『ちいちゃんのかげおくり』や『大人になれなかった弟たちに』のメッセージを色褪せさせたわけではなかったが、被害者としての記憶の継承だけでは見るべきものを見落としているのだろうな、という多角的な見方を促しはした。

 そもそもアメリカとの戦争にしたところで日本が悪かったらしいという認識もあった。

 今になって思えばこれもこれで乱暴な考えだが、先に悪いことをしたのだからしっぺ返しを食らうのも仕方なかったのではないか、と思った。

 「日本」は戦争によって深く傷つけられた、多くの日本人が戦争の中で死んでしまった、と悲劇を語る前に、日本人の罪深さについて知ることが必要なはずだ。

 小学生でも、それくらいのことは考えるものである。


 とはいえ、戦争の悲惨さについての話は、それ自体として、私の苦手分野だったことも確かだ。

 知らなければならない、記憶しなければならないとあらゆる大人が言うから、親に勧められるまま、『火垂るの墓』も頑張って見た。

 だが、見終わった感想を率直に言えば「二度と見たくない」だった(もちろん、それは今の今まで誰にも言ったことはない)。

 なんで戦争なんて愚かなことをしたのだろう、と思うと同時に、戦争が悲惨なのはもう分かったよ、絶対ダメなのも分かってるよ、と思っていた。

 夏の戦争の話が毎年変わり映えしないことに不満を抱く一方、正直なところでは例のアナウンサーたちと同じように、戦争の話を聞くことは苦行だった。

 南京大虐殺のことも、自分で調べるという発想はなく、どういうものなのか親に尋ねるだけで、義理を果たした気になってしまった。

 親も親で、1泊2日の広島旅行で小学6年生の私を原爆資料館に連れていく程度には平和教育に意欲的だった一方、戦争の歴史の研究に熱心というほどではなかったから、

「旧日本軍が南京の人をたくさん、女性も子供も関係なく虐殺したんだ。面白半分に殺した数を競う兵もいたらしい」

 といったことしか教えてくれなかった。

 私自身、それ以上は聞きたいと思わなかった。


 高校で世界史を習った頃から、人類が古今東西で無差別虐殺や民族浄化を繰り返してきたこと、人類がくだらない理由で他者を差別しがちなことに気付いたが、なぜ人間がそこまで残酷になれるのか、なぜわざわざそんなことをするのか、何が人間をそこまでゆがめるのかは、よく分からない。

 おそらく、私は今に至るまで、加害者側の心理を知りたいと本気で思ったことがないのだろう。

 だから、私の親が、「日本人だって残酷になりうるのだ。何なら顔を見ないで空爆していたアメリカ人よりも、顔を見た上で一般市民を殺して回った日本人の方が残酷だったのだ」と、明言はしないまでも、小学生に聞かせればそういう乱暴な認識につながりかねないような語り方しかしなかったことを、とやかく言うつもりはない。


 最近の新聞やニュース動画では、日本帝国の加害の歴史についても多く語られるようになってきた。

 人権と共に多様性を重視する社会的変化の中で、マイノリティの視点から歴史が語り直され、最大公約数的な共通体験に留まらない多角的な歴史観が形成されつつある。

 一方、日本の加害の歴史に対する反省を自虐史観と称して非難する動きも活発になっている。


 自虐史観という言葉の対義語は何なのだろう、と私は思う。

 自己肯定史観、あるいは自己陶酔史観だろうか。

 自虐というか、自己批判を目的に歴史を紐解くのはまだ分かるが、自己肯定や自己陶酔というゴールを設定して歴史を語ろうとするのは、歴史から都合の良い部分をつまみ食いしているだけだと自白しているようなものではないだろうか。


 歴史は自己肯定や自己陶酔のために語られるべきではない。

 そんな語りには欺瞞ぎまんしかない。

 仮に「日本」の歴史上に立派な人物がいくらかいたとしても、それで私たちが立派な人間だと証明されるわけではないのだから。

 紫式部が世界史上でも稀有けうな大文学者だとしても、それで日本人の誰もが現に偉大な文学者であると証明されるわけではない。

 そんな命題を立てることはあまりにもバカバカしい。


 滋賀県大津市にある渡来人歴史館は、近江における日本人と外国人との異文化交流をテーマにした展示を行っている施設だが、数年前にそこを訪れた時、ガイドのかたがおっしゃっていた。

「戦争を知らないあなたたちの世代には、かつて戦争を起こした罪はありません。しかし、悲惨な戦争を繰り返さない責任はあります」

 小学生の頃の私であれば、そんな話は聞き飽きた、そう思うなら大人は(テレビに出て)もっと真面目に戦争のことを語るべきだ、と思ったかもしれない。

 だが、仮にも大人の1人になった今、私は改めて出合ったこの言葉に、深く感銘を受けた。


 戦争を知らない世代に罪があるかないかは分からない。

 全く罪がないかのように振る舞うことも、それはそれで問題含みな気がする。


 ただ、私たちが歴史を、特に戦争の歴史を語る時に大切にしなければならないのは、かつて先人たちが戦争を起こした罪を引き受けて涙を流したり、罪そのものを否定したりすることではなく、先人たちと同じ過ち、同じ罪を繰り返さないことだ。

 検証の結果として、先人たちが全身全霊で最善を尽くして、過ちと呼べるものが一切なかったのなら、それでもいい。

 だが、歴史の中で悲惨な出来事があった事実は、真摯に受け止めなければならない。

 どの時点で誰が選択を間違えたのか、選択の背景には何があったのか、どうすれば悲劇を回避することができたのか。

 そういったことは、しっかりと検証しなければならない。


 そして、この場合の「悲劇」は単に「日本人」にとっての悲劇のことではなく、人類にとっての悲劇のことでなければならない。

 私が知る限り、

「戦争が悲惨だったのは負けたからだ。次に戦争するときは絶対に勝たなければならない」

 と言明する論者はめったにいないはずだが、論壇誌を中心に、「なぜあの戦争に負けたのか。どの戦いで何をしていれば勝てたのか」という問題意識で「戦争の反省」をしている対談や評論をちらほら見かける。

 敗北の記憶を勝利で上書きしたいという思いを抱えている人は、現在に至るまで多いものらしい。

「本当なら負けないはずだった」

「条件が揃えば勝ててもおかしくなかった」

「戦争に負けたから悪者にされているが、大義はこちらにあった」

「戦争には負けたが、精神性では負けていなかった」

 といった具合に。

 だが、どんな理由であれ、戦争は絶対に許されない悲劇なのだ。

 勝てば良いというものではない

(だから私は、日露戦争前後の日本人をことさらに美化する言説、たとえば『坂の上の雲』や『はいからさんが通る』などの物語のようなものは、少なくとも戦争の歴史の検証という点ではそこまで価値のあるものだと思わないことにしている)。


 戦争の話を聞くにつけ、戦争の恐ろしいところだと思うのは、人間が人間扱いされなくなることだ。

 戦争や植民地支配が絡むと、人間は労働力にされ、生産手段にされ、兵力にされ、道具にされる。

 生身の生活から切り離され、感情や信念は無視され、意見は抑圧され、約束は破られる。

 個々の人生は国家という全体に束ねられ、身体と未来は国家の所有物になる。

 日本帝国はそんな野蛮な国家ではなかったと言う人もいるだろうが、であれば治安維持法とは何だろう、大本営発表とは何だろう、神風特攻隊とは何だろう。

 人間1人ひとりの尊厳を認める国家に、どうしてそんなものが必要だったのだろうか。

 本土の制空権を握られておいて、東京や大阪が空爆され、沖縄を戦場にし、広島と長崎に原爆を落とされるまで戦争をやめなかった帝国政府が、本当に人々をかけがえのない存在として見ていたのだろうか。


 戦争に関する悲劇の中で、人間として正当なあり方を奪われた人々は、今もなお苦しみを訴え、尊厳の回復を求めている。

 歴史修正主義者は、こうした女性や「外国人」のことは詐欺師か何かのように疑ってかかる一方、日本帝国を擁護する言説は簡単に信じて一般化するようだが、このダブルスタンダードはおよそ科学的な態度とは言えない。


 だが、私の中にもまたナショナリズム、つまり、(政治権力が提示する)「国家」や「民族」との一体感があり、その内と外を分ける意識がある。

 小学生の頃は、テレビ越しにサッカーの日本代表を応援していたし、高校生の頃はWBCの日本代表戦を見て、ダルビッシュ投手のカッコよさにしびれていた。

 日本代表チームが勝った時は嬉しかった。

 東日本大震災は母方の実家も被害に遭ったが、そうではない熊本地震や能登半島地震などの時も、外国で同様の規模の地震が起こった時よりも心が痛んだ。

 極めつけとして、外国の政治家がどんな不祥事を起こしてもあくまで他人事だが、日本の政治家や公務員が不甲斐ないと、私の生活に直接の影響がなくとも、一度不満を述べ始めたらどうしても長くなる。

 自分を「日本」の内側に置いた上で、内と外とで態度を変えるのは、まぎれもなくナショナリズムの影響だろう。

 倫理的には人はみな世界市民であるべきなのかもしれないが、私はまだ「日本」という枠組みから自由ではない。

 もっと言えば、私が属するその他の枠組みからも自由ではない。


 どうやら、自分と異なる境遇の他者に対し、想像力を働かせていないのに分かった気になる傾向があることにも、恥ずかしながら最近になって気づいた。




 京都府宇治市のウトロ平和祈念館を訪れたのは社会人になってからだが、それ以前、私は「在日外国人の問題」を聞きかじった程度にしか知らなかった

(本来、差別はされる側ではなくする側の問題なのだが、それも言われるまできちんと意識していなかった)。

 彼ら彼女らが極右団体のヘイトスピーチ(憎悪表現)やヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的になっていることは知っていたが、私の身近にそんな差別者はいないし、私はそんなことに加担しないと高を括っていた。

 だが、日本での差別に苦しむ在日外国人たちに対し、「国に帰れ」と言いたいとは思わなかったものの、「なぜ帰らないのだろう」とは思っていた。

「日本での差別がそんなに苦しいなら、差別されない祖国に帰ればいいのに」。


 だが、敗戦まで軍用飛行場の建設に従事させられていた在日コリアン(あるいはコリア系日本人)たちが戦後も暮らしたウトロ地区の平和祈念館で、人々が生きた証である日用品の数々を見た時、私は自分の想像力の欠如に気付いた。

 鍋やヤカンなどの調理器具もあれば、日記や学習ノートも展示されていたが、何気ない日用品でも、それらには細かいところまで、生活と時間が、痕跡こんせきとして刻まれていた。

 それは、血の通った、生身の、先を見通す力など持たないながらも、家族や近隣の人々と支え合い、過酷な日々を懸命に、少しでも楽しもうとしながら生きた人々の、足跡そくせきそのものだった。


 私は人間と土地の関係に思いをせた。

 私の父は関西出身で、青森の大学に進学した。

 母は宮城出身で、父の2学年後輩として青森の大学に進学し、父と出会った。

 父は先に卒業して関西で就職し、母とは遠距離で恋愛を続けた。

 母は大学卒業と共に父と結婚して関西に移り、その数年後、宮城の実家に近い病院で私を産んだ。

 私は宮城生まれだが、高校と予備校を出るまで関西で育った。

 私が育った家と母の実家は遠く離れているため、私が母方の祖父母に会うのは小学生時代の夏休みだけだった。

 それでも、東日本大震災の報を受けて私が真っ先に心配したのは、当然ながら、祖父母の安否だった。

 その後、還暦間近で早期退職した母は、半年に1度くらい、2週間ほど宮城に帰り、祖父母に代わって家や庭の掃除をしている。

 先日は、父と出会った青森の母校を訪れ、その写真を家族LINEにアップしていた。

 私たち子供は誰1人として、父と母の母校を訪れたことがないのに、である。


 人間と土地の関係は、本来的にそういうものだと思う。

 約60年の人生の中で、たった4年暮らしただけの大学。

 だが、他では味わえない大切な4年間だったに違いない。

 40年近くの時が流れて、キャンパスも街並みも様変わりして、一人暮らしをしたアパートが跡形もなく消え去っていても、母にとってそこは大切な思い出の地であり、子供たちと共有せずにいられないのだ。

 私が話を聞いた限り、母は祖父から、今では児童虐待と認定されうる「厳しいしつけ」を受け、それがトラウマにもなっているようだが、それでも母は祖父の面倒を見るため実家に帰る。

 宮城には伯母(母の姉)夫婦と叔父(母の弟)も住んでいるが、任せきりにはしたくないようだ。


 私自身、1泊2日の旅行で一度訪れただけの土地――それこそ広島の原爆資料館のような場所――であっても、新聞やニュース動画で取り上げられれば嬉しくなるし、そういった場所が仮に地震や台風の被害に遭ったと聞けば、心が痛む。


 人間と土地の関係は思い出と深く結びついている。

 土地には過ごした時間があり、当時の気持ちがある。

 その意味で、土地は訪れた人の人生の一部であるといっても過言ではないだろう。


 在日コリアンの人々に対して「国に帰れ」と言うことは、他者を自分以上に複層的で豊かな人生を生き抜いている存在として理解しようとする態度からは程遠い。

 それは、人間が人生の中で何に価値を見出し、何とどんな関係を結ぶかということを、外側から規定しようとすることだ。

 言い換えれば、他者から人生についての決定権を奪い、支配し、憂さ晴らしの道具としておとしめようとすることである。


 余計なお世話だ。


 私の母が宮城出身でも、私自身は関西により強く郷土愛を持っている。

 同様に、在日2世、3世にとって、「ふるさと」は生まれ育った日本の土地なのだ。

 もちろん、彼ら彼女らは朝鮮学校で朝鮮半島の言葉や文化も学んでいるが、「ふるさと」や「祖国」が1人に1つでなければならないと考えるのは、あまりにも乱暴だ。

 在日1世にしてもそうだろう。

 「日本が嫌なのになぜ帰らないのだろう」ではない。

 経緯はどうあれ、その土地で逆境を生き抜き、人によっては子供を育てた。

 そこには苦楽を共にし、信頼関係を築いた人々がいる。

 必死に生計を立てる中で、行政から勝ち取った権利もあれば、いまだ解消されず若い世代を苦しめる理不尽もある

(たとえば、高校の授業料無償化政策から朝鮮学校が排除されていること。当然、問題は授業料の金額ではなく、朝鮮学校を正規の学校と認めないというアイデンティティの否定と排除である)。

 それでも、自分が生きてきた土地でこれからも生きていくと決意しているのだ。

 とやかく言う前に、私たちはその思いに精一杯の想像力を働かせなければならない。


 それなりに真面目に生きてきたつもりの私も、ウトロ平和祈念館で展示物を見るまで、そんなごく当然のことに考えが及ばなかった。

 私がここで問題にしたいのは、在日コリアンに限らず、境遇が異なる他者に対して私たちが想像力を欠落させがちになるという傾向全般のことだ。

 なぜそれが問題かというと、それが、人間を人間扱いしないという悲劇と地続きの問題だからである。

 他者に対する想像力の欠如は、国家間の戦争にさえつながるものだが、より差し迫った脅威として、人や魂を殺すことが充分あり得る。

 現に、ウトロ地区は2021年に放火の標的にされ、7棟が燃やされており、これは京都地裁の判決で「在日韓国人らへの偏見や嫌悪感に基づく身勝手な動機だ」と認定されている

(日経新聞2022年8月30日「京都・ウトロ地区放火、被告に懲役4年判決 京都地裁」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF060G70W2A800C2000000/)

 想像力の欠如は人から命や魂を奪いうる。 

 そうであるからこそ、戦争によって人生を奪われた人々は今もなお苦しみ続けているのだし、彼ら彼女らの尊厳を回復するためには、そして、私たちが日本人であることに胸を張れるようになるためには、何よりもまず、私たちが他者に対する想像力、それを働かせる習慣を、身に着けなければならないのである。




 子供の頃の私は、8月になると急に戦争の話題が出てくることに不満を覚えていた。

 また、その話のほとんどが日本人を被害者と位置付けるばかりで、加害者としての側面を取り上げないことに疑念を抱いていた。

 その一方、戦争の痛ましい記憶に接することを避け、戦争について正面から考えることも避けてきた。

 そのために、「戦争を知らない世代には、戦争を起こした罪はなくとも、悲惨な戦争を繰り返さない責任はある」という言葉が持つ意味にさえ、気付くのが遅くなった。

 子供の頃のように、いつかは自分たちが国や社会を変えるかもしれないという全能感は抱いていないが、そんなものは必ずしも必要ではない。

 人間を人間として尊重すること、そのために想像力を働かせること、そして、自分か他者かにかかわらず、人間を人間扱いしない状況に対して(私たちなりのやり方で)抗うことこそが、歴史の悲惨さを繰り返さないために私たちが果たすべき責任なのだと思う。

 国家や社会にとっての有用性ではなく、人間同士の具体的な関わり合いの中で、人間関係や物事の意味を考えていくこと、ひとまずそこが出発点と言えるだろう。

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