自由に生きて何が悪いの? ~ふしだら令嬢、我が道を行く~
「ふしだら極まりない!!」
婚約者であるハインツは、客間のテーブルをどんと拳でたたきながらイーリスを怒鳴りつけた。
そんな彼にイーリスは、ただ冷めた目線を送っていた。
「いくら親の決めた婚約者といえど、他の男と通じたことがある女など無価値も同然、いやむしろ! 悪だ! 悪! この売女!」
「……」
「なんだその顔、君が悪いんだぞ。この僕と婚約したというのに、今までの交際歴の一切を隠して純朴そうな顔をしていた君が悪いんだ」
ハインツは身振り手振りを大きくして、イーリスを糾弾する。しかし別に隠してなどいなかった。
そろそろ婚約者の一人でも見繕って安心させて欲しいと両親が言うから仕方なく婚約者を見繕っただけであり、いたって真剣にハインツの親と連絡を取り合い決めたのだ。
ハインツ自身との相性などの確認の為に何度も会いたいという打診はした。
しかし、彼自身がその申し出を拒絶し、婚約をしてから会いに来いという旨の事を言ったからこうなったのだ。
「まったく、僕に婚約を申し込むような女だ。
見る目だけはあるし聞き分けもいいようだから婚約を了承してやったというのに、蓋を開けて君の身辺調査をしてみれば、今までに社交界でも公認の交際歴があったなんて飛んだ恥さらしだ!」
イラついたように早口でまくしたてられる言葉に、イーリスは、面倒くさくなって小さくため息をつく。
身辺調査などしなくとも、婚約が決まる前にまともに会ってくれていればきちんと話をしたし、恥ずかしい事でもない。
それにイーリスはクリューガー侯爵家の跡取り令嬢だ。
結婚とは、家同士のつながりを強固にし、親類になるとても大切な儀式だ。もちろん、誠意をもって付き合い、正真正銘、相手の子供を産むことは大切だ。
しかしながら、それまでの間に男女関係をきちんと学ぶために魔法学校や、サロン、パーティーなんかで交流をして男女交際を知る機会があったっていいはずだ。
成人して結婚してからの不倫が本当の恋愛だなんていうご婦人方もいるが、不倫をするのはよくない。夫婦の子供ではない子を産んでしまっては不幸の種だ。
だからこそ、今、婚約や結婚をする前に関係を自由に結んで過ごすことが最善だと思っている。
というか、男性はそういう風に女を知っていいが、女性は貞操を守った潔白の生娘で無ければならないという文化がそもそもおかしい。
昔は跡取りは男と決められていて、男の元に嫁入りし、確実にその血筋の子を産まなければならないという理由があった。
だからこそ、そのようになっていたというのはわかるが、人間は魔法を会得し男女の差よりも、魔法の有無を重視して跡継ぎを決めるようになった。
おのずとイーリスのような跡取り娘も多くいる。だからこそ、女だけが貞操を守る社会的通念などただの男女差別に過ぎない。
ふしだらだと言われようとも、イーリスは、そんなご老人のような考えを尊重してやる気はないのだ。
なので、面倒くさいという気持ちだけで、わめきたてる年下の婚約者を見つめる。
「君のような女と僕はとうてい結婚なんかできない。たしかにクリューガー侯爵家の配偶者というのはとても魅力的だ、だから婚約はしてやったが、結婚となると君のような穢れた体とはごめんだ」
「……というと?」
まるで被害者のようにイーリスをののしるハインツに、だから結局どうしたいのかという気持ちを込めて、短く聞き返した。
すると今までまったくの無反応だったイーリスから反応が返ってきたことでさらに調子に乗ってハインツは言った。
「だからな、そもそも僕は、アーベライン伯爵家のツェツィーリエ嬢のような清楚な黒髪純潔の女性でないと真に愛してやることなどできない」
「ツェツィーリエ、ねぇ」
「そうだ、か細く可憐で、清純なことこそ、女の美徳だ!」
……あのアーベライン伯爵家の女を引き合いに出すとは、よっぽどね。
たしかにツェツィーリエは同世代の中でもずば抜けて美しいと言われている可憐な黒髪の乙女だ。
男ならだれもが守りたくなるような細い肩に、小さな手、色白の肌は思わず引き倒したくなるほどだとか。
ただ、本人を思い浮かべてその言動を鑑みるとイーリスはとてもじゃないが結婚相手として喜ばしい相手だとは思えなかった。
そしてそれは、それなりに社交界に顔を出している若者の間では周知の事実だったのだが、ハインツはイーリスのそんな気持ちなど気がつかずに横柄な態度でイーリスに言った。
「そこでだ。王国の北の果てにある、聖なる泉での禊を一年こなしたら君のことを結婚相手として認めてやらないこともない。もちろん! その間に、君が今まで交際して通じた人数と同じだけ、僕だって遊びをすることに口を出さないでもらおうか!」
「はぁ?」
「当たり前だろう! 君は僕の事をだまして婚約を結ばせて裏切ったんだ。だったら僕だってそのぐらいの事をしても許されるだろ!」
……ツッコミを入れるのすら面倒くさい、世迷言だわ。話にならない。
イーリスが男と関係を持っていたのは婚約する前だ。それを引き合いに出してイーリスを修道女のように聖地への旅に出しておきながら自分は遊んでいたいなど笑えない冗談だ。
「ただ、僕だって尻の軽い娼婦なんかと遊ぶつもりはない、体が穢れるからな。しかし、君のような価値観をもった貴族令嬢には伝手もない。君は社交界に意欲的に参加しているんだろう?」
「……」
「だったら、僕に数人紹介するのが道理ってもんだ!」
「……」
「そのぐらいで僕が許してやるって言ってるんだから、もちろん受け入れるだろう?」
「……」
「お互いに、同じだけの罪を背負って初めて対等だ!」
イーリスの口からは馬鹿じゃないのかという言葉が出てきそうになった。
しかし、ぐっとこらえて理性的に考えた。とにもかくにも彼は、清純で可愛くて男を知らない高尚な令嬢と遊びでセックスがしたい。
だからイーリスを禊の旅へと行かせて、長期的な不在期間を作り、悠々自適に女で遊んだ後に、イーリスと結婚するといいたいのだろう。
しかしそれならばとりあえず婚約を破棄してある程度遊んでからまた婚約をすればいい、そうしない理由はハインツのこの言動にあるだろう。
遊ばせてくださいと頭を下げれば場数慣れした女の子ならば、まぁいいでしょうというぐらいには可愛げのある顔をしているのに、こんな半世紀前みたいな考え方をしていて、さらにはその考えを微塵も間違っていないと思い込んでいる。
これでは、イーリスと同じようなイマドキの考えの女性と付き合うなど到底できないのだろう。
だからこそ、イーリスに紹介してほしいと強請っている。
結局のところ、イーリスが純潔ではない事を引き合いに出して自分も同じように女遊びをしたいと考えているだけなのだろう。
そしてこの案を思いついたときに、最強の案を思いついたと思ったのだろう。
これ以上ない頭のイイ作戦だと考えたに違いない。だからこんなに自信満々に口にしているのだ。
自分の婚約者ながらどうにも呆れて言葉にならない。
こんなに間抜けな男なら今からでも婚約を破棄してやりたいぐらいだとイラつきながらイーリスは考えた。
「なんだ不服そうな顔をして、まさかできないだなんて言うつもりか?」
試すように聞いてくる顔が妙に腹立たしい。
「だったらものすごく残念だが、仕方あるまい。婚約は破棄だ。それでいいのか? ん?」
……婚約破棄? それをあなたから言うわけね?
勝ち誇ったような表情にカチンと来て、イーリスは頬が引きつるほどいかりが体を駆け巡った。
そもそも、イーリスたちは今日が初対面だ。
もちろん将来結婚する相手になるのだから会っておく方がいいに決まっているが、距離の関係で合わずに結婚することも多くある。
しかし、だからこそファーストコンタクトというのは大切だ。
これから関係を築いていくうえでの一番最初の土台になる。それをいきなりぶち壊しにしてそのうえ、婚約破棄を引き合いに出してイーリスに下衆な要望を通そうとしてくる。
これはもう、切り捨て案件だろう。
きっと話を通した彼のご両親も、彼の要望と気持ちを包み隠さずお伝えすれば素直に引き下がるだろう。
「そう。婚約破棄ね、ハインツの言いたいことはわかった」
「そうか、やはり。僕のようないい男はそういないだろうからな。禊への出発の見送りぐらいはしてやるよ」
拒否する気はないと勝手に思い込んでハインツは、偉そうに言った。
その言葉にゆっくりと首を振って、イーリスは怒りをそのまま込めた声で、ゆったりといったのだった。
「っ、はははっ。その丸出しの煩悩を払うためにあなたが禊に行ったらどう? 婚約は私の方からきちんと破棄しておくから」
渇いた笑いが出てしまって思わず口元を押さえる。
まったく、両親に言われて、急いで決めればこれだ。結婚というのはとても面倒くさい、これなら元カレの方が随分ましだった。
それにしてもまだ安心させてあげられなさそうで両親には申し訳ないが仕方ないだろう。
「……今、何と言った?」
「だから、婚約破棄するから、それでいいわ。とにかく帰ってくれる? 清楚で純潔がお好みというだけならまだしも、こんな風に婚約破棄を引き合いに出して自分の意見を通そうとしてくるような人間と結婚なんてできないわよ」
「なんだと?! 僕に婚約を申し込んできたくせに裏切るのか?」
「あとね、何を勘違いしているんだか知らないけれど、私、跡継ぎだからいくらでも婚約者を選べるから。それにいくら同世代で婚約者同士だとしてもあなた男爵家の出なんだから自己評価を見直した方がいいわ」
親しい間柄になる相手なのだとしても、そもそも対等ではない。彼は自分を過大評価しすぎだ。
イーリスの言葉にぽかんとしている。イーリスの言葉に彼が憤慨して暴走し始める前に卓上のベルを一つならして、外に待機させていた兵士を中に入れた。
普段ならば屋敷の中まで守ってもらうようなこともないのだが、今日は一応いざというときの為に話を通しておいてよかった。
「この、女のくせに可愛げのない……おいっ、なんだ、離せ!」
「後はよろしくお願いしますね」
「はっ」
まだ何か言おうとしてくる、彼を兵士が取り押さえて、イーリスはそのまま部屋を出ていく。
まったく嫌な目に遭ったと事故に遭ったような気分になったが、それでもイーリスにそのように言ってくる老人も多くいるし、まだまだ女とは男の後ろを数歩下がって歩くものなんて言う人間もいる。
彼らからの糾弾に耳を傾けていたららちが明かないと思う一方、完璧に無視できないという気持ちもないわけではなかった。
「それでぇ、婚約破棄を拒まれて困ってるのぉ?」
ツェツィーリエはおっとりとした声でそういった。彼女はひらひらと舞い降りてきた蝶を指先に止まらせてうっとりとほほ笑んだ。
ぽってりとした重たい唇が小さく弧を描く。
そんな彼女にイーリスはコクリと頷いて、先ほどから話をしていたハインツの事を思い浮かべた。
「ハインツの言動についてもご両親に話をしたし、本人も私を気に入っていない様子だったから早いと思ったんだけど、拒まれてしまって」
ふわりと春の風が吹いてガゼボ内に庭園の花の花弁が吹き込んでくる。ここは、ツェツィーリエお気に入りの場所だ。
彼女を訪ねるとここに通されることが多い。
「あらぁ。けれどそんなの当たり前ではなくてぇ? だって普通は跡取り令嬢と結婚なんて飛んだ玉の輿ですものねぇ、容易には手放したくないでしょう」
「……それもそうだけど、あそこまで言っておいて私が望んだら、掌を返すって恥ずかしくないのかしら?」
「プライドよりもぉ、お金が大事なのよ。うふふっ」
彼女は蝶が指先から飛び去ったのを目で追って、それからちらりとイーリスの方を流し見る。
下ろしている黒檀の髪をゆったりと耳にかけて、含みのある笑みを浮かべた。
その表情だけで、イーリスは彼女が何かいい案……というか何か企みがありそうだという事を理解できる。
これでも長い付き合いなのだ。
付き合いの広いイーリスではあるが、幼いころから知っている彼女とは少々特別な仲であった。
「何か、いい案があるの?」
「あらぁ、そう見える?」
「いい案というか、何か企んでそうに見えるんだけれど」
「!……ご名答ですわぁ。流石イーリス。確認ですけれど、そのハインツ様はわたくしの事を例に挙げていて是非、寝室を共にしたいと言ったのですわよねぇ」
「い、いえ、そこまでは言ってないわ。ただあなたのような女性が好きだと言っていた」
「では同意義ですわぁ」
正しく事柄を解釈してもらうためにイーリスはきちんと答えたけれど、嬉しそうにツェツィーリエは続けていった。
「だったら、お相手して差し上げましょう? この可憐で清楚で純朴な可愛いツェツィーリエが」
「……言っておくけどハインツは、話の通じない老人みたいな男よ。顔は悪くないけれど」
「あらぁ、それがいいのよぉ」
「どういう事?」
「うふふっ」
イーリスの言葉に彼女は答えずに、やっぱり恐ろしく整った美しい顔でおっとりと笑ってごまかす。
凝り固まった男尊女卑の考え方で、プライドばっかり高く人の話を聞かない男のどこがいいというのだろうか。ひどい欠点だろう。
しかし、イーリスがそうして考えている間にも、彼女は話を進めた。
「ああ、でも一つだけ条件がありますのよぉ、ハウスドルフ公爵領のいちばん高級な娼館を貸し切ってくださいませ」
「う……ハウスドルフ公爵領でなければ駄目なの? それに素直に、ハインツが娼館にやってくるかもわからないし」
「来ますわぁ、絶対。男なんて花に群がる虫も同然ですのぉ、そういう習性ですのよぉ。だからハウスドルフ公爵家に連絡なさいな、イーリス」
「……」
「ハインツにはキチンと婚約破棄に首を縦に振らせてあげますから、ね?」
……それにしても、ハウスドルフ公爵家は……。
イーリスにはハウスドルフ公爵家にあまりコンタクトを取りたくない理由があった。
しかし、彼女の行きつけがその辺りの店だということも知っているし、この国で一番有名な花街がある場所といえばハウスドルフだ。
ハインツも僻地に呼び出されるよりも、男女が密会するのにふさわしい場所を指定された方が釣られやすいだろう。
そうはわかっているが……。
イーリスが長考していると、ツェツィーリエは眼力の強い目でこちらをじっと見ている。
これはもう、そうと言ったら聞かない決めてしまった時の顔だ。イーリスが何を言っても、ツェツィーリエは譲らないだろう。
そんな姿勢に、はぁとため息を一つついてから「お願いしようと思うわ」とイーリスは口にして、ハウスドルフ公爵領の一番高級な娼館を貸切るのは一体いくらになるだろうかと頭の中で計算機をはじいたのだった。
適当に謝罪をして、彼を肯定するような文言を書き、意中のツェツィーリエがお呼びだと彼に伝えると、ハインツは意気揚々とやってきた。
上機嫌にイーリスに「やればできるじゃないか」と謎の言葉をのこし、娼館の中へと消えていった。
この場所は貴族も多く使うとても高級な場所なので待合室もあるし、馬車で乗りつけることもできる。
そしてなぜか、ハウスドルフ公爵領の跡取りであるアレクシスがイーリスを待ち構えているのだった。
支払いは後日という事だったし、ツェツィーリエを送り届けるためにイーリスは来ているだけで、アレクシスと会うつもりなどなかった。
それなのに、彼はイーリスのそばへとやってきた。
「今日はこのまま帰るのか?」
娼館のエントランスホールでアレクシスはイーリスへと声をかける。その言葉に、一瞬のうちに色々な考えが思い浮かび、苦いやら甘いやらそんな忙しい感情が呼び起こされる。
「せっかく来たのだし、少しぐらいこの街で遊んでいったらいい、まだ日も落ちたばかりだ」
「……」
「治安の心配もいらない事は知ってるだろ」
なんだか彼にしては探るような言葉だった。誘うでもなく、強引に連れ出すでもなく、イーリスの事を窺っているような雰囲気を感じる。
……変わってないのね。
赤い短髪にザクロのような瞳、こんなにも短気そうに見える外見をしていて、猫のように吊りあがった瞳はなんだか妙な色香がある。それなのに、気弱に感じるような言葉を使う。
「……ごめんなさい。私、今、この娼館を貸し切った件の支払いで気が気じゃないから、いけないわ」
イーリスはただ単に食いつくのもなんだかどうかと思って、おどけたように言ってみた。
「……」
「でも、お酒は飲みたい気分」
「君に出させるつもりはない」
そうすると、アレクシスは黙り込んで、つい付け足した。そうしてしまう自分の心が、本心だとは気がつかないふりをしたかった。
アレクシスについていくと、彼はとても適当っぽく花街の石畳を歩いていきイーリスも無言でついていった。
それからこれまた適当っぽく店を決めて、そこはテラス席のあるカフェテリアだった。
中に入れば一目で貸し切り状態なのだとわかる。
昼間はカフェテリアで夜はお酒を提供する飲食店となるような形態をしている場所なのだろう。二人でアルコールを注文しただけで好みのおつまみが出てきて、アレクシスの準備がうかがえた。
カクテルを傾けつつ、何か話し出すだろうかと彼を見つめると、話題に迷ったのかしばらくの沈黙の後にぽつりと言った。
「あの娼館を貸切ると、小さな領地ならば領地の一ヶ月分の税収が持っていかれるほどだ。それに、今回は急に予定を入れただろ。割り増し分もそれだけ大きい」
何を言うかと思えばそのことだった。たしかに先程引き合いに出したし、実際のところ、自分に割かれている予算から出すのは厳しいとは思っているところだ。
しかし、何とかするしかないだろう。最悪手持ちの宝石をいくつか売れば今回の事はうまくいく。
あのツェツィーリエがどうにかしてくれると言ったのだ。イーリスはそれを疑わず、ただせこせこと金策をしているだけでいい。
「わかってる。でも必要経費だったの。あなたには事情は……詳しくは言わないけれど」
「……ツェツィーリエから聞いている。婚約破棄するんだろ」
「……あの子、話したのね」
言うつもりもなかったことなのに伝えられていて彼女が少し恨めしい。
しかしツェツィーリエが彼に言っているとなったら、もしかすると彼女はイーリスと、アレクシスに思う所があるのではないだろうか。
それが思いやりからの行動なのか将又、おちょくっているからなのかわからないのが彼女の怖い所だ。
今回の事も、ある意味で純朴で潔癖なハインツをツェツィーリエが面白おかしく喰らってしまいたかっただけな可能性だってあるのだ。
それに、昔から、ツェツィーリエ……というかアーベライン伯爵家の好色っぷりは社交界では常識だ。
そんな彼女を清楚といい好みだといったハインツは、明らかに世間知らずの理想ばかりを語るお坊ちゃまだ。
だからころりと騙されて今日もやってきた。
婚約破棄はできたも同然だろう。
「そうよ。お母さまたちに言われて決めてみたけれど、こういう結末になったのよ。それで、結局あの時、あなたを捨てた私に怒ってるの?」
「いや、別に」
「じゃあ何。言いたいことがあるから誘ったんでしょう?」
イーリスは、いつまでたっても本心を言いそうにない彼に踏み込んでいった。
イーリスとアレクシスはほんの数ヶ月前まで恋人同士だった。
しかし、お互いに跡取りという立場にある。だからこそ別れを切り出した。自由恋愛はとても楽しいし、なにより好きな人とともにいるというのは嬉しい事だ。
けれどもそれを結婚にするとなると多くの苦悩がついて回る。イーリスは常識的な範疇の中で自由にできる。自由に愛することができる。しかし、お互いに失いたくないものはあったのだ。
イーリスはどうあっても一人っ子でこの立場から降りられない。アレクシスの元に嫁いで一生そばにいることはできない。
だからこそ潮時を見定めて終わりにした。その潮時が両親がイーリスに結婚してほしいと願う時期だったのだ。
しかし見るも無残に失敗して、さらには婚約破棄の為に友人を頼ったイーリスに、フラれたアレクシスが言いたいことがあるのはわかっている。
合わせる顔がないと思うほどに罪悪感もあったのだ。
「……それは、そうだが」
アレクシスは言い淀んで、きたばかりのお酒をちみちみと飲んでいた。薄暗いカフェテリアの店内の間接照明に照らされて、彼は息をのむほどいい男に見えるのに、その行動は子供っぽくてちぐはぐに映る。
そういう所が好きだった。
……今だって……。
「あなたを振ったくせにまったくうまくいっていないなんて滑稽だと笑いたかったの?」
今だって本当はまだ好きだった。ただいくら自分が自由な選択をしたとしても人の考えまでは変えられない。
別れる決断をしたのは、アレクシスがイーリスの事をそれほど好きではないと思ったからだ。
こう見えて、割と気が弱い。だから付き合い始めたはいいものの、別れを言い出せなかったのだと思った。
だから別れた。純愛を引き裂かれただなんて思っていない。これは合理的な決断だった、自由にできることが多くなるであろう道をイーリスは選び取ったただそれだけだったのだ。
また答えないアレクシスをせかす気にもなれずにイーリスは煽るように一気に酒を飲んだ。
彼とこんな風に話をしたとしても、イーリスはアレクシスを選び取れないし、自分を選んでほしいといえるほど彼の気持ちに確証がない。
所詮は終わった関係だ。そばにいてやっぱり心地いいと思っても。
「そんなわけないだろ。……なんていうか、俺は……こ、婚約破棄」
「婚約破棄?」
「そう、婚約破棄を祝いたかったというかな……なんて言ったらいいんだ?」
「私に聞かないでよ。あなたが何考えてるかなんて付き合ってた時からわかった事一度もないんだから」
「……一度も?」
「ええ」
アレクシスはイーリスから言われた言葉に少し凹んだように見える。
眉を困らせて、しょんぼりしていても目つきが鋭いのでイラついているように見えなくもない。
しかしやっぱり何を考えているのかわからないけれど、ちょっとかわいいと思う。
「……そうか。その、なんだ。何にせよ、変な男と結婚する前に婚約を破棄できてよかったと思ってな」
「ああ、それはそうね」
「だから、代金は俺のおごりだから」
「ありがとう、美味しく飲むわ」
「……娼館の支払いの方の話なんだが」
ぽつりと言ってから彼は、またすこし酒を口に含んで嚥下してから、目を丸くしているイーリスに続けていったのだった。
「あと、結婚の意思はまだあるのか?」
「え、ええ」
「新しい結婚相手のめどは立ってるか?」
「まだだけれど」
「じゃあ、俺と結婚してくれないか」
いつもとまったく同じ調子でアレクシスはそう言ってから、ふと顔をあげて、丁度良い位置に控えていた給仕係に目を合わせて、メニューから追加で注文をした。
そのちぐはぐな行動にイーリスはますます意味が分からなかった。普通そんなことを言った後に注文をしたりしない。
アレクシスにそんなつもりがあったのかということも意外……というか驚いたし、さらには、そもそも結婚できないから別れたはずだ。二人の間の障害がぱっと思い浮かぶ。
注文を聞いて恭しく頭を下げて去っていく給仕係を目で追いつつイーリスは聞いた。
「お互い跡取りでしょう。結婚できないじゃない」
「言ってなかったが、俺は、君と付き合った時に両親に言ってあったし、弟も優秀だから許してもらえたんだが……振られたからな、チャンスはないと思っていた」
「だって、別れようって言った時、何も言わなかったのに」
「……追いすがったら何か君は考えを変えたのか?」
……それはわからないけれど、そうではなくて。
だって当然だろう、当たり前のようにイーリスは常に悩んでいた。
アレクシスと付き合いながら、この時がいつまで続くのかどうするのが自分たちにとって正解なのかずっと悩んでいたのだ。
だからこそ、そういう風に答えを出した時、当然その理由もわかっていると思ったし、言わなければ伝わらないだなんて思っていなかったというか……。
頭の中に様々な言い訳が浮かんだが、結局のところ皆まで言わずにアレクシスを振ったイーリスだって悪いだろう。
……それにしても跡継ぎから降りるだなんて、公爵の地位を手放すなんてもったいないと思ってしまうのは私ががめついからなの?
いろいろな事実に頭を抱えたくなってイーリスは大きなため息をついた。それにアレクシスはすぐに「駄目ならいいんだ」と提案を引っ込めた。
……そういうところよ。アレクシス。
せめて強引に来てくれたら、わかりやすいのに、こんな外見をしていることに引っ張られて、すぐに身を引かれると何を考えているのかわからない。
「違う。違うわ。ただ、もっとたくさん私たちは話し合った方が良かったと思って。それに、あなたの選択とはいえ、私は捨てられないものをあなたには捨てさせて、それってどうなのと思ってしまう気持ちもあることにはあるのよ!」
なんだかとにかく思いついたことを口にして、アレクシスを真剣に見つめるが、彼は届いた料理をキラキラとした目で見つめていて、やっぱり何を考えているんだか不明だ。
真剣な話をしているときに料理に夢中になってどうすると思ったがぐっと叱責するのをこらえると、彼はイーリスの言葉に答えた。
「そんなのは関係ないだろ。イーリスはいつも、自分の道を選び取って望む人生を進んでいくのだといつも言ってる。
それは多くの自分に合わない意見を打破するために言っている君の矜持だと思うけれど、俺にとってはそれだけの意味じゃない」
合間に食事をして彼はごくんと嚥下してから続けた。
「ほかの人間が、重要視していることでもイーリスに取って価値がないことは君が思い悩むほどの意味もないだから気にする必要もないと思って生きていきたいと考えている。
そう思うことが君の矜持で生き方だろ。それで、同時に他人もそのようにいろいろな価値観を持っていることを君は知っている。
そして俺の中にも自分の価値基準があって自分が進みたい道の中で一番価値を感じる物にであった。
それは君の中で俺と添い遂げることの価値よりも、侯爵家跡取りとして手に入れられるものの価値が勝ったように、跡取りであることよりもイーリスのそばにいることの価値が俺の中では一番大きかっただけだ。
だからいつも通りイーリスは気にする必要がない」
なんだかしまらない態度だと思っていたのに、急に無駄に説得力のある口説き文句を言い始め、ぐうの音も出ない。
たしかに、イーリスはこれからも自分にとって価値のあることを選び続ける。
それは、イーリスを否定する人にとっては目障りな生き方かもしれない。けれどもその道を進むことが自分の幸せだ。
彼にとってそれがイーリスだといってくれるのならば、それに越したことはない。
「……」
「今一度機会があるなら、俺をそばにおいてほしい。君の隣が一番、俺にとって価値のあるものだ」
「……」
「駄目か?」
「いいえ!まったく!」
「そうか、良かった」
そう言ってアレクシスはとても満足そうに笑みを浮かべた。
頬を赤く染めて、ザクロ色の瞳をゆったりと細める姿はとても珍しく、好意がにじみ出ているように感じて、嬉しくて胸がジワリと熱くなる。
こっちまで赤くなってしまいそうな表情に、酒を煽ってごまかしたのだった。
翌日、くだんの娼館を訪れると、エントランスホールで、犬のように革の首輪をつけられたハインツがあられもない姿でだらしのない顔をしていた。
「あらぁ、イーリスやぁっときたのね」
「……ツェツィーリエ、これは……」
「うふふ。とっても楽しい夜を過ごしたのよぉ?」
ツェツィーリエの足元にひざまずいて話しかけられたことを喜んでいるハインツの姿は、イーリスに勝ち誇っていたあの時の姿は見る影もない。
はっはっと短く呼吸をして興奮しているのか頬を紅潮させて一心にツェツィーリエを見つめていた。
「ほら、お馬鹿さん。謝罪しなければならない相手が来たわよぉ、ちゃんといい子に謝罪が出来るかしらぁ?」
「は、はいっ!」
ハインツが若い青年の元気な声で返事をすると、ツェツィーリエはおもむろに首輪をぐっと引っ張った。
「あがっ」
「やぁっぱり馬鹿犬ねぇ、駄目だわこの子」
「は、ひっ。ワンッ、ワン!」
「あらそうよぉ、あなたはわたくしの犬になったのだから、返事はワンよねぇ、さあ、ほら、大見得切ってわたくしと寝室を共にしたいと言ったイーリスに無様に謝って?」
彼らのやり取りにイーリスはいったい何を見せられているのかと、呆然としたが、ツェツィーリエはイーリスに話を振ってハッとハインツはイーリスを見つめた。
その瞳は今までとろけるようにうっとりしていたのに、瞬きのうちに敵意を示すものへと変わった。しかし見るも無残な哀れな姿の彼に、そんな目をされたって、怖くもなんともない。
「っ、あ、……イ、イーリス」
「……随分、お楽しみな様子ね」
「おま、これはだな」
「あらぁ、調教が足りないようねぇ、うふふ」
何やらしどろもどろになって、首輪から繋がる鎖へと手を伸ばすハインツに、ツェツィーリエは頭を鷲づかみにし恐ろしく低い声でそう告げた。
すると今度はすぐさま表情を変えて、ハインツは「わ、ワンッワンッ」と律儀に、犬になり切ってツェツィーリエに縋りついてなんだか許しを乞っているような様子だった。
そんなハインツの様子など気にせずに、ツェツィーリエはイーリスに優しく言った。
「完全に落ちるまでもう少しかかりそうだからぁ、しばらくここにこもるわねぇ、割と可愛いのよこの子」
「……えっと、酷い事はしないでね、ツェツィ」
「あらぁ? わたくしそんなことしないわよ。ただとっても気持ちいいことを教えてあげてるだけだわ。ほら行くわよぉ、今からうまくやれなかったお仕置きね」
「ひぃ、っ、あ、た、助けっ」
ぐいぐいと鎖を引かれて去っていく彼に、イーリスはとんでもないことになったと思いながらも優しく手を振った。
ああして嫌がりつつも腕や足は自由なのだ。そのくせ、力のよわいツェツィーリエに逆らえずに首輪一つでついていっているというのは彼の選択だ。
これも彼が自由に自分の欲望を選択した結果だ。ただしかし自由というのは時にとんでもない方向に転がることもある。
今日の彼のように。
そして性癖は千差万別色々ある。彼の純潔以外は許せないという狭い世界が大きく広がり、何か得るものがあればいいなとそう願うばかりだった。