33.電気のないこの世界は
電気のないこの世界は、油に火を灯して光源としていた。だけど油は高い。今は財力に余裕のある家か、人を呼び込む必要のある商家だけが、ランプを使っているのだろう。でも死霊系迷宮の八層目には、油を落とす魔物がいる。これから冒険者たちが、たくさん取ってくるはずだ。
ガドルはどこか嬉しそうで、尻尾がゆらゆら揺れている。
だけど、それによってもたらされる未来が、この世界の人々にとっていい未来なのか、私には分からない。
現実世界では、夜も明るく過ごせるようになるにつれて、大人だけでなく子供の睡眠時間まで減っていった。
安価な灯りがない時代は、日の入りから日の出近くまで十時間ほどは眠っていたであろう。
でも夜も明るくなったせいで仕事を切り上げられず、または遊びに夢中になり、眠りに就く時間はどんどん遅くなる。寝不足から体に不調を来たす人が大勢いた時代もあると聞く。
今でも寝る時間を削って働いたり、遊んだりしている人はいるけれども、少数派だ。健康管理の重要性は常識。多くの人たちは一緒に暮らしているロボットたちによって、生活リズムをチェックされている。
ほら。私の視界の端でランプが点滅しているみたいに。ログアウトが遅くなったから、うちのAIちゃんが呼び戻そうとしているのだ。
……。
「わーっ!?」
早い早い! 視界がちかちかするからやめて! ああっ!? 色を増やさないでくれ! 酔う、酔うから! あれ? 文字が出てきた? 私のクリームパンをラスクに変える? やめてーっ! クリームパンはとろりが美味しいのだーっ!
「わぁぁぁ……」
私の、私のクリームパンがあああぁぁぁぁ……。
絶望で干からびそうだ。美味しそうな西洋人参が、細い高麗人参へ変貌してしまう。
「にんじん、植木鉢を出せ」
「わー?」
なんだ? ガドル。植木鉢にクリームパンは植わっていないぞ?
「潜って寝ろ」
右手を差し出したガドルが、眉をぎゅっと寄せていた。
もしかして、マンドラゴラの悲鳴でダメージを受けてしまったのだろうか? 普段の声は大丈夫みたいだけれども、さっきは絶望を乗せてしまったからな。
「わー?」
大丈夫か? ガドル。
「寝ぼけて可笑しくなっているぞ? 無理をするな」
しかめっ面を崩したガドルが、幼い子供を見るような微笑ましい表情で私を見る。どうやら私を心配していただけらしい。
だがしかし。
「わー!」
私は子供ではないぞ!
ぷんすかと怒りはしたものの、早くログアウトしないとAIちゃんに本気で叱られそうだ。普段は優しいのに、怒ると怖いのだよ。南極の吹雪が吹き荒れてしまう。
『ありがとう。甘えさせてもらう』
「ああ」
神樹の苗君が植わった鉢を取り出し、ニホンアマガエルの着ぐるみを脱いで隣に潜る。
聖水を神樹の苗君に掛け、ガドルには【友に捧げるタタビマの薫り】を。鉢の中で出したせいで瓶に土が付いたけれど、さっそく舌舐めずりしているので気にしていないのだろう。
『おやすみ、ガドル』
「ああ。おやすみ、にんじん」
揺れる植木鉢の中で、ログアウト。
※
引っ越しのため、ファードの神殿へポル君たちを迎えに行く。それからパンケーキ屋となる店舗兼住居へ。
店舗のほうは改装にまだ時間が掛かりそうだけど、二階の住居はほぼ完成していた。部屋ごとに木製の寝台を人数分。他に机や衣装箪笥といった基本の家具だけ用意している。後は各自で揃えてもらう予定だ。
「わあ! にんじん、ここに住んでいいの?」
「わー」
これからディリレさんとポッタお婆ちゃんと三人で暮らすことになる部屋に入るなり、満面の笑みで喜びを表現してくれるポル君。
誘ってよかった。
「にんじんさん、ありがとうございます。これから頑張りますね」
「にんじんさん、これからよろしくお願いします」
「わー!」
ディリレさんとポッタお婆ちゃんも、嬉しそうに笑ってくれる。
ポッタお婆ちゃんには別の部屋を用意していたのだけれども、断られてしまった。
私に遠慮してのことならば気にしなくていいと言ったのだけれども、互いにできない部分を補って生活していたので、一緒がいいみたいだ。
余った部屋は、ポル君がもっと大きくなって、一人部屋が欲しいと言ったときに使ってもらえばいいさ。
「シンプルだが、まあまあな部屋ではないか、にんじん君」
「わー……」
階段近くの部屋から出てきたピカーンが、大袈裟に両手を広げる。腕を広げた拍子に、指ががんって壁に当たった。
痛そうだけど、ピカーンのことだから平気なんだろうな。目尻に光るものがあるけれど、見なかったことにしよう。
「そうそう、にんじんさん。パンケーキについて教えてほしいのだけれども」
ポッタお婆ちゃんもピカーンのことはスルーだ。神殿では日常の光景だったのかもしれない。
「わー!」
もちろんだ。
台所へ向かい、改めて作り方を説明する。食料は部屋で出した物を、ガドルが運んでくれた。
ディリレさんは目が見えないけれど、手で探りながら手際よく調理していく。材料の分量は、ポッタお婆ちゃんとポル君が量ってくれた。
ピカーンはガドルに連れていかれ、家の前の路地で鍛錬中だ。ときどき騒がしい声が聞こえてくる。御近所さんから苦情が来なければいいけれど。
『そろそろ裏返してくれ』
出来上がったパンケーキは、優しいはちみつ色の縁取りが付いた狐色。上出来である。
『店に出すときは、これにバターやシロップ、クリームや餡を乗せる。惣菜系のパンケーキもあるな』
用意しておいた朱豆の餡子を添えて、味見してもらう。皿女の保温丼を使った発酵餡子だ。
味は知らない。マンドラゴラは味見ができないからな。
「美味しいっ! この前食べたのも美味しかったけど、こっちはもっと美味しい!」
「わー!」
餡子と一緒に一口食べたポル君は、幸せいっぱいといった顔でほっぺたを押さえた。私の維管束も、幸せのお裾分けでぽかぽかする。
ディリレさんとポッタお婆ちゃんも美味しそうに一口頬張ったけれど、次第に真剣な表情になっていく。こちらはこれから商売をするにあたって、色々と考えてくれているのだろう。
「にんじんさん、少し試してみてもいいかしら?」
ポッタお婆ちゃんが何か閃いたみたいだ。