05.助走はあまり付けられない
助走はあまり付けられない。そもそも腰の辺りまで水があるので、走れない。
いっそ水の量を増やしてみるか。跳んで脱出より泳いだほうが楽なはず。
「わー、わー、わー」
残りの純水を全部入れたところで、鍋の縁近くまで水が届いた。
そして水の底に沈んでいる私です。
「……」
現実の私が泳げるので危機感がなかったけど、泳げるのかね? この体は。
とりあえず呼吸は問題ないみたいだ。さすが人参。……違った、マンドラゴラ。
軽く跳躍してからバタ足ならぬバタ根をしてみる。
……水面に辿り着く前に沈んだ。正確には、跳躍力が切れた時点で沈んだ。バタ根に効力はなかったらしい。
しかし諦めるわけにはいかない。跳んでは二股の根を前後に動かし、時に蛙足を試し、両根を揃えてバタフライ!
「わー……」
浮かばない……。
考えることしばし。
「わー! わー!」
ラニ草をいったん収納してから、再度取り出してみる。
遠いから反応しないかと心配したが、所持品は離れていても収納できるようだ。
出す時にも位置が指定できるようにしてほしい。切実に。
出したラニ草に乗って、水面まで上昇。浮かんだらラニ草に根元を乗せたまま、バタ根で鍋の縁まで泳ぎ鍋から脱出。
純水を鍋に入れる作業だけで、ずいぶんと手間取ってしまった。
もう一度ラニ草を収納して、鍋からラニ草を救出。
鍋の中には純水が八カップ。つまり、今あるラニ草を全てぶち込んで煎じれば、初級HP回復薬四本分になる。
まな板の上にラニ草を取り出して、一番小さな包丁を持ってくる。否、押してくる。
位置を確かめて寝転がり、二股の根で包丁の柄を挟んで持ち上げる。そして振り下ろす。持ち上げる。振り下ろす……。エンドレス。
先程の遊泳訓練といい、根が鍛えられそうだ。
いい感じに刻んだラニ草を収納。そして助走を付けて……。
浮き袋がないことに気付き、慌てて停止。辺りを見回して、浮き袋になりそうな物を探す。
割り箸くらいあってもよさそうだが、ここは似非ヨーロッパの調薬室。金属製やガラス製のものばかりだ。
仕方がない。ラニ草をもう一束買おう。
買ったラニ草を収納し、再び助走を付けて跳躍。
「わーっ!」
今度は縁に引っ掛かることなく、鍋の中に入れた。泳いだり包丁を上げ下ろししたりで、何気に根力が上がっている気がする。
そのままブクブクと沈んでから、刻んだラニ草を取り出す。細切れのラニ草がぷかぷかと浮かんでいく様子は、風船を飛ばしているみたいでちょっと楽しい。
改めてラニ草の束を出して浮上。鍋から脱出した。ラニ草の束も救出する。
さて、準備はできた。後は煎じるだけだ。
コンロのスイッチを入れると、鍋の下が赤くなる。
たぶん魔法とかそういう仕組みなのだろう。よく分からん。
初めは強火でもいいのだが、煮こぼれ始めても水を差せないので、ここは慎重に行こう。弱火でじっくり。
吹き零れそうになったらスイッチを切らねばと見ていたのだが、暇になってきた。鍋に耳を澄ませながら、ウィンドウを操作する。
耳はなくても、音は聞こえるのだ。どういう仕組みかは知らぬ。
調薬レシピは、やはり初級HP回復薬しか表示されない。素材もラニ草だけ。
調薬レベルが上がれば、表示されるレシピや薬草が増えるのだろう。たぶん。
『買い取り』を選んでみると、初級HP回復薬の買い取り価格が表示された。
【初級HP回復薬】
・不良…10エソ
・並…100エソ
・良…500エソ
四本分の材料費が三百エソ。全て並なら四百エソ、良なら二千エソで買い取ってもらえる。
全部並なら材料費除いて百エソの収入か。
調薬室のレンタル料が五百エソだから、良が出ないと赤字じゃないか?
これはまとめて作るか、材料は自力で用意しろということだろうか? もしくは自分で調薬できる環境を作れとか?
鍋と包丁を手に入れれば、屋外でも作れるのかな?
そんなことを考えている内に、鍋の水は初めの半分ほどまで減ってきた。コンロのスイッチを切って気付く。
瓶がない。
これ、瓶も買わないといけないとか、煮沸消毒をしろとか言われたら詰みそうだな。
「わー……」
思わず壁を見つめていたら、鍋が光って瓶詰めされた初級HP回復薬が四本現れた。ナイス、システム。
≪【上級MP回復薬(にんじんオリジナル)】が作成されました。名前を付けますか?≫
「わー?」
はて? 私が作ったのは初級HP回復薬だ。MP回復薬でもなければ、上級でもない。どういうことだろう?
視線をウィンドウから出来上がった小瓶に移す。
「わー」
鑑定。
【上級MP回復薬(にんじんオリジナル)・不良】
・MPを5%回復させる。HPを10回復させる。
不良でした。しかも全て。
いや、そこではない。なんでMPは5%回復なのにHPはただの10回復なんだろう。
わけが分からないが、とりあえず先に名前を付けてしまおう。
「……」
名前を付ける前に鑑定したせいで、キャンセルされていた。
正式名が【上級MP回復薬(にんじんオリジナル)】に決定だ。
回復薬に自分の名前が付いてるなんて、恥ずかしいぞ。
終わったことは仕方ない。落ち込んでも時間とエネルギーの無駄なので、出来上がった回復薬を売ってみる。
四本売って四千四百エソ也。
「わっ!?」
ちょっ!?
一本が千百エソ? 初級HP回復薬は良でも五百エソなのに、上級回復薬だと不良でも倍以上の値段になるのか。嬉しい誤算だ。
メニューを見ると、一度作った薬は作業しなくても、まとめて十本ずつ作れるみたいだ。ただし全て並か不良になるけどな。
だが【上級MP回復薬(にんじんオリジナル)】は、全行程を自分で行ったのに不良だった。
鍋で溺れたり、包丁を根で操ったりする苦労を踏まえれば、選択は決まっている。
材料であるラニ草と純水を購入して、【上級MP回復薬(にんじんオリジナル)】を選択してから【自動調薬】を選ぶ。
「わー?」
ん? 何か影が……。
「わーっ!?」
ちょっ!?
包丁が私目掛けて振り下ろされてきた。
単なる包丁と侮るなかれ。刃渡りは私よりも長いのだ。
横っ飛びで何とか逃れるが、包丁は再び振りかざされる。
「わーっ! わ、わーっ!」
ストップ! 違う、キャンセル!
ふっと消える包丁。
「わー……」
恐ろしかった。VR世界だから呼吸が乱れることはないはずなのだが、思わず根元で息をしてしまう。
調薬という安全なはずの行動で、なぜ命を狙われなければならないのか。
机の上で動かなくなった包丁を眺めながら考える。