悪役令嬢はヒロインの恋路を見守りたい
それはある日突然訪れた。
暖かな木漏れ日の中で、ふわりと脳裏に浮かんだ情景が目の前に広がる光景と重なる。湖の岸辺で佇む二人の男女。
その一人は私の従弟であり、この国の王太子。そしてもう一人は子爵家の娘で――乙女ゲームのヒロインだ。
ここではないどこかの世界で、私は乙女ゲームと呼ばれる種類のゲームで遊んでいた。内容は剣と魔法の世界で愛する人と共に魔を打ち払う、王道といえば王道なファンタジー。
ただそれだけならば、勝手に励めばいい。
問題なのは、私だ。
現王の弟の娘であり、公爵家の一人娘の私は軟弱で気弱な従弟を心底嫌っていた。ただ王の子供だというだけで優秀な私を差し置いて玉座に座るなどと言語道断、到底許せるようなことではない。
だけどどれほど私が優秀であろうと血筋は覆せない。せめて私のお父様が兄であったのならとお父様の生まれを恨むことしかできない。
そんな破れかぶれな精神でいた私に魔の手が及んだ。
ヒロインたちに払われる魔――魔王に唆され魔族に身を落とし、中ボスとしてヒロインの前に立ちはだかる。だが鍛えに鍛えたヒロインたちの前では中ボス程度、雑兵に過ぎない。呆気なく倒された私は、お母様の形見であるペンダントを落として消失する。
ペンダントを見て中ボスの正体に気づいたヒロイン一行はなんとしても魔王を倒すと心に強く誓うのであった。
――であった、で済まされては困る。
どうして私がそんなお涙頂戴の道具にされなくてはいけないのか。確かに従弟を恨めしく思ったことはあるが、魔族に身を落としてまで報復したいなどとは思わない。国の存続を第一に考えられないものが玉座に座ろうなど思い上がりも甚だしい。
手に持っていた扇に力をこめ、目の前で繰り広げられるヒロインと従弟の出会いをまじまじと観察する。
そう、私が一番に願うべきは国の存続だ。軟弱な従弟の破滅など二の次でよい。どうせ軟弱なままなら玉座に座った後でもどうにでもできる。
それに私の教育の甲斐があってか、軟弱ながらも聞き分けのよい従弟になっている。わざわざ報復などするまでもない。
ゲームでは最終的に愛の力などというまやかしとしか思えない不思議現象で魔王を打ち倒すことになっている。
誰とも結ばれない場合は「そんな、まだ終わっていなかったというの……!?」というヒロインの台詞と魔王復活を予見させる終わり方をする。
恋の相手次第では魔王そっちのけで世界の覇者になったりするのだが、それもなしの方向で進めてもらわないとならない。
真っ当に魔王を倒すのは、私の従弟と結ばれた場合のみだ。王子だからなのか、あるいはほかのお相手に難がありすぎるからなのかは定かではないが、国が無事存続するには従弟と恋に落ちてもらうしかない。
固唾を呑んで見守る中、ゆっくりとヒロインの口が開かれる。
「あなたの髪、とてもおいしそうな卵の色ね」
――――どうしてそうなった。
ゲームは森に迷い込んだ従弟が湖で一休みしているヒロインと出会うことではじまる。そこでヒロインは綺麗な髪ね、と褒めるのだが、卵の色などと表現する選択肢などあっただろうか。だめだ、どうしても思い出せない。細かい選択肢など覚えられるはずがない。
乙女ゲームを遊んでいた私に私並の記憶力があればと思わずにはいられない。
「た、たまご……?」
「ええ、産みたて新鮮の。きっと焼いたらおいしい目玉焼きになるわ。あら、目の色も焼き立てのクッキーのようにおいしそうな色をしているのね」
目玉焼きから目の色に話を変えるのはやめてあげてほしい。従弟が「何この人やばい」と涙目になってしまっている。
「それに、なんだか美味しそうなにおいが……あ、私ったらごめんなさい。はしたないわね」
口から出そうになったよだれを慌てて拭い、恥ずかしそうに目を伏せたヒロインが顔を上げた次の瞬間には、従弟の姿は影も形もなくなっていた。
従弟の逃げ足はすさまじかった。まるで猛獣と出くわした野兎のようだった。
一部始終を見ていた私はそう語る。
「ね、姉さまあああ!? なんだか、なんか、すごいやばい人が……!」
「私はあなたの姉ではなくってよ」
昔からお姉ちゃんお姉ちゃんと慕って後をついてきていたせいか、従弟はいまだに私のことを姉と呼ぶ。色々誤解が生じるので、そろそろやめていただきたい。
亡きお母様に不貞の噂が立ったらどうしてくれるのだろう。まあ、お父様とお母様が仲睦まじかったのは有名なので、大丈夫だとは思うけど。
「いいこと、あなたにひとつ命じるわ」
「は、はい!」
背筋を伸ばし、突きつけられた扇に口を固く引き結ぶ。私の従弟は軟弱だが、従順でもある。
「彼女と恋なさい」
「は……?」
「私に二度同じことを言わせるつもり?」
「いや、だって、こいなさいって、乞いなさい? 何を乞えば」
「そうね、愛を乞えばいいのではないかしら」
「いや、愛って、そんな、姉さまの口からそんな台詞が出るなんて、まさかこの世の終わりが……!?」
「お黙り」
私の一言で慌てて口を噤んだ従弟の顎に扇の先を当て、そのまま下に滑らせて喉仏を押す。昔なら上を向かせていたのだが、従弟が背が高くなってしまってからは、上を向かせても天を仰ぐだけとなってしまった。
「これは命令よ。反論できると思って?」
「で、でも、姉さま、だってあの子、なんか食われそうで……物理的に」
「それを性的に変えるのがあなたの役目よ」
「無理、無理ですよ!? 食欲しか見出だせませんでしたよ!?」
「まったくあなたはいくつになっても軟弱ね。逆に食らってやろうという気概はないの? もちろん性的によ」
物理的にヒロインが食われてしまったら魔王を打ち倒すものがいなくなってしまう。
「幸いあなた、顔だけはいいもの。彼女を情欲に溺れさせなさい」
「そ、それで最後には捨てろとでもおっしゃるんですか? 彼女が姉さまに何を」
「捨てなくていいわ。そのまま娶って妃にするなり愛人にするなり好きにしていいわ」
「し、しかし姉さま」
「私がはい以外の返事は嫌いなの、知ってるわよね」
「はい!」
それから私のヒロインと従弟を見守る日々がはじまった。ゲームでは従弟との出会いから一気に魔王討伐の旅に飛ぶが、悠長にそこまで待つ必要はない。さっさとくっついてしまえばいい。
従弟が誘いの手紙を送り王城に招き、花を眺めておいしそうとうっとりするまでがいつもの流れだ。ヒロインはとんだ食いしん坊さんのようで、従弟と出会った日も木の実を採集しに森に来ていたらしい。
「中々進展しないわね」
双眼鏡片手に窓から二人の様子を眺めるが、従弟はヒロインの口が「おいしそう」と動くたびに全身を震わせている。いっそのこと卒倒してしまって看護されればいいのに、そうはならない。中途半端な男である。
「おい」
そして今日はクッキーを振る舞い、庭園で一緒にお茶を嗜んでいるのだが、ヒロインが従弟の目を見るたびにまるで生贄のようにクッキーを差し出している。従弟の口には一欠けらも入らない。
「おい」
「まったく、なんですの」
「客が来ているというのに外を眺めているのが悪いのだろう」
「先触れもなくいらした方を客とお呼びする風習はございません」
振り返ると、夜闇のように黒い髪に血のように赤い瞳をした青年が立っていた。頭部に生える禍々しい一対の角を見る限り、どうやら魔王が私を誘いにきたようだ。
だがしかし、私は魔王の手先になるつもりは毛頭ない。さっさとお引き取り願って、どうやってヒロインと従弟の間に愛を芽生えさせるか考えなくてはならない。
「先ほどから熱心に見ているが、自身よりも劣っているのに優位に立つものが憎くはないのか?」
「まあご冗談を。傀儡は愚鈍なぐらいが丁度よいのですよ」
口に手を当て、ほほほと笑うと魔王が訝しがるように眉を顰めた。軟弱で気弱だが、従順な従弟は嫌いではない。これで反抗期が到来したら話は別なのかもしれないが、それはそれで再度鍛え直すだけだ。
「お前が望むのなら、この国をお前にやってもよいぞ」
「それこそご冗談でしょう。私、他人からの施しを受けるほど落ちぶれてはおりません」
赤い目がぎらりと光り、私の顎を掴むと上を向かせられた。いつも従弟にしていたが、なるほどこれは中々屈辱的だ。天を仰ぐだけにはなるが、従弟にもまたしてやることにしよう。
「お前、俺が怖くはないのか?」
「不審者に怯える程度のものが国を導けるわけがないでしょう」
不審者を切って捨てるだけの度胸がなくては国の長など務まらない。私の手元には扇しかないが、やろうと思えばこれで喉仏を潰し一泡吹かせることぐらいはできる。
双眼鏡は従弟を見守るのに使うので、手荒に扱いたくはない。
「……奇異な娘だ」
そう言い残すと、魔王は忽然と姿を消した。
「姉さまああああ!」
そして入れ替わるように、従弟が部屋に飛びこんできた。
「なんですの、騒々しい」
「無理です! やっぱり俺には無理です!」
「クッキーを食べていただけでしょうに、何を嘆くことがあるのよ。頬一杯に頬張って子栗鼠みたいで可愛いと思うぐらいの気概はないの」
「だって足りないなって言いながら俺の目を見るんですよ!?」
「人と話すときに目を見るのは普通のことよ」
「物欲しげに見るんですよ!?」
「クッキーがほしいのよ」
「いつか絶対食われる……!」
「逆に食べてしまいなさい」
明日もまた従弟とヒロインを見守らないといけない。早めに寝て明日に備えようと寝台に潜り込んだ私のもとに客が来た。いや、正確には客ではない。先触れがないのだから。
「また来たの? 魔王って暇人なのね」
数日前従弟の部屋で会ってから、何故か毎晩魔王が訪れるようになった。乙女の寝所に忍び込むのはいかがなものかと思うが、言ったところでこの男は聞かないだろう。先触れがないのがその証だ。
「お前は面白いからな」
「褒められている気がしないわね」
「いいや褒めているとも。俺を楽しませられるものは希少だ。お前が望むのなら俺の寵を与えてもいいぞ」
肩を押され、寝台に転がされる。そして覆いかぶさるように乗ってきた魔王の喉に扇を突きつける。
「冗談じゃないわ。私が望むのは国を背負える男よ」
「俺は世界の王になる男だ」
「まだ世界の王ではないでしょう。それに、言ったわよね。私が望むのは国だと……世界の王に用はないわ」
「志が高いのか低いのかわからん娘だな」
やれやれと言うように私から降りると、そのまま寝台に座り私を見下ろした。
「お前は優秀な娘だ。どうして従弟を引きずり下ろし王になろうとはしない」
「この国では女王は認められていないのよ」
「その程度のことで揺らぐほどの志なのか?」
「国民感情を無視して玉座に座ったとしても長続きはしないわ。それなら裏から従弟を操るほうが何倍もましよ」
内乱を起こせば国が疲弊する。それでは復興の手間がかかってしまう。ならば最初から内乱などないほうがいい。
「つまらん娘だな」
「ならどうぞ、もう二度とお越しいただかなくて結構ですのでお引き取りください」
「ああ今日は帰ってやる」
魔王は私の髪を一房掴むと口づけを落とし、姿を消した。
「わ、わあ、わあ! すごく綺麗な人ですね……!」
きらきらと目を輝かせるヒロインを前に私は痛みそうになる頭を誤魔化して悠然と微笑んだ。
どうしてこうなったのかは、びくびくぷるぷる震えている従弟を見れば一目瞭然だ。もう駄目だ無理だとなって私に助けを求めたのだろう。
「蜂蜜みたいな綺麗な髪に、宝石みたいな瞳……すごい、お姫様みたい!」
「あら、褒めてくださってありがとう。でもあなた、言葉には気をつけたほうがいいわよ。たかが子爵家の娘ごときが私と対等に話そうだなんて思わないことね」
「あ、ごめんなさい! つい嬉しくて……じゃなくて、感極まってしまい、はしたない真似をして申し訳ございません」
深々と頭を下げるヒロインを見下ろして、私は小さく溜息をついた。ずいぶんなおとぼけさんだけど、悪い子ではない。
それに私に対しては普通の褒め言葉を使った。間違ってもおいしそうとは言わなかった。なのにどうして従弟にだけはおいしそうなのか――
「ねえ、知ってる? 食欲と性欲って似通っているそうよ」
「そ、そうなんですか?」
「ええ、だからきっと彼女はあなたを性的な目で見ているのよ」
「じゃあもしかして、俺でもいける……!?」
「そうね。がんばりなさい」
食欲旺盛な目で見られるのが怖いだけで、ヒロインの見た目は好みなようだ。きらきらと目を輝かせて、明日はどうやって口説けばいいか真剣に考えている。
魔王討伐の旅に出るのはいつだっただろうか。思い出せない。
「また来たの? つまらない娘に用はないのではなくて?」
前回来てから一週間来なかったので、もう来ないものかと思っていた。
それなのに、何故か魔王はまた私のもとに来た。
「少々忙しくてな」
「わざわざ来なくてもよろしいのに」
「そう言うな。少し休ませろ」
私の寝台にだらしなく寝そべり占領しはじめた。一体誰の部屋だと思っているのか。
魔王はわずかに体を動かすと、隣に寝転がれとばかりにぽんぽんと叩いた。冗談ではない。
「婚姻もしていない相手と褥を共にするほど安い女ではなくてよ」
「手を出す気はない。見上げているのが疲れるだけだ」
「では見ないほうがよいのではないかしら」
文机に備えつけられている椅子に座り、人の寝台を勝手に使っている魔王を見下ろす。疲れているとは言っていたが、なるほど確かに顔色が少し悪い。元々血の気のなさそうな青白い肌をしていたが、今はそれ以上に青白くなっている。
「今のあなたなら私でも倒せるかしら」
「人の娘に殺されるほど俺は甘くはないぞ」
「その顔色ですごまれても怖くもなんともないわね」
ほほほと口に手を当てて笑うと、魔王はうんざりとした顔で溜息をついた。そして少しだけ体を起こし、私を真正面から見つめる。
「お前はもう少し可愛げというものを持ったほうがいいのではないか?」
「そんなものお母様のお腹の中に置いてきたわ」
言われなれた言葉に私もうんざりしてしまう。「可愛げがない」「女が優秀だとろくなことにならない」「勉学に励むよりも花嫁修業に励んだほうがいいのでは」何度も何度もそう言われてきた。
幸いお父様は理解のある方なので、私を応援してくれた。お母様がもし生きていたら、私を応援してくれただろうか。
「人の男は愛らしい娘を好むだろう」
「そんなもの人によるわ」
「だがお前のもとに婚約の申し出すら来ていないのは……そういうことだろう」
「私が選ぶ側だもの。それに私を望み、王となれる器の男以外に用はないからそれでいいのよ」
「俺はお前を望んでいると言ったはずだが」
「そんなこと言われたかしら。ひとときの慰みものにすると言われた覚えしかないわ」
魔王は赤い目を細めると寝台を降り、私の前に立った。月明かりに照らされた魔王の瞳は紅玉のように輝いて見えた。
「……今日はもう帰る」
そして不機嫌な顔をして、姿を消した。
「姉さまあああ!」
今日の従弟は騒がしい。ここ最近は順調にヒロインを口説いていたはずなのに何があったのか。
もしかしたら白魚のような指でおいしそうですねとでも言われたのかもしれない。
「なんですの、騒々しい」
「お、おれ、まお、魔王の……!」
「……魔王?」
「父上に、魔王の討伐に行けと、そう言われて……! 俺なんかがなんの役に立つって言うんだ! 剣もまともに振れないのに!」
「鍛錬をしろと命じていたはずよね。怠っていたの?」
「人には向き不向きがあるんです……! 教官からお前はもう無理だって匙を投げられました!」
「あ、あら、それは……ご愁傷様」
さすがにそれは従弟を責めることはできない。しかし、そうか、教官に匙を投げられるほどの腕前なのか。魔王のもとにたどり着けるのか不安になる。
とりあえず落ちつかせる意味も含めてほかに誰が選ばれたのか聞くと、世界一と名高い魔術師と、国一番と名高い剣士と、世界最高峰と名高い芸術家と、従弟とヒロインだった。
それはそのまま、乙女ゲームの相手たちだ。魔術師は実は世界征服を狙っていて、最終的にはヒロインと一緒に世界の覇者となり、剣士は武者修行の一環として参加したので、最終的には世界中の猛者と戦うべくヒロインと共に終わりなき旅に出て、芸術家は実は神の寵愛を受けていて、最終的には天使として覚醒しヒロインと共に天の国に旅立つ。
従弟はただの軟弱で気弱な王太子だが、最終的には男気を見せて愛の力に胸打たれた神が力を貸し、魔王を打ち倒す。
従弟だけ癖が弱すぎる。
「いいこと。ほかの男に彼女を取られないようになさい」
「心配するのそこですか!? 俺の安否は!? 生死は!?」
「精々守ってもらうことね」
むせび泣く従弟を放置して生家である屋敷に帰り自室に入ると、すでに客がいた。いや、客ではない。いまだに先触れなく訪れる不審者だ。
「昼に来るだなんて珍しいわね」
「しばらく忙しくなるからな」
「あらそうなの。それはよいことを聞いたわ。これからは気兼ねなく眠れるわね」
「お前は本当に可愛げのない娘だな」
「お母様のお腹の中に置いてきたのだからしかたないでしょう」
「お前の母親……これの元の持ち主か?」
魔王がかかげたのはお母様の形見のペンダントだった。いつも身に着けていたはずなのに、どうしてそれが魔王の手にあるのか。
一瞬理解が追い付かなくて考えるよりも先に手を伸ばしたが、伸ばした手を引っ張られ魔王の体に寄りかかる形となった。
「返してほしければ俺のもとまで来い」
そう耳元で囁くように言って、魔王はお母様の形見ごと姿を消した。
「姉さまあああ!」
今日も従弟は騒がしい。従弟の旅に無理矢理同伴することにしたのだが、毎日毎日従弟は泣きついてくる。
「なんですの、騒々しい」
「彼女が、別の男と一緒に町に……!」
「あなたが先に誘えばよろしかったのに」
「だって断られたらって思うと!」
「あなたはいつまで経っても軟弱ね。恋は争奪戦よ。奪われたくないのならしっかりと手中に収めなさい」
「でも、俺なんて姉さまがいないと何もできないような男で、彼女が俺を選んでくれる保証なんてどこにも……!」
「馬鹿ね」
従弟はどうしようもないほど軟弱で気弱だが、それでも長所はある。
「私が使えない男を重宝すると思って? あなたにはあなたの美点があるのよ」
「そ、それは……?」
「従順なところよ。犬のように彼女を追いかけなさい」
「はい!」
犬のように走り去る従弟を見送ると、くすくすと笑う声が木の合間から聞こえてきた。
「盗み聞きなんて悪趣味ではないかしら」
「ああ、ごめん。微笑ましくて思わず」
現れたのは将来的に天使になるかもしれない世界最高峰と名高い芸術家だ。
芸術家は従弟の去った方角を一瞥すると、また私に向き直った。さらりと流れる白銀の髪が日の光に照らされて神秘的な一枚絵のようになっている。
「仲がいいんだね」
「従姉弟ですもの」
「従姉弟なら結婚できるけど、そうしないんだ?」
「あれが私の夫に収まる器に見えて? 彼には彼女程度の相手が相応しいわ」
「手厳しいね君は」
いつもは筆を握っている手が私の頬に触れ、表面を撫でるように動く。
「君の青い瞳は宝石のようで、宝箱にしまいたくなるよ」
さすがは天の国にヒロインを連れて行くような男だ。言うことが物騒である。
私は手を払いのけ、お褒めに預かった青い瞳で芸術家を見据えた。
「私が素晴らしいのは瞳だけではなくてよ」
「君自身を宝箱にしまってもいいの?」
「箱に収まる女に見えるのなら、そんな役に立たない目などくり抜いてしまいなさい」
「それは困るな。君を見ていられなくなる」
肩をすくめてくすくすと楽しそうに笑うと、私の髪を一房掴んで口づけた。
魔王城はその名に相応しく物々しい雰囲気を醸し出していた。ここまで来れたということは、従弟とヒロインの仲は無事に進んでいるのだろう。
ゲームでは私がここで待ち受けていたのだが、今の私は旅の一行に加わっている。中ボスが現れることなく、私たちは魔王城に足を踏み入れた。
さすが魔王城なだけあって、魔物の数が桁外れだ。襲いくる魔物を剣士が切り払い、魔術師が焼き払い、芸術家が絵に留め、従弟が逃げ惑い、ヒロインが声援を送っている。
私はそれを優雅に眺めている。
世界一と名高い魔術師と国一番と名高い剣士の前に敵はいない。疲れたら休憩する以外では足を止めることなく魔王城の中を突き進んだ。
そして一際物々しい扉を開け、魔王と対峙する。
私のもとに来ていたときとは違い、仰々しい衣装を身に纏う姿は魔王と呼ぶに相応しいほどの出で立ちだった。
魔王はぐるりと一同を見回すと、私に目を止めにやりと口角を上げた。
「俺を倒すか……ずいぶんと思い上がったものだ」
剣士の高らかな宣言を聞き、魔王が不機嫌に眉根を寄せる。どこまでも馬鹿にした声色は最後に会ったときと変わらない。
魔術師が牽制に放った火球を手の一振りで払い、襲いかかる剣士の剣を片手で受け止める。ヒロインの声援を煩わしそうに聞いたかと思えば、私に縋り付いてぷるぷると震える従弟に殺気を飛ばす。芸術家はこの戦いを絵に収めようと筆を走らせていた。
「無理じゃないかしら、これ」
思わずそんな弱音が出てしまうのもしかたないだろう。
戦闘員が二人しかいない時点でどうしようもないと気づいていたが、それでもなんとかなると楽観視していた。それに従弟の愛の力でなんとかなるとも思っていた。
だけどびくびくぷるぷる震える従弟に男気は見込めない。ヒロインに迫る魔王の攻撃を身を挺して庇えるようには見えない。私を盾にしている時点で。
「あぶない……!」
だけど、奇跡は起きた。
魔王の払った氷弾のひとつがヒロインに迫ろうとしたその瞬間、従弟は私の陰から飛び出してヒロインの前に躍り出た。そしてその背に氷弾を受け、苦悶の呻き声を漏らす。
「そ、そんな……どうして私なんかを庇うの……!」
ヒロインの悲痛な叫びを遮るように、ヒロインの唇が従弟によって塞がれる。
「だって、俺は、君を愛しているから」
ぐらりと傾く従弟を支えて、必死に従弟の名前を叫ぶヒロイン。大きな目から涙が零れ、その雫が従弟の頬に触れたかと思うと眩い光が二人を包み込んだ。
「ぐっ……!」
その光を目の当たりにした魔王がその場に膝をつく。苦しそうに胸を掻きむしる姿に、剣士と魔術師が好機と見て取って躍りかかった。芸術家は一心不乱に筆を走らせている。私は手を強く、握りしめた。
「だ、だめええええ!!」
そう叫んだのは――
眩い光の中で従弟と共に立つヒロインだった。
ヒロインの制止の声に剣士の動きが止まり、詠唱をしていた魔術師の口も止まる。どうして、と問いかける視線にヒロインははらはらと涙を流しながら、真っ直ぐに魔王を見据えた。
「だって、だって! その人は……! 彼女の恋人です!」
ぴしりと指差されたのは、私だ。
皆の視線が私に集中する。一体なんのことだろうかと首を傾げると、剣士が困惑したようにヒロインを見た。
「私、見たんです! ふたりで仲よくお話しているところを……! あの柘榴のように赤い目は、間違いなく彼でした!」
ヒロインが目撃できるような場面は、私が魔王と初めて会ったとき以外にない。
双眼鏡で見ないといけないほど離れていたのに、ヒロインは裸眼で魔王の目の色を確認していたらしい。
その事実に、私は空恐ろしさを覚えた。
「そ、そんな、姉さま、どういうことですか!」
「どうと言われても……」
恋人だった事実はないし、仲睦まじく話していた記憶もない。すべてヒロインの勘違いだ。
――だけど、どうしてだろうか。否定したくないと思ってしまうのは。
「魔王に愛を教えるのが君の役目だよ」
かたん、と筆を置いた芸術家が独り言のように呟いた。
「愛を知らない魔王が愛を知ることによって、世界に光が満ちるんだよ。だからほら、君は剣を取って、彼の胸に突き立て、その身に愛の楔を打ちこまないといけない」
そう言って、剣士の持つ剣を奪うとヒロインに差し出す。ヒロインはいやいやと首を振って、剣から少しでも遠ざかろうと身じろぐが、まるでその場に縫い付けられたように動けずにいた。
「私、できません! 悲しむ人が出るってわかってるのに、そんなこと……!」
「悲しむ人? そんな人がどこにいるのかな?」
「あの人は恋人で……!」
「誰がそう言ったの? 君の勘違いだよ、それは。魔王は愛を知らないのに、恋人なんて作れるはずがない」
だからほら、と剣を無理矢理ヒロインの手に握らせる芸術家の背には、白い羽が生えていた。
どうやら天使として覚醒していたらしい。
ならばこれが神の意向なのか。嫌がるヒロインに剣を握らせ、人を刺すことを命じるのが神の望みだというのなら――冗談ではない。
「犬!」
「はい!」
間違えたが、返事をしたのでよしとしよう。自覚があるようで何よりだ。
「あなたの長所は何?」
「姉さまに従順なところです!」
「なら私が何を望むかわかるわね?」
「はい!」
従弟はヒロインの手から剣をひったくるとえいや、と遠くに投げた。剣は部屋の隅でからんという乾いた音を立てて転がった。
「褒めてあげるわ」
「姉さまが、褒める……!? まさか、ここで世界が終わるのか……!」
悲壮な顔でヒロインの体をかき抱く従弟を横目に一歩一歩しっかりとした足取りでうずくまる魔王に近づく。
額に汗を浮かばせ私を見上げる顔は、前に会ったときよりもいっそう青白くなっている。そろそろ血が完全になくなるのではないだろうか。
「いいこと、よく聞きなさい」
扇を顎の下に滑らせ、顔を上げさせる。中々見ごたえのある光景だ。
今度従弟を這いつくばらせて見上げさせることにしよう。
「あなたは世界に足る器ではないわ」
それからについて深く語ることはよそう。
ひとつ言えることは、そう遠くない未来で世界に光が満ちたということだけだ。




