端書、その三 真夜中の訪問者に戦雲の夢を
「見ツケタ」
「アァ、見ツケタ」
「鍵ダ」
「コノ子ガ?」
「アァ、コノ子ガ鍵ダ」
その夜、昔の夢を見た……それは、どこか見覚えのある風景。
鬱蒼と生い茂る、山の木立。
その近くを流れる、小川の細流。
耳を劈く蝉の合唱。
牧歌的な土の香り。
炭窯から立ち昇っていく白煙……。
「唯姫ちゃん、出てきてはだめ!」
(唯姫って誰だろう……? もしかして、私のこと?)
でも、それは私の知らない『私の記憶』――
☆
’二三年〇九月一一日(約束の日まで、あと四八〇九日)
三重県は熊野の里山――そこは小高い山々に囲まれた谷沿いに、ひっそりと数十軒の民家が寄り集まって形成された、いわゆる『限界集落』である。
中でも一際大きく、最も古そうな日本家屋に幼少時代の御神唯姫は預けられていた。物心がついた頃から、小学校入学を機に両親が迎えに来るまでの数年間を、自然豊かなその環境で祖父の手によって育てられる。
成長した唯姫は、いつぞや母親にその頃の事情を聞いてみたことがあった。だが、「んー、貧乏だったから……かな?」と一蹴されて以来、それ以上のことは突っ込んで聞く気にはなれないでいる。
ただ、当時はそれが当たり前のことであり――現在の生活にその身を置くまでは、自分が『普通』とは少し違った家庭環境にあったことなど、その頃の唯姫には知る由もなかった。
家主である祖父は、朝になるといつもどこかへ出掛けていき、夕刻まで帰ることはない。そのため、屋敷にはもう一人『沙依』という家政婦と思しき女性が、住み込みで唯姫たちの世話や家事に従事していた。しかし、彼女は子供の扱いが得意ではないらしく、唯姫とは少し距離を置いていた感が見受けられる。
祖父の書斎には本が山積みになっていたが、幼い子供が読めるものは、ただの一冊も見当たらない。広い屋敷は部屋数も多く、『かくれんぼ』には打ってつけだったのだが、共に遊んでくれる同世代の子供の姿など、集落のどこを探しても見つからない。
そんな唯姫の唯一の友だちは、番犬の『タローさん』だけであり、天気のよい日などは朝から晩までいつも一緒に過ごしていた。
野生児の如く野山を駆け回ったり、田んぼや畑の畦道で野花を摘んだり、近くの小川へ行っては、膝まで浸かって小魚や蛙と戯れる……そのほとんどの日々を、少女は白い雑種犬と遊ぶようになっていた。
そして、あの日も……。
その“声”は、遊び場のひとつでもある小川を越えた先――薄暗い、竹藪の奥から聞こえていた。ざわざわと風に揺れる笹の葉音に紛れて、唯姫の耳には確かにその“声”が届いている。
竹藪は外から見ると中は暗く、それがどこまでも続いている感じがとても怖くて、いつもは決して近寄ることのない場所であった。しかし、幼い子供がすすり泣くようなその“声”に導かれて……はたまた誘われるがまま、唯姫はその中へとつい足を踏み入れてしまう。
「だれ? どこにいるの……?」
恐る恐る“声”の主を探しながら、唯姫の小さな足は深い竹藪の中を、奥へ、奥へと、さらに分け入っていく。帰り道がわからなくなりそうで、気がきではなかったが、タローさんの鳴き声が心強くもあり、その時は不安を拭い去ることができた。
いち早くそれを見つけたのは、犬のタローさんであった。
退屈な里山での暮らし……そして、変化のない毎日に飽き飽きしていた唯姫は、犬の吠える方へと向っていくうちに、ついには駆け出してしまう――その時、少女の好奇心は頂点へと達していった。
竹薮のかなり奥の方まで来てしまっていたが、その中は思っていたよりも明るく、しかし想像通りにどこまでも続いている。だが、そんなことはお構いなしに、唯姫は小さな足で必死に駆けていく。
そして、唯姫は出会った――
遠くから見えた泣き声の主は、ぼんやりとした白磁色の光を全身から放ちながらも、かろうじて人の子の形をしていた。
唯姫の気配に気がつくと、その子は慌てたようにジタバタしながら必死に抗ってみせる。しかし、罠にでも掛かったかのように、その場所からどうしても身動きが取れないでいる様子であった。
唯姫は内心、恐怖に打ち震えていた。だが、その子はどう見ても自分と同じ位の背格好であったし、なによりも今は、“彼”を助けることを優先しなければならない。
もしかしたら、一緒に遊んでくれるかもしれない……初めてのお友だちになってくれるかもしれない……そんな期待を秘めた少女は、一歩一歩と彼に近づく毎に、その小さな胸を高鳴らせていく。気づけば、唯姫はその子の直ぐ傍まで近寄っていた。
「……どうしたの? だいじょうぶ? どっかいたいの?」
べそをかいて途方に暮れているその子に向けて、できるだけ優しい態度で声を掛けていく唯姫。よく見ると、かなり深そうな穴に片足が嵌り込んで、どうにも抜けずにいる様子であった。
引き抜いてあげようと思い、穴に向かってそっと手を伸ばていくと、唯姫の掌から丸い光輪が出現し彼の足を覆っていく。その途端、みるみるうちに穴は小さくなり、間もなくして跡形もなくその場から消滅していくのだった。
スッポン! と、穴から一気に抜ける――と、今度はその反動で、竹藪の中を勢いよく転がり出してしまう。光を纏った子は斜面を下るようにして、どこまでもどこまでも転がり続けていった。
太い幹に当たってようやく止まったその子は、ボーっと放心状態で目を回している。その様子を目の当たりにした唯姫は、プッっと吹き出すと、お腹を抱えて笑い出した。ややあって、その子も照れ笑いを浮かべる……。
あれほど怖かった竹藪の中は、いつしか二人の明るい笑い声で包まれて、陰湿な雰囲気を払拭していた。
☆
夕餉の時、唯姫は目を爛々と輝かせながら、昼間に起きた出来事を祖父に話して聞かせた。
「そりゃあ、カシャンボやな……言うなれば、山の河童ってとこや」
それが祖父の口から出た言葉だった。
「カシャ……? かっぱさん……?」
「そりゃ、子供やったんやろう?」
「うん、そう。わたしくらいのおおきさだった」
「ほなら、そいつはカシャンボや」
「カシャ……ンポ?」
「ここらじゃ山に住む河童を、『カシャンボ』ゆうてな。それが大きくなると、今度は天狗になる。ほんで、終いには鬼や……よかったなあ、相手がまだ子供で。鬼やったら、唯姫なんぞ直ぐ食われてまうな?」
そう言って、祖父は唯姫を散々脅した挙句、“このことは、誰にも言ってはならない”と強く釘を刺す。また、念入りに“竹藪の中へは、二度と近づいてはならない”とも諭した。
その夜、昼間の出来事から興奮状態にあった唯姫は、布団の中で眠れぬひと時を過ごしていた。暫くすると深夜にもかかわらず、集落中の大人たちがこぞって祖父の屋敷へと集まり、なにやら深刻な話をしている様子であった。
壁越しにその雰囲気を察すると、なにか自分がとんでもなく悪いことをしてしまったのではないか? と、幼心からも罪悪感に苛まれる。その恐怖から、唯姫は益々眠れなくなってしまうのだった。
「“奴ら”か?」
「そやな……あの子から聞いた限りやと、たぶん地下の方の連中やな」
「結界を越えた所で、罠にでもかかったんやろうが?」
「天巫女が、無意識に罠を外したみたいやに」
「ほんなら、ここも安全やのうなったちゅうことか?」
「ほたら、伊勢に戻ればええんじゃ」
「それは到底無理やわ……もう、伊勢には戻られん。ここから移るんやったら、伊賀方面か甲賀……」
その時、臥間の向こうから人の気配がした。
誰よりも早く、それに気がついた神矢沙依は、そっと臥間を開ける……と、そこに立っていたのは、熊のぬいぐるみを抱きながらぐずる、寝間着姿の唯姫であった。
「ごめんなさい……もう……いかないから……もう……しないから……」
その姿を見た沙依は、思わず唯姫を強く抱きしめてしまう。
「大丈夫……大丈夫だからね」
その場にいた全員の視線が沙依と唯姫に注がれている中、外では犬のタローが尋常ではない吠え方をしていた。間もなく、玄関の引き戸がガタガタと揺れ始める。
「――来たか」
なにかの気配を察した唯姫の祖父は、ゆっくりと腰を上げる……その刹那、引き戸がパーンと開け放たれた。
「見ツケタ」
「アァ、見ツケタ」
「鍵ダ」
「コノ子ガ?」
「アァ、コノ子ガ鍵ダ」
玄関の土間にポッカリと黒い穴が開くと、その中から徐々に黒い霧が渦を巻いて溢れ出す。すると今度は、黒い霧と共に穴の奥から何本もの“大きな腕”が次から次へと這い出てきた。その“大きな腕たち”は唯姫の存在に気がつくと、うねりを帯びながら部屋の中までどんどん這い寄ってくる。
「沙依さん、その子を連れて奥へ!」
「唯姫ちゃん、出てきてはだめ!」
沙依は、咄嗟に唯姫を臥間の奥へ押し戻していく。その瞬間、一本の”大きな腕”の先――鋭い爪が背中を引き裂いた。グッ……と、一瞬うめき声をあげた沙依は、身をよじって懐に忍ばせた短刀を振り下ろし、鋭い爪の数本を切り落とす。
「アガルタヘ」
「アガルタヘ連レテイケ」
「アァ、吾等ヲアガルタヘ」
唯姫らを庇うように、集落の男たちが“大きな腕たち”の前へと立ちはだかる。
「押し返すで!」
「元柱固具、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神、害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る……」
集落の大人たちが“大きな腕たち”を取り囲み、鬼門封じの言呪符を一斉に唱えると、それらは見事に動きを封じられていく。そんな中、沙依が再び懐から御札を数枚取り出し、小指の皮を短刀で切って素早く呪符を書き殴った。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、帝久、文王、三台、玉女、青龍……呪符退魔急急如律令!」
呪符を口に咥えながら、刀印をもって『九字』を切る――沙依は、呪文と共に呪符を投げつけていく。集落の大人たちが慌てて耳をふさぐ中、轟音と共に雷光が家屋の中を駆け抜けると、侵入者たちを次々と貫いていった。
雷に打たれた“大きな腕たち”は、今度は苦しそうにのたうち回る。ともすれば、元来た穴の中へと、ぞろぞろ去っていくのだった。侵入者たちが退散していく中、唯姫は沙依たちの傍らで気を失っていた。
「あーあ……奴ら、つっかけやら長靴やら、みーんな飲み込んで行きよった」
「俺ら、どないして帰ったらええの……?」
「……」
首輪だけを残して、番犬のタローさんは奴らと共に姿を消した――恐怖の一夜は、ようやく明けたのだった。
以来、御神唯姫は暗闇を人一倍怖がるようになり、あの竹藪の中へも二度と近づくことはなくなったという。