端書、その七 流浪の民に終の棲家を
「いやよ! いきたくない! だって、私はまだなにも――」
どこまでも、どこまでも……意識だけがスーっと落下していく。
’三六年〇五月〇七日(約束の日まで、あと一八八日)
「……」
少女は微睡みの中で陽の光を浴びていた。
(……ここどこ?)
父親と暮らした岐阜の田舎町から、母親の住む北の大地へ――ここ、神威市に越してきて数日が経とうというのに、起き抜けの御神唯姫は未だ曖昧とした記憶のただ中にあった。
「あ……そうか……」
掠れた声を洩らしつつ、唯姫は大きな欠伸をする。部屋の片隅に積み上げられた段ボール箱と、収納を待つ衣服の山が視界に入り、そこでようやく状況が飲み込めたのだった。
小鳥の囀りが朝の訪れを知らせてくれる。彼女は暫くの間、ぼーっと窓の外を眺めていた。
「それにしても眩しいな……カーテンだけでも早くつけなくちゃ」
整理整頓や家事全般が苦手な唯姫は、未だに荷物の片付けが済んでおらず、ここ数日、繰り返し窓から差し込む直射日光に目を細めていた。
『男の子』をやっていた頃ならまだしも、“女子力”といったものには一切無関心であった彼女は、『女の子』に戻った時の対処法をまったく備えていない。おかげでいつも、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまう。二度寝も無理なほど、部屋いっぱいに窓からの光が広がっていた。
「……そろそろ起きようかな」
寝間着代わりのスウェット姿のまま、階段を降りてリビングに入る――と、すでに母親の姿はどこにもなかった。
自らが経営する美容室が軌道に乗り始め、忙しい時期であることを唯姫は承知している。にもかかわらず、食卓には地元コンビニ、セコマの『ミックスサンド』と缶コーヒー『BOSS BLACK』が用意され、その傍らにはメッセージまでもが添えられていた。
『ナメられないように頑張んなさい』
いかにも男勝りな筆跡と、母親らしい心遣いに思わず顔がほころぶ。そして今日は、始業式から丁度ひと月遅れでの初登校日だった。
「うー、学校か……今頃になって緊張してきた」
こんなにも“転入”が遅れた理由を、“父親の都合”とだけ聞かされて、あとは詳しい内容などなにも知らされていない。ただ、まともな理由などではないことだけは安易に想像がついた。
あの父親のことだから、手続きが面倒になったとか、単に忘れたまま放置していたとかなのだろう……と、そう勝手な解釈をして、唯姫はこの件に関して思い悩むことを止めた。
そんなことよりも、今はもっと重大な懸案が眼の前に控えているのだ。
一ヶ月も遅れて、授業にはついていけるだろうか……。クラスには上手く馴染めるだろうか……登校時間が差し迫るにつれ、緊張の度合いが徐々に高まってくる。
(今朝は、夢見もよくなかったし……)
内容などまったく覚えてはいないが、あの“墜ちる”感覚”――足場を急に外されたような、なんとも言えない絶望感。その残滓は、未だ彼女の頭の中に残っていた。
数分後、唯姫はバスルームで熱いシャワーを浴びていた。
全身がほどよく紅潮すると“穢れ”が洗い流されるような気がして、憂鬱な気持ちがリセットされていく。浴室の鏡は大きく、鏡の曇り越しに自分の全身を写し出してみる……そこには、紛れもなく年相応の少女の姿があった。
「流石にもう、『男の子』は無理なんだよね」
細やかに膨らんだ胸元に手を当てると、静かに脈打つ心臓の鼓動が伝わってくる。
(いつまでも、あの頃のままじゃいられないんだから)
北国の朝はまだ寒く、バスタオルに身を包んだ唯姫は、浴室を出るとそそくさとリビングにあるファンヒーターの前に陣取った。リモコンを手にテレビをザッピングしながら、ツナサンドを頬張る。
「なんか、やっぱり番組内容も違うな……」
そんな些細な変化から、周りの環境が変わったことを無意識に自覚していった。
自分の部屋に戻り、真新しい制服に袖を通す。
「うん、やっぱり詰襟とは着心地も違うんだよね。なんか、ひらひらしてて……こんなんで、大丈夫かな?」
短く刈ったボブの髪にもブラシを通し、薄めのリップは……手に取ってはみたが、今日はやめておく。学生らしいメイクというものを、一応母親から習ってはいたのだが、どうにもまだ馴染めないのだ。それでも、親しいクラスメイトでもできたら、ちょっとは真似してみようと思う。
(仕方ないじゃん! 今まで『男の子』として通してきたんだから……ねっ?)
そう自分を納得させながら、唯姫は身支度を整えていった。
テレビの中の時計は、ちょうど『7:00』を告げている。
「さて……そろそろ行きますか?」
ピカピカに磨かれたローファーを履くと、勢いよく玄関のドアを開く――暖かな春の日差しの中、御神唯姫は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、新しい学園生活への第一歩を踏み出していくのだった。
☆
巨大な赤鳥居の元、神社の社務所を思わせる佇まいの警備室で、唯姫は仮の入校証を受け取っていた。間もなく巫女姿の職員が高等部の校舎までの道案内を買って出てくれ、唯姫はその後をついていく形で鳥居をくぐる。
駅の自動改札に似たセキュリティを抜けると、道幅のある白樺並木が彼女の目前に広がった。時間をずらしたおかげで、登校中の生徒と出会うことはなかったが、静まり返った敷地内がさらに厳かな雰囲気を醸し出して、若い唯姫の身にもひしひしと伝わってくる。
高等部の校舎はごく一般的なものであった。しかし、職員室へと向かう道すがら、作務衣姿の老人とすれ違い、一瞬場違いなものを見た感じがした。巫女姿の職員が深くお辞儀をしたので、きっと偉い人なのだろう……と、思い唯姫もそれに見習う。
これまで通ってきた学校とはまったく違った風情や佇まい――その雰囲気に少々面食らいながらも、無事に職員室まで辿り着く。そこでは土方歳三という、どこかで聞いた覚えがある名前の担任教師を紹介された。
「御神唯姫君……君が本物の『陽之巫女』だね?」
「あ、はい。そう……みたいです」
三十代後半から四十代手前で、精悍な面構えの男性教師……土方の落ち着いた佇まいに多少ビビりながらも、唯姫は他人事のように返事をした。
「そうか。今日からここが、君の生活拠点のひとつになるんだ。わからないことがあったら、気兼ねせずになんでも聞くようにね?」
「は、はい……よろしく、お願いします」
見た目とは裏腹に、優しい言葉遣いが好印象であった。たぶん同世代であろうが、チャラいだけの父親とはなにもかもが大違いである。
「じゃあ、そろそろ教室に向かおうか」
「はい」
その様子を先ほどの作務衣姿の老人、神矢宗義と白衣姿の養護教諭、玉藻葛葉が壁に背を持たれながら並んで見ている。
「稀代の“鬼の副長”も門扉を潜ってきたころに比べれば、丸くなったものでありんすねぇ?」
「ふむ、五年も経てば人間丸くもなろうて……お前も、あまりいじめてやるな?」
「あら、そんなお言葉を言いなんすな。御館様と違って、わっちは愛情をもって弄ってあげてるつもり、でござりんす」
細い狐目を目いっぱい見開いてそんな捨て台詞を吐いた葛葉は、自分の持ち場である保健室へ、しゃなりしゃなりと歩きながら向かった。
「ふん……妖怪風情が、いっちょ前に『愛』を語るな」
「あら、差別用語……ちゃんと聞こえてますえ? 御館様」
その後ろ姿からでも、頭からにょっきり突き出た狐の耳が見える。
「そりゃ、聞こえるように言っとるからな。心を読む輩に思ったことを隠しても仕方あるまい?」
「あら、可愛げのない爺いでござりんすね」
「ふん……こう見えても、お前よりかは遙かに年下じゃわい」
内地の者から『特定異端種』と呼ばれるだけあって、どこを見ても一筋縄ではいかないモノばかりいる学校であった。




