叙の一 まつろわぬ客になごり雪を ①
’三六年〇五月二四日(約束の日まで、あと一七一日)
ひんやりとした暗闇の中を、不揃いの足音が木霊していく。
彷徨の果てに――三人の少女が辿り着いた先は、黄泉国への入り口……黄泉比良坂を思わせる巨大洞穴であった。
「ねぇ、本当に入るの? すっごく暗いし、奥なんか何にも見えないんだけど……?」
細身で短髪。ボーイッシュな見た目の少女、御神唯姫は眼の前に現れた“大きな穴”を覗き込むと、不安気に声を震わせた。
明かり一つない洞穴の中……しかもその先は、何が潜んでいるかもわからない暗闇がずっと続いている。
幾つかの紆余曲折を経て、小一時間ほど彷徨い続けた末に、ようやく見つけた手掛かりではあったが、大蛇が大口を開けて待ち構えているかのようなその迫力に、唯姫はつい尻込みしてしまう。
「これはちょっと、面倒なことになりそうね……でも、中に入る以外、ほかに択肢はなさそうだし、ここで引き返したとしても事態は何も変わらないわ」
唯姫のとなりに並んだ長い黒髪の少女、神矢サヲリがそう応える。
まるで、“洞穴に入ることは、すでに決定事項である”とでも言わんばかりに……それは、怯える唯姫とは打って変わって、平静を絵に描いたような口ぶりだった。
こんな事件は早々に片付けて、一先ず平穏な日常を取り戻したい……と、そんな気持ちの表れだったのかもしれない。
だが、たとえ今回のインシデントが無事解決できたとしても、彼女たちに平穏な日常を送れる保証はどこにもない。そんな自分たちの“類稀なる身の上”を、ここにいる誰よりも理解している人物――それが、神矢サヲリであった。
そしてもう一人……彼女たちの傍らで、その様子を“じーっ”と窺っていた小柄な少女がいた。その少女、池神織子は足音を忍ばせながら、徐々に二人と距離を取っていく。
興味本位から、こんな場所にまでノコノコとついて来てしまってはいたが、正直な所ここから先は嫌な予感しかしない。これ以上、この件にかかわるのは危険だ。身を引くには、ここらが潮時であろう……と、そう判断しての行動だった。
「――って、織子! なに、一人だけこっそり帰ろうとしてんの⁉」
その場から、そっと後退っていく織子の気配に気がついた唯姫が、咄嗟に彼女を呼び止める。
「いやぁ、オリコはちょっと野暮用を思い出しちゃったので……うん。じゃあ、後のことは君たちに任したぞ!」
「ふうん……まさかね?」
「――へっ?」
その声に振り向くと、いつの間にか背後へと回っていたサヲリが、腕を組みながら冷めた表情で彼女の退路を塞いでいた。
「勝手について来ておいて、今さら『サヨナラ』はないんじゃないかしら?」
「いいやああだあああー! あの中には入りたくニャいいいー‼」
後退を阻まれた上、あっさり首根っこを掴まれた織子は、頭から“猫のような耳”を生やすとジタバタと暴れながら必死に抵抗した。
「オリコは天巫女じゃニャいんだぞ! だから、お前らと一緒に行く理由ニャんてニャいんだぞ!」
「でも、この中では一番頑丈そうよね? ここまで来たからには一蓮托生よ……つべこべ(ガスッ!)言って(ドガッ!)ないで(バギッ!)早く(グシャ!)入りなさい? ふんっ、ふんっ、ふんっ、ふんっ!」
無表情でひたすら織子を足蹴にするサヲリ。
「け、蹴るニャ! 落ちるってばっ! わかったから、もう蹴るニャ!」
穴の淵へと落とされそうになり、すっかり“猫耳少女”と化した織子は、岩肌に爪を引っかけると必死の形相でそれを堪えた。
「うん、うん、やっぱり織子はボクらを見捨てたりできない友だち……そう、『強敵』と書いて『とも』と呼ぶ、ってやつなんだよね!」
「しくしく……唯姫のアホタレ。友だちニャら黙って見てニャいで助けれよ……しかも、『強敵』ってニャンだよ」
サヲリの蹴りから逃れた織子は、膝を抱えてその場にしゃがみ込むと、地面に『の』の字を書きながらワザとらしくいじけてみせた。
「どうでもいいから、さっさとお行きなさい? ほら、あなたもよ……御神唯姫」
織子共々、先を急かされる唯姫だったが、“巨大な穴”を目の前に二の足を踏んでしまう。先陣きってその中に入って行く勇気など、暗い所が一番苦手な彼女にあるはずがなかった。
「うー、神矢さんからお先にどうぞ」
まったく情けないわね……と、それを見かねた神矢サヲリが、二人に向かって手を差し伸べる。
「ほら、二人共……手を貸しなさい? こ、これなら一緒に行けるでしょう?」
「ありがとう、神矢さん」
「じいいいー……サヲリん、ニャんだか顔が赤いぞ?」
「うっ、本当に面倒な人たちね。手、離したら途中で置いていくんだから……いいわね?」
顔を“かあああ……”っと紅潮させたサヲリは、素っ気ない態度で明後日の方を向いた。
「ニャ、ニャにっ⁉ 今時、まさかのツンデ――(ドカッ!)痛いってばっ! オリコの尻ばっか蹴るニャー!」
互いの手を握り合った三人の少女たちは、暗く深い穴の中へと恐る恐る分け入っていく。
繋いだ掌から伝わってくる温もりだけが、孤独ではないことの証として――不安を紛らわすには、今はそれだけで充分だった。
「でもこの体勢って、かニャり歩きづらくニャいか?」
「やっぱり面倒ね……嫌なら放しても構わなくてよ?」
「ボ、ボクはこのままでいいかな?」
「ほら、みなさい?」
「お前ら、顔赤いぞ」
「うー……」
侃々諤々、喧々囂々……。
☆
’三六年〇五月二五日(約束の日まで、あと二〇〇日)
「今なら、“約束の地”にだって行ける気がしないか?」
吐く息も白々と、洩れては灰色の空にかすんで消えた。端から見れば、独り言のようであっただろう……ふっと浮かんだ言の葉が、不意に彼女の口を衝いて出る。
(そうなんだ……)
「ああ、旅立ちにはよい日和さ……そう、完璧なほどにね」
(確かに、冷たい風が心地いいかも)
大陸から強い寒気が流れ込み、どんよりとした分厚い雲が頭上を覆っていた。寒空を泳ぐ鯉のぼりの背景では、季節を違えた粉雪がちらちらと舞い降りて、未だ春の到来を拒み続けている。
ただ、普段とは異なるそんな情景でさえ、廣瀬遥夏の双眸に映る余地などなかった。
午後の予鈴が鳴っている。
春の大型連休を間近に控え、誰もが少しばかり浮き足立っていた……そんなある日の昼下がり。『極東学院大学附属高等学校(通称=極東学院高等部)』の校舎は、平穏な日常から一転、騒然たる舞台へと移り変わっていくのだった。
いつもは誰も、滅多に立ち入ることのない校舎の屋上。その周りを、見上げるほどの高さで囲われた金網のフェンス――その上に腰掛けた少女は、虚ろな表情で流れる雲を眺めている。
耳にしたイヤフォンからは微かに音が漏れ、周囲を取り巻く大人たちの気配を黙殺していた。
「おーい、廣瀬ー! 大丈夫か? まずはそこから降りて来ないか? なぁ、落ち着いて話をしようじゃないか? な?」
彼女の不審な行動に気づいた生徒からの報せを受けて、屋上へと駆けつけた教職員らが懸命な説得を試みるも、イヤフォンに阻まれて廣瀬遥夏の耳には届かない。
足下に広がる校庭では、野次馬と化した多くの生徒たちが群がり、固唾を呑んで彼女の一挙手一投足を見守っていた。その群れの中から、聡明な瞳を持つ“長い黒髪の少女”の存在を認めた遥夏は、“フッ”と冷笑を浮かべてみせる。
「はん? あれが神矢晃比古の娘……三貴子が一子、『地之巫女』か……? お前はそこで黙って見ているがいいさ。そして、己が未熟さを呪うといい……」
フェンスの天辺でゆっくりと立ち上がった遥夏は、紫色に染まる唇でそう呟いた。
「この娘には、これから『約束の地』まで行ってもらうのさ。そもそも、この事態を招いたのは貴様ら、“亜瑠坐瑠の罪”。そして、罪は償われなければならない……それをよく覚えておくことさ」
(これは私たちに対する挑発……いや、むしろ脅迫? 見せしめの公開処刑といったところかしら? そしてこれが奴ら、『ヴァグザ』のやり方……よく理解ったわ)
群がる生徒たちから一人距離を置いた神矢サヲリは、冷ややかな眼差しでその様子を見上げていた。
地鳴りのような野次馬たちのどよめきを、廣瀬遥夏は深層意識の奥底で聞いた。
(どうして、こんな所に……? 私、なにをしてるの⁉)
ここに至るまでのすべての挙動は、遥夏本人とは別の意思によって操られていた……そう理解できた瞬間、閉ざされていた記憶と共に、これまで感じたこともない恐怖が一気に揺り起こされていく。
(なんでこんなことに……誰か、誰か助けてよ!)
途端に膝が震え出し、その白い太腿を生暖かい液体が“ツー……”と伝って滴り落ちる。それと同時に、強烈な目眩が彼女を襲うのだった。
「ふん、地之巫女といえども未だ神祖との御前禊儀さえ済んでいないお前には、この娘を救うことなどできはしまい? 我々を謀かった報い、とくと後悔するがいいさ」
「愚かなことを……」
この世の理を、陰から支配しようとするモノ――『Varius AXA Abrasus(通称=秘密結社ヴァグザ)』の、その非道な行いを眼の前で見せつけられたサヲリは、強い憤りを感じずにはいられなかった。