太平洋戦争を戦った軍人たち~お国のためと信じ、命を散らした~
続いては、第二次世界大戦を戦った軍人たちの紹介となる。
戦争当時を知る人たちはもう、ほとんど存命ではなくなってきている。
BTSの『原爆バンザイTシャツ』の騒動や、『ナチス式敬礼』の騒動などもあり、いかに現代人である我々が、あの戦争に対して無知になってきているかということだ。
まずは、どんな軍人たちがいたのかを紹介する。
とはいっても全部調べると、あまりにも該当人数が多くなってしまうので、本当に総大将クラスとか、多大な戦果、功労を挙げた人たち、有名どころの、ごく一部の人たちであります。
なお、一部戦後の話も入りますが、彼らについて語る上での重要な要素と受け取っておりますので、許可を願いたいと存じます。
山本五十六
太平洋戦争の日本軍の軍人といえば、まず最初に名前の挙がる人物。
連合艦隊司令長官、元帥、海軍大将。
連合艦隊、海軍の全軍を率いる司令長官。
ソロモン諸島において、乗っていた飛行機がアメリカ軍機に撃墜されて、戦死した。
山本五十六の戦死を境に、戦況はますます悪化の一途をたどっていった。
南雲忠一
海軍中将。昭和5年頃には艦隊派【軍縮条約反対派】として山本五十六や、井上成美らと対立し、その姿勢は注目されていた。
要するに、軍艦をどんどん建造して、その軍艦を使って戦争をしたかった、ということのようだ。
海軍中将となり、山本五十六に次ぐ地位となると、サンゴ海海戦や、ミッドウェー海戦などで連合艦隊の指揮にあたる。
しかし戦況は次第に敗色が濃くなっていく。
昭和19年、サイパン島攻防戦にて、敗北はほぼ確定的と見るや、自決する。
死後に一階級特進で海軍大将となるが、死後に特進しても、本人は分からないだろうと、今の常識では思うが、この時代はお国のために命を賭したという、特別功労という意味合いでの特進だったのだろう。
位階は正四位、勲等は勲一等を授かる。
位階とは?
国家の制度に基づく個人の序列の標示という。
軍部においてはもっぱら軍隊における階級に基づいてこの標示が決められていた。
勲等とは?
個人の功績、勲功に対して授与される勲章という。
大勲位を筆頭に、勲一等から勲八等まであり、そのうち勲一等は、現在の旭日大授章にあたるという。
小沢治三郎
空母『翔鶴』や『瑞鶴』などで構成される『小沢艦隊』を率いて、マリアナ沖海戦や、レイテ沖海戦などで戦った。
連合艦隊の最後の司令長官となったが、その頃には戦艦大和なども撃沈され、艦船はほとんど生き残っておらず、もっぱら特攻作戦を推し進めた。
終戦後は自決することなく、また配下などにも、自決しないよう呼び掛け、戦後の1966年【昭和41年】まで生きたという。
享年は80歳。死後に見つかった資料により、小沢提督の作戦がどのようにして推し進められていったかなどが明らかになった。
中川州男
階級は大佐。ペリリュー島の戦いで、守備隊の司令官となる。
戦局が不利になると見るや、洞窟内の陣地で自決した。
その後、守備隊も全滅したと伝えられていた。
ところが、全滅したと伝えられたはずが、実はその後もなお洞窟内の陣地にこもり、終戦まで戦いを続け、奇跡の生還を果たした兵士がいたという。
その兵士はその後、98歳まで生きた。
栗林忠道
階級は陸軍中将。戦死した後に階級特進で陸軍大将となる。
硫黄島の戦いで守備隊の司令官となる。
なお、この戦いには1932年のロサンゼルスオリンピックの馬術競技に出場した、バロン西こと西竹一も配属され、その西竹一も、この戦いにて戦死している。
栗林は、まともに応戦しても勝ち目は無いと見るや、硫黄島に広大な地下陣地を築く。
そして持久戦に持ち込むことを思いつき、アメリカ軍に想定以上の多大な損害を与えた。
アメリカ軍の戦死者の数も想定以上となり、サイパンとグアムに援軍を要請せざるをえなかったほどだったという。
牛島満
階級は陸軍中将。自決した後に階級特進で陸軍大将となる。
なお、階級特進で陸軍大将になったのは牛島満が最後となる。
性格は温厚で、教育畑を歩んだという。
6月23日に沖縄の摩文仁で自決するが、沖縄戦以前にも中国の武漢市や南京市の攻略戦などで武功を上げている。
阿南惟幾
陸軍大将となり、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣となる。
最後の御前会議で、ポツダム宣言の受諾を拒否し、なおも戦争継続を訴えるが、ポツダム宣言を受諾することになり、終戦の日の1945年【昭和20年】8月15日に自決する。
樋口季一郎
占守島、樺太の戦いにて、日本軍守備隊の司令官をつとめる。
井上成美
日米開戦に対しては反対の立場をとったが、その後終戦前に、最後の海軍大将となる。
そして最後の海軍大将として終戦を迎える。
その後の戦後復興、そして東京タワーの完成や、東京オリンピック、
霞が関ビルの完成、大阪万博、日中国交正常化、新宿副都心のビル群が建設されていくなどの、
戦後の歴史的出来事の一部始終を見届けた後に、
1975年【昭和50年】に、神奈川県横須賀市の自宅で死去した。享年は86歳。
最後の海軍大将であり、旧日本軍の主要な軍人としては、最も後の年まで生きた人物でもある。
大田實
海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
旧制千葉県立千葉中学校を卒業した後、海軍に入隊する。
沖縄戦では海軍最先任者として指揮にあたる。
沖縄本島小禄半島にて、一万人の兵を率いて米軍を迎え撃つ。その指揮をとる。
その後再び小禄へ向かった際に、「摩文仁へ撤退せよ」という命令が下ったが、大田實は命令を聞かず、それっきりとなったという話がある。
撤退を拒否して戻らなかったのか、それとも敵に包囲されて戻れなかったのか、謎となっている。
この後は、階級は下位ではあるが、名前は有名な人物たち。
坂井三郎
ゼロ戦のエースパイロット。『撃墜王』とも呼ばれた。
敵機64機を撃墜したと伝えられるが、公認撃墜数は28機とも言われている。
最終階級は海軍中尉。
横井庄一軍曹
終戦後もグアム島の密林に潜み、終戦から27年後の1972年【昭和47年】に発見され、帰国する。
皇太子ご成婚などの出来事を見ても、日本は戦争に勝ち続けていると思っていたそうだ。
小野田寛郎少尉
終戦後もフィリピンのルバング島に潜伏し、その間日本では、戦後復興期、高度経済成長期に入り、東京オリンピックや、大阪万博などの歴史的出来事があったが、小野田寛郎少尉はそれらを見て、日本は戦争に勝ち続けて、今よりももっと豊かな国になっていると錯覚していたという。
日中国交正常化や、あさま山荘事件、沖縄の本土返還などがあった1972年【昭和47年】に、グアム島の横井庄一軍曹が発見された後も、なおも潜伏生活を続けていた。
もはや、意地になっていたのかもしれない。
その2年後の1974年【昭和49年】に、小野田寛郎少尉を発見したのは戦後の昭和24年生まれの若者だったという。
その後、29年ぶりに日本に帰国するが、その頃には新宿副都心のビル群が建ち並び、戦後の若者向けのアイドルやフォークソング、ニューミュージックなどの音楽が流れるような時代の風景となっていた。
こうして見ると、軍人といっても実に様々な人物たちがいる。
司令官クラスのエリート軍人から、尉官、下士官クラスまで。
日米開戦を推進した者、最後まで反対を貫いた者、そして最前線で戦い、追いつめられ自決に至った者、
終戦後に極東軍事裁判にかけられ、A級戦犯や、BC級戦犯として極刑となった者もいれば、戦後まで生き延びた者もいる。
そんな彼らをひとくくりにして、『末端の兵隊や国民を戦争に駆り立てた、ただの無責任な軍人たち』と揶揄するのは、たやすいこと。
しかし、彼らにも彼らなりの、生きてきた道があり、考え方、譲れない信念があったと思う。
いずれにしても、彼らに対する見方は、どちらかというと悪役、それも、A級戦犯やBC級戦犯となるような、極悪人という見方をする人もいるだろう。それは人それぞれだろう。
この、A級戦犯、極悪人というレッテルが無くならない限りは、今後も、歴史ドラマなどではそういう扱われ方になってしまうだろう…。
最近は、戦後60年とか、戦後70年とか、キリのいい数字の年にしか、大きく扱われないからな…。




