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なぜこの人物が大河ドラマの主人公になっていないのか、不思議でならない『北条早雲』

北条早雲(ほうじょうそううん)


大河ドラマ化の招致活動を始めてから、10年以上は首を長ーくして待っているというが、いまだに音沙汰(おとさた)が無いという…。


異例の早期決定などは、まず望めないからなあ…。


大田道灌(おおたどうかん)が謀殺された後も、堀越公方、古河公方、山内上杉家、扇谷上杉家の争いは続いていた。


大田道灌(おおたどうかん)と北条早雲は、史実では顔を合わせたことが無かったようだが、もし顔を合わせていたとしたら、どんな会話をしていたのかを想像せずにはいられない。


伊勢新九郎(いせしんくろう)、あるいは伊勢宗瑞(いせそうすい)という名で呼ばれることもある。


昔は本当に名前を何度も何度も変えていたんだなあと、あらためて思う。


現代なら、その名前で生まれたら、よほどの事情があっての面倒な法的手続きでもしない限りは、名前を何度も何度も変えるなどということは、まずありえないのだが。


平民は明治の四民平等までは、名字も名乗らせてもらえなかったというから…。


後北条氏の祖であり、また北条早雲の行動は、東国と呼ばれていた関東における端緒(たんちょ)としての歴史的意義があると書いてあった。


1432年【永享4年】が生年というのが長らく定説とされてきたが、近年では新たに1456年【康正2年】生まれというのが定説となっている。


したがって、大河ドラマ化が実現した場合は、こちらの新たな定説である、1456年【康正2年】に生まれたという説に基づいて、大河ドラマの物語が制作されることとなるだろう。


生年や出自に関しては、歴史研究家などの専門家の間でも論争となっていて、生年が1432年【永享4年】であるならば、早雲は88歳まで生きたという計算になる。


生年が1456年【康正2年】の場合は、応仁の乱が終わった1477年【文明9年】の時点で20歳代そこそこだったということになり、だいぶ開きがある。


また、出自に関しては、身分の低い一介の浪人者から、相模一国の領主になったという説や、実は幕府の勅命を受けていた、という説もある。


応仁の乱の時に駿河守護の今川義忠が上洛し、東軍についた際に、幕府の申次衆(もうしつぎしゅう)として対応したのが、早雲の父の伊勢盛定であったと伝えられている。

ちなみに申次衆(もうしつぎしゅう)というのは、主に主君など目上の者に対して、重要事項などを伝達する、取次をする役割だったという。


今川家とは深い関係にあり、早雲も伊勢盛時という名で、9代将軍の義尚の申次衆(もうしつぎしゅう)をつとめていたという。


今川義忠の子、今川氏親とも親しく、共に同盟関係で戦ったという。


1492年、クリストファー・コロンブスが西インド諸島に到達し、アメリカ大陸を発見したその年に、

日本では延徳4年から明応元年に元号が改元される。そして改元の儀式も行われた。


その翌年の1493年【明応2年】に、管領の細川政元が11代将軍、義澄(よしずみ)をかつぎ上げ、10代将軍の義稙(よしたね)を追放し、実権を握った。


追放された義稙(よしたね)は、長門、周防の守護大名、大内政弘(おおうちまさひろ)を頼り逃亡する。


管領(かんれい)の細川政元は書状を送り、北条早雲や今川氏親ら諸大名に協力を要請(ようせい)した。


11代将軍足利義澄、管領細川政元、北条早雲、それと、今川氏親。


それに対抗するのが10代将軍の義稙(よしたね)と、父、大内政弘の死後、大内家の家督を継いだ、大内義興(おおうちよしおき)であった。


中央政界の動きとも連動していたという。


なお、今川氏親は、北条早雲から見て(おい)にあたり、今川義元の父であるという。


北条早雲を書いた作品は、昔から小説などでも数多くある。


大河ドラマの題材にするには、これ以上ないとも思えるのに、これが実現するのは、いったいいつのことになるのか…。


室町時代以前の古い秩序が崩壊し、これから戦国乱世の荒波に乗り出していく時代、戦国時代初期。


北条早雲「これからは厳しい時代に、なっていくと思われるが、生き延びた者が勝ちの世の中だ。」


中央政界では将軍の座を巡る争いとなる。


そして管領、細川政元は養子にした身内によって殺害されてしまう。


北条早雲「何!?管領、細川政元様が暗殺されたとな!?」


兵士「はっ!どうやら、奇行の目立つ政元様を排除しようと、画策されたよしにございます。」


北条早雲「そうか…。

幕府の管領ともあろうお方が、なんともあっけない最期を遂げたものだな…。」


この事件を、細川殿の変とも呼ぶ。


また、永正の錯乱という呼び方もする。


澄之、澄元、高国の3人の養子が政元にはいたが、跡目を巡る争いとなり、結局最後に勝ったのは、細川高国だった。


その間、早雲は、伊豆を平定、小田原を攻略して、その後は小田原を拠点にして相模国を手中におさめていった。



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