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長宗我部元親、長宗我部盛親という人物についての作者なりの評伝

いつか、ここに書かれてある人物たちの中から誰か、大河ドラマ化する人物が現れてくれることを願いながら、今は、その(たね)()く時期です。




もしもこの人物を大河ドラマにするなら…。


名前


長宗我部元親


よみかた


ちょうそかべもとちか


職業


戦国武将【四国・土佐】

長宗我部家、第21代当主


備考


実は明智光秀が本能寺の変を起こす一因をつくったのは、長宗我部を討伐するか否かということだったという説もある。


生没年


1539年【天文8年】~1599年【慶長4年】


時代区分


織豊政権時代


アピールポイント


テーマは

『四国から見た戦国時代』

というテーマで、元親と盛親のリレー形式で。

土佐国、現在の高知県を治めていた戦国大名の一族だが、高知県の歴史上の人物といったら、どちらかというと坂本龍馬の方が人気のようだ。

1539年【天文8年】に元親は生まれるが、その当時は、まだ土佐も統一していなかった。

ここから、まずは土佐統一のための戦いを始め、やがて四国統一へと乗り出していく。


父 長宗我部国親【長宗我部家第20代当主】

母 美濃の斎藤氏の娘と伝えられる。


管領の細川晴元から『元』の字を授かり、『元親』と名乗るが、実は長宗我部家の第15代当主に、同名の『元親』という名前の当主がいたという。




もう1人は、元親の息子の盛親です。


名前


長宗我部盛親


よみかた


ちょうそかべもりちか


職業


戦国武将【四国・土佐】

長宗我部家、第22代当主、元親の四男


備考


関ヶ原の戦いで敗れ、長宗我部から山内に土佐国の支配権が移った後も、お家の再興を信じていた。

大阪夏の陣で、大阪城落城の後に逃げ延びたことを、臆病と見るか、それでもなお反攻の機会を狙っていたと見るか…。


生没年


1575年【天正3年】~1615年【慶長20/元和元年】


時代区分


安土桃山、江戸初期


アピールポイント


盛親は父、元親の死後に家督を継ぎ、関ヶ原の戦いでは石田三成の西軍につく。

しかし、小早川秀秋の裏切りなどもあり、西軍は形勢不利となり、あえなく敗戦。

盛親は、どうにか土佐まで逃げ延びる。

ところが、家康が西軍に味方した大名たちを取り潰しにかかる。

長宗我部家は改易(かいえき)となり、代わって土佐国には山内一豊(やまのうちかずとよ)と、その家来の者たちがやってくる。

山内一豊は自らの家来たちを重用した。これで、山内家の家来が上士(じょうし)として幅を利かせるようになり、長宗我部家の家来は郷士(ごうし)と呼ばれるようになる。

これにより身分の明確な格差が生じ、郷士(ごうし)上士(じょうし)の下の立場に置かれる。

これが幕末まで続くことになる。

盛親は自らの不甲斐なさを嘆く。そして大阪城で再び豊臣と徳川があいまみえると見るや、盛親は再び豊臣方の一員として、徳川に対峙(たいじ)することになるのだった。


しかし大坂の陣でもあえなく敗北。他の大坂方の武将たちは多くが戦死したのに対して、盛親は、またもや逃亡。


そして、性懲りもなく、またもや再起をはかろうとしたが、家康方によって、残党狩りの手勢が差し向けられていた。


ついに、蜂須賀の手勢によって盛親は捕らえられ、そして斬首に処せられたという。


この時、盛親が最後に言い残した言葉とは…。


盛親には5人の息子がいたが、ことごとく残党狩りの手勢によって捕らえられ、そして処刑された。


ところが近年の歴史研究によって、実は残党狩りを免れ、その後も生き延びていた者が、長宗我部一族の中にいたという。



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