楠木正成という人物について作者なりの評伝
これまで、幕府の老中、反乱の首謀者、平安貴族、琉球王朝、相撲の力士、俳諧師と、取り上げてきた。
もしもこの人物を大河ドラマにするなら…。
名前
楠木正成
よみかた
くすのきのまさしげ
職業
南北朝時代の武将
備考
もともとは『悪党』と呼ばれる武士集団の棟梁であった。
生没年
生年は不詳、1336年に死没と伝えられる。
時代区分
鎌倉時代末期~南北朝時代
アピールポイント
『楠公さん』という愛称で呼ばれた楠木正成は、足利尊氏、新田義貞らとともに、鎌倉幕府の打倒に貢献した。
鎌倉時代末期に、14代執権、北条高時の悪政を目にした後醍醐天皇に率いられた足利尊氏、新田義貞、そして楠木正成らが、鎌倉幕府を倒して新たな世を切り開く、この時代の倒幕物語ということになる。
なんといっても見どころは、まず赤坂城の戦い、和泉、河内の制圧をきっかけにして、鎌倉幕府軍を散々に打ち負かしたというところだろう。
兵の数では圧倒的に鎌倉幕府軍の方が勝っていたのに、少人数の楠木軍に善戦され、挙げ句に大敗したという。
この敗北をきっかけにして、足利尊氏が楠木正成を討伐するための総大将に任命された。
「この足利尊氏、必ずやご期待に答えて見せましょう。」
しかし、腹の中では全然別のことを考えていた。
「数が多いばかりの鎌倉幕府軍、まさに『張り子のトラ』といえるな。」
張り子のトラ…一見強そうに見えて、実は見かけ倒しであるということをトラに例えた言葉。
兵の数ばかり多くて、そのくせ虚勢を張るばかりの鎌倉幕府軍のことを言った。
「まあ、あの北条高時と、長崎高資が率いているような鎌倉幕府軍だからな。
総大将があれでは兵たちも、ああなるわけだ。」
足利尊氏の、4代前の先祖で、尊氏のお爺さんの、そのまたお爺さんにあたる、足利泰氏という人物が息を引き取る間際に、こんなことを言っていた。
『足利は、北条の鱗を喰らう竜である』
と言っていた。
その時は意味がわからなかったというが、
足利尊氏が北条を裏切り、後醍醐天皇の側についたというのは、
なるほど、そういうことかと、
まさに足利尊氏こそが、北条得宗家の鱗を喰らう竜であると、そういうことだったのかと、確信を持って言えると思えた。
尊氏「それにしても、あの楠木正成という男は、よく働くな。
今の鎌倉幕府軍の中には、あれほど働くような者はいないと思うぞ。」
足利尊氏も、楠木正成を絶賛していた。
尊氏も後醍醐帝の側につくことを決意する。
足利尊氏はまず、京都の六波羅探題を攻める。
突然の尊氏の寝返りに、六波羅探題の者たちは、あわてふためき、逃げ惑う者たちもいた。
尊氏によって六波羅探題は、あっさりと滅ぼされてしまう。六波羅探題が攻め滅ぼされたということは、北条高時のもとにも伝えられた。
楠木正成の善戦をきっかけにして、足利尊氏や、新田義貞らが後醍醐帝の側に寝返り、その一方で、もはや寄せ集めとなっていた鎌倉幕府軍には、もはや迎え撃つだけの力は残っていなかった。
1333年、鎌倉幕府は滅亡した。
これが『一味散々、鎌倉幕府滅亡』という語呂合わせになるという。
鎌倉幕府の屋敷は火に包まれ、北条高時も、長崎高資らもことごとく切腹して果て、屋敷内は切腹して果てた者たちの亡骸で埋め尽くされていたという。
なお、余談ではあるが、楠木繁夫という昭和初期の歌手は、この楠木正成から芸名をとったという。
鎌倉幕府滅亡後、建武の新政が行われるが、やがて楠木正成と足利尊氏は、袂を分かつ。
足利尊氏は、鎌倉幕府に代わる自らの幕府を築くため、行動に出た。
後醍醐帝に代わる新たな帝を擁立しようと画策し、北朝の側につく。
一方で、楠木正成、新田義貞、北畠親房、北畠顕家らは、後醍醐帝の側、南朝につく。
ともに鎌倉幕府打倒のために戦った者たちが、今度は敵同士となったのだった。
楠木正成は一度は、北畠顕家らの助力もあって、足利尊氏に勝利、尊氏は九州にまで逃げ延びるが、九州には建武の新政に不満を持つ武士たちが数多くいたため、尊氏は彼らの力を借り、反攻に出た。
最大のクライマックスは、湊川の戦いに向かう直前に、父、正成と、息子、正行との、別れの盃を酌み交わすシーンだろう。
その後、正成軍は尊氏の弟、直義の陣地に攻め入る。正成軍は奮闘し、一時は、あわや直義の首を取るかというところまで追い詰めるが、やがては多勢に無勢となっていく。
そしてついに、正成は自害して果てた。
その後、息子の正行もまた、父、正成の後を追うように果敢に戦い、最期を遂げたという。
その後、北畠顕家も戦死する。
さらに、新田義貞も戦死し、南朝側は不利となるが、北畠親房らが中心となって、取りまとめる。
後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、南朝を立て、その後も南朝と北朝の争いは続いたのだった。
それから時は流れて500年以上も後の明治期に入ると、楠木正成は『大楠公』と呼ばれるようになり、銅像も建てられる。
1880年【明治13年】には、正一位を明治政府から授かったという。
それはなぜか、おそらくは江戸幕府を倒して成立した明治政府を、鎌倉幕府を倒して新しき世を築こうと奔走した楠木正成に準えてのことだったと推察する。
昭和時代の、とある流行歌の歌手は、この『大楠公』こと楠木正成から芸名をとり、楠木繁夫と名乗り、ヒット曲を連発したという。




