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もしもこの人物を大河ドラマにするなら『伊藤博文』

もしも本当に大河ドラマ『伊藤博文』が制作されたら、という仮の話。

この人物ならもしかしたら実現性あるかな…、とも思っているのだが、

あるいは生誕180年記念とかで検討してみるか、という意見はないものかな…。

最後の最後がハルピンで安重根(あんじゅうこん)に撃ち殺される、という結末だから、そこまで書くべきか、書かないべきか、といったところだ。




名前


伊藤博文


よみかた


いとうひろぶみ


職業


長州藩士、明治政府参与、初代内閣総理大臣、ハルピン総督府などを歴任


生没年


1841年【天保年間】~1909年【明治42年】


備考


最後は安重根(あんじゅうこん)によって射殺されるというその場面をどのように書くかというのが、意見が分かれるところ。


伊藤博文のエピソードいろいろ。


高杉晋作の奇兵隊に所属していた。相撲の力士たちで構成された『力士隊』なる隊を組織していた。


原田伊織著『明治維新という過ち』では『日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』というサブタイトルで書かれている長州藩だが、だとすると、高杉晋作の奇兵隊も、桂小五郎も、そして伊藤博文も、その『長州テロリスト』として名指しされることになってしまう。


実際に長州藩士らが殺害したのは、もっぱら安政の大獄で、井伊直弼に味方して吉田松陰ら勤王の志士たちを捕縛した役人や、その指揮役となった者たち、それと結託していた者たちであり、つまり全く根拠もなく誰彼構わず、ということでもなかったのだ。


伊藤博文が実際に本格的に活躍するのは、幕末よりもむしろ明治政府の重鎮になってから、というのが評価だ。


明治初期に、イギリスの二大政党制ではなくて、ドイツの皇帝による絶対君主制に共感し、近代の日本にはドイツの制度がふさわしいと判断した。


当時、イギリスでは二大政党制による議会制民主主義が成り立っていた。

ところがドイツでは皇帝ヴィルヘルム1世が絶対的な権限を持ち、議会の力を抑えていた。

伊藤博文は、日本には、このドイツのやり方がふさわしいと判断したのだった。


西郷、木戸、大久保の『明治の三傑』亡き後、明治政府の第一人者となる。


西郷隆盛が西南戦争で自刃し、木戸孝允も病没。

さらには大久保利通も暗殺されて、その後を引き継ぐのは誰か?という話になり、伊藤博文が後を引き継いだという経緯がある。


自由民権運動も起こり、世情が混迷を極める中で、伊藤は着実に明治政府の中での自らの地位を高めていく。


さらに時は流れ、日本にも近代的な憲法と議会を制定しようということになった。


大日本帝国憲法の制定である。


西洋列強に並ぶ国造りを行うためには、それに見合った憲法を作成しなければならない。


伊藤はヨーロッパに渡り、各国の法制度について学び、情報収集を行った結果、ドイツの憲法にならい、憲法の草案を作成することを決断する。


「この国にはドイツのやり方こそ、ふさわしいんだ。」


伊藤は、あくまでもドイツ式にこだわっていた。


そのため、夏島(なつしま)にある伊藤の別荘にて、憲法の草案が作成されることとなる。


伊藤と、その側近の伊東巳代治(いとう・みよじ)井上毅(いのうえ・こわし)金子堅太郎(かねこ・けんたろう)によって、草案の作成が行われるが、連日のように睡眠時間も満足に取れないまま、苦難の連続で、なかなかまとまらない。


それでもなんとかして、『夏島草案(なつしまそうあん)』としてまとめあげる。


夏島草案(なつしまそうあん)』は多少の修正などもあったものの、伊藤自らが議長となった枢密院(すうみついん)での議論の末に承認される。


1889年2月11日。


その日、『大日本帝国憲法発布の詔勅【みことのり】』が明治天皇によって読み上げられ、この時は黒田清隆が首相となっていたため、明治天皇から黒田清隆に手渡されるという形で、式典が行われた。


これで日本は、アジアで初めての立憲国家となったのだった。


そして西洋式の内閣の制度もできた。


伊藤博文は、ついに初代の内閣総理大臣に任命される。


初代伊藤内閣には、逓信(ていしん)大臣に旧幕臣の榎本武揚(えのもと・たけあき)が起用された。


五稜郭の戦いで最後まで戦いながら、結局は降伏し、その後は明治政府の参与の一人としての責務を果たしていた。


しかしなぜか榎本武揚(えのもと・たけあき)という人物は、不当とも思えるほど人物としての評価が低いという。


最後まで戦って潔く戦死することが名誉で、自分だけ生き残ることは卑しいこと、というような考えがあったのか。


そうした考えは第二次世界大戦の頃まで、根強くあったようだ。




大日本帝国憲法の制定に続いて、第1回帝国議会が開催される。


『代議士』という言葉も誕生した。その『代議士』を決めるための選挙も始まったが、一定の税金を納められる金持ちの男だけに限られた。


まだまだ旧来の身分制度や、男尊女卑の風潮が根強く残っていた。


やがて日清、日露と戦争に勝利して、伊藤はその頃には一線を退き、元老として背後から政治を操るようになった。




とまあ、こんな感じで制作されることになるだろう。もし仮に実現した場合は、このようになるという妄想をいだいている。


てか、幕末の人物たちはどちらかというと、幕末の大政奉還から戊辰戦争の前後で戦死したり、暗殺されたり、病死したりしてしまうような人物の方が、よく大河ドラマや時代劇の題材になるようだ。


あるいは明治の初めくらいで亡くなってしまう人物たちも少なくない。


明治末期から大正、昭和初期くらいまで生きた、生き残り組の最晩年まではなかなかやらない。


できれば彼らの目線から見て、明治末期、大正、昭和初期という時代は、どのように映ったのかというのも、見てみたい気もする。



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