もしもこの人物を大河ドラマにするなら『新藤兼人』
もしも本当に大河ドラマ『新藤兼人』が制作されたら、という仮の話。
実現性はほとんど無いが、それでもあえて書いてみた。
名前
新藤兼人
よみかた
しんどうかねと
職業
映画監督、脚本家
生没年
1912年【明治45/大正元年】~2012年【平成24年】
備考
享年100歳
日本映画史に残る名監督、名脚本家の一人。それに100歳まで長生きした人物としても評価できる。
亡くなったのは最近で、しかも最晩年まで精力的に活躍していた人物。
しかしその映画監督、脚本家としてのキャリアはというと、昭和9年に新興キネマに入り、そこから映画人としての第一歩を歩み始め、最晩年に至るまでの78年という長きにわたり映画制作に携わる。
広島出身であり、広島への原爆投下の報も聞いた。
そして、終戦直後に帰郷した際、原爆投下直後の広島に入市。
直接その時の広島の惨状を目の当たりにする。
これが後に『原爆の子』という代表作を制作するきっかけとなった。
制作当初は物議をかもした。
人々が敗戦のショックから立ち直り、戦後復興へと、明るい方へ向かい始めているというこの時期に、あの惨状を思い出させるようなものを、あえて制作するのか、と言われた。
しかしそれでも周囲の反対を押しきり、制作にあたったという。
戦時中は海軍に召集されたが、海軍兵時代は年下の上等兵にこき使われるなど、苦痛、屈辱以外の何物でもなかった。
同期入隊は100人ほどいたが、そのうちの94人が戦死した。生き残ったのは新藤ら6人ほどだったという。
だから、戦死した者たちの分まで自分たちが長生きして、何かやっていこうという気概が、新藤に限らず、戦中派の世代の人たちにはあった。
だから、兵隊帰りの戦中派の人たちは長生きしたんだということ。
映画監督の生涯を大河ドラマにすることは可能なのか否か。
映画監督、新藤兼人にとっては、ひたすら映画を作り続ける、そして常にヒット作を世に送り出し続けるということが、まさに戦いだった。
映画制作における苦労や葛藤なども描かれる。
とまあ、こんな感じで制作されることになるだろう。もし仮に実現した場合は、このようになるという妄想をいだいている。
次の人物は『日野原重明』です。
なお、新藤兼人は、2011年3月11日の東日本大震災の起こったその次の年に、日本がいよいよ衰亡史へと向かっていくのを、この世では見届けないまま、2012年に100歳で他界している。
その後異世界に転生したら、どんな映画を作るのだろう。




