もう一度やってほしい、今度は違う配役でやってほしい過去の大河ドラマ『八代将軍吉宗』
『八代将軍吉宗』は、1995年に1年間放送された大河ドラマ。
それまで『半年大河』とか、あるいはあまり馴染みのない人物や時代などを取り上げてきたこともあり、大河ドラマの視聴率は伸び悩んでいた。
そこで、誰でも知っている人物がいいということで、『八代将軍吉宗』に白羽の矢が立ったということだった。
民放では『暴れん坊将軍』で有名だったが、しかし実際に大河ドラマにしてみると、これが天下泰平の時代を舞台にしたドラマとは思えないほど、とりわけ吉宗と将軍職を争うライバル候補が次から次へと死んでいく。
さらに前将軍や、前の前の将軍も、さらには吉宗の兄たちも、実に都合のいいように、次から次へと、死んでいく。
そうして、当時としては考えられない、部屋住みの末っ子の吉宗に、将軍の座が回ってくるという話だ。
別に、部屋住みなら一生、部屋住みとして気ままに過ごしていてもよかったのに、運命は否応なく吉宗を将軍にする方向に動いていった…。
特に、一番上の兄、綱教と、父の光貞、さらには下の兄の頼職が、相次いで死に、紀州藩は2代、3代、4代と、歴代藩主がこれだけ相次いで死んだ時。
「光貞様は80歳とご高齢。
綱教様も、40歳そこそこで、若くないといえば若くない。
だけど、頼職様に関しては、毒殺されたという噂が流れているらしい。」
当時は頼方という名だった吉宗は、幼少の頃から兄の頼職から、ひどいいじめを受けていた。
気に入らないと事あるごとに、頼職は頼方に八つ当たりしていた。
頼職は頼方をいじめることが、自分のストレスのはけ口、ストレス解消のようになっていた。
そりゃ、いつか殺したくもなる。だから殺してやった、という噂が流れたが、真相は一切合切、もみ消された。
それから間もなく、頼方は何事も無かったかのように、紀州藩5代藩主となり、将軍綱吉から『吉宗』という名を授かり、『徳川吉宗』と名乗った。
毒殺までするとは…。
いじめへの恨み、いじめた相手への恨みか?
これは現代でも起こりうる。学校が命のやりとりの場になる。
あるいは、学校自体が、そのせいで廃校にまで追い込まれる。
あるいは、そこまでして藩主になりたかったという野心なのか?
それはわからないが、しかしながら、これら全てのことが、嘘みたいな本当の話、これが全て史実の通りなのだ…。
しかしながら、もしもこの時代に吉宗が将軍になっていなかったら、徳川幕府がもっと早く崩壊していただろうという識者もいる。
いや、あるいは別の日本史がその先にあったのかもしれない…。