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もしもこの人物を大河ドラマにするなら『西園寺公望』

もしも本当に大河ドラマ『西園寺公望』が制作されたら、という仮の話。

実現性は、あるのかないのか微妙なところだが、それでもあえて書いてみた。


名前


西園寺公望


よみかた


さいおんじきんもち


職業


公家・総理大臣・元老


生没年


1849年【嘉永2年】~1940年【昭和15年】


備考


幕末から明治、大正、昭和の戦前と、時代の移り変わりを見続けてきた。

生まれたのは嘉永2年。

もうすでに日本近海には外国船が姿を現し始めていた頃だ。




もしも本当に大河ドラマとして制作するということになったら、こうなるという予想をしてみる。


この人物は幕末に生まれ、明治、大正、昭和と、たいへん長い時を生きてきたので、大きく分けて四部構成になるだろうと考える。


第1部


幼少期 幕末


第2部


青年期 明治初頭~中期


第3部


桂園時代 明治末期~大正


第4部


昭和の元老 晩年


亡くなったのは太平洋戦争が始まる1年前。

ただし、晩年に入ると次第にその影響力も低下していったという。

少なくとも3人の主演役者が必要だ。幼少期を演じる子役と、青年期を演じる若手役者、さらには晩年を演じるのは、ベテラン役者である必要がある。


西園寺公望は無類の女好きで、いろんな女たちと浮名を流したということでも知られる。

その女たちとの関係も描かれることになるかが勝負だと思われる。

ちなみに正式な妻は、いなかったという。1人の配偶者よりも複数の女たちに、愛し愛されたかったのかもしれない。


続いて、それぞれの部の見所を、簡単なあらすじとして書いてみた。


1月~3月末 第1部 幼少期 幕末


徳大寺家に生まれるが、生まれてまもなく、徳大寺家から西園寺家に養子に出されるというところから始まる。

ペリーの来航の時は4歳。

桜田門外の変の時は11歳。

岩倉具視に見込まれ、当時は睦仁(むつひと)親王という名だった明治天皇の近習となる。

岩倉具視や三条実美らが倒幕に向けてリアクションを見せるのを目の当たりにする。

睦仁(むつひと)親王の父、孝明天皇が崩御したため、睦仁(むつひと)親王が明治天皇として天皇家を継ぎ、引き続きその近習として仕える。

やがて大政奉還、戊辰戦争の開戦、鳥羽・伏見の戦いとなるが、その時に公家たちが、もしもこの戦いで敗れることになったら、全ては薩摩や長州の責任であり、我らには関係のないことと言い放った。

要するに、薩摩、長州に責任を押しつけ、私戦ということにしようということだった。

それに対して若き日の公望は、猛反発する。

それを見た岩倉具視が、言い放つ。

小僧能()く見た!」


公望は、この時はこの言葉の意味がよくわからなかった。

そして、なぜこの時岩倉具視が自分に対して、このようなことを言ったのかも…。

しかし公望は、この時のこの言葉を心に刻み、そして生涯忘れなかったという。

やがて戊辰戦争は、長岡、会津へと舞台は移り、会津戦争の時に公望は、自ら銃を手に取り、最前線で戦った。

その時の銃を撃つ瞬間で、第1部は完結、第2部の青年期に移る。




4月~6月末 第2部 青年期 明治初頭~中期


江戸幕府が倒れ、戊辰戦争も明治新政府軍の勝利となり、名実ともに明治新政府の治世となる。

1871年、岩倉具視らは、明治新政府のために役に立つであろう、将来有望な若者たちを、留学生としてヨーロッパに派遣することを決めた。

青年期の公望も、そんな留学生として派遣された一人だった。

そしてフランスに留学する。その留学は10年にも及んだ。その間に国内では、新橋~横浜間に日本最初の鉄道が開通する。

また、西郷隆盛や板垣退助らが『征韓論』を唱えたことで、明治政府を辞め、

また同じ頃、明治政府の政策に不満を持つ不平士族たちの反乱が相次ぐ。

萩の乱、秋月の乱、神風連の乱、そして西郷隆盛が起こした西南戦争。

西郷隆盛は戦いに敗れ、自決する。さらに木戸孝允も死去。

さらには大久保利通までもが暗殺され、三傑を失った後の明治政府の舵取りを、誰が行うか?という論議が巻き起こっていた。


明治14年、公望はようやく留学先のフランスから帰国、岩倉具視らの出迎えを受ける。


ところが明治16年、岩倉具視も死んでしまう。


公望は思った。


「この明治政府の中で、生き延びて、出世争いを勝ち抜いて、そしていずれは、自分がその頂点に立ってやるんだ!」


やがて明治政府では伊藤博文や山県有朋らが頭角を現す。

いつの間にか、明治政府は薩摩と長州の出身者が主要なポストを独占するという、いわゆり『藩閥政治』と呼ばれるようになり、批判を受けていた。


さらに時は流れ、日本でも西洋式の内閣制度を取り入れ、伊藤博文が初代の総理大臣となる。


公望は思った。


「いつか、俺がこの内閣総理大臣というのになってやる!そのための修行、鍛練だ!」


大日本帝国憲法の制定、第1回帝国議会の開催、日本が近代国家への第一歩を歩み出す。


そして公望もまた、明治政府の頂点を目指すための、第一歩を歩み出したのだった。




7月~9月末 第3部 桂園時代 明治末期~大正


ついに、公望のライバル、桂太郎が登場する。

『桂園時代』とは、桂太郎と西園寺公望が交互に政権を担っていたことから、それぞれの名字の一字をとって、そう呼ばれる。

その頃には、伊藤や山県らは既に一線を退き、自分たちは元老となり背後から政治を動かすようになっていた。

ところが伊藤博文が、ハルピンで銃殺されてしまったことにより、権力構造のバランスが変わり、山県有朋が実質その頂点に君臨する。

総理大臣も組閣人事も、元老の意向で口をはさむことができるような構造になっていた。


明治45年、明治天皇が崩御すると、乃木希典(のぎまれすけ)大将が後を追うような形で切腹するという事態が発生した。


ついに明治の世は終わり、年号は明治から大正に変わる。

その頃には日本は財政難となっていた。

そんなさなか、元老となった山県有朋の推挙もあり、桂太郎と西園寺公望が交互に内閣を組閣するという状況が、明治末期から大正初期にかけて続いていた。

西園寺公望は第2次まで、桂太郎は第3次まで、内閣を編成した。


第2次西園寺内閣は、第2次桂太郎内閣の後を受ける形で組閣された。


しかし、元老山県有朋の発言力が強まり、陸軍増強圧力にさらされる。


結局力及ばず、第2次西園寺内閣は総辞職し、その後に総理大臣となったのは、またも桂太郎。

しかも、またしても元老山県有朋の推挙によるものだった。


そんなさなか、桂太郎が自らの新党構想を立ち上げた。

しかし尾崎行雄らが内閣不信任案を提出したのを機に、桂太郎内閣はわずか62日という、戦後の内閣を含めても史上2番目の短命で終わったという。


公望のライバル、桂太郎はその後、大正2年に失意のうちに死去した。公望はライバルの死をも見届けた。


第3次桂太郎内閣の後は、山本権兵衛内閣となるが、これもあえなく終わり、その次は大隈重信の内閣となった。




10月~12月 第4部 昭和の元老 晩年


時は昭和。今や西園寺公望は、政財界に幅広い影響力を持つ、『最後の元老』『元祖昭和の妖怪』『大物フィクサー』としての地位を確立していた。



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