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もしもこの人物を大河ドラマにするなら『蒲生氏郷』

もしも本当に大河ドラマ『蒲生氏郷』が制作されたら、という仮の話。

実現性は、あるのかないのか微妙なところだが、それでもあえて書いてみた。


名前


蒲生氏郷


よみかた


がもううじさと


職業


戦国大名


生没年


1556年~1595年


備考


キリシタン大名でもあったという。


他の戦国武将らに比べると、知名度は低いというが、信長や秀吉には重宝された。

近江日野城、伊勢松阪城、陸奥黒川城と、各地の城主を歴任し、信長の娘と結婚する。

伊勢松阪城12万石から、会津鶴ヶ城92万石に加増され、転封(てんぽう)という形になった。

今の会津の基礎を築いた名君として、今も語られている。




会津藩は江戸初期の保科正之から、幕末の松平容保に至るまで、何度も城主の家が変わったが、

その数ある城主たちの中でも一番の名君とされているのが、蒲生氏郷であるという。


また会津藩といえば、幕末の戊辰戦争、その中でも会津戦争、

その会津戦争に駆り出された白虎隊の少年兵たちの悲劇の地として連想してしまいがちだが、

その会津藩の象徴である城と城下町を、近世の時代にふさわしい姿にしたという功績をあげたのが、他ならぬ蒲生氏郷であるといえる。


秀吉は会津まで攻めのぼる。当時の会津の城主は蘆名(あしな)氏。

伊達政宗とともに蘆名(あしな)氏を攻め、見事に勝利をおさめた褒美(ほうび)として、蒲生氏郷は会津の城をいただいた、という経緯がある。

蒲生氏郷は、会津の城主になってから3年あまり、40歳で亡くなったが、もしもその先まで会津の城主として治世を行っていたなら、会津若松はもっともっと豊かな国になっていたかもしれない。




まあ、大河ドラマといえば戦国武将ばかり、とにかく多い。

二年連続戦国ということも何度もあった。

地元の戦国武将、というのが、歴史にそれほど興味の無い人にも解りやすくて、受け入れられやすいのかもしれないが、

しかしながら、あまりにも戦国武将ばかりが取り上げられ、

それ以外の時代の人物たちは、あまり取り上げられない、

ということになってしまうのは、いかがなものかと感じている。

本当に戦国武将しかいないのか!?

戦国武将だったら誰でもいいのか!?

という思いもあることは否めない。


しかしながら、戦国武将たちには他の時代の人物たちには無いような、彼らにしか無いような魅力があるから。

全国を統一して天下を取ったら、自分たちの領地の城と城下町が、この国の首都になる、という共通の目的があるから。

下級の足軽や雑兵たちも、武勲を立てれば立身出世することも、実力次第。

農村の村人たちもまた、自分たちの村や田畑の作物を守り抜くことが戦いだった。



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