あるねずみの一生
1
生まれたときから周囲のものよりずば抜けて体格も大きく、気性も荒かったハダカデバネズミのマックスは、どんな仲間とけんかしても、負けたことなどなかった。同じ時期に生まれた者を次々と自慢の牙と巨体で圧倒し、捻じ伏せ、降参させて従えていった。彼に勝てる者はおらず、マックスを慕うものは同期のものから幼体に至るまでたくさんいた。彼は皆から神童として畏れられていた。
マックスをはじめとするこのネズミは、地中に張り巡らせた無数の小部屋からなる巣をつくり、その中で集団生活を送っている。そして集団生活を送っている以上、もちろん大人(成体)になると各々役割を与えられる。まず、群れに一匹しかいない女王のためのお世話係、外敵からの侵入に対して群れを守る兵隊係、えさを調達する食事係、幼体の世話係などなど。それは各々の適性により、女王が決めていった。そしてマックスに関して云えば、周囲からは「今に兵隊総長になるよ」と期待されていた。なぜなら巣の中で有名な神童なのだから。そして成体となると、その期待応えるように彼は兵隊係となった。兵隊係はこの世界の花形だった。
兵隊になって次の日、マックスの初陣は突如訪れたのである。
それは仲間や後輩と談笑していた時。突如巣の壁がわなわなと震え、その地響きは段々と激しさを増していった。土壁からは砂がぱらぱらと降り注ぎ、木や草の根を団子にした食糧をピラミッド状に積んだ山がゴロゴロと崩れていく。幼体や、そのお世話係の女たちはキーキー悲鳴を上げ巣内は大騒ぎになった。おそらく暴れ屋の巨大モグラがまた気晴らしに襲いかかってきたに違いない。
「マックス、さぁ行きなさい、早く」
空を裂けるような女王の命令で、俺の初陣は幕を開けた。
毎回そうなのだが、巣の中に侵入してきた外敵は俺たちよりも数倍もガタイが大きい。巣に入る前に敵のいる場所へ向かい、水際で戦うことが出来ればよいのだが、巣の中に侵入されてしまったら、そこで決闘するしかない。モグラは戦い始めると頭が真っ白になる性分なのだろうか、決して「逃げる」という得てして賢明な判断が出来なくなり、相手が死ぬか、もしくは自分がお陀仏になるかどちらかになるまで襲いかかる。そうなると、きちんと整備された巣の中はボロボロの荒れ放題となるし、血の海と化してしまう。その後始末は清掃係が行うのだが、部屋の中の整理や清掃はともかく、死骸となった巨体モグラを引きずり出すことの大変なこと。あぁどれだけの時間と何匹の成体の労力を消費することか!汚いものがとかく嫌いな女王様は、敵の死骸を引きずり出すのに難儀している清掃係をとかく追い立て、そのプレッシャーと肉体的疲労により死んでしまう清掃係が後を絶たなかった。清掃係はどこにも適性がないものが行く、受け皿のような係であった。
まぁ、そんなことはどうでもよい。俺の話に戻るとしよう。
俺は一目散にモグラ野郎の下へ駆けつけたが、相手は最悪なことに、もう巣の入り口の目の前まで来てしまっていた。ようやく見つけたときには入り口の壁を、変な咆哮あげながら狂ったように体当たりしていた。
俺は首を上げ、自慢の長く鋭い牙を武器に、相手に突進していっ
た。
「うおー」
いくら俺でも、流石に初戦は怖かったので、走っている最中は気合を入れるためずっと叫んでいた。その自分の声が耳の中で反響する。相手の目を狙い、牙で突き刺した。その時の感覚は、まるで腐ってブヨブヨになった木の実を鋭利な木の枝で突き刺すような感覚で、今でも忘れることはできない。奴は断末魔を上げて立ち上がったかと思うとそのまま背中から土煙をあげて倒れてしまった。
「勝った」―俺はそう信じて疑わなかった。初陣を初勝利で修めたと思った俺は後ろを振り向き、清掃係を意気揚揚と呼んだ。
その時、背中にドスンという強い衝撃が走り、俺は顔から前のめりに倒れた。起き上がろうとするが、土の中に牙が深々と突き刺さり、更に背中を圧迫され思うように呼吸ができず、起き上がることが出来ない。体中の血液が凍る思いだった。
モグラ野郎の低く、唸るような声、腐ったような吐息が重苦しく頭上を包み込み、更に追い打ちをかけるかのように汚い血が滴ってくる。それがあまりにも残忍且つ陰湿で、俺はまるで金縛りにあったかのように動けなくなった。目を瞑り、一瞬だけ兵隊に任命されたことを後悔しそうになった。
すると前方より、他のモグラの鳴き声が聞こえてきた。
モグラの動きが止まり、時も止まった。前方のモグラの声は止まない。瞑っていた目を開け、俺はこわごわと前方を見た。
驚くべきことに、そこには俺と同じ時期に生まれた、清掃係のティモシーがいた。
ティモシーは後ろ脚で立ち上がり、前足を必死で振り、目に涙をためながらモグラの目線に合わせるよう上を見上げ、必死で何かを話していた。それは我々の間では通じない言葉で、モグラにしか分からない言葉なのだろう。その後ろには俺の後輩や、野次馬のネズミたちが、遠巻きに数匹ほど固唾をのんで見守っていた。
ティモシー、お前は何をやっている?
モグラは動きを止め、じっとした。その後、頷くように体を上下に振り、(そのたびに俺は圧迫された)俺を抑えていた手を上げて、うわーという、おそらく泣き声のようなものを上げ、とぼとぼと退散していった。
巨大モグラが去った後、俺は震える手に力を入れ、牙を引き抜くと、胸を押さえ、ぜーぜー言いながらよろけるように立ち上がった。目の前の命の恩人を見た。全く信じられなかった。
ティモシーは生まれつき体が小さく、気弱で他の仲間によく苛められていた。牙は短く、ちびでおまけに少々優しすぎて幼体にもしばし馬鹿にされた。その結果、彼は成体になってからも、どの係にも適性がないと判断され、皆が忌み嫌う清掃係となった。友達も少なかったし、それまで俺はティモシーを特別意識したことなど更々なかった。俺の眼中になど全くなく、取るに足りない存在だったのだ。
ティモシーは疲れ切った表情で四つん這いに戻ると、そのまま倒れてしまった。
「すごいぞティモシー、やったぞティモシー」
途端に沸き起こった歓声は鳴り止まず、野次馬たちは倒れたティモシーを神輿のように担ぎ上げ、巣の奥へと消えて行った。
荒れ果てた入り口で俺はポツンとそこにいた。俺は助かった。しかしそこで祝福してくれるものは誰もいなかった。目をショボショボさせた、腰の曲がった清掃係が、まるで俺がいないかのように土壁の罅を埋め、飛び散った外敵の涎や血を慣れたように払拭していった。
こんな助かり方なら、死んだ方がまだましだった。
なぜ、俺がティモシーに助けられなければならないのだ?
女王は野次馬たちからの報告を受け、
「ティモシー、よく頑張りました。あなたがモグラ語を話せること、そして巧みな交渉力があったことはわが群の誇りです。あなたを渉外交渉係に任命します。」
と麗しい表情で言った。相手を殺さず、兵隊や掃除係の犠牲も出さず、群れを守ったハダカデバネズミは歴史上ティモシーが初めてだった。
皆が歓声をあげ、再びティモシーコールが鳴り響いた。その瞬間耳鳴りと頭痛が起こり、俺は軽いジャブを振られたように、その場でよろけてしまった。全く地獄のような光景だった。
「マックス」
女王に呼ばれ、はい、と頭を押さえて大きな声で返事をした。
「あなたも立派でしたよ。初戦をよく頑張りました。これからはティモシーがより有利に交渉できるように、敵に対するその戦い方を教えてあげなさい。期待していますよ。」
また歓声が上がった。でも、「すごいぞマックス、やったぞマックス」と歓声を上げる者は誰もいなかった。同じ敵を撃退するにしても、巣をめちゃくちゃにしなければならない方法でしかできない俺より、ティモシーの方法の方が皆に歓迎されるのは明白だった。それは認めたくない事実であった。頬を張られたような気分であった。女王も表面上は俺を褒めているが、腹の底ではもう俺に期待などしていない。
打ち捨てられたような感情を抑え、俺は引き絞るような声で「はい」と返事をした。
「よろしくね、マックス君、」
嬉々とした、無邪気な声で語りかけるティモシーの顔を、俺は直視することが出来なくなった。
この日から俺はティモシーのことを心の底から恐れるようになった。そして、あいつがこのまま生き続ければ兵隊係が不要となり、俺を含め他の後輩たちが一気に清掃係になるのは自明の理だった。
毒草の芽は早い内に摘んでおかなければならない。ティモシーには悪いが仲間を守るために必要なことなんだ。
マックスは一人ごちった。そう、これは仲間を守るために必要なことなんだ。
*
「いいか、ティモシー、お前は精神力が弱すぎるんだ。いくら能力があるからって、心が強くなければ相手には勝てないんだ」
翌日から、俺は“期待の星”を育てる教育係となった。意気揚揚と兵隊の訓練室に入ってきたティモシーを、紹介すると言って俺は皆の前に立たせ、皆に聞こえるように大声で叫んだ。昔からティモシーは大勢の前に立つことと、大きな声が苦手だった。
自分より一回りも大きなネズミたちの前に立たされ、刺すような視線の中、ティモシーはマックスの怒声にますます小さくなり、手をもじもじさせた。それを見て後輩たちが口の端を上へ上げた。
「ご、ごめんなさい」
ティモシーは震える声でこう絞り出した。こいつはいつもそうだった。
俺は空っぽの表情のまま、小さなティモシーを見下ろした。俺の影の中で、ティモシーはぶるぶる震えていた。
「手をもじもじさせるんじゃない!そういう所がだめなんだ。」
既にティモシーはひくひく言わせながら、顔を涙でぐしょぐしょにしていた。
その様子をみて、俺は少し穏やかな表情に切り変え、彼の撫で肩に両手を置いた。
「な、ティモシー、俺はお前のそういう所を見ていると少し不安になっていくんだ。これからお前は女王の期待通り、交渉係の先頭に立って敵を倒していかなくてはならない。なのにそんなに弱くてどうするんだ。これもお前の為なんだよ。」
できるだけ、子供を諭すように俺はティモシーに語りかけた。恐怖に支配されたティモシーは許してとばかりに首を何度も縦に振った。
「よし、いい子だ。」
俺は整列している後輩たちにこう叫んだ。
「みんな、これから毎日、期待の星のティモシー様に挨拶をするように。ちゃんと、この御方のためになるような挨拶をするんだぞ。」
地の底から沸き上がるような笑い声がそこら中で広がった。
それから毎日、朝から晩までティモシーは整列する後輩たちの前に立たされた。
「体が小さいくせにちょっと戦いで勝ったからって調子に乗るな」
「お前なんかダメだ」
後輩たちはティモシーの耳元で罵詈雑言を大声で叫び、ティモシーが何か反論しようと鳴こうものならよく撓らせた草の根の鞭で何度も引っ叩き、余計な大きい怒声を耳元で叫んだ。気弱いティモシーは全く反抗できず、ぶるぶる震え、まるで見えなくなってしまうんじゃないかと思うくらいまで小さくなってしまった。
そんなある日、また地響きが始まった。またモグラ野郎が襲来したのだ。女王に命令され、俺はティモシーと現場に向かった。そこにはあの時よりも一回り大きいモグラがいた。足が遅く、腰が引けているティモシーに合わせて行ったせいで駆け付けるまで遅れ、敵は既に入り口から続く通路まで破壊していた。
「さぁ、早く何か言えよティモシー」
俺はティモシーに横から小突いた。ティモシーはぶるっと震え、小さな目に涙をためパチパチさせて立ち尽くしたまま、デバネズミ語であっ、あっと唸っているだけだった。俺は鼻で笑ってやった。
彼はすっかり自分の武器である言葉を失っていた。
その様子を見てイライラしたモグラは、ぐおーと叫んだ後、ティモシーを鼻で軽々と突き飛ばした。小さなティモシーの体は気持ちいいくらい宙に舞い、不運にもそばを通った好奇心旺盛の幼体に激突した。
俺はみるみる力が漲った。それを見た後、俺は自慢の牙で突進していき、相手の胸に向かって直撃していった。モグラの断末魔を聞きながら、俺は間髪入れず顔を噛み千切った。それは前回の如く油断しないようにという慎重さから来たものだと思いたいが、ティモシーに対する優越感もあったことは認めざるを得ない。兎も角久しぶりの爽快感だった。
戦場は荒れ果て、血生臭く、顔をめちゃくちゃにされた巨大な死体と、気絶する醜いネズミと、その下に煎餅状態になった幼子がいた。その子は女王の特別お気に入りの仔だった。
*
幼体が殺された怒りに駆られた女王様は、裁判をお開きになった。俺は口がきけなくなったティモシーの目の前で、俺たちは必死で敵へ向かおうとしたが、ティモシーのもたもたのせいで出遅れたこと、ティモシーに説得するよう懇願したがティモシーは何もしなかったこと、そして結果的にせっかちなモグラの怒りに火をつけてしまい、あのような惨事が起こったことを、後ろ足で立ち、前脚を必死で振り、目に涙をためて女王に話した。ちょうど全盛期のティモシーが、モグラにしたのと同じように。
傍聴席の兵隊たちはそうだそうだと加勢した。兵隊たちが怖い他の清掃係のネズミたちは何も言わず、俯いているだけだった。
女王はティモシーに意見を求めることなく(まぁ、求めても彼は何も言えないだろうが)、ティモシーに有罪判決を与え、永久追放を言い放った。それは群れでしか生きられず、体毛がないため地上に出るとお日様の光でやけどしてしまう我々にとって死刑宣告に等しかった。
翌日、手足を腐った木の根で縛られたティモシーは可哀そうに泣きじゃくり、ぶるぶる震えながら兵隊たちに担ぎあげられ、地上へと続く道へ運ばれていった。兵たちは日の光が見えた瞬間、彼を乱暴に放り投げ、穴を大きな石で蓋をしてから退散する。
ようやく安息の日々が訪れる、マックスはふーと長い息を吐いた。これで良かったんだ。
2
神輿のようにかつての先輩達に担ぎ上げられたティモシーは、おそらく、光というものとを見た瞬間、激痛の余り泣き叫ぶであろうと、これから感じるであろう焼けつくような痛みを思うだけで恐ろしくなりました。しかしそれよりも、大好きなジョンやバーバラと離れ離れになると考えるとハラハラと涙がこぼれました。
しかし、いざとなると、それは拍子抜けするほどのものでした。というのも、真っ暗なトンネルに浮かぶ針のような一点の光が段々大きくなるにつれ、下の先輩たちは熱い熱いと呻くものの、自分は眩しさで少し目がチカチカするくらいで何もなかったのです。
先輩達が、まるで汚物でも捨てるかのように空中へティモシーを投げ上げた時、ティモシーは少し吐き気はしたものの、迎えられたお日様の光に暖かく体全体を包まれたような気がしました。そしてピューと下へ落ちていく中、まるで新しい命として生まれ変わるのではないかと感じました。しかし泥んこの水溜りにお腹から着水したとわかった瞬間、その甘くて明るい感覚は、パチンと音を立てて消えてしまいました。水面に体を強かに打った衝撃で手足を縛っていた紐が解けたのはよかったものの、視界全部を遮る泥だらけの水の中でティモシーはあっぷあっぷともがきました。それは人間界の言葉で言いますと、さながら、子供用プールで、大人が溺れそうになっているというありさまでありましょう。実際ティモシーからすればその程度の深さしかなかったのですから。
「助けてー死んじゃうよー」
とティモシーは叫びました。すると上方から鴉の鳴き声が聞こえました。「おう、やったー。お前を喰ってやる」と鴉は昨日、何も獲物にありつけなかったので、彼を捕まえる気満々です。ティモシーは生きた心地なく、ぶるぶると体中が小刻みに震えました。
その時、頭上に影が忍び寄ってきました。「あー食べられちゃう」とティモシーは目を覆いました。
「おやおや可哀そうに。ずぶ濡れじゃないか」
足元に柔らかな、暖かなものを感じたとき、確かにティモシーはそう“何か”が言うのが聞こえました。きっと何かが自分を水溜りから掬い出してくれたのでしょう。足元に感じたその感触は、その声の主のものでしょう。しかしそれは鴉ではないことは声からはっきりしていました。けれども何かは分かりません。水で沁みる目をがんばって開けて、ティモシーはその正体を確かめようとしましたが、それに勝る大変な疲労のため、その暖かな、包み込むような真っ暗な空間の中で眠ってしまいました。
*
生まれたときから他のハダカネズミより体格が一回り小さかったティモシーには、これまた彼と大して大きさの変わらない両親がいました。父の名をジョン、母の名をバーバラといいました。ジョンとバーバラは清掃係でした。二人は例え皆から白い目を向けられても、この清掃係という仕事に誇りを持って働くようにしておりました。だから家を出るときも帰ってくるときも、どんなに体が汚れていようが子供たちの前では笑顔でいました。
先ほど“子供たち”と言いましたが、実はティモシーには妹がいました。名はリンといい、その子はティモシーと違い、活発なお転婆娘でした。両親が出勤するため家を出るとき、ティモシーは楽しそうに二人が出て行く姿に何の疑念も持っておらず、父と母は立派な仕事をしているのだと誇っていました。マックスや他の連中が汚い、臭いと言ってくるのが少し気になるのはあったものの、それは皆にとって重要な仕事をしている、自分の両親に対する妬みか何かから来ているものだと解釈していました。しかしリンは兄とは対照的で、外部からの情報にとても敏感でした。
ある日、両親がいつものように出掛けるのを見計らい、リンは外へ飛び出しました。
「お兄ちゃんはおかしいと思わないの?」
目を見開き、抗議するような声でリンは云いました。
「何がさ?」
薄々妹の訴えが分かるような気がしましたが、ティモシーは返しました。
「だって、お父さんやお母さんはいつもニコニコ笑っているけどさ、何であんなに汚れているの?みんなも汚いって言っているし、やっぱりおかしいよ。私、ちょっとついてってみる。」
これから悪戯する子供のようにおかしそうに笑い、リンは出て行きました。
それからリンが戻ってくることはありませんでした。
仕事中の事故に巻き込まれた娘を惜しみ、バーバラは何日も泣き、仕事に出られませんでした。ジョンは出勤しましたが、以前のような笑顔はなく、無言のまま出て行く状態でした。
ジョンとバーバラは、兄として妹を止めなかったティモシーを責めることはありませんでした。怒られると覚悟していたのでほっとしましたが、少し寂しさを感じました。その代わり、ジョンはティモシーを呼びました。
「なぁ、ティモシー。あのな。マックス達からもいろいろ聞いているかもしれないけど」
ティモシーは心臓が跳ね上がるかと思い、体をビクッと震わせました。それを見たジョンはティモシーを自分の方へ引き寄せました。ティモシーの左頬にゴワゴワした毛の感触がし、血の匂いが鼻腔を刺激しました。
「お父さん達は、兵隊さん達が戦った跡のお掃除の仕事をしている。皆の言うように汚いし、臭い仕事だ。怖い思いをしたことも何度もある。それでいて皆から軽蔑される。でもこの清掃係がなければ、巣の中が滅茶苦茶のままで皆が困るのは間違いない。だから必要な仕事だし、父さんも母さんも本当に大好きでこの仕事をしていたんだ。」
近くで聞いていたバーバラが、ふーっと声を上げて泣いていました。次にジョンが口を開いた時には少し涙声になっていました。
「けどな、こんなこと事をしなくてもよくなる世界が来ればどれだけ良いかって、そう考えることも沢山あるんだ。」
次の瞬間、父は息子を両手で抱きかかえ、オウオウ泣きました。ティモシーも涙がサーと頬を伝わりました。
そのままどれほど時が流れたでしょうか。
「うぅ、泣かせるやん、あかん、泣いてまうやん」
突如、天井からジョンでもバーバラでもない、甲高い声が聞こえました。
「えぇっ」と小さく叫び、ティモシーはおっかなびっくり上を見上げました。見ると天井の左隅に小さな緑色の芋虫がこちらを覗いていました。「やゃ、失礼」と虫は踵を返して隅にできた穴を戻っていきました。
「どうした?」とジョンがティモシーの顔を覗きました。どうやらティモシーにしか聞こえていないらしいのです。
これが、他の動物の声を聞いた、初めての瞬間でした。
*
再び目が覚めると、僕は鼻腔に、湿った土の懐かしい香りが入ってくるのを感じました。ふらふらする頭でボーっと暫く前を見ていると、だんだんと視点が定まってゆき、目の前には白い容器と、細長い物体が置かれていました。
「おや、目が覚めたかい、ネズミちゃん。あんた死にかけていたんだよ」
後ろから何かの声がして、思わず僕は振り返りました。
そこには紛れもなく、巨大な顔がありました。白い毛を頭部に生やし、皺くちゃな茶色い皮膚。僕の顔くらいの大きさもある目・・・。その巨大な顔は、はははと笑いました。すると、その度にこちらに生暖かい息吹が舞い込んできました。
『これはー』僕は初めて見るその生き物をみて、確信しました。『これは、人間に違いない』―人間というものを目にして、僕は卒倒しそうになりました。後ろ向きに逃げようとしましたが、壁にぶつかり、前につんのめって転びました。
「ははは。可愛そうに、余程怖い思いをしたんだね。子供にでも苛められたのかな。ま、お水でも飲んで気を落着けなさいな。ネズミさんだからこれが大好物じゃろと思ってな、煮干しでも入れといたさ。」
その人間は大きな目を細め、ひゃひゃひゃと笑った。
その時、僕の心の中は、なぜか不思議な安堵感に包まれました。それは巣の中にいた頃―皆にさげすまれ、期待されず、馬鹿にされ、罵倒されていたあの頃には、決して感じられなかった、不思議な優しい、暖かい気持ちでした。
“他の生き物を喰う”という噂が流れる、人間という生き物を目の前にして、僕はいつの間にか安心して涙が流れていました。
「は、はじめまして。僕はティモシーと言います。どなたか存じませんが、助けてくれてありがとうございます。」
僕は人間語というものを話してみました。巣にいたころ、僕はモグラとの交渉で言葉を話せず、失敗してしまったので、他の動物の言葉をまた話せるだろうかと心臓がバクバク鼓動しましたが、もう言葉ができないというトラウマよりも、この人間と話がしてみたいという心の方が僕を突き動かしていました。僕の初めて話した人間語は、小さい声にも拘わらず、その狭い空間にいるせいでしょうか、ごわん、ごわんと中で響いておりました。
その人間は目を見開き、おやまぁと叫びました。
「なんてこった。お前人間の言葉が分かるのかい????」
聞いたこともない大きな声に少し怖気づきましたが、気を取り直して僕は答えました。どうやら通じたようです。
「はい、でも少しです。あなたのお名前は?」
「あれまぁ、何と言うこと、きっと神様のお恵みよ。ありがたやありがたやぁ。」
その人間は手を自身の顔の前に合わせ、深々とお辞儀をしました。
「あっあのぉ、そんなにお辞儀しないでください。なんか恐縮です。お名前をうかがってもよろしいでしょうか。」
人間は、はっと叫んだかと思うと、そうじゃそうじゃと立て直しました。
「わしの名はそう助と申す。この村の貧しい老人じゃ。いつものように畑から帰ると、水溜りでビショビショになって苦しむお前さんが、わしの足にぶつかって気絶しよったんだ。可愛そうにと思ったわしはお前さんを拾い上げ、手拭いで包んで手当することにしたんじゃ。」
すると、そう助の後ろから見える、古びた木製の引き戸がガタガタと軋みながら開きました。そこから目つきがギラギラした、肌艶の美しい若者が、顔をひょこっと出しました。そしてそう助に近づくと、「なんだ、その壺は?」と怪訝そうな顔をして中を覗きこみました。
「うわっなんだい、爺さん、またネズミを拾ったんかい、気持ち悪い。」
その若者は眉間に皺を寄せてそう助に詰りました。
「こら、貫太郎、そんなことを言っちゃいかん、このティモシーさんはー」
「はぁ?て、てもし?とうとう呆けよったか」
「あっすみません、そんなことそう助さんに言わないでください。」
僕は後ろ足で立つと、前足を振り、必死に抗議しました。
ギャーと貫太郎は叫び、ドスンと尻餅をつきました。すると立っている地面がグワングワンと旋回し、僕は広げた前足をビクッと引込め、叱られたように頭を下に下げました。
「こら、かんた、何やっとる?壺に気を付けなさい、ティモシーさんが入っているんだから、お前のせいで死んだらどうする、この罰当たりが」
「ごめんじいちゃん、しっかしたまげたな。このネズミ喋れるか。」
「はい、ティモシーと申します。よろしくお願いいたします。」
「さあ、煮干しをお食べなさい」
そう助は僕のいる壺という空間の中にある、細長い物体を指差しました。
僕は恐る恐る手に取ると、一つ齧りました。香ばしい香りと甘い香りが混ざったそれは、病み付きになる程美味しいものでした。
「なぁ、爺さん」
「なんだ、かんた」
「こんなネズミ、他にはいねぇ、言葉覚えさせて街で芸ささせて金儲けできんぞ」
この若者、かんたの目はますますギラギラ光り、頬は朝日のように紅潮していました。
「なんだ、かんた、お前はいつもそうやって暇さえありゃカネカネカネって。可愛そうじゃないか。このティモシーさんは、人間に苛められていたんじゃぞ、おそらくな。それなのにこの子を使ってそんな風に楽して金儲けしようとすると神様に叱られんぞ。」
全く、とそう助は深々とため息を吐きました。
僕は目の前でぶんぶんと前足を振りました。
「違います、違います。僕は人間に苛められたわけではなく、群れから追い出されたのです。」
4つの大きな目が、驚いたようにティモシーに向けられました。
「なんと、群れから追い出されたとな。とするとお前、何か悪い事でもしたんかえ?」
そう助は眉間に皺を寄せ、怯える僕に詰め寄りました。かんたは、『ネズミの中の悪い事なんて、どうせ、えさ取ったとかそんなもんだろ、そんなにわしらに関係ねぇで大事じゃねぇな。』と、この真面目なそう助の、更に真剣な横顔を眺めていました。
僕はこれまで起こったことをすべて話しました。生まれつき、他の生物の言葉が分かること、それでモグラと交渉して追い払い、女王に褒められて新しい役目に任ぜられたが、訓練に耐えきれず、結局女王の大事な幼子を殺してしまい、群れから追い出されたことなど。それはティモシーにとってとても辛い事でしたが、溢れるように言葉が止まりませんでした。
そう助は、最初は下を向いて黙って聞いていましたが、だんだん鼻を啜りだし、僕が幼体を殺してしまう場面では、まるで嵐の中の雨粒のような、大きな涙を頬に流していました。
かんたは腕を前に組んだまま、要所で頷き、聞いていました。
話が終わると、かんたは、僕を見つめてこう言いました。
「な、ティモシー、お前はやっぱり芸を覚えて、人様の前で披露せなにゃらん。それは金とか、人間の利益とか、そう言うことを抜きにしてな。それはお前の武器じゃから。お前は自分がおもっているより強いネズミじゃと俺は思う。」
その時のかんたの眼は、とてもきれいな茶褐色で、澄んでいました。僕を強いといった動物は、この人が初めてでした。
僕が、自分で思っている以上に、強い?
マックスは、僕を弱いと言ったのに?
そうかんたに反論しようとしましたが、かんたは、それを見越したように、閉じた自分の唇の前に人差し指を当てると、
「その、マックスって奴は、きっとお前を恐れていたんだ」
とクスクス笑いました。さぞおかしそうに。
僕には何が何だか分かりませんでした。全く人間って生き物はなんと不思議なものでしょうか。
「よし、そうと分かればティモシー、今日からはお前は人間語をもっと勉強せぇ。俺が教えたるから。」
かんたは悪戯っぽくにやにやし、着物の腕の袖をグイッと巻き上げました。
3
次の日から毎日、お日様が山の向こうへ顔を隠す夕刻に、かんたはティモシーに会いに行きました。そしてティモシーのいる壺から大事そうに彼を掌で掬い上げると、
「なぁ、ティモシー」と云いながらその日かんたの身に起こったことを語りかけるのでした。それは
「なぁティモシー、今年はな、お天道様や雨にも恵まれて、去年よりたわわに実ったんだよ。今年は豊作だ。たくさん神に感謝せにゃならん。それにしても収穫が忙しくなるわ」
と満面の笑みを浮かべて話していたかと思いきや、その数日後には、
「なぁ、ティモシー、あれほどたわわに成っていた実がな、今朝がた見たらなんと、ほとんど虫に喰われてしまっていたのだよ。なんと言うことだ。案山子を掛けていたのに、わしは悔しゅうて、悔しゅうて、しゃあない。」
と、歯を喰いしばり、強く握り拳を作りながら語ってくれる日もありました。
かんたの話はこのような話が多く、ティモシーは、毎回どう言葉を掛けて良いか、おろおろするばかりでした。しかし、決まって最後に、かんたは
「んま、こんなもんさ。これから何とかなるさ」
とにっこり締めくくるので、ティモシーはほっとしたものです。そしてかんたの話をティモシーは自然と覚えてしまいました。それは相棒との話が面白いからというのもありますが、それよりも、彼自身、幼いころから似たような悲しい出来事の中で育ったものですから、このような話に心を惹かれた、と言った方がよいかもしれません。
そしてある日、かんたは夕方に戻ってくると、僕の入った壺を抱えてにぎやかな街へと繰り出しました。
かんたの歩みが停まったのでティモシーが緊張していると、人間の女の声が聞こえてきました。
「あら、かんちゃん、こんな遅くにどうしたんだい?もうお店は閉まっちゃうと。」
「お絹ちゃん、遅くにごめんな。ちょっと頼みがあるんだ。お絹ちゃんのやっているこのお茶屋さん、お日様沈むと使わんじゃろ。」
「・・まぁ。使わんな。夜もこの通りは賑やかじゃけど、わざわざ団子を喰いに来るやつおらんからな。お酒やもっと楽しいことがあるからね。」
お絹と呼ばれるその女の子の声には疑問と皮肉が含まれていました。
「そ、そんな。おら、お絹ちゃんの作るみたらし団子が大好きじゃ。だから元気出せぃ。」
かんたの声は少し震えていました。かんたが動揺したのはこれが初めてだな。とティモシーはその様子を眺めていました。
お絹さんは、ふふと笑ったあと、で、どうしたんと尋ねました。
「いや、大したことない。要はその間、この場所を貸してほしいんじゃ。」
ようやく元通りの自信満々の声に戻ったあと、かんたはこう切り出しました。お絹さんの、やわらかい声がまっと小さく驚きました。
「それはかんちゃん、いいけど、なんでなん?」
「この場所で、俺は、相棒と芸事をすることに決めたじゃ。」
「相棒?芸事?」
「ほら、ティモシー、出てこい。」
かんたは、まるで西洋のお話にあるランプの魔人を呼び出すかのように、僕の入っている壺を擦り始めました。僕はあわてて、壺に立てかけた木の枝をよじ登り、壺の縁に肘を掛けて乗りかかりました。
「こんにちは。僕ティモシーです。よろしく。」
目の前の女の人は肌が白く、目は細長く優美で、くちびるも薄い桃色で何とも儚げでした。全体的に雅な女性で、僕はかんたが動揺するのも成程と頷けました。
その雅なお絹さんはわっと小さく叫ぶと
「なんとまぁ、ねずみでねぇか、しかもなんか喋った。」
と目を真ん丸にしました。
「そうさ、こいつはお喋りオウムならぬ、お喋りネズミのティモシーさ。俺はこいつに芸を仕込んで、街で披露したいと考えている。一儲けできんかなと考えてな、な、そうだよな、ティモシー?」
「は、はい、そうです。」
「だからお日様が沈んだ夕方から夜にかけて、こいつと芸をしたいと考えている。だが場所がなくてな。お絹ちゃんのところの、このお茶屋を貸してほしいんだ。この長椅子があれば十分なんじゃが。」
「えぇ、そうかい、でもそれは困ったことよの。」
お絹さんは、困ったように目尻を下に下げました。
「うちはお茶屋さんをしているから、ネズミを中に入れたりするんはお客さんの心象を悪くするからな。ただでさえ、はやり病に対する目が厳しいというのにね・・。かんちゃんも大丈夫なのかい。」
「それは大丈夫だ。おいら瓦版で読んだが、はやり病の元になっているのは、茶色いネズミだ。こいつは灰色がかった綺麗な白いネズミだ。」
「そうか。」
「そうじゃ。それにただで貸せ、とは言わない。毎月お絹ちゃんに納めている作物を、3割ほど値引きしたる。もちろん、この芸事で儲けたら倍率増やすから、な、な。」
もはや、かんたは、このか弱い女性の両肩をむんぎゅと鷲掴みにしていました。
お絹さんはますます眉間に皺をよせ、うぅんと小さく唸っていましたが、観念したように小さくため息をつくと、
「爺様と相談するから、少し待ってくんね」
と、お茶屋の奥へ消えてしまいました。お絹さんの消えた後には、真紅の布が引いてある長椅子が一脚と、「お絹茶屋」と白字で書かれた、深緑の旗看板が掲げてある茅葺の小さな家がありました。
暫くすると、お絹さんは戻ってきました。
「場所を貸すのは構わんが、さすがにお客様が座る長椅子とかは使わんでほしいな。」
お絹さんは申し訳なさそうにそう言いました。かんたの肩が落ちるのが僕にはわかりました。
「でもな、うちの納屋に小さな机がある。小さな机じゃが、その上ならネズミさん乗せても大丈夫やて。少々ぼろい机になるけど、構わんか。」
お絹さんはニコッと笑い、優美な目がますます細くなりました。
それを聞いた瞬間、かんたはやったーと叫び、僕の入っている壺を上下に上げ下げしました。あわや僕が落っこちそうになったので、お絹さんは慌ててかんたの手を掴みました。
「お絹さん、ありがとう、ホンマありがとう。」
かんたは慌てて壺を地面にそっと置くと、お絹さんの右手を両手でしっかり握りしめました。
「よかったなぁ。かんちゃん。それよりネズミさんが・・・。大丈夫かい。」
二人は地面に置かれた壺の中にある僕をあっ、という表情で見下ろしました。ぼやぼやした情景の中、僕は精一杯の笑顔を浮かべました。
「ネズミさんも今日は疲れとる。明日からにしたら?」
そう言って、お絹さんは僕の壺の中に、小さなあんころ餅をひょいと投げました。やはり女子はネズミが怖いらしいのでしょう。
僕はその贈り物を少しかじりました。こんなに甘いものは生まれて初めてでしたが、ほっぺが落ちるほど美味いものでした。
美人の意見に弱いらしいかんたは、その日は帰宅しました。こうして、お絹茶屋での夜芸が始まろうとしていました。
*
その次の日の夕方から、お絹さんの茶屋での「ネズミ話芸」が始まりました。かんたから聞いた話を、そのまま話すだけの仕事は、ティモシーにとって、訳はない仕事でした。最初はネズミであるティモシーを気色悪がり、遠ざかっていく人もおったが、彼の抑揚のある声が、道を行き交わう人々の足を止め、その目を次々と真ん丸にしていき、拍手を浴びせたり、驚きの嗚咽を漏らしたり、中には小銭を壺の中へ投げ入れてくれる者まで現れました。
このような「物言いねずみ」の芸達者なこと、一角の町人や農民は勿論、噂が噂を呼んで、遂には一国のお殿様の耳にも入るようになりました。そしてかんたとティモシーがこの茶屋での芸を始めて数週間くらい経った頃でございましょうか、このひとりと一匹に殿様への直でのお目通りがかなったのでございます。その名誉な事、かんたとティモシーは、心臓が飛び上がるような心地でお城へ向かいました。
お城に着くと、かんたは門を警備していた侍に、お殿様が待っておられる大広間の前の庭まで案内されました。庭のござの上で、ひれ伏したまま待っておりますと、しばらくしてお殿様が現れた気配を感じました。
お殿様は「顔を上げぃ」と大声で仰いました。かんたが恐る恐る顔を上げると、そこには紋付羽織袴姿の、白い顔のお殿様が、庭を向いて広間の中央の上手に座られておりました。かんたには、その御顔立ちが、まるで白い蛇が大名の格好をして鎮座されているように想起されました。
「お主らがかの有名な芸者と芸ネズミか。わしは一国の主として、より繁栄した町を築いていきたいと考えておる。その為には町人だけでなく、農民たちの暮らしぶりに関しても、家来たちからの報告だけでなく『直の声』というのも聞いてみとうてな。お主らの話は町人だけでなく、農民たちからも受けが良いと評判じゃ。それはお主らの話が、ただ単に面白かったり滑稽だったりするだけでなく、共感を呼ぶからであろう。それだけ彼らの気持ちを反映させていると言うことだと考える。よってわしは早く聞きたいのじゃ。はよ芸をせよ。」
お殿様はご命令され、そしてご自身で大層満足をされました。農民たちの声を直に聞きたいなど、なんとわしは民思いの殿様か。それでこそ真の指導者、王というものよの、ほっほ。
その頃、かんたは『直の声を聞きたいというのなら、お殿様も一遍でいいから農業やってみたらええのに、ホンマは珍しい芸を見たいだけなのに大義が必要なだけなんやろな』と、心の隅で毒づいておりました。しかし、その殿の命令の威圧感にそんなことはとてもではありませんが口にできず、早くも逃げたくなりました。だけれでも、後ろに屈強そうな侍が2人いたので、かんたはごくりと唾をのみました。
かんたが壺を擦ると、ティモシーがひょこっと壺の縁に乗っかりました。お殿様は表情を変えませんでした。ティモシーは震える足を何とか落ち着かせ、縁から落っこちないように注意しながら話芸を始めました。
かんたとティモシーの芸が終わると、殿はこの若造と白ねずみをしかと目も離さずご覧いただいたまま、しばらくじっとしておりました。その様子に段々と芸者らは不安になり、彼らの両脇に立つ二人の若侍に斬られるのではないかと、全身から冷や汗が吹き出しました。
が、しかし、殿はまるで爆竹が爆ぜるかのように、かーっと歓喜の声をお上げになったかと思うと、こう続けました。
「天晴、天晴。なんというねずみじゃ、恐れ入った。余は満足じゃ。このような動物がおったとは。おぬし、名をなんと申す?」
「ティモシーと申します」体中の、ピンと張った筋が緩むのを感じながら、ティモシーは答えました。その様子を見たかんたも、同じくほっとしたものの、やはり殿の御目を奪うのはティモシーだよなと、分かっていながらも少し嫉妬を感じました。
殿は右手に開いていた扇子をハタと広げると、
「ティモシーよ、余は、お主がなぜ人の言葉を話せるようになったのか知りたい」と仰せになりました。
ティモシーは言われるがまま、殿に自らの生い立ちからかんたやそう助との出会いまで、すべてを話しました。
すべてをお聞きになると、殿は深慮深げに頷くと
「そうかそうか。それまで誠に辛かったであろう。かんたの方もようティモシーを支えよった。そちらには褒美として、金貨五十両をやろう。おのおの個別の部屋を与えるから、余の芸師となれ。」
この言葉を聞き、かんたとティモシーは大層喜び、ひれ伏した。
そして殿は続けた。
「ティモシーよ、特にお前は辛い生き方をしてきたな。何か願いがあるのであれば聞いてやるが、どうじゃ?」
肩をびくっと震わせたティモシーでしたが、これを聞くなり、迷わずに、すぐこう答えました。
「私の故郷である巣には、私の父母が住んでおります。願えましたらこの二人と一緒にここで住みとうございます。巣はこの村を出た通りの地中に張り巡らせております。」
「そうか、良し、分かった。その場所へ向かい、ご父母を迎えに参ろう。案内しろ。」
お殿様は、家来たちを呼んで、村のはずれの通りを一面掘り起こすように命令しました。
屈強な家来たちが大勢、殿と共にその場所へ一斉に向かいました。
4
兵隊総長になったマックスがその時感じたのは、これまでにない地震だった。というのも、いつもモグラが襲ってくるとき、最初は土壁からパラパラと砂が降ってきて、そこから地響きが大きくなる、というお決まりのパターンがあるのだが、今回はいきなり土天井の大きな塊が、マックスのいた場所の際にドスンドスンと落っこちてきて、土煙をもうもうと上げたのだ。
しかし、それ以上に彼らを苦しめたのは、その直後に土天井の欠けた場所から、まるで隕石のように襲いかかってきた強いお日様の光だった。俺は焼けつくような痛みに悶え苦しみ耐えながら、光の指す方向へ這いつくばって行った。
全身を炙るような熱光線。じりじりと、背中を火で舐められるような痛みを感じながら地上に出た瞬間、俺はなぜか、屈強な力で後ろ首を摘み上げられた。俺は宙に浮いたまま、訳の分からない、聞いたことのない動物の声が耳に入った。
「お前がティモシーの仲間か?おぉこりゃすごい、魂げたでかさやが、なんじゃ可笑しい姿やのぉ。おぬし、名をなんと申す?」
その巨体な生物が、細い指で、俺の鼻を馬鹿にするようにつついた。俺は瞬間、やけどの痛みを押して首を目一杯傾きあげ、前歯でその指を突き刺した。
ヒッとその生物は悲鳴をあげ、怒りをあらわにするように、勢いよく俺を地面に叩き付けた。そして、その動物は地団太を踏み始めた。
「なんだ、こいつ、喋らんし、ティモシーと違って、毛がなく、恐ろしく出っ歯じゃないか!このようなもの、ティモシーの仲間とは到底思えん、これは物の怪も同然じゃ。ハダカネズミじゃ。こいつだけじゃない、あいつも、そいつも。そこらじゅう物の怪ばかりじゃ!始末せよ!」
叩き付けられた衝撃に耐えられず、俺の四肢が変な方向へ曲がった。この巨大生物の他の家来たちは、容赦なく女王や、他の仲間たちを襲った。仲間の兵隊たちが、振り絞るように、弱弱しく威嚇音を出したかと思うと、殺されたのかすぐに止んだ。女王や女たちの助けを呼ぶ悲鳴が鳴き止まず、血腥いにおいがあたりを充満し、周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。ぼやけた意識の中で、はっきり見たのは、楕円形の大きな、俺を先ほど地面に叩き付けた動物―おそらく人間のー足が落ちてくる瞬間だった。それから何度も、何度も、それは俺に落ちてきて、そのたびに体中からゴキゴキと、不気味な音が、不穏に頭の中で響いていた。自慢の牙はボキッと折れ、彼は間抜けな歯無ネズミになってしまった。折れた牙が傍らでコロコロと転がっていくのをみて、彼は彼で無くなってしまった。その時、何故だかふと、ティモシーの顔が脳裏に浮かんだ。
「け、こんなけがらわしいネズミ、踏みつけてしまって草履までもが汚のうなったわ。」
その草履は、ボロボロの煎餅状態の破片のようなマックスをくっ付けたまま、炉辺の叢に放り投げられた。
―お殿様、お止め下さい。皆かつての仲間なのです。
―えぇい、うるさい、お前はハツカネズミだが、こいつらは毛無デバネズミじゃねぇか。気持ち悪い。俺はこんなつもりじゃなかったぞ。お前と同類の、その両親とはどこにいる?
その土地から、ハダカデバネズミはいなくなった。
5
ティモシーの望みは唯一、ジョンやバーバラと共に暮らすことでした。清掃係という仕事から、彼らを解放することが、その望みの根底にありました。しかしその望みを叶えようとして、結果的にマックスや、他のかつての仲間を犠牲にしてしまったこと、そして自分達が彼らとは違う種類のネズミであるということを知り、驚きと困惑で彼は眩暈や頭痛に悩まされるようになりました。
ティモシーには、両親に聞きたいことが山ほどありました。しかしあの事件以来、すっかり弱り果ててしまったジョンやバーバラを目の前にして、その勇気がでませんでした。二匹はお城へ来たのは良いものの、出された食事に全く口を付けず、ティモシーが話しかけても苦しそうに笑うだけです。庭へ飛んできた燕の囀りや、昆虫の羽音にもびくびくするようになっておりました。これまで、狭い地中の巣の一角に住んでいた二匹でしたが、これからは殿の計らいによって、離れとはいえ、四畳程度の広い部屋が与えられたのです。これは単なるネズミに対しては破格の待遇でありましたが、両親があまり嬉しそうに見えず、ティモシーは悲しくなりました。
「なぁ、ティモシー、」
ある小雨の降る昼時、ジョンは弱弱しい、絞り出すような声で語りかけました。ティモシーはすかさず、ジョンの元へ駆け寄りました。
「なんでしょう、父さん」
「一つ聞きたいことがあるのだが、良いか。」
ティモシーは、息を呑みました。
「あれが、お前が望んでいたことだったのか。」
「あれって?」
「巣で起ったことだよ」
サラサラと響く雨音がしんと止んだ錯覚を、ティモシーは覚えました。頭の中を鋭利な刃物で抉られるような、そんな痛みを感じました。
「そ、それは違うよ、父さん。そんな事、言わなくてもいいじゃないか。お殿様に『何か願いはあるか』と訊かれた時、僕は父さん達と暮らしたいと、ただそう言ったんだ、そうしたらあの事件が起こったんだ。信じておくれよ。」
ティモシーは、泣きたいような、怒りたいような、激高したい調子で言いました。
「そんなことを言うなんて、あんまりだ」
ティモシーは顔を手で覆いました。目には涙が溢れました。
ジョンは安心したように、ふーと息を吐きました。
「そうだよな、ティモシー。ごめんよ。父さんが悪かった。あれは、お殿様の御癇癪に触ったことで起った事故なんだよよく分かったよ。」
ティモシーの手は、涙や、鼻水やらで、もうぐしょぐしょでした。ジョンは、細かに震えるティモシーの背を、優しく撫でました。そこにティモシーは、ジョンの安心した優しい暖かさを感じました。
次の日、ジョンは天国へと旅立ちました。バーバラも後を追いました。
二匹が亡くなって以来、ティモシーは、お殿様の前でお話を披露しようとしても、心臓がバクバクし、目の焦点が合わずままならない状態になりました。
それを知ったお殿様は、
「この役立たず!」
と一匹のネズミ相手に刀を抜き、ティモシーを斬ろうとしました。あの事件で『大量の喋るハツカネズミを捕獲しよう』という野望が叶わず、むしゃくしゃしていた折に、もともと喋っていたネズミが全く話さなくなり、まさにお殿様にとっては泣き面に蜂でした。(まぁ、周囲の者からすれば「火に油を注がれた」ような状態でしたが)
いよいよお殿様が刀を振り上げた途端
「殺してください」
真っ赤な目で殿様を見つめ、ティモシーはこう、蚊の鳴くような声で訴えました。
お殿様は動きを止めました。上げた腕は震え、小さく唸り、苦虫を噛み潰したような困惑した表情を浮かべました。しかし、その表情から、何かを諦めたようにふっと笑うと、お殿様は疲れたように、綺麗な刀を戻しました。
「やめた。こんなぼろネズミ、一匹殺しても面白うないわ」
そうぼそりと言うと、その場を立ち去りました。
6
離れには、世話係として、女中達が定期的に交代でえさや水を置いて行きます。がしかし、ティモシーはもはや自分でそのえさを食べることが出来ず、彼の部屋はえさと水と、そして排泄物が溜り、悪心を催すような悪臭が漂うようになりました。
ある日、馬番に任じられたかんたが、久しぶりにティモシーの顔を拝みに行こうと離れへ向かうと、目的の場所で騒ぎが目に入りました。女の悲鳴や幼い悪がき達のからかい、可笑しがるような嬌声。かんたの歩みは知らず知らずのうちに速くなり、それは走りへと変わりました。
「きゃぁ気色悪。奥方様は早よ土に埋めろ言うてるが、こんなんわし、よう触らん」
「あんたやりぃな」
「何で私なん、あんたやりぃな」
離れまで来てかんたの目に入った光景は、そんな女中達の熾烈を極めた口喧嘩と、それを見物する甘やかされた幼子たちが、腹を抱えて可笑しがっているものでした。かんたは次の瞬間、そんな女中たちを押しのけ、無我夢中で離れに向かって突進しました。女中たちが再び大きな悲鳴を上げました。
離れの障子の前には、路傍の石垣のようにえさと水が幾数皿ほど陳列されており、それは奥に行けばいくほど鮮度を失い、変色しておりました。しかしそんなものには目もくれず、かんたはその『開かずの間』をバンと音を立てて開けました。
茶色い畳の中央に、直径二十センチ程、高さが大人の人差し指程の真っ黒な小山が蠢いておりました。小さな黒い点が無数に集まり、動き、さながら生きている山のようで、かんたは一瞬心臓が止まりそうになりました。
最初、それが何かはすぐにピンときませんでした。がしかし、驚きのあまり絡まりそうな足を何とか動かし、かんたはその小山へ近づくと、一心不乱に崩しにかかりました。突然襲ってきた侵入者に、蟻たちはまるで自分たちの縄張りを必死で守るかのように何度掻き分けられても這い上がってきて元の場所へ戻ろうと奮闘し、中には逃げることなく敵であるかんたの手先から腕へと這い上がる者もいました。しかし構うことなく、かんたは小山を掻き分け続けました。
目的のものは、山をやっと半分くらい削ったところで見つかりました。真っ白だった毛皮は、今や黄ばんでおり、あばらが浮いて上下に微かに動く程度。真っ赤な目は光を失い、少し窪んでいるかのように見えました。かんたは声を上げ、ティモシーを両手で掬い上げると、焦る気持ちを抑えて丁寧に蟻を払いました。そしてそのまま立ち上がり、部屋を出るとまた無我夢中で駆け出しました。
「蟻が・・・蟻が・・・ティモシーを喰いよる」
井戸の前まで来たかんたは、汲んで置いてあった桶水に、そっとティモシーの腰から下を浸してやりました。井戸水は、お日様の光に暖められ、快い温かさでした。震える手でティモシーを支えながら、もう片方の手でティモシーに付いた蟻を、水でじゃぶじゃぶと清めてやりました。清められて入水した蟻たちは六肢を苦しそうにバタバタとばたつかせた後、やがて海老のように丸まり、桶の底へと次々と沈んで行きました。
途中、ティモシーがピクッと震えました。はっとし、かんたは小さな声で「ティモシー?」と呼び掛けました。
「かんたさん・・・」
途端、小さな胸の鼓動はピタッと止まりました。首は更に力なく項垂れ、目はますます窪んでいきました。
かんたは、目の前の光景がただただ信じられませんでした。ついこの間まで、自分の語った話を、壺の縁に器用に立って意気揚揚と話をしていた可愛い相棒が、今、自分の手の中で横たわり、小さな黄ばんだ塊になってしまうことが、まるで悪夢のように感じられました。そう、これは単なる悪夢だとしか到底受け付けられませんでした。
このような別れの時、人はすぐに亡き者の名を叫び、泣き崩れるものだとかんたは思っておりました。しかし実際はそれすらできず、日が傾いても、元相棒の体を同じ動作で洗い続けておりました。ティモシーの死に対して泣けない自分は、もしかして恐ろしく薄情な奴なのかもしれないと自嘲さえしました。
次の日、かんたはお暇をもらい、村へと帰りました。家に帰ると、そう助が出迎えてくれましたが、かんたは祖父の目を見ることすら億劫でした。なので、そのまま土間で相方の細くて小さな亡骸をそう助に無言で見せました。ティモシーを見て、泣き崩れるそう助を尻目に、かんたは畑の近く、お日様の当たる場所に向かうと、傍らにティモシーを置き、一人黙々と地面に穴を掘りました。
お日様は、既に西の山稜の向こうへ顔を隠そうとしていました。埋葬する前、もう一度ティモシーの顔を見てやりました。少しだけ、穏やかそうに眠るその相棒の顔をみて、かんたは、ようやく堰を切ったように哭しました。
(了)




