六
ヤマツミの森の入り口には、全体を見事な朱色に染め上げた大きな鳥居があった。古来より朱の色は魔よけとなり厄災を防ぐという意味合いを持ち、神の力を高める色ともされている。特に、このヤマツミ社の大鳥居は、穢れた霊をコウテン(神の世界)に通さぬための門としての役割を持っている。
ヤクモは鳥居の前まで来ると、ヒシタに「少し待ってくれ」と頼み、二人は足を止めた。
「ヒシタ、俺はここでアシタの様子を看ているから、社に行ってイズミさんたちを呼んできてくれないか?」
「どうしたんです? 御社まで行った方が早くないですか?」
どこかヤクモの様子がおかしい。ヒシタは心に抱いていた僅かな疑念を口にした。
「ナビコ様の家を出る時からどこか顔色が優れないように思うんですが、ヤクモさん、アシタのことは別に、何か心配事があるんじゃねえですか?」
「そんなことないさ。それよりも今はアシタのことだ。山を登るのに戸板では運ぶのが大変だろう? アシタが落ちぬよう気を遣いながらゆっくり登るよりも、どちらかがさっさと社まで行った方が早いと思ったまでだよ。俺の方はずっと走り通しだったため、足が思うように動かなくてな」
ヤクモの言葉は一応の理屈が通っているように聞こえた。ヒシタは「わかりました』と一言だけ言い、社に向かって走り出した。ヤクモは小さくなっていくその後ろ姿に「すまない」と弱く小さく謝ると、アシタの方に目をやった。今のところ、アシタの容体は何とか小康を保っている。しかし、時折に苦しそうに体をよじり小さな呻き声を上げるため、その度にヤクモの心臓はきゅうっと小さくなった。
(アシタ、もう少しだ。頑張ってくれ)
無理なことだと分かってはいても、伝心さえ使えればと思わずにはいられなった。この大鳥居は結界となって余計な霊を通さない。山の外からの霊術は完全に遮断されてしまう。もどかしさが募るが、今、出来ることを精いっぱいするしかなかった。腰袋から竹筒と布を取り出し、筒の中に入っている水で布を湿らせて汗が浮かんだアシタの顔を拭った。
ジャリ……ジャリ……
森の方から草を折り、土を潰す音がする。ここに来た時から気配は感じていたのだが、隠れていたにしては歩き方がどこか無造作に思えた。
(4人、いや、5人か)
ヤクモは、質の違う足音とその方向から人数を計った。ひょっとして村の人かとも思ったが、こちらの様子を見て声を上げないのは不自然だ。それにこの状況で物陰に隠れている人間が、味方だとは到底思えなかった。念のため、アシタを看ている間も、刀の柄に手を添えていた。
気付いていない振りをして相手の出方を見ようと思ったが、それでも、一向に足音が乱れず、襲いかかって来る気配がない。ヤクモは緩慢な動作で立ち上がると、振り向きもせず、不意にとぼけたような大声を出した。
「生憎と忙しいんですが、何か御用ですか?」
目的が分からない以上、こちらから仕掛けるという手はない。それにアシタがいるため受身になるしかない状況だ。ならば、機先を制して揺さぶりをかけ、相手に無理にでも動いてもらうことで、不利な状況を少しでも好転させなければならなかった。
背後からの足音が段々と近づいて来る。そして、一定の距離まで来ると音がピタッと止まった。
「黒髪に高めの背丈、デカい男と一緒に怪我をした子供を運んでいる若い男。間違いねえ……。ヤクモと言うヤオロズ人はお前だな?」
「ヤオロズ? 確かにヤクモという名ではありますが」
答えながら振り向いたが、見知った顔は一つもない。それよりも男たちの姿が目にした時、心臓が一気に高鳴った。動揺すまいとしたが、表情が固くなっていくのを抑えきれない。
(あれは……サングラス! それにジーンズにTシャツ!?)
「なんだ、その驚いたような顔は? ああ、服か。俺らの格好はこの世界じゃ珍しいみたいだからな」
男はヤクモの視線の先に気が付くと、柄物のシャツの上に着た薄く赤いジャケットを広げ持った。
その声は先ほどのものと同じものだった。立ち位置からしても、どうやらこの男が集団のリーダーで間違いないらしい。男たちの中に一人だけ、黒子のように布で顔を隠している者がいる。着ている服は、この男たちの中では異質だが、ヤクモとしてはこの世界で見慣れた服装だった。
「貴方たちはアレマシビトですか? 一人、この国の人間も混ざっているようですが」
「アレマシビト……。さて、どうだろうな。それにこいつも、この国の人間かどうかなんて知らねえな。大切な商売相手だが、俺たちでさえ顔を拝ませてもらえねえ。必要以上にしゃべらねえし。案外、布の下は『別物』かも知れねえぞ?」
男たちは声に出してゲラゲラと笑った。覆面の人物は微動だにしない。その様子が男の言葉と合わさって妖しく思えた。
「用というのは他でもねえ、オメエにやられた二人のことだ。おっさんはオレたちとは新しいが、一時的とは言え仲間は仲間だ。それに、お前に斬られたサックは、一応昔からの馴染みなんでな。オメエを同じ目に合わせてやらねえと俺の顔が立たねえんだわ」
「そうか、あの人攫いどもの仲間か」
瞬間、ヤクモの脳裏に『ニンゲン』の腕を斬った映像が蘇えり、肉の感触が手の中に思い出された。
服のことや、アレマシビトのことは情報として欲しいが、誘拐犯の一味と分かった以上、戦闘は避けて通れそうにない。ヤクモは男たちへの関心を思考の隅に追いやり、相手を注意深く見回した。
「この大人数で助けにも来ず、物陰からコソコソと隠れて見ていたということか。大した腰抜け揃いだな。仲間の仇が聞いて呆れる」
「うっせ、バーカッ! 見てたのはこいつ一人なんだよっ!」
端にいた小柄な男が覆面の男を指差し、顔を真っ赤にしてヤクモの言葉に抗議した。リーダー格の男を除いた他の男たちも、先ほどの余裕顔とは打って変わって顔を紅潮させていた。
ここで待ち伏せをされていたということは、あの覆面の男に尾行を許した上で先回りまでされたということになる。『別物』という言葉を思い出し、背筋に緊張が走った。
「なるほどな。それであわよくば子供を盾にできる今の内に、復讐を済まそうという魂胆か。間抜けなゲスが考えそうなことだな」
「テメエッ! 言わせておけばっ!」
ヤクモの警戒心は覆面の男に向けられている。しかし、男たちの行動に何か釈然としないものがある。隠れていたにも関わらず、なぜ奇襲を掛けず正面に出て来たのか。ヒシタが離れるまで待ったのか。言葉通り仇討ちだけが目的なのか。本当に子供の誘拐が目的だったのか。
とにかく、少しでもアシタの方から気を逸らさなければならなかった。
「まてまて、オメエら……。まったく、あからさまな挑発に乗るんじゃねえよ」
両手で仲間たちを制しながら、男はゆっくりと前に進み出た。そして、腰に差していた刀を手慣れた動作で抜いた。まるで、こちらに見せつけるような大仰な抜きっぷりだった。
抜かれた刃の形状がヤクモのそれと似ている。ヤクモの刀はイズミから譲り受けたもので、この世界には二つとない独自のものだとイズミは言っていた。有体に言えば、幼い頃に『映画の中で見た刀』とそっくりなのだ。
「まあ、心配すんな。囲ってボコろうなんてのはオレたちの流儀じゃねえ。こいつらは見てるだけで、テメエの相手は俺一人だ。手出しはさせねえよ。それと、そこのガキはお前を倒した後に俺らできっちり介抱してやるよ。仕事は終わったしな。元々、ガキには興味がねえんだ。それともう一つ――」
そう言うや、地を飛ぶような踏み込みで一瞬の内に間合いを詰めて来た。
「誰がフヌケな腰抜けだとぉっ! ごるあァッ!」
男は怒りが沸々と溜まっていたのか火山のように気を吐き出し、刀を横薙ぎにした。ヤクモはその圧に押されるようにして後方に飛んだが、間合いを深く潰されたことで完全に避けることができず、刃先が服を掠めていった。失態だった。体から発せられる圧力とその振りの鋭さはヤクモの想像を超え、主導権を渡す形で守勢に回ってしまった。着地の体勢を崩ずされ、思わず片膝を地面に付きそうになる。そこへ、追い打ちの第二撃を振り下ろそうと男が向かって来る。
《相手の攻撃を己の刀で受けるなど愚か者のすることだ。刃毀れする、刀身が曲がる、下手をすれば折れる。一対一ならばまだよかろう、多人数の戦闘では、武器を失うということは命を失うに等しい。刃には相手の武器を触れさせるな。どうしてもという時は必ず『いなす』のだ。今日からはその稽古だ》
体捌きで避けることは困難だと体が訴えている。ヤクモは、鞘に入れたままの刀を頭上に持ち上げた。
「鞘ごと叩き斬ってやらああァッ!」
大きく振りかぶって力任せに刃を叩きつけようとする。型こそ滅茶苦茶で隙だらけにも思えたのだが、骨まで断ち切る勢いで振り下ろされる白刃は、相手の恐怖心をくすぐり、凍てつかせるに十分だった。それ以上の恐怖を経験したことがないものにとってはだが。
(殺った!)
男は確信した。このまま刀を振り下ろせば、体の勢いと上方からの体重で確実に押し潰せる。鞘を持った手は斬撃に負けて支えきれず、刃を肉まで届かせるだろう。それで終わりだ。
――確かな手応え、があるはずだった。
あいつの体が消えた。振り下ろした刃は、柔らかい土に深々と突き刺さった。その衝撃から、激しい痺れが腕を伝い、脳まで一気に駆け上がる。目の前にいたあいつは、確かに鞘で攻撃を受けた。いや、受けようとした。しかし、そこにあるはずの感触がなく、そのまま刃は地面に吸い込まれ、同時にあいつの姿も見失った。空蝉のように、鞘だけがそこに転がっていた。
「が、はっ……」
意識の外から、腹部の辺りに重い一撃が放たれた。横隔膜がせり上がり、呼吸ができなくなる。刃物で斬られた感触ではなく、何か鈍器のようなもので殴打されたような衝撃だった。視線を下ろして見ると、間違いなく刃の部分が腹筋へとめり込んでいた。
「て、てめえ……刃引き、いや、刃がない刀だと……」
そのまま前のめりに倒れ伏した。
「キョ、キョウちゃんっ!」
残された男たちが一斉になって、自分たちのリーダーの名前を呼んだ。その中の一人が刀を高く振り上げ、気合いとも悲鳴とも判別できない声を出しながら撃ちかかって来た。先ほどの男に比べれば、全く速度も力もない攻撃だった。
刀が振り下ろされる前に、呼吸を合わせて一歩だけ間合いを詰めた。左の手を軽く伸ばし、掌で包み込むようにして柄を握った両手を受け止める。そして、右前方に大きく踏み出し相手の左側面を制し、重心が定まらず、おざなりになった相手の右足を自身の左足で勢いよく払った。
その一連の動作が水がゆるやかに流れのようにして行われ、男は宙を舞い、一回転しながら地面に背中を強打した。呻き声を上げ地面をのたうつも、少し経つと震える体で大人しくなった。
「くそっ! くそがっ! おい、二人で挟み込むぞっ!」
小柄な男がもう一人の仲間に呼びかけた。さっと左右に分かれると、刀を抜いて前に突き出し、こちらの様子を窺っている。両者とも、刃先がフルフルと震えて止まらずにいた。
「ヤメロッ! オメエらッ!」
声に振り向くとキョウと呼ばれた男が目が覚ましていた。半日は起き上がれない程度に強く打ったつもりだった。ヤクモはその体の頑丈さに心の中で驚嘆した。
「勝負はまだ付いてねえよ。手加減なぞ舐めたマネしやがって……。確かに、さっきの攻防はオレの負けだ。それはそれでいい。だがな、オレはこの通り、ほれ、ピンピンしてるぜ?」
キョウは、踊るようにして飛び上がった。着地時の衝撃が腹に来たのか必死で耐えているような形相になったが、すぐにふらつく足を抑えて、軽快なステップを踏んで見せた。
「それにな、漢と漢の勝負に手心を加えて水を差すようなヤツは許せねえんだ。さあ、続きをやろうぜ! 今度はオレが、テメエをブッ飛ばしてやるからよ! 本気でこいやっ!」
ヤクモの心中に、涼やかな風が通り過ぎた。なぜか、口許が笑みでゆるむ。しかし、相手はあの誘拐犯どものリーダーだ。心の帯を締め直す。
キョウが、右手の刀を逆刃に持ち、目の高さまで持ち上げた。それに左手を優しく添えると、何やらブツブツと呟いている。
(言霊詠唱!?)
ヤクモがあまりの驚きに我を失っている間に、キョウは刀への呟きを終えた。途端、その刀身が赤い光を宿して淡く発光する。
「いくぜ……、その刀に免じてオレも峰で打つ。手を抜くわけじゃねえ、オレは本気の本気だっ!」
言葉と一緒にキョウも走った。間合いに入った瞬間にヤクモ目掛けて上段から刀を振り下ろす。爆音と共に土が噴火し、舞い上がった粉塵が視界を蔽った。
ヤクモは大きく後ろに飛び去ると体勢を立て直して追撃を待った。一振りで地面が抉れた。先ほどのように攻撃をいなした上で隙を付くのは無理がある。最小の動きで避けたのでは剣圧で吹き飛ばされてしまうだろう。ならば打つ手は……。
煙幕を割いて追撃が――来ない。段々と土煙が薄らいでいくと、地面に伏している人影があった。
「くそっ、情けねえ。体が、体が動きやがらねえ……」
「キョウちゃん! だ、大丈夫かーっ!」
キョウが倒れている所へと、慌てて二人が駆け寄った。その光景を見たヤクモの心に、激しくのたうつ波のようなものが去来した。頭のてっぺんがチクチクとささくれ立つ。
「無防備な子供を躊躇いなく殺そうとした外道どもにしては、随分と仲間想いなことだ」
悪態をつかずにはいられなかった。マヒメに向かって銃を撃った男の顔が、目が、口が頭の中に蘇る。一切の逡巡もなく、狂喜の色さえ宿したあの表情。こいつらは、あの男の仲間なのだ。
「ま……待て。なんだそりゃ、今の言葉、一体どういうことだ?」
キョウは、ふり絞るような声を出し、倒れたままで顔を上げた。
「言葉の通りだ。俺が斬った男は、幼い女の子を相手に一切の躊躇いなく引き金を引いた。目に愉悦さえ浮かべて。斬ったことに言い訳はしない。お前らの仲間を斬ったのは間違いなく俺だ」
キョウは「ウオオッ」と気合いを入れると、全身を小刻みに揺らしながらも、自力で足を立てた。そして、前屈みな姿勢のままで、仲間の覆面を睨み付ける。
「どういうことだ……オモカイさんよ。武器も持たずに無抵抗だったサックが、命乞いをしたにも関わらず、この男は慈悲もなく問答無用で斬り捨てた、アンタは確かにそう言ったよな?」
全員の視線が一つに集まった。その先で、さわっと山おろしの風が吹き、オモカイの顔を隠した布の裾がひらひらと舞揺れる。
ヤクモは、不意に露わになった口角が、ニタァッと不気味に釣り上がるのを見た。