三
一見したところ、オチハ村はいつもの様子と変わるところがなかった。祭りに向けての活気はあるが、別のことで殺伐としているような雰囲気は感じ取れない。あちこちから大きな声が聞こえてくるが、そのどれもが祭りの準備のためのものだった。大人たちは声をかけるのが憚れるほどに慌ただしく動き回っている。
「そんなとこにチノ葉を置くんじゃないよ! 神前へ祀るのに汚れちまうだろっ! 罰当りったらないね! 愚霊が来るよ!」
「おーい、巫女様に渡すウツリ木はこれで十分なのかー?」
「誰か、村長に手珠と頸珠の数をもう一回確認してきてくれ! 踊り子の分はこれで足りてんのか?」
「あんたたち! 小竹葉を採りに行くよ! 三つ数える前に支度しな! さあ、ヒト、フタ、行くよ!」
「シャクケン山脈で取れた玉だよ! 見なよ、この艶、この輝き! 頸珠用にどうだい? 父ちゃんも惚れ直すこと間違いなしだ!」
通りを歩いていれば、二軒置きぐらいには必ず威勢の良い声が聞こえる。毎年この時期になれば、村の騒ぎを一つの風物詩として面白がり、祭り当日を外しても、村外から訪れる見物客が毎年多くなっているそうだ。宿霊祭を経験した人々が、この村の良さはそれだけではないと広めてくれたのだろう。ヤクモもそのことを嬉しく思うし、何よりこの喧噪が大好きだった。
山で暮らしている限り自然は雄大で懐深く、精霊たちはどこまでも優しい。だが、あの領域は清廉で美しすぎるために、時には人間臭い場所でその空気に塗れたくなる。ニンゲンとしてこの世界にいる、それが実感できるのだ。
《えー、ヤクモ兄ちゃん、ガンタがまた悪戯したみたいで、ガンタの婆ちゃんに尻を叩かれてます》
《カエルさんが鳥さんにさらわれたぁー》
《こちらマヒメ、婆ちゃんに怒られいる隙にガンタの部屋に侵入しました。今こそ、『ガンタ頭突き』で壊された土団子の仇を……》
《木箱の中、お魚くさい! まっくら! くらい!》
《よーし、みんなその調子だ。そのまま任務を続行してくれ》
子供たちも楽しそうだと、ヤクモの顔も思わず綻ぶ。このまま何事もなく平穏無事に日が過ぎれば、祭り本番まで残すところ明日一日。イズミさんも思うことがあったようで、預けてあった刀を、念のためだと渡された。だが、得体の知れない不安など、そのほとんどが杞憂で終わったりするものだ。
ヤクモの前方に人だかりができていた。何事かと隙間から覗いてみると、狐のような仮面を被った男が、胡坐をかいて座っている。足元には布の敷物があり、その上に様々な小物が売り物として置かれていた。
(あ、あれは!)
ヤクモは眼を疑った。そこに並べられているモノに見覚えがあった。ただ、そのどれもがこの八年間の見聞で、その存在を諦めたモノばかりだった。追い求めた末に、何一つ見付けることが出来なかった。だからこそ、この世界は"チガウ"と認めたのだ。
(鉛筆に消しゴム、コンパス、手帳、腕時計、ライターに十徳ナイフまで、あれはお酒の瓶?)
どれもこの世界のモノではない。文明的にあってはならないモノだ。思わず見物客を押し退け、割り込むようにして最前列まで身を乗り出した。普段のヤクモならば、こんな粗暴は絶対にしない。だが、その商品たちは、ヤクモが我を忘れることに十分な働きをした。
「よう、兄さん。物欲しそうな好い顔してるね。どれも中々手に入らない極上の一品だ。西はツクカヤ、東はホツマまで千里の道を訪ね歩き、探し出したるこれらの品々。どうだい一つ、オマケしとくぜ?」
狐面の男は自身の膝を打ちながら、きっぷの良い売口上を述べた。
「これ……一体どこで手に入れたんです?」
ヤクモは、腕時計を指さしながら、目の前の男に尋ねた。背筋に流れる汗が止まらない。
「ああ、それか。それはな――」
「てめえ! 一体どういう了見だっ!」
不意に背後から怒鳴り声がした。声の様子に只事ではないと推し量り、売り物について問い質せないことを口惜しく思いながらも人の円から外に出た。声のした場所に人々がわらわらと集まって来ている。誰かを取り囲んでいるようだが、向うも人垣が邪魔でここからは見えない。ヤクモには先ほどの声の主に覚えがあった。急いで駆け寄り囲いの中へ通してもらうと、案の定、行商人らしき男の襟首を見知った顔が掴んでいた。
「巫女様が何だって? もう一度言ってみろっ!」
「私はただ……、この御時勢で武器は有るのに売らないなんて商人なら愚かだと……」
行商人さえ知っている。どうやら昨日の顛末は、村の人々に知れ渡っているようだ。男の言葉が終わらない内に、若者の顔がみるみると朱色に染まった。その左足を思いっきり前方へと踏み出すと、右手に掴んだ行商人を前屈になる勢いで後ろの土塀へと投げつけた。物凄い音を立て行商人は倒れ、柔らかい土塀には人の形がくっきりと残っていた。
「余所者に何が分かるっ! 巫女様はなぁ、俺たちのことを想ってそうしたんだ! それを商人風情が上から目線で小馬鹿にするような言葉を……許さねえ!」
興奮収まらぬ様子で、若者は叫んだ。倒れた行商人の男を睨み付け、ゆっくりとにじり寄る。
「それぐらいにしておけ、ヒシタ」
これ以上はまずい。関係者故に差し出がましくもあるが、大事になる前に止めるべきだと判断した。ヤクモは二人の間に割って入ると、左手でヒシタの肩を押さえた。ヒシタはアシタの実兄で、来年に成人という年齢だが、その腕っぷしの強さには一目置かれている。実際、この村の中で彼に腕力のみで勝てる男はそうはいないだろう。幼い頃からの顔見知りなため、弟のような存在でもあった。
「ヤクモさん、でも!」
「もういいんだ、ありがとなヒシタ」
力に訴えたことは褒められないが、ヤクモもヒシタと同じ気持ちだった。ヒシタはこの衆目の中でヤクモの想いを代弁してくれたのだ。止める側として態度にこそ出せないものの、心の中で深く頭を下げた。
「こりゃあ、ヒシタ! 何をしとるかっ!」
群衆の中から威厳と厚みのある声が雷鳴のように轟いた。名前を呼ばれたヒシタの体が、びくんと大きくのけぞって"気をつけ"に似た姿勢になった。振り返った二人は、人の壁が断ち切られたようにさっと左右に分かれるのを見た。そこから歩み出て来たのはヒシタに勝るとも劣らない巨漢で、豊かなアゴヒゲを蓄えた男、この村の長タジナだった。
「む、村長様……これには訳が……」
「言い訳など見苦しい! 御客人の前で儂の顔に泥を塗る気かっ!」
たじろぐヒシタへと、村長は威圧のこもった鋭い眼光を向けた。ヒシタの体が萎縮して、どんどんと小さくなっていく。若いヒシタには村長タジナの歴戦の迫力に抗う術はなかった。
「先ずはこの馬鹿者を止めてくれたことに礼を言う、相手には気の毒だが、人死にが出なくて良かったわい。かたじけないヤクモ殿」
村長はすっかり縮こまったヒシタの頭に、大きな拳をボカンと落とし、ヤクモの方へ頭を下げた。
「いえ、俺は何も」
感謝されるようなことはしていないと、釣られるように頭を下げた。タジナはすっと頭を上げると、そんなヤクモの姿を見てにっこりと微笑んだ。
「ちょうどお主が村に来ておると聞いての。こちらの御客人が興味を示されたゆえ、祭りの前に一度顔合わせをと思ってな。探しておったところにこの騒ぎだ」
村長はそう言うと、拳骨の痛みにうずくまるヒシタに、やれやれといった顔をしながら、その肩に優しく手を置いた。
その村長の背後に三人ほど、一見してこの村の人間ではないと分かる者たちがいた。その中央に位置する人物は、薄い布で顔を覆っていて人相こそ分からないが、小柄で華奢な体つきで、胸の辺りに膨らみがあった。翡翠の勾玉を編んだ首飾りを着け、衣の材質が絹地のようで丹土による文様があることなどから、身分の高い女性だというのが窺える。
その人物を挟むようにして、タジナと並ぶ巨漢の男が右手側に、身長は一般的だが、非常に痩身な男が左手側に立っていた。二人とも白色の衣袴を着ており、右側の男はその上に短甲を着け、右手に身長ほどの槍を、腰には頭推の太刀を提げている。左側の男も短刀のようなものを帯に挟んではいるが、護衛の武官と相談役の文官といったところだろうか。
「初めまして、ヤクモ様。わたくし、イマル国王都ニニヨより参りましたオグツミ=イハヤと申します。どうぞイハヤとお呼びくださいませ」
イハヤは静かに腰を落とし頭を下げた。その動作に呼応して面前の布がゆらりと揺れる。短い所作ではあったが、その流れには無骨さの欠片もなく、雅に洗練されていた。
「お初に御目にかかります。イハヤ様」
瞬時に両足の踵を付け、両手をぴたっと横腿の上に揃えてから、出来うる限り慇懃に頭を下げた。畏まった貴族の社交辞令など山育ちのヤクモに習うべくもないが、養母に恥を欠かせるわけにはいかない。名前を失う前の記憶を一生懸命にたどって得た作法だった。
横の二人の顔をちらりと見たが、特に不満の色で歪んではいない。ヤクモは、ほっと胸を撫で下ろした。
二人の挨拶を見届けた村長が場所を変えようと提案し、一行が歩を進めようとした時だった。突如としてけたたましい雑音が耳の奥を支配し、その音と重なって切迫した子供の声が頭の中に響き渡った。
《ヤクモ兄ちゃん、助けて! マヒメが!》
《姉ちゃんがあぁぁ、助けて兄ちゃあぁぁん》
《どうした? 何があった?》
声はアシタとタツヒのものだった。一瞬、先ほどの伝心の流れでマヒメがガンタに仕返しをして、喧嘩にでもなったかとも思ったが、それにしてはタツヒの怯えた様子が尋常ではなく、アシタの声が緊急を伝える迫真のものだ。すぐに返した言葉にも、以降の応答がない。マヒメの身に危険が迫っているのは間違いない。
「申し訳ありません。我が主に仰せつかった大切な用事をまだ果たしておりませんので、少しばかり席を外させていただきます。用が終わり次第すぐに戻って参りますので」
急に慌てた様子を見せれば、不信感を与えるかもしれない。ヤクモは丁寧に事情を述べると、退席の一礼をした後でその場からゆっくりと歩み去った。そして、最初の路地を曲がり、死角に入ったことを確認すると、全速力で駆け出した。悪い予感に心臓が慌てだし、視野がきゅっと狭くなる。
《アシタ! マヒメ! ミルタ! タキリにタツヒ! 今どこだ、返事をしてくれ!》
ヤクモは走りながら子供たちへの呼びかけを続けた。誰一人として返らぬ声に焦りが募る。マヒメがいるということは、タキリとタツヒも一緒だろう。アシタがミルタを一人にするはずがないと考えれば、子供たちみんなが同じ場所にいるということになる。全員が何かの事件に巻き込まれたとみていい。村の中だと油断していた。自分の甘さを悔いたが、助けることの方が先だ。
(一体何があったんだ。頼む、無事でいてくれよ)
空を仰いだヤクモの視界に、淡く揺らめく緑の筋が飛び込んできた。それが、天へ帰るようにして次第に薄くなっていく。それを見たヤクモは藁にもすがる気持ちになって地面を蹴りつけ足を止めた。そして、狼煙が上がった場所へ向かうため、大きく息を吸い込むと、自身の持つ力の全てを振り上げる手足につぎ込んだ。