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前編

「浮気は男の本能だ。アデライーデ、お前も貴族の妻として、それくらい理解したらどうだ」


グランヴェル公爵エルヴィン・ド・グランヴェルは、そう言ってブランデーを口に含んだ。


書斎の革張りの椅子に深く座り、脚を組み、妻を見上げもしない。

言葉の中身も下劣だったが、それ以上に癇に障ったのは、その口調だった。

昨夜どのワインを開けたか、庭の薔薇が何色に咲いたか、そんな他愛もない話でもするみたいに、あまりに平然としている。


夫の上着には、甘ったるい香水の名残があった。

今朝、東棟の客室から出てきたという女のものだろう。

男爵家の三女、シェリー。

令嬢と呼ぶには少し年を重ねているが、男に寄りかかる仕草だけは妙に板についている女だと、侍女は言いにくそうに報告した。


アデライーデは、その報告を聞いた時点で、問いただす内容を変えていた。

昨夜誰といたのか、ではない。

隠す気があるのか、でもない。

もう、そこはどうでもよかった。

この男は、自分を妻とも思っていないのだと、ようやく認めるだけでよかった。


「……そうですか」


アデライーデは静かに言った。


三年前、シャルダン侯爵家からこの家へ嫁いだ。

由緒ある家柄に相応しい持参金を持ち、妻として必要な教育は一通り受け、夫の望む行事にも出るつもりでいた。

けれどエルヴィンは、夜会は疲れるだろう、社交は苦手だろう、体が弱いのだから無理をするなと、もっともらしい言葉で少しずつ彼女を屋敷に閉じ込めた。


子はまだ授からない。

その事実を、彼は一度も責める言葉にしなかった。

代わりに、いたわるふりをして外へ出る機会も、人と会う機会も、じわじわ奪っていったのだ。


「ならば」

「ならば?」


エルヴィンがようやく視線を上げた。

その目には、妻は反論しないという、鈍くて醜い確信があった。


アデライーデは、ゆっくりと微笑んだ。


「より良い男の子供が欲しくなるのも、女の本能ではないでしょうか」


書斎の空気が凍った。


エルヴィンの眉が、ぴくりと動く。

怒鳴る前に意味を測ろうとしたのか、ほんの一瞬だけ沈黙した。


「……なんだと?」

「本能なのでしょう?優れた相手に惹かれ、より丈夫で、より賢く、より良い子を望む。あなたがそう仰るなら、私にも同じ本能がございますわ」

「アデライーデ、お前は今、何を言っている」

「ですから」


彼女は小首を傾げた。


「今後は夜会に出席してもよろしいでしょうか、と申し上げているのです」


夫の顔色が変わった。


エルヴィンは、アデライーデが人前に出るのを嫌った。

社交が下手だから。公爵夫人として未熟だから。体が弱いから。

理由はその時々で違ったが、要するに、妻を閉じ込めておくほうが都合がよかったのだ。

夜会に出れば、人は気づいてしまう。

アデライーデは社交が下手な女ではなく、むしろ洗練された侯爵令嬢だったと。


「……好きにしろ」


吐き捨てるようにエルヴィンは言った。


「だが、公爵夫人として恥をかくな。グランヴェルの名を汚せば、ただでは済まない」

「もちろんでございますわ」


アデライーデは優雅に一礼し、書斎を出た。


扉が閉まった途端、胸の奥で何かが澄んだ音を立てた。


もう、この結婚にしがみつくのはやめよう。


王都で最も格式高い夜会は、三大公爵家が持ち回りで開く月例のものだ。

その夜、三年ぶりに姿を現したグランヴェル公爵夫人に、会場はすぐさまざわついた。


「あれが……」

「公爵夫人?」

「夜会には出さないと聞いていたけれど……」


囁き声の中を、アデライーデはゆっくり歩いた。


薄いブルーグレーのドレスは、嫁ぐ前に母が誂えてくれたものだった。

あなたの目の色に合うわ、と笑って。

一度も袖を通せないまま、三年間、箪笥の奥に眠っていた。

少し流行は過ぎているはずなのに、不思議と古びて見えない。

きっと、仕立てが良いのだ。

あるいは、自分がようやく着るべき場所へ着てきたからかもしれない。


真っ先に母のもとへ向かうと、シャルダン侯爵夫人は娘の姿を見て一瞬だけ目を潤ませた。

だがすぐに、いつもの気丈な笑みを浮かべる。


「アデ。まあ、綺麗よ」

「三年も寝かせてしまいました」

「ドレスを、ではなく?」

「……ええ、たぶん」


母は何も聞かなかった。

ただ娘の手を取り、指先に力を込めた。

その温度だけで、胸が少し軽くなる。


その後は旧友たちと挨拶を交わし、壁際でシャンパンを口にした。

驚くほど自然に会話が続く。

誰の顔色も窺わなくていいだけで、こんなにも言葉は軽くなるのか。


社交が下手。

夫が何度も繰り返したその評価が、いかに歪んだものだったかを、アデライーデは自分の身体で思い出していった。


「失礼。こちらに少し場所を借りてもいいだろうか」


不意に低い声がした。


振り向くと、一人の青年が立っていた。

二十代半ばほど。亜麻色の髪に、深い蒼の瞳。

飾り気のない燕尾服を着こなしているのに、立っているだけで人目を引く。

少し離れた位置には護衛らしき男が二人いた。


見覚えはない。

けれど、ただの貴族ではないとすぐにわかる。


「どうぞ」


そう答えると、青年は壁際へ並んで立った。


「助かった。あの中央は息が詰まりそうで」

「わかります。今日はとくに人が多いですもの」

「それもある。だが一番は」


青年はわずかに目を細めた。


「あなたが、ここにいたからだ」


あまりに自然に言うので、アデライーデは一拍遅れて言葉の意味を飲み込んだ。


「初対面の女性への挨拶としては、ずいぶん率直ですのね」

「無礼だったな。だが、嘘は言いたくなかった」


青年は肩をすくめる。


「シャルダン侯爵家の令嬢は、昔は社交界の華だと聞いていた。なのに嫁いでから一度も夜会に出てこない。不思議に思っていたんだ」

「……それはまた、よくご存じで」

「名前だけは前から知っていた。けれど今日、実際に見て納得した。なるほど、噂になるわけだ」


からかっているのではない。

その目は驚くほど真っ直ぐだった。


「グランヴェル公爵夫人、アデライーデ殿。違うだろうか」

「ええ。あなたは?」

「レアンドル」


名だけを告げた。


どこかで聞いたことのある響きだと思いながらも、会話はそれ以上深く踏み込まなかった。

音楽の話をした。

新しく王都にできた茶葉店の話をした。

王宮庭園の春薔薇は南区画より東区画のほうが美しい、などという、どうでもいいのに妙に楽しい話もした。


レアンドルは、こちらの言葉を奪わない男だった。

言い終えるまで待ち、くだらない話にもちゃんと笑い、知識をひけらかすのではなく、興味を向けてくる。

アデライーデは気づけば、三年分の呼吸を取り戻すみたいに、肩の力を抜いていた。


「あなたと話していると、時間が早い」


そう言われて初めて、ずいぶん長く話していたのだと知る。


「また来週、王宮で月例夜会がある。来てくれるだろうか」

「予定は、まだわかりません」

「来てほしい」


その一言だけが、ふいに重かった。


アデライーデが返事に迷っていると、少し離れた場所から駆け寄ってきた友人の伯爵夫人が、真っ青な顔で彼女の袖を引いた。


「アデ、あなた、今どなたと話していたの」

「レアンドルと名乗っておられたけれど」

「王太子殿下よ!」


その瞬間、アデライーデは手の中のグラスを落としかけた。

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