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授業1「機会損失」

朝の陽ざしが、商業科の小さな教室にやわらかく差し込んでいた。戦士科や魔法科の華やかなオリエンテーションを経て、ここ商業科では今日が本格的な授業の初日になる。学院が設けている一年制+延長コースというシステムのもと、まずは全員がこの教室に集まって簡単な“初回授業”を受けるのだ。


諒は廊下の奥から歩いてくる生徒たちを見やりながら、席に教科資料とノートを並べていた。かつて戦士科や魔法科で見たような剣やローブが目に入らないのは、やはり少し新鮮だ。ここに集まる者たちは、戦士としても魔法使いとしても抜きん出た才能を持たないか、あるいはそういった道に魅力を感じなかった生徒が多い――そんな話を事前に聞いている。だからこそ、彼らこそ“数字”や“取引”を武器にできる潜在能力があるのでは、と諒は信じていた。


部屋に入ってきた生徒の数は十名ほど。フィオナ、カイル、ロイなど、すでに顔合わせした者たちが先頭を切って入室し、余った席にそれぞれ腰を落ち着ける。先日のオリエンテーションで簡単な自己紹介を済ませたとはいえ、教室はまだぎこちない雰囲気だ。諒はそんな空気を察して、明るめの声で切り出すことにした。


「おはようございます。じゃあ、今日から商業科の授業を本格的に始めましょう。……と言っても、最初から商売の話をするのもなんですし、まずは学院のシステムも含めてざっくり整理したいと思います。皆さん、1年間の集中コースというのはもうわかってますよね?」


誰も声を上げないが、全員が「一応は把握している」という目で応じる。諒は黒板に「1年制(前期+後期)」と書き込む。


「はい、ご存知のように、まずは基礎コースとして4〜6ヶ月かけて“商業の基礎”を学びます。これは戦士科や魔法科なら体術や魔法理論の基礎を学ぶところを、うちはおもに“数字の見方”や“取引の概念”に割くという感じですね。そして後期でより専門的なこと――たとえば、高度な交渉術や在庫管理、冒険者に寄り添ったビジネス計画――を学んでいきます」


カイルが机に頬杖をつきながら、ぼそりと尋ねる。


「で、1年終わったら卒業だよな?」


「うん、普通はそれで卒業扱い。ただ、もっと深く学びたいとか、魔法科みたいに上級研究が必要な人は、半年〜1年の延長コースへ進む選択肢もある。……もっとも、商業科で延長を希望する人は少ないかもしれませんね。でも、将来“自分で大きな商会を立ち上げたい”とか“学院で専門研究したい”っていう人がいれば、選んでもいいと思います」


ロイが手を挙げ、不安げに口を開く。


「でも、1年で足りるんですか? 僕、実家が雑貨屋なんですけど、いまだにうちの親だって完璧に数字を扱えてるわけでもないように見えますし……」


「一気に全部を学べるわけじゃありません。だけど、要点だけでも掴めれば、卒業後に仕事をしながら吸収していくこともできるはず。あくまで学院は、短期集中で基礎を固める場と思ってくれればいいんです」


するとフィオナが控えめに手を挙げ、つぶやく。


「あの、私は続けたい気持ちもあるんですよね。実家が商会なので、もっと専門的に広報とか宣伝の方法を学びたいというか……」


諒はうなずく。


「うん、広報や宣伝の方法も基礎コースで説明するよ。でも延長コースで、さらに高度なマーケティングとか商品プロデュースなんかを突き詰めてもいいかもしれないですね」


「ま、とりあえず今日は初回なので、改めて学園がどう動いてるかを押さえたら、さっそく実習――ってほどじゃないけど、“数字を使う楽しさ”を味わう演習をやってみましょう」


諒はノートを開き、ペンをカラカラ回して机に置く。一度大きく息を吐いてから黒板に向き直った。


「戦士科や魔法科のオリエンテーションを見た人もいるかもしれません。あちらは結構、派手でしたよね。うちはオリエンテーションと言っても、この人数でこじんまり始めるわけですが……それがいい点もあると思います。例えば僕が今からする話を、全員と近い距離でやれるわけですし」


一息ついて、チョークで「機会損失」と小さく書き込む。「きかいそんしつ……?」という呟きが教室に広がり、諒はニコリと笑みをつくった。


「さて、みなさん。例えば――」


諒は白地図のようなものを黒板に描きながら、続ける。


「仮に魔法科の人たちが必要とする素材Aと素材Bがあったとしてね。ある日は素材Aを採取しに行くのにちょうどいい日和、そして素材Bが高値で売れる日が重なることがあるかもしれません。……でも、同じ日に両方の採取地には行けないとしたら、どっちかを捨てなきゃならない。これが“機会損失”の考え方です。Aを選ぶならBを失い、Bを選ぶならAを失う」


静かに耳を傾ける生徒たち。カイルがすぐに即答する。


「だったら利益デカいほうを選べばいいだけじゃね?」


フィオナが笑いながら手を挙げる。


「それが、読めないんですよね。素材Aの値段が後で上がるかもしれないし、Bの採取が失敗するかも……。実際のクエストや商取引では、何が起きるかわからない」


「その通り。だから、機会損失とは、“他方のチャンスを捨てることによる、見えない損失”を念頭に置いて決断するってことなんです。もしAを選ぶなら、Bの成果が得られない。そこでBがめちゃくちゃ稼げる可能性を考慮しておかないと、後になって『なんでBにしなかったんだ!』って後悔するんですよ」


ロイがメモを走らせながら納得の表情を浮かべる。


「へえ、そっちを選んでたら今頃いくら儲かってたんだろう、みたいな話ですね」


「そうそう。じゃあ実際にイメージを膨らませましょう。たとえば“月影の森で銀色の薬草”か、“赤樹海で緋色の鉱石”か。同時には行けないという想定で、どちらを選んだ場合にどんな損得がありそうか、考えてみてください」


諒が黒板に二つの候補地を描き、メリットやデメリットを箇条書きする。銀色の薬草は魔法科が需要多く、そこそこ安定。ただし夜行性モンスターが出る危険がある。緋色の鉱石は大当たりなら一攫千金だが、価格変動が激しく、採掘の初期費用もかかる――といった具合だ。


フィオナは目を輝かせる。


「私は薬草かなあ。確実に売れるほうが好きだし、その分あちこちに売り込みやすい。『お買い得ですよ!』って宣伝しつつ、戦士科や魔法科の人たちと取引すれば、そこそこ稼げると思う」


「俺は逆だなあ。鉱石ででっかく狙いたい。……運が悪くて収穫なしでも仕方ないって割り切る、ギャンブルってわけだろ? 俺はそっちが性に合うね」


カイルが胸を張って言い返し、クラスの生徒が笑い声を交える。


諒も、まさにこういうやり取りを誘いたかったと思い、微笑を深める。


「みんな、そういう選択をしたら、どっちかのチャンスを必ず捨てることになるってわかりますよね。薬草を選んだら、あのとき鉱石を掘れば一攫千金だったかも……ってシナリオは消える。逆もまたしかり。大事なのは、自分が“失う可能性のある利益”を事前に把握して、納得のいく決断をすることです」


ロイが、なるほどと首を縦に振る。


「じゃあ、あらかじめこの“赤樹海の緋色の鉱石”がいくらくらいで取引されそうか、調べておけばいいんですよね。実は思ったより安いかもしれないし、そうすれば薬草のほうがいいって話になりますし……」


「うん、そうだね。情報を集めるってことが、商業の基本ですよ。この考え方は日常でも使える。もし皆さんが“この授業時間を何か別のことに使ったら、もっと有意義だったかもしれない”って思ったら、僕がちゃんと教えられなかったってことになる。いわゆる機会損失になっちゃうわけです」


冗談っぽい言い方に教室がくすくす笑いで包まれる。たしかに、自分たちの時間をここで“商業科の授業”に注ぎ込むのだから、得られるメリットを感じなければ「時間のムダ」と見なす可能性はあるというわけだ。フィオナが楽しそうに言葉を挟む。


「先生、それなら私たちが“商品価値を高める宣伝”をする場合も同じかもしれないですね。ほかの作業を犠牲にして、宣伝に時間を割くわけだから……その成果が上がらなければ損したことになる」


「その通りです。うん、こういう視点を持ってくれると、いろいろな場面で役立ちますよ。戦士科や魔法科が何してるか知らないけど……僕らはあくまで数字と戦略で勝負するんです」


諒は板書を終え、チョークを置いた。


「さて、演習として、今日はみんなに小さな課題を出そうと思います。いま例に出した“月影の森”と“赤樹海”のどちらを選ぶか、あるいは両方ともやらないか――そこを考えて、どんなメリット・デメリットがあるのか、どれだけのリターンが想定されるかを各自でまとめてみてください。要するに『選ばなかったほうの機会』について数字を推計してみるってことですね」


数名の生徒が「推計……数字を……?」と面倒くさそうな顔をするが、フィオナは面白がるようにノートを取り始める。


「いいかもね。仮想でも、ちゃんと値段を算出してみれば練習になる」


カイルも腕を組んで苦い表情をしながら、つぶやく。


「ま、やってみるか」


「自分で適当な値段を設定して構わないですよ。たとえば薬草は1束10ゴールド、1日で3束とれるかもしれないけどモンスターに遭遇したときの損失とか……想像を働かせれば、これが将来リアルな判断に活きます。あさってくらいまでにまとめて発表してもらいましょう」


諒がそう告げると、教室にいた生徒たちはそれぞれ、納得したようなため息や軽い会話を交わしながら課題をメモしている。機会損失なんて言葉は聞き慣れないが、実際にやるとなるとちょっと楽しそう――そんな空気が漂い始めたのを感じ、諒は胸をなでおろした。


「よし、じゃあ今日はこのへんで終了。短かったですが、これが商業科の学習スタイルの一端です。皆さん、自分の時間をここに割いて損したって思わないように、一緒に成果を出していきましょうね」


軽い拍手が起こる――ほんの数人だけど、まったく盛り上がらなかった初日の雰囲気とは確実に違っている。フィオナは席を立ちながら、諒へにこやかに声をかけた。


「機会損失……面白かったです。私、薬草のほうがいい派なんだけど、じっくり理由をまとめてみます。先生、またいろいろ教えてくださいね」


「はい、もちろん。フィオナさんの“宣伝力”にも期待してますから」


彼女が笑顔を返すと、カイルやロイもそれぞれ書いたメモを眺めながら教室を後にしていく。外はすでに午後の光が差し込み、戦士科や魔法科の学生がグラウンドや廊下を移動する賑やかな気配が聞こえてきた。


諒は荷物を軽くまとめながら小声でつぶやく。


「今日は上々の滑り出しかな……」


先ほどの魔法科演習ほど華麗な光景ではないが、数字による論理が少しは生徒に響いた手応えを感じる。異世界でビジネス論を広める日々が、こうして確かな一歩を踏み出したわけだ。


そんなふうに独りごちながら、諒は教室をあとにする。いずれ戦士科や魔法科との協力関係で、もっとリアルなビジネス演習をやる日も来るかもしれない。今日はそのスタートライン――そう考えると、本人でさえ明日の準備に力が入るというものだ。


こうして、商業科の初日の授業は“機会損失”という仮想ケースを通じて、地味だけど現実的で面白い“数字の使い方”を示しながら幕を下ろした。授業後の教室には、ほんの少しだけ生徒たちの前向きな気配が残っていて、諒はそれが何よりの励みになると感じていた。

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