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プロローグ

「マネー・イズ・ジャスティス!」


橘 諒(たちばな りょう)はデスクに腰かけたまま、拳を軽く突き上げるようにしてそう呟いた。深夜のオフィスには、彼の声だけがやけに響く。

残業続きで疲労は隠せないが、その顔に暗さはない。むしろ“稼ぐことで人生を変えられる”と信じて疑わない様子だ。


「今月のクロージングレートは想定を上回ってる。追加提案をセットアップすれば、来期もプラスアルファの売上を見込めそうだな……」


彼は資料の山をひととおり目で確認しながら、PC画面を眺める。データ分析を得意とし、複数の案件を同時進行して結果を出すのが諒のスタイル。実際、社内の営業成績でも上位に位置する“優秀なサラリーマン”として知られていた。


「そうだ。クライアントのコスト負担を抑えたプランをブレストしてみよう。顧客満足度が上がれば、リピート購入につながる可能性が高いし……」


パソコンに打ち込む手は休まず動く。稼ぐチャンスが転がっている限り見過ごしたくない――それが諒の生き方だった。


「明日のカンファレンスには、インサイトを意識したセグメンテーション案を持っていくか。よし、決まりだ。あとは残りのログと書類をクリアにすれば……」


オフィスに響くキーボードの音が急に途切れる。振り返ってみれば、時刻は午前一時を回っていた。まばらに残っていた同僚たちも既に帰宅し、フロアの端で微かにプリンターが鳴るだけ。机には栄養ドリンクの空容器が転がり、湯気の冷めきったカップ麺の跡がある。ただ、諒はそれを見ても疲労というより“もう少しやれる”という意欲を先に感じてしまう。


「こんな時間か……でも、まだイケる。月次の売上達成はできそうだし、いま仕掛ければ来月も一気に伸びるはず」


“マネー・イズ・ジャスティス”――と自分に言い聞かせるように、再び書類をめくり始める。

会社員としての誇りや社会貢献という側面もあるが、何より“稼ぐ快感”がたまらない。売上目標を超えた瞬間の達成感は、一度味わうとやめられない。さらに顧客満足が高まれば、評価やボーナスも右肩上がりになる。プランニングや数字管理でそれを実現できるなら徹夜も惜しくない――彼はそう考えるのだ。


「もうひと押し……この改善ポイントを加えれば、クライアントもインセンティブを感じ取ってくれるだろう」


自分の机へ向かおうと椅子から立ち上がったが、足元がぐらついて書類の山に手をつく。

頭が重く、少しめまいがした。思い返せば、何日まともに寝ていないだろうか。栄養ドリンクの本数だって、普通はこんなに飲まないはず。少しだけ頭を振って気を取り直す。いつもならこれで“あともうひと頑張り”のスイッチが入る。


「まだ……やらなきゃいけないことがあるんだよな……」


それでも視界が徐々にぼやけ、呼吸が乱れるのを止められない。画面を見るたびに文字列が揺れ、キーボードを押そうとした指が震える。心の中では“月次のプレゼン資料を仕上げれば明日は勝てる”と繰り返し考えているのに、体がそれ以上動かない。


「うっ……、さすがに睡眠不足か……」


彼は本能的に椅子へ倒れ込むように座り直したが、背中がそのままデスクへ滑り落ちる。手が伸びてキーボードに触れたが、無情にも意識が遠のいていくのがわかる。


「あれ……まずい……明日の……打ち合わせを……外せば……損失が……」


最後まで思考をまとめようと必死だが、体が言うことを聞かない。睡魔ではなく、もっと深刻な疲労に侵食されている感覚。まぶたが鉛のように重くなり、視界が完全に暗転した。


音の途切れたオフィスに、PCのモニターだけが青白い光を放ち続ける。そこに映る未完成の提案書――それが、諒の“あと少しで攻め切ろう”という強欲とも言える意欲を象徴していた。

けれど、もはや彼にそれを仕上げる力は残されていない。

机に散らばる書類や空き缶が、彼がここまで奮闘した証。

“もっと稼ぎたい”、“もっと数字を伸ばせる”――そんな貪欲な仕事観が、彼を頂点近くまで押し上げると同時に、ついに肉体を壊してしまったのだ。


(……まだ仕事が……)


だが声は出ず、意識は深い闇の奥へと沈み、諒の上体は前のめりに崩れた。

誰もいないオフィスに軽い衝突音が響いたが、もうそれを気にかける同僚はいない。

モニターの明かりに照らされたまま、諒の意識は闇へと沈んでいったーー

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