8. 地下道ぎつねは青をみる
正門の向こうに、なつめが呼び出した、すらりと背の高いあの子がいた。
「なっちゃん」
すずが、正門を隔ててなつめに振り向く。心を見透かすようなその視線を、なつめはぐっと見つめ返した。
「わたし、すずに謝りたいことがあるの。陸上のことも、この札幌でのことも、嘘をついてほったらかすことになっちゃって、ごめんなさい」
すずの、まっすぐな視線が刺さる。それでも門の境界を、越える。
「でもわたし、すずのこと大好きなの。一緒に走りたかったし、高校でも一緒にいたかった。約束よりかなり遅くなっちゃったけど、それでも、わたしが卒業するまでの半年、すずと一緒にいたい」
すずは少し目を見開いて、そして視線を落として、
「謝りたいのは、わたしの方こそだよ」
と力が抜けたように笑った。
「本当はわたし、なっちゃんが部活を辞めたって知ってから、家のこととか、『大丈夫?』って何度も聞こうとした。けど、怖くて聞けなかった」
なつめは息を呑んだ。
「怖くて?」
「なっちゃんの気持ちを確かめるのが怖くて、聞けなかった。もう、陸上もわたしのこともどうでもよくなってたらどうしよう、なんて。だから、そばにいられなかったのはわたしも同じ」
そんな風に逃げても何も変わらないのにね、とすずが呟く。ずっと、一方的に迷惑をかけていると思っていたのに、すずの口からそんな言葉が出てくるのが、何だか信じられない。
「なっちゃんのことだから、他人に迷惑かけないようにって全部自分で背負おうとして、誰にも相談しなかったんでしょ。良くないとこだよ」
「……ごめん」
「一昨日だって、あの子に何か巻き込まれたんでしょ」
あの子、というのがミヨのことだというのはすぐにわかった。化け狐の話なんて、誰にも絶対に言えないと思っていたけれど、今のすずになら話せる気がした。
「あの子——ミヨは、本当は地下道に住んでる化け狐なの。信じてもらえないかもしれないけど、地上に出るのを諦めてたあの子に、地上を案内することになって」
あまりに現実離れした、突拍子もない話だとはなつめも思っている。すずは呆気にとられた顔をして、でも、まるで初耳の恋バナを聞いたくらいの口調で、「そうなんだ」と言った。
「信じてくれるの?」
「化け狐なんてさすがによくわかんないけど、でも信じるよ——だってなっちゃん、嘘ついてるときの癖が出てないもん」
「えっ」
「自分で気づいてないでしょ。だからわたし、なっちゃんが今回のこと以外、部活のことも、わたしのことも、嘘ついてただなんて思ってない」
すずが信じてくれている、という安堵と一緒に、恥ずかしさがこみ上げてくる。熱くなる頬を両手で押さえる。
「ええ、どの癖なの……? もしかして、みんなに知られてる……?」
すずは、にやりと笑う。
「知ってるの、きっとわたしだけだよ——教えないけど。今度嘘ついてもばれるからね。覚悟しとけよ」
普段の柔らかい表情じゃない、悪巧みするようなすずの顔を見て、ふいに、すずはこういう表情も見せる子だったと、中学の頃の記憶が蘇ってくる。すずが、その顔をまた見せてくれている。その事実が、なつめの鼻の奥をつんとさせて、「うん」と答えた声が、少し詰まった。
「ありがとう、すず」
この子になら、もうひとつのことも言える気がした。
「すず、ひとつ、お願いしてもいいかな」
なつめには、すずの他にもう一人、話さなければいけない人がいる。札幌にいる間にもう一度会わなければいけない、あの子。
「一緒にミヨを捜してほしいの。すずなら顔を知ってるし、走れるから。あの子——透明になってるかもしれないけど——きっと地下道か出口の近くにいる。わたしが地下を捜すから、地上を捜してくれないかな」
すずは、またちょっと驚いた顔をして、
「なっちゃんからの頼み事、いつぶりだろ」
と呟いた。
「でも本気? 列車まであと二時間もないよ」
帰りの飛行機と、空港までの列車に乗るには、もう札幌での残された時間はほとんどなかった。ミヨを見つけられる保証もないし、透明になれるミヨに逃げられる可能性だってある。
「それでも、もう一度話したい」
すずが、少し唇を尖らせる。
「それにわたし、あの子のこと恨んでるかもよ? なっちゃんはわたしと観光するはずだったのに、ずっとあの子と一緒にいたんだから」
「じゃあ、見つけたら怒ってよ。ミヨも、わたしのことも」
すずは、ため息をついて、そして、仕方ないな、という表情で笑う。
「わかったよ——それじゃあ、久しぶりに走ろっか」
「ありがとう……!」
すずは門の外を向いて、呟いた。
「でも、負けないからね。わたしだって」
正門の前の信号が、青に変わる。
ふたりが深く息を吸うと、陸上トラックの上で何度も聞いた『On your marks』の合図が聞こえた気がした。
頭の中にスターターピストルが鳴り響き、なつめとすずは、札幌の街へ走り出す。
§
地下道への階段を駆け下り、札幌駅の地下を走り抜ける。チカホ——地下道の中心部に至るそのすべての場所で、周りに人がいてもいなくても、あの子の名前を呼ぶ。
「ミヨ——!」
走る脚を止めず、チカホに入る。白い柱が立ち並ぶ、現代美術館のような、モダンで広い空間が姿を現す。消失点を感じるほどに、果てしなくまっすぐ続いている。
走りながら、一昨日調べたことを思い出す。直線距離で日本一とも言われる地下道。札幌駅の北からすすきの駅まで、一七〇〇メートル超の直線コース。
きっと今頭上を走っている、中距離に転向したすずだったら、この距離も難なく走れるのかもしれないけれど、なつめは違う。もともと走っていたのは短距離で、最後に走ったのも一年半前だ。胸も脚も苦しい。走りながら叫ぶ声も、さらに体力を奪っていく。
それでも、もう一度会わなければいけない。
「ミヨー! わたし、ミヨに言いたいことがあるの——!」
地下道を歩く周りの人たちからの視線なんて、どうでもよかった。
むしろ、透明になって消えようとしているミヨに、思い知らせてやりたい。
「ミヨに会いたい人も、ここにいるんだよ——!」
脚は鉛みたいに重くなる。
ミヨを必死に呼ぶたびに、息切れしている胸が悲鳴を上げるように痛む。
でも。
わたしは。
あの憎らしい化け狐と、また。
「ミヨと一緒に、空を見たいの——!」
チカホを抜け、大通駅の広場を走る。脚がもつれて、つまづき、転ぶ。
息が詰まって、床にぶつけた膝も肘も、じんじんと痛みだす。
力が入らなくなってきた脚で立ち上がろうとしたとき、そのときだった。
見えないなにか——ふわふわした何かが、首に巻き付いた。
頭上から、唸るような声がする。
「なんで来た! 二度と来るなって言っただろ!」
膝をついたなつめの目の前には、何も見えない。
だけど、わかる。ミヨが、そこにいる。
「だって、ミヨに言いたいことがあるから!」
「どうせわたしは地上で暮らせないんだよ! おまえらと話したって、一緒にいられないのは変わらないんだよ!」
「そんなことない!」
透明なミヨが、息を呑んだのがわかった。
「なりたい自分にすぐになれなくても、諦めないで立ち向かいつづけたら、ちょっとだけでも変われるかもしれないでしょ」
痛む脚で立ち上がって、スマホを取り出しすずに現在位置を送る。口をつぐんだ、そこにいるはずのミヨに、
「ねえ」
と語りかける。
「ミヨに、聞いててほしいことがあるの」
なつめは、電話をかける——お父さんへ。
スマホの向こうから、いつもの、無愛想な声が聞こえる。
『どうした。オープンキャンパスには行ったのか』
「——行ったよ」
痛む肺に、精一杯空気を吸い込んで、言う。
「でもごめんなさい、お父さん。わたし、医学部には行かない——北大の農学部に行く」
それは、と言いかけたお父さんに、たたみかけるように言う。
「わたし、食べ物のための仕事がしたい。美味しいお米や野菜を研究するような、そういう仕事」
『……本気なのか。なつめが、自分で決めたことなのか』
「そうだよ」
自分は食べ物が大好きだって、ミヨに言われて気がついた。
それに——曲がりなりにも、医学部を目指してここまで勉強してきたのだ。まだ勉強は足りないかもしれない。でも、これからは行きたい学部を目指すのだから、きっとがんばれる。
勢いをつけて言い切ったけれど、頑固なお父さんのことだから怒鳴られるかもしれないと思っていた。だけどお父さんは、しばらく間が空いてから、少し呆気にとられたような声で、
『……そうか』
と呟くように言う。
『それがなつめの、やりたいことなんだな』
はい、と答えると、お父さんは、
『気をつけて、帰ってきなさい』
とだけ言って、通話を切った。
そこにいるはずのミヨに、宣言する。
「これでミヨが証人だね——来年の四月、また札幌に来るから」
「なんで……わたしなんだ。迷惑かけてばかりの、なんにもできないやつなのに」
「信じられないくらいの迷惑もかけられたけど、でも、それだけじゃない。わたしの好きなものに気づかせてくれたのも、閉じこもってちゃだめだって勇気をくれたのも、ミヨだったから」
ミヨの顔があるはずのあたりに、笑ってみせた。
ミヨは今、どんな顔をしているのだろう。
「それにわたし、ミヨにまた会えるようにって思えば、きっと勉強もがんばれる。だからミヨは邪魔なんかじゃなくて、わたしの目標——」
——しばらく待たせてしまっても、嘘にならない約束をしよう。
「半年後、『ただいま』を言いに来るから。だからそのときは、一緒に住もう」
目の前に、ミヨの姿が現れる。
耳と尻尾が生えていて。いつものビッグパーカーで。
ミヨは、涙でぐちゃぐちゃの顔で、笑っていた。
「うん——!」
「話は済んだ?」
振り返ると、すずが歩いてきていた。その後ろ、地下道の奥の方に、ぱたぱたと小走りでやってくる真央も見える。
「おまえ、昨日の……!」
なつめの背中に隠れたミヨに、すずが、
「取って食ったりしないよ。泣き虫の化け狐さん」
と、にやにやしながら言う。
「う、うるさい!」
すずの額には、少し汗が浮かんでいた。
「割と早く見つかったね——列車まであと一時間か」
「あと、一時間……」
ミヨがしゅんとする。狐耳が少し下を向く。
「ごめんね。でも、話せる人も増えたんじゃないかな」
今のミヨなら、観光案内所のお兄さんみたいに親切な人となら話しても大丈夫な気がした。それか理央さんにお願いして、ときどきミヨの様子を教えてもらうのもいいかもしれない。
ふたりの様子を見て、すずが言う。
「わたし、なっちゃんとの観光を邪魔したこの子のこと、許せないかもしれないなあ——」
その言葉に、ミヨの手がなつめの裾をきゅっと掴むけれど、すずはちょっと笑って、続ける。
「——だからさ、なっちゃんが言ってたパフェ、一緒に連れてって。この子のこと、教えてよ」
なつめもミヨに笑いかけると、ミヨの顔が、ぱあっと明るくなる。
「そうだね——行こう。みんなでパフェ、食べに行こう」
ちょっとくらい観光したっていいもんね、とすずが笑った。
そこに、ぱたぱたと走って、息を切らせて真央がやってくる。
「やっと着いた——地下道、でかすぎない?」
「真央、パフェ行くよ」
「ええ、また移動かよ……。それにこの子、誰なんだよお」
真央の口調に、みんなで笑って歩き出す。
地下道出口の階段を上って踊り場を回ると、地下道の明るさに慣れていた瞳に、地上の眩しさが飛び込んでくる。
ミヨが目を細めて、呟いた。
「——綺麗だな」
尻尾が、ぽすん、となつめの腕に触れる。なつめも、手の甲で尻尾を撫でて、「そうだね」とミヨに答える。
暗がりから、明るい地上に出る瞬間。
目が慣れる前の、その一瞬。
鮮やかに焼き付いたのは、地下道から見る青だった。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
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いいお話を作れるよう今後も精進します。